生垣に囲まれた細い道路を少し進めば、目的の家の正面に回り込めた。
門番として飼っている番犬はいないようだ。まず一安心。
「っていうか、あれは夢だろ」
ハッと我に返った誠は、これから自分がしようとしていた行動に絶句した。今から自分は、他人の家に不法侵入しようとしていたのだ。夢に出てきた女子と猫に、酒を持ってこいと言われたのを理由に、法を犯すところだった。
でも、それでも、と悪魔のささやきが誠の脳内で発せられる。
あの映像通り、敷地の中には夢で見た蔵がちらりと見えた。まったく同じ光景がそこにあった。
このうちの蔵を見たのは初めてなのに、どうして夢にそっくりな蔵の光景が出てきたんだろうか。デジャブというやつか。
何にせよ、あの夢が現実感たっぷりで、思い出すだけで鳥肌が立つ。畔戸朱香といい、今起きているデジャブ現象といい、何がどうなっているのか、誠の脳内は今にもクラッシュしてしまいそうだった。
それでも誠の足は止まらなかった。ほんの少しの好奇心が、不法侵入を許していた。
自転車から降りて、背の高い生垣の隣にひっそりと止めた。
表には誰もいない、家から何の物音もしない。入ってくださいと言わんばかりの、静けさだった。
泥棒というのは、こんなふうにドキドキしながらもスリルを味わうんだろうかと、変な妄想をしてしまった。
目的の蔵は、敷地内に入って右側にあった。
家の中に人がいれば、速攻でバレるに違いないのだが、見つかるかもしれない不安より、蔵の中にあると思われる『花見酒』の方が誠は気になっていた。
くすんだ白い土壁の蔵は、江戸時代から建っていそうなほど古く、小さな窓が上部に付いているだけだった。
鉄製縁の木製の引き戸の前まで小走りした。絶対、鍵が掛かっているんだろうなと思ったが、重い引き戸は易々空いた。
「マジかよ、これじゃあ泥棒みたいじゃん」
独り言をつぶやきながらも、誠の足はひっそりと蔵の中へ踏み込んだ。
「確か、井戸があるって」
ホラーの映画を思い出して、ブルッと全身に鳥肌が立った。
井戸のありかはすぐに分かった。上部の窓から射す明かりに照らされていた。
あれか、と井戸を認めた誠は一歩踏み出したと同時に、ドクンと鼓動が飛び跳ねた。何故なら、井戸の縁に「何か」がいたのだ。ゾワゾワっと背筋から首筋にかけて寒気が走った。
動けなくなった誠は目だけは凝らして、その正体を探った。
人じゃないんだろうな、と妙なあきらめ感を持った。そして、やはり「何か」は人ではなかった。
小さな生き物が三体いる。猫どころではない、子供にも見えるが、そんな可愛らしいものではない。
体は小さいが、全体的に赤く、布切れで下半身を隠している。ウサギみたいな大きな目に、口端から飛び出した牙が人間ではないことを決定づけた。鬼、かもしれない。どうせならしゃべるウサギの方がまだ可愛かったかもしれない。
「おや、人間だね」
「人間だね、珍しいお客さんだ」
それおかしいでしょ、ここ人んちの蔵の中なんだから、人の出入りなんて当たり前なんじゃないのか。と驚いてはみたが、不可思議だらけで、今更驚くこともないかと冷静にふるまった。
「何か用かね、人間さん」
「あ、あの、井戸の中にある、『花見酒』が欲しいんですけど」
どぎまぎと誠は答えた。
仮にも鬼は、三匹揃って「ほぉー」と感心気に唸った。
ビックリした誠は思わず「おわっ」と声を上げて、おどけるところだった。
「人間がそんなもの欲しがるなんて、さては「誰か」に頼まれたじゃろぉ」
「黙ってるってことは、図星だろぉ」
「ほいほい簡単に頼まれるとは、安くない買い物だぞぉ」
鬼たちは口々に言いたい放題だ。しかも三匹同時にしゃべるので、誰が何を言ったのか誠にはさっぱり分からなかった。どう答えてよいか分からず、とりあえず「あの!」と声を張った。
「井戸の中にあると聞いたんですが、『花見酒』をください」
誠は軽く頭を垂れた。本当は視線をそらすのも恐ろしくて、手のひらに汗をびっしょり掻いていた。
「ちゅうか、わしらが見えるってことは、そうとう好かれとるんだねぇ」
「あんたみたいのも、あんまりいないじゃろぉ」
「お前さんに免じて、分けてやってもいいけどねぇ」
また三匹同時にしゃべったが、最後に言った鬼の言葉は聞き取れた。
「本当ですか、あ、ありがとうございます」
三匹の鬼は一斉に、井戸に落とされた桶を引き上げ始めた。
引き上げている間も、三匹の鬼はブツブツ口ケンカに近い言い争いをしていた。
引き上げてくれた桶には、いっぱいに水が溜まっていた。
「「「ほらあ、これじゃよ」」」
三匹が声を揃えた。
恐る恐る近寄った誠は、桶にいっぱいの水を覗き込んだ。ただの水にしか見えないと思ったが、ほんのり酒の香がした。ただの井戸じゃないのか。
でも、どうやって持って帰ろうかと思った時、一匹の鬼が井戸から離れて、「じゃあ、これに入れていきなぁ」と差し出してきたのは、胴にぽっかり穴が空いた、壺だ。壺の形はしているが、それは縁取られた形が壺なのだ。
入れ物としての機能はまったく果たさない、と思うのだが。
不審に鬼の行動を凝視していた誠は、言葉も出なかった。鬼は、薄汚れた陶器の湯飲みで、酒をすくい、その壺らしき物の中へ流し込んだ。
「こぼれ、……ない、どうなって」
鬼が注いだ酒は、縁しかない壺の中で、まるで壺の立体画像を描くように、流れ込んでいた。しかも、もっと不思議なことに、その壺はどの角度から見ても、平面だった。どこから見ても平面的な壺の縁取りと、液体で作られた立体的な壺の膨らみだった。
「はいよ、持ってきな」と、鬼が差し出してきた。
「あ、ありがとうございます」
どこを持ったらよいか分からず、恐々壺の縁を掴むしかなかった。酒がスケルトンの壺の中でぐらぐら揺れた。
「じゃあ、いただいてきます」
鬼たちの様子を窺いながら、誠はそろそろと静かに蔵の出口へ歩み寄る。
最後の最後まで穏やかな鬼でいてくれと、心臓はまだ気持ち悪いぐらい強く脈打っていた。
何かブツブツと三匹の鬼は言い合いをしていたが、そろりと蔵を出た誠は逃げるように自転車のもとへ駆け寄った。
「マ、マジで、取ってきたんだ」
まだ現実味がない誠は、とりあえず壺を自転車の籠の中に入れて、そおっとペダルをこいだ。
「とりあえず、机の下かな」
意外と重い壺にハンドルを取られながら、途方にくれた呟きを胸の奥から押し出した誠だった。
「『花見酒』だにゃぁ! お前の人を見極める目ぇは正しかったようだにゃ」
猫は少女を見上げながら、嬉しそうに例の壺を抱えていた。壺の蓋を開けると、ひょうたんの中へ流し込んだ。
猫が肉球の手でよく壺を持てるなと、誠は感心しながらその光景を見つめていた。
「空になった壺はどうするの」
素朴に疑問符が浮かんだ。
「どうするって、こんな貴重な壺、滅多に拝めにゃあよ、コレクションするにゃ」
「へぇー」と半分笑いながら誠は口端を引き攣らせた。誰のおかげで入手できたのか、少しは感謝してほしい。
「あの、ところで名前教えてよ、まだ聞いてない気がする」
早速、杯で酒を酌み交わし始めていた少女と猫は、同時にぴたりと止まった。
きゃっきゃとはしゃいでいた少女は、どことなく不安げに眉根を寄せていた。
「えーっと……」
「さー、小僧! 次の場所だ!」
猫がフンと腕を上げると、少女の答えを聞く前に映像が頭の中に再生された。
どこなのか見当はつく。
「さっさと取ってこいにゃー」
それが人にものを頼む態度か、とイライラしながらも「わかったよ」、とスネ気味に強く言い返した。
それから、何度『花見酒』を取りに行かされたことか。そこで出くわす妖怪? なのか、何なのかよく分からない彼等は、潔くとまではいかないが、皆、『花見酒』をくれた。または、分けてくれた。
揚げ物をするにパン粉が足りないからと、近隣にパン粉を貰いに行くようなひどく懐かしい感覚を思い出して、これってパシリに使われているだけなんじゃないかと、誠は日に日に不満をつもらせた。
幼い頃、おそらくまだ十歳にも満たない頃、近所へパン粉を分けてもらいに行ったのは本当の話だ。昔の記憶をよみがえらせ、なぜ、自分は今こんなことをしているんだと、本気で直談判をしたくなってきた。
学校では、畔戸朱香を盗み見に行くたび、やはり杯を持った着物少女とそっくりだった。
髪の長さも、色も全然違う。畔戸朱香は黒髪で、ちょうど肩につく長さだ。でも大きな瞳も、笑窪ができる笑顔もまるで一緒だ。素朴感がありながらも、惹きつけられる雰囲気は人一倍持っている、気がする。
「やっぱり、あの子が好きなんだろ、でもさぁ、ちょっとレベル高くない? キレイだし、スタイルもいいし」
真也が意地悪っぽく肘で突いてきた。
「だから違うって」
「じゃあなんで何回も見に来るんだよ、言い訳してもムダだって」
「夢に出てくる子に似てるんだって、前に言ったじゃん」
「夢に何度も出てくるほど好きなんだ!」
これ以上何を言っても真也の妄想が覆りそうになかったので、誠は諦めてほっとくことにした。
「もう勝手にしろ」
そもそも何故、自分に頼むのだろうかと、訊きたいことは山ほどある。なのに、猫に指図されるまま『花見酒』という意味不明の酒を入手し続けている自分は、なんてお人好しなのだろうかと、誠は自分で自分を褒めたくなった。
教室の中で友達とおしゃべりをしている畔戸朱香は、周りを囲んでいる女子たちより均整が取れている顔立ちだ。顔がいいから付き合いたい、と思わないと言えばウソになるが、やはり外見だけで良し悪しをつけたくない。
でも恋に発展したら? 要らぬ妄想が悶々湧いてきて、誠はイカンイカンと下唇をかみしめた。
「真也って、何が切っ掛けで人を好きになる?」
「なんだよ急に、切っ掛けかぁ、やっぱり顔?」
正直な友人に、ある意味、悔しさを感じた。素直に「顔」という真也に、罪悪感がないところも悔しい。
「顔」と言えば、少なからずは「人としてどうなのだろうか?」と、イヤでも葛藤させられる。それが真也の中でなさそうなのも、また羨ましい。
「そりゃあ第一印象ってのはあるだろ、それで何かを切っ掛けに話す時があって、それからも偶然何回か話すようになれば、やっぱり好きになるんじゃないか」
まともな回答が真面目に返ってきて、「あーそうかぁ」と誠もしみじみ受け取った。
「何回か話すか」
あの子は猫と酒を飲んでいるばっかりで、まともに話したことはあっただろうかと思い返す。
頼んでくるのはいつも猫で、いまだに名前さえ聞き出せていない。寧ろ、少女が目を合わせようとしてくれない。誠は必要以上に少女の顔を見つめているが、適度に潤んだ大きな瞳とまともに数秒間、見つめ合ったことがない。
目があっても直ぐに逸らしてしまう。嫌われているんじゃないかとさえ思う。
「で、次はどこに取りに行かされるんでしょうか」
嫌味交じりに誠は猫に訊ねた。
花が満開の桜の木は、粉雪を散らせるかのごとく、いつまでも花びらを降らせていた。かなり長い間咲いている気がする、なのにいつまでも葉桜にならないのは、やはりここが夢の中なのかもしれないが、否に現実味が強すぎた。
「ほぉ、進んで訊いてきてくれるとは、成長したにゃぁ。次は、ここだ」
猫がフンと腕を出すと、眼前に映像が再生された。
川沿いに住宅が立ち並んでいる。商店街らしき先に滝が現れた。滝の近くには観光客用の宿泊施設が点在しているような風景だった。昔、見たことある景色だ。親が連れて行ってくれた場所とよく似ていた。
夏になると、涼みにくる観光客でにぎわう場所だ。しかも、誠の地元から車で北へ上がった山中の田舎町だったはずだ。
「まさか、今度はあそこまで取りに行けっていうのか!?」
「そうにゃ」
そうにゃ、じゃねえ! 心の中では言い返せるが、現実には怒鳴れない。
なぜか少女が見ている手前、カッコ悪いところは見せたくないなどという余計な見栄が、猫への反発を邪魔する。
「わかったよ、行けばいいんだろ、行けば」
嫌々ながらも素直に返事はした。猫から杯に酒を注がれている少女を横目に、踵を返した誠は、これでまた夢から目が覚めるのか、と胸の奥から息を押し出そうとした時。
「気を付けてね!」
声が飛んできてクルッと誠は振り返った。
猫の手を止めてさせて、少女は身を乗り出していた。
意外な光景に目を惹いた誠は、「う、うん」とシャキッとしない返事をした。そのまま何事もなかったかのように、向き直ろうとした足をピタッと止めた。
「今度は名前教えて」
声を張ったのと同時に、誠はぼんやり目を覚ました。
雨戸の隙間から朝日が差し込んでいた。鳥の鳴き声がうるさいぐらい聞こえて、少し静かにしてくれと本気で頼みたくなる。
でも今朝はそんなちっぽけな苛立ちも吹き飛んでいた。
「一歩前進の夢だったな」
にやにやが止まらなくて、誠はもう一度布団を被った。
土曜の午前十時前、誠はバスに乗った。
山奥行のバスだ。始めは堤防沿いを走っていたが、次第に山々が近づく。
切れることなく住宅や商店が続いていた。道幅も細くなり、両側に緑豊かな山が立ちはだかっていても、住宅も店もあるし、学校もある。ここに住む住民の生活感あふれる喧噪は、見ていて新鮮味を覚えた。
滝まではまだもう少し先だろう。
昨晩、ネットで誠の記憶にある滝について調べた。猫が映像で見せた滝が、今向かっている滝で合っているのか、一抹の不安はあった。
だが、今までの傾向からすると、とんでもなく遠くにあるわけではなさそうだ。どの『花見酒』も地元圏内で入手できた。なぜどれも地元にあるのかは分からないが、パシリにされる方としては助かっている。
山中にある町中の道路はかろうじて車が二台通れる程度の幅しかない。
カーブがあるので、誠は外を眺めながらなんとか車酔いは防ごうと、へそ辺りに力だけは入れていた。
次第に、右側に川が流れる光景に変わった。
幅はかなり広い。向こう側は、雑木林が生い茂る山の斜面だ。
川の流れは、向かう方とは逆へ流れていく。透明色から、澄んだ青へと川の深さが増していく。
滝が近くなってきた予感がして、誠は少々緊張してきた。
カーブの先に広い橋が見えた、橋の先には民宿らしき建物が数件軒を連ねていた。バスが橋を渡ると、ちょうど右方向の正面に、落差十メートルはありそうな滝が現れた。
滝つぼの深い青さに感嘆なため息が押し出された。まだ、川で泳ぐには少し肌寒いかもしれない、だが滝つぼの水はそれ以上に、凍えるほど冷たそうだ。
バスはちょっと古そうな民宿の前で停車した。
土曜ということもあり、何十人かの観光客がぞろぞろバスから降りた。誠は最後の方でバスを降りた。
空気の循環が止まったバスから解放されると、外は異常なぐらい清々しかった。滝も近いせいか、空気が少しひんやりしている。これがマイナスイオンかぁと、しみじみと肺に新鮮な空気を送り込む。
バスから降りた人たちは、滝の方へと道路を下って行く。または民宿に入ったり、お土産屋に入ったりと様々だった。
誠は滝と『花見酒』だけが目的だったので、まっすぐ滝へと向かった。
民宿やお土産屋沿いの道路を下った先に、滝つぼのある川岸まで降りられる階段があった。ここまで来ると、水が落下する豪快な水しぶき音にも迫力が増す。
この滝が県内で有名なのは落差だけではなく、白糸のような細い滝がカーテンのように流れ落ちている様が有名なのだ。
家族連れの観光客が多かった。小学生ぐらいの子供は、川岸まで行ってぴしゃぴしゃ水で遊んでいた。
「どこに『花見酒』があるっていうんだよ」
押し出したような独り言は、滝が発する音色でかき消された。
誠も川岸に降りて、滝つぼ近くまで近寄った。やっぱり肌寒い、水しぶきも飛んできて、真夏なら絶好の避暑地だ。
どうすることもできず誠は立ち尽くした。今まで『花見酒』があった場所には、人ではない生き物? はいたが、ここまで人がいたことはない。
人が引くのを待つしかないのかと、誠は階段まで戻り、腰を下ろしてぼう然と滝を眺めた。
「君、ちょっと君、起きなさい、君」
体を揺すっられているのに気づいた誠は、ハッと顔を上げた。
膝を抱えていた腕にぴったり顔を付けていたらしく、顔半分がヒリヒリした。おまけに腕にも顔にもよだれがベッタリ張り付いていた。
「君いつからここにいるんだ?」
「え?」と眠気眼をぼんやりと上げた。あたりは既に薄暗くなっていたので、体を揺らして起こしてくれたオジさんは、訝しげに顔をひそめていた。
「どこからきた、バスできたなら、ついさっき最後のが出たよ」
「え! そうなんですか」
飛び起きた誠は、民宿前のバス停を見つめてから、ガックリ肩を落とした。
「もっと早く気付いてやればよかったなぁ」
後頭部を掻いたオジさんは、自分のことのように困り果てた様子でうろたえていた。オジさんに気を取られて、逆に誠は冷静になっていた。
こうなったら民宿に泊まるしかないか、と覚悟を決めたとき、「それなら」とオジさんが声のトーンを上げた。
「うちの民宿にきなよ、学生さんだろ、学生割引してあげるよ。帰れないんじゃあ、泊まるしかないしな」
「本当ですか! ありがとうございます!」
生き返ったような気分だ。飛び跳ねて喜びたいところだったが、誠はペコペコ頭を下げた。
「すぐそこだから」の台詞通り、滝の音がよく聞こえる所に建っていた民宿だった。
部屋に案内され、食事の用意ができたら呼びに来るからと言って、オジさんは笑顔で去って行った。
とりあえず家に連絡しなくてはと、携帯をカバンから取り出した。だが、一人で民宿に泊まると言ったら、さすがに心配するかもしれない。口うるさい親ではない、放任主義ではないが、勉強をしろとも、帰りが遅いとも言われたことはあまりない。
自分は不真面目な方ではないと、誠自身分かっているので、親もうるさくないのだ。だから今回も大丈夫だろうと、高を括ってみようとも思ったが。
「母さん、俺、誠。あのさぁ、今日、真也んちに泊まることになった」
『そうなの、お家の方にご迷惑にならない? なんなら家からもちゃんとお礼言わないと』
やはり渋りはしたが、しつこくは訊いてこない。
「大丈夫だよ、迷惑はかけないから、それに家の人は今日留守なんだって」
『そう、じゃあ明日は帰ってくるの?』
「帰るよ、じゃあね」
彼女と秘密のお泊りをするわけでもないのに、なんでこんなウソをつかなきゃいけないんだと、ドッと疲れが体中を駆け巡り始めた。次に、真也の番号を出して、電話を掛ける。
『おお、なんだよ、珍しいな、電話とか』
「そうか? でさぁ、今日、お前んちに泊まってることにしてくんない」
『ハァ?』
突然、真也の声が吊り上った。無理もないだろう、逆の立場だったら誠も同じ反応をしているだろう。
「いや、ごめん、ちょっとね。出かけた先でバスがなくなって」
『どこに行ってんだよ、っていうかまだ六時じゃん、もうバスがない所って何処だよ』
意外に真也が鋭くツッコんでくるので、誠は苦笑いしかでてこなかった。
「ちょっと滝を見に」
『ハァ? 滝? って山奥の? なんでそんな所にいるんだよ、まさか滝デート?』
「全然違うけど、まぁ、それでもいいや」
さらに苦笑いしか出てこない。こんな友人がいて、本当に恵まれていると、つくづく誠は何かに感謝した。
『まさか、例の夢のやつでか? お前最近付き合い悪いしさ、帰りとか絶対先に消えるしさ、夢なんかほっとけよ、取りつかれたみたいに滝まで行くかよ、フツー』
真也の口調が次第に苛立ってきた。本気で心配してくれているのは重々承知している。
「帰ってから説明するよ、今晩だけはよろしくな、じゃあ学校でな」
『ああ、じゃあな』
不貞腐れた感じで真也は電話を切った。
画面が暗くなった携帯を畳の上に放った誠は、ぐたっと仰向けに横になった。説明してほしいのはこっちだよ、と心の内で呟いた。
「気を付けてね」そう言った彼女の声が、頭の中で何度も再生されていた。
窓を開けて眠ったら、鳥の鳴き声がうるさくて誠は目を覚ました。
遮光カーテンの外側からうっすら朝焼けが見える。
布団から這い出て、ぼんやりカーテンをめくってみると、まだ夜明け前だった。夜明け前に目が覚めるなんて、普段ならあり得ないことだが、『花見酒』のことを気にしていたせいかもしれない。
「ったく」と舌打ちしながら、誠は上着を着て、部屋を出た。
静まり返った中で、一階の厨房らしき奥の方からはカチャカチャと食器が当たる音だったり、人の声がした。
横目で通り過ぎて、誠は民宿から表に出た。
少し肌寒い気がしたが、清々しさで胸がいっぱいになった。滝の飛沫音が静寂な集落の中にこだましていた。
そのまま歩いて、昨日居眠りをした場所まで行く。
さすがに観光客の姿も、住民の姿もなかった。川岸まで降りられる階段まで来たとき、滝つぼ近くの川岸に何か白い物体を見つけて、誠は目を凝らした。
白い物体とはまだ距離があるが、人より数段大きい。縦にではなく横に長いのだ。さらによく見ると、白いものは犬や猫みたいな毛並だと分かった。
巨大な生き物だと分かった瞬間、誠はその場で固まった。握った拳が震えて、どうすれば良いのか、頭の中が真っ白になった。
ヒラッと動いたのは尻尾だった。巨大な白い犬が、前足に顎を乗せてのんびり眠っているように見えた。だが白いそいつは三角耳をピクッと動かして、ゆっくり瞼を持ち上げた。
ウソだろ、と誠は全身の毛を逆立てるほどに、すくみ上った。
白くて巨大な犬はこちらの気配に気づいて、上半身を上げた。顔をこちらに向けると、しばらくジッと見つめられた。
「頼みごとがあるなら、こっちへ来たらどうだ」
口を閉じたまましゃべったような、低くこもった声が、冷えた空気を振動させて、誠の耳まで届いた。
ゴクリと生唾を飲み込んだ誠は、恐る恐る足を踏み出し、丸い石だらけの川岸へ降りた。膝をガクガク震わせながら白くて巨大な犬の近くへ歩み寄った。
とんでもなく艶やかな毛並は雪のようだ。犬の瞳は琥珀色だが、顔の大きさは大の大人が両手をいっぱいに広げても間に合わないぐらいに、巨大だった。もちろん胴体も頭の何倍もデカかった。
「で、何しに来た、昨日は一日中ここにいたようだが」
誠は一瞬、ゾクリとした。見透かされているような気がして、琥珀色の瞳から目が逸らせなくなった。
「は、はい」
「何故だ」
「それは、あの『花見酒』を貰いに来ました。持っているなら、分けてもらうだけでもいいんです。お願いします」
意外とすらすら言葉が出てきた。それ以上に、自分が懸命に頼み込んでいる現実に誠は驚いた。
未だに正体不明のあの二人の為に、懸命になっている。民宿にまで泊まって、巨大な犬を目の前にしてまで、『花見酒』を手に入れたいと思っているのは本心だと、誠は気づいていた。
少女の喜ぶ顔を素直に思い描いていたのだ。もう一度、あの笑顔が見たくて。会いたい。
「何故だ」
また同じ質問をされたと思った。
「えっと、必要なんです。それがないと、ある人に会えないから」
「それは口実だ。真に必要な理由を言え」
「真に必要な理由?」と繰り返した誠は、険しく眉根を寄せた。
取って来いと猫に頼まれたと、素直に白状した方がいいんだろうかと、迷った。妖怪の類かもしれない『彼ら』に理由を聞かれたのは初めてだった。
「あの、頼まれたんです、『花見酒』を入手してきてくれと。だから、必要なんです」
見透かされているなら、黙っていても始まらない。
すると、巨大な犬はゆっくり瞬きをして、睨むように瞼を細く開けた。
「お前は『花見酒』がどのような物なのか知っていて、私に分けてくれと言っているのか」
「い、いえ、どんな物かは知りませんが、お酒、だと思います」
何故そんな質問がきたのか理解できず、誠は猫がしゃべった内容を必死に思い出そうとした。
だが『花見酒』について何か言っていた記憶はまったく思い出せなかった。いや、猫は「取ってこい」としか言っていないのだ。
「どんなものか、知らずに、しかも依頼主から『花見酒』の用途を訊かずに、ここまで来たというのか」
図星し過ぎて、誠はどう答えてよいか分からず口をつぐんだままだった。
「帰れ、私はそこまで甘くない。お前は、我々に好かれるだろう、お前の持っている「仁」が我々を引き寄せる、だからこそ浅はかになるな」
すると巨大な犬の体が半透明になると、最後に琥珀色の瞳の輝きを残して姿を消した。
「えっ、ちょ、え? 収穫なしってこと」
ここまできて、しかも一泊までして入手できなかった。しかもついさっき気づいたことだが、『花見酒』を入手した晩でなければ、少女と猫に会えないのだ。それ以外の夜は、一度も少女と猫が出てくる夢を見ない。
『花見酒』が何なのか、知る必要がある。でも少女と猫に会えないとなると、もう手は一つしかない。
白くて巨大な犬が鎮座していた滝を眺めてから、誠は民宿へと戻った。