ひねもすのたり

欲張り

私の父はカネに目がない。そして当然だが無類のケチである。
人の気持ちというものが分らない。
たとえば父は去年、私の障害年金の大半を取り上げ、
しかもそのことをすっかり忘れていて思い出せない。
私は去年約百万円をただあげた。父が欲しいと言ったからだ。
たとえば一度に31万円をあげたことがあった。
彼はそれを覚えていないと言う。
一度に31万円の札束を受け取ったことを覚えていないというのは明らかに病気だから治療してくれと言っても聴かない。

そして今日、バカな父親は更にカネが欲しいらしく、私の要求した去年の31万円分の領収書を喜んで書いた。
今後も私からカネを取り上げたいからだ。
どこまで欲張りなんだろう。
彼はカネのためなら何でもするのだ。

そして哀しいことに私は彼の息子である。

原発事故について思っていること

言葉が見つからないので自分では"非原発"と思っている。原発推進または容認の人たちとは相容れないが、しかしいわゆる"脱原発"や"反原発"の人たちの言うことも変だと思う。それほど危険でもないのに煽っている感じがする。たとえばどれくらいの精度があるのかも怪しい線量計でしかも本当に正しい計測の仕方かも分らない測り方で、いちいち放射線量を測って騒ぐ人たち。しかも仮にその数値が正しかったとしても、それが人体の健康にどれだけのどういう影響があるのかも、科学的によく分らずに、数字ばかりを吹聴する人たちとは、私はやはり相容れないのだ。
たとえばtwitterで言うと東京大学の早野先生のおっしゃることは、専門的すぎて分らないことも多いが、しかし少なくとも彼は非常に科学者らしく科学的で学問的に分析しておられるように思う。
他に例をあげれば福島第一原発の原子炉内で起こっていることは正確に言えばたぶん誰にも分っていないだろう。それをいかにも大変なことが起こっている、あるいは起こったとの単なる推測・憶測でものを言ってはいけないと思う。推測・憶測は要するにその域を出ないからである。正しいかもしれないが間違っているかもしれないことを断定的に言ってはいけないのは言うまでもない。
とにかく私たち素人としては、こちらの専門家あちらの専門家の言うことに謙虚に耳を傾け、そして判断など出来るはずもないことを忘れてはいけないと思う。

 

 

「金魚が死んじゃった」

先日76歳の母親がさびしそうに「金魚が死んじゃった」と、
ぽつりとつぶやくように言った。
我が家の唯一のペットだった。
私も男のくせに泣きたい気分になった。
何年前から飼っていた金魚だったのか忘れてしまったが、元はと言えば父親が六匹買ってきて、
私も世話をしていて可愛がっていたのだが、
正直言って私はその存在すら忘れていたのである。
母によると、三匹くらいは近所の欲しいと言う人にあげて、
あとは子供に盗まれたりしたらしく、最後の一匹だった。
六匹居た頃は、卵を産んでほしくて私も一生懸命だったのだが、
結局私たち家族と同じく後継ぎを残さずにみんな居なくなってしまった。
まあそれでも何年も生きていたのだからよくがんばってくれたと言うべきだろう。
来る時が来ただけなのだ。
 
それにしても芸能人や有名人も含めて、みんな死んでしまった。
 
 
 

いわゆる「電通支配」から脱するということー広告を見ない生活

発信力とは宣伝力であるが、人はなぜ発信力すなわち宣伝力を持ちたがるかと言えば、それは政治力を持ちたいから、つまり権力欲ゆえということになる。つまり世界を自分の思いどおりに動かしたいという極めて分りやすい欲望である。
そしてもちろん宣伝に最も有効な手段と言えばまずマスコミである。
twitterやブログ、facebookなどが盛んになっているとは言え、まだまだテレビ・新聞などの方が影響力は圧倒的に大きいだろう。
そしてマスコミの力、それは電通という会社になるのだが、それに関しては下記が分りやすい。
http://www.sayuu.net/blog/2011/06/002006.html

たとえば私はテレビもまったく見ないし、新聞もまったく読まない。かろうじてラジオを聴く程度である。

さて、上記ブログで説明されているような、いわゆる「電通支配」、つまり少なくとも日本の世論や民意は電通という広告会社などによって握られているということが本当に事実だとすれば、それから脱するためにはどうしたらいいのか?それは私たちがあらゆる広告を見ることを拒否しなければならないのかもしれない。

それは案外簡単なことかもしれない。要するに少なくとも民間の報道機関の報道を無視すればいいことを意味するのかもしれない。

自慢するわけではないが私はすでにそれをほぼ実践している。上記に述べたことに付け加えるなら、雑誌の類もまったく見ないから、私はいわゆる広告というものをほとんど見聞きしていないのである。

消費社会で生活する以上、物やサービスをまったく消費しないことは事実上不可能にしても、広告を見聞きしない生活はほぼ可能であろうと思う。

他人のことをとやかく言うつもりはないが、私自身としては今の生活を出来るだけ続けたいと思う。

篠田 将巳(しのだまさみ)
作家:shinoda masami
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