コンテストお題「花見酒」

 月の明るい夜である。少女は鼻歌交じりに、久しぶりの清浄な空気を胸いっぱいに吸った。齢千年の大木の、ひんやりとした木肌に背を預けながら空を仰ぐと、一面の桜色が視界を覆う。この世の極楽とはこのことよね、とかぐやはひとりごちた。

 

 「お相手が私だけでご不満でしょうが」

 「言ってないでしょう」

 「たとえば猿の若君がいらっしゃれば、歌の一つでも詠まれたことでしょう」

 「この時代に、それが生きがいみたいな奴だしね。一昨年なんか大嵐の中で詠みつづけていたでしょう、みんな早く帰りたいってのに。ほんと、歌はよめても空気はよめないんだから」

 「虎の姫さまに大層お目玉をくらっていたようでしたね」

 「そこはねえさまに任せないとね」

 かぐやはそのときの情景を思い浮かべながら、手の中の盃を掲げた。

「猿の気取り屋と、虎のねえさまに」

 ぐびりと甘露を飲み干す。腹の中に精気がみちていくのを感じながら、少女は苦笑した。

 「美味しいなあ」

 「光栄です」

 「お世辞抜きに。なんだかなあ、人間っていつになったらこの味にたどり着けるのかしら。コーラもファンタも好きだけど、これを飲んでしまうとね」

 「今日はやけに褒めますね」

 猫は鼻をならすと、少女の足元にある岩の上に腰をおちつけた。神社の石畳の上では四足歩行だったのが、いつのまにか縄で結わえた壺を背中にぶらさげている。顔つきもまた「ありふれた」猫のそれではなくなっているように見られた。

 

 「いまは、なんていう名前なの?」

 「ミケですよ」

「いまどきミケなんて名前つける飼い主って」

「ご主人の悪口はそこまでに」

「いい飼い主なのね」

猫はうなずいた。

 

 

 

かぐやは取りとめのない話をしつづけた。彼らにとっての昔話もあったし、少女自身の、人間の世界の話もあった。日頃をミケとして過ごす猫にとっては既に聞いたことのあるような話も含まれていたが、相槌と酌が絶えることはなかった。

やがて少しの沈黙が流れ、

「独り占めね」

「何をですか」

「あなたを。このおいしいお水も」

 

わたしが独り占め。

最後の言葉が風にまぎれそうになり、そういえば嵐が近づいているのだったかと猫は空を見上げた。風の吹くたび、花吹雪が狂ったように地面へ降り注ぐ。

「わたしがここに来なくなったら、さびしいね」

「決めつけるのがあなたの悪い癖だ」

「なによ、違うっていうの」

 少女は頬を膨らませる。年相応の表情だと猫は思う。「今」が似つかわしくないのだと、そう思わざるをえない。

 

「来年にはさびしさなど忘れてなくなっていますよ」

 

 

 

 

 かぐやはまだ覚えている。

 

 ほんの小さい子どもだった間、かぐやたちは神社で養われた。おそらくは捨てられていたかそれに近い生い立ちなのだと、誰もが気付いていた。それが、異形のせいなのだろうということにも。

 耳、鼻、手足、目、歯に至るまで。それぞれのどこかしらが、おいさんや猫に言わせれば「立派」に獣の様相を呈しており、それにちなんだ通称がつけられていた。

もしかして自分たちは不幸せなのかしらと思い悩むことも、おそらく全員が経験しただろう。それでもだいたいにおいて、おいさんを囲んで笑っていた。――その光景は、まだ覚えている。

異形の部位は背が伸びるにつれて人のそれに限りなく近づいたが、完全ではなかった。それぞれが里親の元で暮らすことになってからも、夜の花見だけは毎年催されていた。「そうしなければならない」のだと、教えられるまでもなく誰もが知っていたのだ。

おいさんが宮司らしく祝詞を詠唱し、御神木から削ったという盃で、一年かけて溜められた精気を飲み干す。狭間の存在である限り、必要なことなのだった。年少の者たちにとってはおまけで食べるお菓子が目当ての「春のお花見」でしかなかったが。

 

 

 

ある春、姉のように慕っていた最年長の虎が花見に現れなかった。年号が変わったからかな、とおいさんが世間話でもするように話し始めた。

 

 

たぶん、虎はもう来ない。町ですれ違っても、お前たちを思い出さないかもしれない。嫌いになったとかじゃない。その時が来ただけで、みんなそうなる。

 

 

何人かの子どもが刺されたような顔でうつむいていたが、町で暮らし始めたばかりのかぐやにはわからない言葉だった。

それが悲しいことなのかつまらないことなのか、うれしいことなのか楽しいことなのかをおいさんに尋ねたが「難しい質問をするようになったなあ」と、耳の根元をくすぐられただけだった。

  おいさんが死んだのはそれから三年ほど経った冬だった。

 

 

 

 かぐやの記憶もその頃から曖昧になり始めたが、むしろ遅いほうだと猫が言った。猿は異形だったことなどとうに忘れているが、食い意地のせいか花見のことだけ覚えているようだとも。それを聞いたかぐやは思い切り彼をからかってやったが、とうとうかぐやの名前を思い出せずに「君」と呼んだ少年は、とうとうそれきり姿を見せなかった。

 

 やがて境内に立つのもただ一人となった。次の年で最後することを猫が提案し、かぐやはうなずいた。昨年のことである。

 

 

 

 

 「でも忘れなかったらどうしようかな」

 盃を干してからしばらく、かぐやは無言のまま打掛の裾を指でいじっていたが、切り出した。猫は不意をつかれて一瞬ためらいながらも、

 「忘れますよ」

 断言する。

 

 「そうなのだろうけど、万に一つ。忘れなかったら?また来年、ここに来ても。あなたはいないわけ」

 「万に一つ、耳が立派になってしまった際は、私ではなくこの壺の隠し場所に向かうことをお勧めしますよ」

 「そうではなくて。あなたに会いたくなったらってことよ」

  意外な言葉に猫は若干、答えを迷わせた。

 「あなたはさびしくなくても、わたしはどうなるのってことよ」

 「どうなるもなにも、そろそろ私にも穏やかな老後を送らせてほしいですね」

 「ミケとして?」

 「ええ、三毛猫のミケとして」

 想像したのだろう、かぐやは噴きだした。

 昔からよく笑う娘だと猫はそれを眺める。

 ただの雑な甘えだ、育ての親を思い出す、と思考を逃がす。正面からまともに受けてはいけない。そう言い聞かせた。

 

 

 

 

 

 

 

彼女もまた、遠くへ旅立つ姫である。

気の遠くなるような歳月をかけて、一体いくつの土地で、一体何人の子どもたちを見送ったのか、猫はもう数えるのをやめていた。

三毛猫のミケという生涯を送るのも悪くはないと本気で考えていた。それがまともで正しいことのように思われた。

 

「まあ、忘れますよ。わたしも忘れますから」

お互いに、忘れなければまともに生きてはいけないのだ。

 

「なんか、きれいすぎるなあ」

「何がですか。酔っていますね」

 「こんな格好で猫とおしゃべりしながら花見酒なんて、そもそもまともではないのよ。忘れてしまえばまともになれるなんて、そんなのって本当かしら」

 

それっていいことなのかよくないことなのかわからないわ、とつぶやき、かぐやはぐっと伸びをした。勢いをつけて枝から飛び降りるのにつづき、猫も静かに地面に立った。

「いいことに違いないでしょう」

そうねと答えて長い耳を指先で確かめながら、かぐやはやはり腑に落ちない様子だった。

 

 

 

 

 

 

 

鳥居をくぐり、和装を解くと、異形だった少女はどこから見ても女子高生の姿となる。

「じゃあね、元気で」

一言そう告げると、あっさりと階段を下り始めたので、猫はいささか拍子抜けして目をしばたかせた。それも一段飛ばしの軽快なステップである。

「ええ元気で――

 

 かぐや」

 

 

「なあに?」

既に中ほどまで差し掛かっていた少女が振り返るが、ちょうど早朝の新聞配達員が下の歩道を通りかかっているのが目に入り、猫は口をつぐんだ。

そうでなくとも、続く言葉が何なのか、なぜ呼び止める形になったのかについて考える必要があった。

静寂があたりを包む。破ったのはかぐやのほうだった。

 

 

 

 

 

 

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