7thリュカ

04 移住


 目の前のゴミをあらかた片付け終わると、赤茶色に錆びついた鉄製の扉が現れた。
 リュカが観音開きの扉を開けると、耳障りな金属質の音が辺りに響く。
「随分とレトロだな」
「ディテールにこだわるのは、人間の特性ね」
 レインコートのフードを外し、扉から中を覗きこむ。雨に濡れたコンクリートの階段が、真っ暗な地下に続いていた。

 躊躇する俺を横目に、リュカは長い銀色の髪を頭の後ろで束ねる。
「どうしたの?狭いけど一人づつなら入れるわよ」
「あ、いや…本当にこの先が『ニューエ』?」
「あなた、本当に心配性ね」あきれた様子でそう言うと、リュカは俺を押しのけて中に入る。「正確には『ニューロパイフィラメント・エリア』。あんまり悠長にしてる暇はないんだけど」
「分かってるって」
 俺も仕方なくレインコートを脱ぎ、懐中電灯で足元の階段を照らすリュカの後に続く。階段は真っ直ぐに地下に続いていた。

「どのくらいかかる?ニューエまで」
「タイムラグはあるけれど、1時間くらい」
「…そんなに?」
「脳細胞クラスターの分析と中枢神経の移植処理には、それだけの時間がかかるの」
 緋色の瞳を鈍く光らせ、抑揚のない声でリュカは答えた。

05 笑顔


 どのくらい歩き続けただろう?
 懐中電灯の灯りが揺れる中、カツンカツンという足音だけが暗闇の中に響く。ひたすら続く殺風景な階段とカビ臭い空気に、眉をひそめる。
「なあ…ちょっと休憩しないか?」
「疲れなんて感じないでしょう?私達は実際に歩いてる訳じゃない」
 前を歩くリュカが、無表情のまま振り返る。
「こう圧迫感があっちゃ、気が滅入る」
 大きな溜息をついて階段に座り込む俺を見て、リュカの口から乾いた皮肉が漏れる。
「…やっぱり、人間は感情の動物ね」
「だからニューエなんて理想郷に行きたがるのさ」
「……」

 リュカは首筋から数本の外部ケーブルを引き出し、ニューエの統括メタデータスキーマにアクセスし始める。
「聴覚域に少しぶれがあるけど、コネクタは正常に作動してるわ。あなたの移植手術も63パーセントが完了している」
「順調ってことか」
「そういうこと」
 耳の裏に内蔵された音声域の調節をしながら、リュカは壁にもたれかかる。懐中電灯の仄かな灯りに、少し吊り気味の瞳が照らされる。

 その時、唐突にリュカが口を開いた。
「あなた、まだ学生でしょう?ニューエへの移植、家族は反対しなかったの?」
「早かれ遅かれ、全ての人間はニューエに意識統合されるんだろ?」
「……」
 リュカの首筋のコネクタがチカチカと瞬く。俺の家族や周辺環境のデータは当然リュカも知っている筈なのに、どうして改めてそんな質問をするのか分からなかった。
「バグじゃないわよ」
 考えを見透かしたように、リュカは小さく笑って俺の隣に座る。初めてみせる笑顔だった。

06 選択


「移住者が意識下に潜在的な不安要因を残していると、ニューエのブレイン・インターフェースにノイズが生じるわ。カオスアトラクターという現象。だから常に対象者の思念を把握しておかなければならないの」
「アフターフォローも万全ってことか」
 俺の皮肉に乾いた笑みを返し、リュカは束ねた髪の留め具を外す。

 汎思念世界ニューエの構築が始まったのが50年ほど前。本格的に人の意識移植が可能になってからは、未だ数年しか経っていない。
 今は本人の希望により、18歳からニューエへの移住は認められている。だが肉体を失うことに対する唯物観的な抵抗により、実際に現実からニューエに移住する人間はまだ少なかった。

 俺は膝を抱え階段に座り込んだまま、リュカに尋ねる。
「なあ、リュカ。人が肉体を捨てることが正しい選択だと思うか?」
「私は単なる案内プログラム。人の感情までは把握できない」
「じゃあ…ニューエってどんなところだ?」
「ネットワーク化された人の記憶、感情、意識の集合体」
「そうじゃない、リュカ自身の考えだ。AIでも人の思念は解析できてるはずだろ?」
「……」
 珍しくリュカは小さく首を傾げる。それは分からないというより、答えを知っているが教えていいのか迷っているような表情だった。暫く考え込む素振りをした後、リュカは空中に視線を向けたまま呟く。
「…擬似楽園」

 俺は階段に座り込んだまま、さっき瓦礫の中で拾ったロザリオを取り出す。
 金属のチェーンが、じゃらりと鈍い音を立てた。

07 音叉


「行きましょう」
 どこか余所余所しくリュカは立ち上がり、俺を目で促す。
 だが俺は手にしたロザリオを見つめたまま、階段から腰を上げようとしなかった。

 辺りを包む静寂の中、ただ時間だけが過ぎていく。リュカは暫く俺を見つめた後、小さく口を開く。
「あなたがニューエに行くのを躊躇する理由は?」
「…分からない」
「……」
 その瞬間、リュカが懐中電灯の明かりを消した。

 何も見えなくなった闇の中で、俺は慌てて立ち上がりリュカの居る方に手を伸ばす。だが、指先には何も触れることができなかった。伸ばした手の先には、淀んだ空気の流れだけしか伝わってこない。真っ暗な中で、ぐらぐらと足元が揺れるような錯覚に囚われる。
「リュカ…」
「あなたには何が見える?」
 立ち竦む俺の耳に、リュカの声がどこからか聞こえてきた。その声は、鼓膜の奥で音叉のように反響する。
「…分からない。俺は単に見えてた気分になってただけなのかもしれない」
「贅沢ね、あなたは」
 その時突然、リュカが懐中電灯を俺の顔に照らす。飛び込んできた眩い光に目がくらむ。
「う、あっ…!」
 のけぞって階段から落ちそうになる寸前、俺の手をリュカが掴んだ。

トルサージ(湧田束)
作家:トルサージ
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