朧草子(おぼろぞうし) 雪月花星雨雲光の物語

朧草子(おぼろぞうし) 雪月花星雨雲光の物語220の有料書籍です。
書籍を購入することで全てのページを読めるようになります。
朧草子(おぼろぞうし) 雪月花星雨雲光の物語を購入

海上に降る雪

意識が肉体を目覚めさせるのか、肉体が目覚めるから意識が鮮明になるのか、しかし鮮明になったと信じている世界の、なんとおぼろげで不確かなことよ。

 

寝台の上に横たわるこの私は、川に流されてゆく狂ったオフィリアの姿に似ているだろうか? 画家のジョン・エヴァレット・ミレーの描いたあの絵に? いやそのようなことはあり得ない。

 

しかし、明け方の、深い眠りの底から徐々に浮かび上がってくる、脳髄の劇場で行なわれるカーニバルによって自分で自分を慰めていることは、恐らくは狂気と正気との一人二役であると言って間違いない。

「自己」とは、常に自分を面白がらせる為に、芝居を続けている自分を飼いならして、たまに引っ張り出して踊らせる牢獄なのだ。なぜ、牢獄と銘打つかと言うと、決して外に出られないからだ。

「自己」とか「自分」という堅牢な牢獄からは、死なない限り出られない。肉体が目覚めてしまった状態とは、「世界」と対峙する行為の始まりだ。

 

自己という堅牢な牢獄が、さらにその外側に「世界」という牢獄に囲まれている、などとうっかり語ってはいけない。そういう文脈を用いるほど野暮な行状はない。

「世界」のなかには、目立たないけれど「別世界」「非日常」という避難所があるのだ。幸いなるかな、そのような甘美な小部屋のなかでぬくぬくと過ごせる者。それに気がつくたびに私は、自分自身を小さく切り刻んで、両手で持てるくらいの箱の中にはまり込んで、永遠に息をしないでいたくなる。

 

毛布から出ない姿勢のまま、腕を空に伸ばして呼びかけた。

「先生」

薄明るい光の差す、丸い窓から外を見ていた男は、上半身を私の方に向けた。逆光で表情が見えないが、見慣れたやせ形のシルエットがくっきりと浮かぶ。髪をとかして身繕いもすませたようだ。聞き慣れた声が響いた。

「雪が降っているよ」

海上に降る雪

「…まあ、船の上で雪景色を見られるとは、思ってもみなかったわ。めずらしいこと」

「うん。普通はない」

私は温まった毛布をどけて起き上がり、ネグリジェのまま、外を見ようとしたら遮られた。「寒いと風邪をひくからちゃんと服を着ないと」

私はにやにやした。昨晩、彼とともにお互いの裸形をどれだけむさぼりあったかを思い出したので。ただ、その行為は、幸福な営みと言うよりは、何やらカメラを意識した俳優の演技めいていたのだが。私も、彼も。

私がにやにやしたのは、ほんの5、6時間前までは情交という「非日常」にはまりこんでいた相棒(むしろ共犯者と呼びたい)が、私一人をおいてさっさと「日常」の監獄に入ってしまったことに、ちょっと呆れたからだ。

この男性は、いつもそうだ。性への幻想を燃え盛らせているときと、それが収まったときとの態度が、一種唖然とするくらいに違う。二重人格なのか? と思うくらいだ。

だが、そのような人間だからこそ、文筆家になれたのであろう。正確には歴史研究家である。

 

私は彼の紡ぎ出す「文章」、そして該博な知識の全てに逆らえない魅惑を感じていて、彼の著作を紐解くたびに、鍵穴に、ぴったりと鍵が一致してドアが開くときのような喜びを感じたものだ。やがて直接彼に会う機会が訪れた。

私たちはすぐに意気投合した。一目惚れと言うのはあるのだな、と思うくらいに、お互いが互いを求めた。そこで会う機会をつくろうという企みの結果、彼は私を非常勤の助手という肩書きにした。

もうあれから半年が過ぎようとしている。あのときは夏の終わりで、彼の家では、合歓の木が満開になっている庭に、手入れされていない薔薇が、実に旺盛に葉っぱを茂らせていたのを覚えている。

 

今は冬のさなかだ。そして酔狂な男女一対は、更に北上して雪と氷に閉ざされた地方に行くべく旅立ったのだ。

 

洗顔を終えて、普段着に着替えているとき、ゆっくりとであるが部屋が揺れた。今さらながらに船の旅であることを思い出す。

朧草子(おぼろぞうし) 雪月花星雨雲光の物語220の有料書籍です。
書籍を購入することで全てのページを読めるようになります。
朧草子(おぼろぞうし) 雪月花星雨雲光の物語を購入
深良マユミ
作家:深良マユミ
朧草子(おぼろぞうし) 雪月花星雨雲光の物語
3
  • 220円
  • 購入

1 / 27

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • 購入
  • 設定

    文字サイズ

    フォント