「ためいき色のタペストリー」

『ためいき色のタペストリー』

『ためいき色のタペストリー』

 

ベンツの革張りのシートに深くもたれながら、柴崎コーポレーションの社長、柴崎啓司は、ずっと躊躇っていた。


夜の湾岸線。車窓を流れる対向車のヘッドライトが、さながら夏の夜の蛍を思わせる。


啓司は、うつろな眼でそれらを眺めながら、これまでの事を振り返っていた。

 

きっかけは社内メールだった。衝撃の告発文書。初めはタチの悪い悪戯だと思った。


会社の急激な成長と共に、社内には二つの派閥ができてしまった。


業界の過当競争の中で、我が社は生き残りをかけて、あらゆる手段を使ってきた。


かつての柴崎コーポレーションは、お客様に愛される商品を各国から選りすぐり、国内へ供給する老舗の中堅商社であった。


それがバブル好景気に恵まれ、多角化するたびに業績を伸ばし、一時は巨大コンツェルンと肩を並べるほどの総合商社に伸し上がっていった。

 

龍一郎と初めて出会ったのは、啓司が柴崎コーポレーションのヨーロッパ支社長として、パリに赴任している時だった。


当時の龍一郎は、単身でヨーロッパに渡り、ギリシャで貿易商として独り立ちしたばかりであった。


エーゲ海を臨むホテルのラウンジで、初めて商談を交わした時から、啓司は彼の語学力とバイタリティ、そして商品を取捨するに欠かせない類稀なセンスに魅かれた。

 

啓司が本社へ戻ることが決まったと同時に、龍一郎をヘッドハンティングした。


龍一郎は、想像以上の活躍をした。


そしてそれが、先代社長の息子である啓司の昇進に対する嫉妬を沈黙させた。


都心の一等地ではなく、国際港・横浜に新社屋のシンボルタワーを構えたのも、龍一郎のアイデアだった。


バブル崩壊後の不況とも無縁の成長を遂げてきた柴崎コーポレーションであったが、しかし1年前、突然のデリバティブ投資の失敗により、巨額の損失を出した。


それがきっかけで、我が社は社会的信用を失い、社長が失脚し、代わりに啓司が新社長として就任したが、新社長の仕事は、この1年間資金繰りに奔走する毎日だった。


古くからの取引先も、利益が出ていないところは容赦なく切り捨ててきた。


しかしそれは、啓司の本意ではなかった。


すべては専属秘書となった龍一郎の指示の下であった。

 

「何故だろう?」啓司は眼を閉じた。


龍一郎が秘書となってから、会社は大きく変わった。


そのヤリ口に、はっきりと批判する役員もいた。


しかし啓司は、それらの反対の意見を、すべて棄却してきた。

 

告発文書は、龍一郎に裏の組織とつながりが有る、という内容だった。


デリバティブ投資については、反主流派の常務連中が単独で資金を注入していたものだった。しかし、実は龍一郎が裏で糸を引いていたというのだ。


確かに、それまでの龍一郎が手がけたプロジェクトは連戦連勝だった。


景気後退が懸念される中、不思議と失敗は一度も無かった。


それが実は闇の組織の力によって支えられていたものだったなんて・・・


信頼していた秘書が、まさかそんなことをするはずがない。


しかし・・・


一度湧き上がった疑念は、なかなか晴れなかった。


一番信頼していた龍一郎をも疑うほど、この1年間は裏切りと挫折を味わうことの連続であった。

何よりも、最近の啓司は疲労困憊していたのだ。

 

 

会社から約1時間。港北ニュータウンにある龍一郎のマンションは、会社が多角化の第1弾として建設・分譲したものだ。


運転手に、1時間後に迎えに来るよう伝え、啓司は車を降りた。


オーナーである啓司は、合鍵を持っていた。もちろん龍一郎に無断で使ったことは無い。


啓司は、龍一郎が独身で良かったと、今初めて思った自分に、思わず苦笑した。


以前は、いつまでも独身でいる龍一郎へ、事あるごとに見合いの話を持ちかけていた。


龍一郎は、話もまともに聞かず、全てを断っていた。


その中には、大東京銀行の会長の孫娘という破格の縁談も含まれていたのだが・・・


もちろん、この1年間はそんな縁談話など出たことは無かった。

 

ついさっき、龍一郎はニューヨークへ出発した。出張を命じたのは啓司である。


今、この部屋に龍一郎はいない。


書斎のドアを開け、感慨にふけるのはやめにした。


部屋の明かりを点けた。


告発文書には、全てのカラクリは龍一郎の自宅のパソコンの中に隠されていると記されていた。


主の居ない書斎に鎮座するパソコンは、蛍光灯の明かりを鈍く反射していた。


机上には、多くのファイルとディスクが、きちんと整理されて置かれていた。


「この中に・・・」


啓司は、パソコンの電源を入れようと手を伸ばした。


しかし、自分が禁断の果実に触れようとしている気がして、伸ばしかけた指先が躊躇したその瞬間、後頭部に衝撃が走った。


「ゴンッ」という鈍い音が、耳の奥に響き渡るように反響した。


そこで意識が途絶えた。

 

 

ぼんやりと意識が戻り始めた時、首筋の後部が鉛を流し込まれたようにズシリと重かった。


両腕の自由も利かない。両手首が後ろ手に縛られ、食い込んだロープの部分が擦れてじくじくしていた。


かすかな振動から、車に乗せられ、どこかへ連れて行かれるのだと、ぼんやりとした意識の中で感じていた。

 

しばらくして車が停車した。


ドアが開き、夜の冷たい空気が侵入してきた。


そして、太く逞しい腕に抱え上げられた。


声を出そうとして、自分の口に猿轡(さるぐつわ)が嵌められていることに気付いた。


今度はもがいてみたが、がっしりと両脇を抱えられていて身動きもままならなかった。


男は構わずに、どんどん足早に歩いて行く。


(自分はこれからどこへ連れて行かれるのか?これは夢なのだろうか?)


漸く立ち止まったかと思うと、一瞬体が浮く感覚とともに、耳の奥がツンとする。


エレベーターに乗せられたらしい。


目隠しをされているせいか、上に上がっているのか下に下がってのか分からない。


時間がやけに長く感じられた。密室の空気が纏わり付く。


でも、不思議と不安は感じなかった。


それが何故なのか、啓司には始め分からなかった。

 

ようやくエレベーターが止まり、扉が開いた。


再び冷たい外気と混じって、嗅ぎ分けた。コロンだ。


それは、日頃龍一郎が愛用している物の匂いであった。


「龍一郎か?」


声がくぐもった。そういえば、昼以降何も口にしていなかった。今は何時なのだろう・・・


男は何も答えなかった。しかし、啓司は男が龍一郎であることを確信していた。


「龍一郎・・・やはりお前が・・・」


声にならない声を絞り出した。


男は何も答えない。

 

不意に目隠しを外された。


目を開けると、息を飲むほどに美しい夜景が目の前に広がった。


魂を奪われてしまったように、瞬き一つしない啓司に、男が声をかけた。


「気に入っていただけましたか?」


振り返ると目がチカチカした。


しかし、少しして目が慣れてくると、キャンドルを持った龍一郎の姿が見えた。


見覚えのある風景。記憶を手繰り寄せるのに、そう時間はかからなかった。


なぜならここは柴崎コーポレーション本社最上階社長室だからだ。

 

目隠しをされて連れてこられた場所が職場とは思わなかった。


「ここから見る夜景が一番綺麗なんです。あなたに見せてあげたくて」

 

確かに社長に就任してから、夜景など見る暇は無かった。


それは龍一郎も同じことだった。


この1年間、2人は違う意味ではあるが、会社のために苦労してきたのだ。


龍一郎と、組織暴力団が関係しているのは事実であった。


連中の見返り要求は、どんどんエスカレートしていた。資金繰りに困窮する足元を見られ、今では本社ビルすら銀行の抵当に入っていた。


黒い関係、それが明るみに出ることで、これ以上社会的信用を失うわけにはいかなかった。


龍一郎は、その関係清算のために、八方手を尽くしてきたのであったが、もう限界だった。


そして、啓司の資金繰りも、同じく限界が近かった。

 

「1年間本当にご苦労様でした」


啓司の猿轡が外された。


次の瞬間、啓司の唇に、分厚い龍一郎のそれが重なった。


不思議と抵抗する気にはならなかった。


「どうして・・・」


啓司には、今初めて分かった。


龍一郎は、自分にない物を持っていた。


あくまでもビジネスライクに徹する仕事中に見る、彫りの深い横顔は、惚れ惚れするほどに凛々しい。明晰な頭脳に、いつも冷静で優しい口調。逞しい体躯。そして野心。


そうだ、俺はこの男を愛していたのだ。あの日、エーゲ海を臨むホテルのロビーで、龍一郎の瞳を見た、あの瞬間から・・・

 

今はもう、全てがどうでもいいことのように感じられた。


「社長、何も言わないでください」


再び唇が重ねられた。今度は濃厚なキスだった。


舌が、自然に受け入れていた。両方のそれが、互いに生き物のように熱く絡み合った。

 

静寂を遮るかのように電話が鳴った。


3回目のコールで、龍一郎の方から唇を離し、5回目のコールで彼が電話を取った。


「はい。分かってます。ええ・・・」


龍一郎の眼が、いつもの事務的なものに変わった。


手短な会話を終え、受話器が置かれた。


啓司を見つめる龍一郎の瞳は、悲しみが溢れて零れ落ちそうだった。

 

「これが、社長への最後の贈り物です」


龍一郎は、アルマーニのスーツの胸元に右手を忍ばせた。


ゆっくりと、ゆっくりと、その手に握られた拳銃の銃口が、啓司に向けられた。

 

「はっ」と息を呑んだままの表情で、啓司は絨毯の上に崩れ落ちた。


その額の銃創から流れ出る鮮血が、乳白色の羊毛の絨毯を、紅く滲ませていった。

 

「すみません社長。私にはもうこうするしか・・・」


龍一郎は跪き、啓司の瞼を閉じた。


そして、もう一度、これ以上ないという愛情を込めた接吻をした。


龍一郎には、全ての時間が止まったように感じられた。


自分の両足が、まるで欅の大木になったようだった。


しばらくして、漸くよろけるように立ち上がった。


そして、煌めく夜景に背を向けた。

 

社長室の入り口のドア脇には、タペストリーが掛っている。


啓司の新社長就任祝いに、龍一郎がギリシャから空輸で取り寄せた物だった。


「これで全てが終わった」


龍一郎は、目を閉じて、キャンドルの炎を吹き消した。


小さく「ふっ」と、ためいきのように・・・


そして、まだ硝煙が燻ぶる銃口を自分のこめかみに当てた。


「涅槃で逢いましょう」

 

引き金が引かれ、啓司に覆い被さるような形に崩れ落ちた。


絨毯は、さらに紅く紅く、染められていった。


それは、タぺストリーの中に丹念に編みあげられた『咲き乱れる薔薇』の柄と同じ、深い紅色だった。

 

 

天馬 翔
作家:天馬 翔
「ためいき色のタペストリー」
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