梨太郎

始まりの予感( 1 / 1 )

 昔々、東京と千葉の県境あたりの割と発展したところに助六と助六よりは元気を豪語するすずえが住んでいた。二人は仲良しでいつも一緒。結婚50年経った今も結婚指輪をつけてお互いの愛を確認しあい、お茶が飲みたくなっても「おい、お茶!」何てことは今まで1回言ったかどうかで口論になるぐらい記憶が曖昧な今日この頃。最近はテレビもめっきり見ることが少なくなり二人で毎週欠かさず見ていた岸辺四郎主演のドラマも今や食卓の話題にすら上ることもなくなっていた。築45年の控えめな一戸建ての彼らの家も至るところにがたがきている。激しい雨が振ると屋根は雨の侵入を許し、天井に雨が気まぐれな絵を描いて帰る。夜になると助六は毎日のようにこの絵を見ながら床についた。それが彼らの日常だった。朝になれば太陽より先に目覚め、すずえが炊いた飯に梅干を二つ。日によって焼き魚や味噌汁がつくことがあったがたいていはこんな感じだった。仕事を定年で辞めてもう10年が経とうとしている。時の流れは年を重ねるごとにその速度を増しているように思えた。定年後は趣味に生きる。当時はそう思ってたが自らの性格も手伝って長続きはしなかった。ここのところ生活に何の刺激もなくなっていた。 

 すずえも同じだった。助六の長続きしない趣味に淡い期待を抱いてはいつもやっぱりという思いになる。年をとったとはいえすずえも乙女。いつまでも主人のかっこいい姿は見ていたいと思っている。 

「助六さん、こないだの話は進んでるの」

「こないだって何かあったか?」

「ほら、こないだお隣の山根さんとお話してたじゃない。山登りにいかないかって?この辺の人たちが入っている登山愛好会に入らないかって誘われてた話。」

「あ~あれか、あれは機会があればということにしておいよ。話を聞いてると楽しそうだけど肉体的についていけるかわからなかったし。その場で答えを出すのはかえって迷惑になるかも知れないと思ってね。全く興味がないわけではないよ。」

「あら、そうだったの。」  

 会話が終わると助六は再び新聞に目を落とした。すずえはどうにかして愛好会に入ってもらいたかった。助六が夢中になってご近所とも交友が深まる。家にこもりがちな助六とすずえにとっては願ってもない話だった。しかし無理強いをするのは逆効果なのはすずえが一番知っていた。今までも幾度となくそれで失敗している。今回は助六が乗り気なだけに失敗はしたくない。言葉をめぐらしすずえは続けた。

「助六さんは山登りに興味があるの?」

「そうだな~あるようなないようなどちらとも言えないな。山に登れば第一に疲れるじゃないか。汗もかく。それならば家で本を読んでいるほうがいくらかましなんじゃないかって思うね。けど前に旅行のツアーに山に登るプランがあっただろ?覚えてるか?その時もしぶしぶ登ったのさ。けど頂上に着いた時の感動は忘れないね!今でも記憶がカラーで残っているよ。それを思うと山登りも面白いのかも知れない。」

 脈がありそうだった。これはいける。

 「今度私たち二人で山登りに行きましょ。そんな高い山じゃなくてもいいじゃない。今ちょうど紅葉のシーズンだしきっと綺麗よ!ね?助六さん行きましょ!」

「お前がそこまで言うのも珍しいな。」

「今回の山登りがたのしければ愛好会に参加すればいいし、やっぱりつまらないって思ったなら入らなければいいじゃない!」

「確かにお前の言うことも一理あるな。よし、そしたら今週の土曜日に行くとしよう。」

  すずえは小さくなこぶしに力を入れて静かに喜んだ。助六の重い腰をあげることができたのだ。今週の土曜日。きっと大きな熟れた梨がなっているだろう。すずえは不気味な笑みを浮かべた。

無類の梨好き( 1 / 1 )

 ついに土曜日がやってきた。すずえは雲ひとつない空見上げながらいつも朝に飲む日本茶を熱そうにすすった。助六はまだ気持ちよさそうに寝息を立てている。実はすずえは昨夜寝付けなかなかったのだ。朝が来るまで布団の中でしんぼうし、日が差してくるのを確認すると布団から抜け出しお茶を入れた。これでもぉ6杯目のお茶になる。味も渋みが増し、おいしいとは言えなかった。

「すずえ、もぉ起きているのか?」

助六が眠そうな声で問いかけてきた。

 「ええ、ついさっき起きたわ。今日はいい天気よ。絶好の山登り日和よ!ねぇ起きて早く用意しましょ!」

「今起きたばかりじゃないか。もぉ少しゆっくりさせてくれよ。まだ新聞も読んでない。」

「新聞は帰ってきてからでも読めるじゃない!ねぇ早く!」

 すずえに急かされた助六は布団から出ると既に用意されていたいつもの白飯と梅干を食べた。食事を済ませ山登りの用意を始めた。すずえは助六よりもずいぶんと早く仕度を終え、助六の用意を手伝った。

「さぁ出発よ!ガスも切ったし戸締りも完璧。」

のりのりのすずえに対し助六はやはり乗り気ではないようだ。しかし山に入りさえすればこっちのものになることはわかっていた。すずえは嫌がる助六を半ば強引に山に連れて行った。 

山に着くとちらほらと木々は色づき始めていた。しかし紅葉の本番はまだこれからといった感じだった。

「ほら!紅葉が始まってるわ!綺麗ね~」

「いや、まだ全然じゃないか。イマイチテンションも上がってこないなぁ~。」

「まぁまぁそう言わずに!まだ来たばっかりじゃない!これから助六さんが気に入る風景があるかもしれないじゃない!」

「確かに否定はできないけど期待もできないよ。」

ぶつぶつ言う助六を連れすずえはさらに上を目指した。あの場所を目指して。

 しばらく登ると少し開けたところにでた。年寄り二人にとっては普通の道も獣道に感じるのだ。なのでここで休憩をとらないかと助六がもちかけてきた。二人は木を組んで作ったベンチに腰を下ろした。一息ついた助六が口を開いた。

 「やっぱり山登りはむいてないかもしれない。山を登ってる間も違う、違うと思っていたんだ。疲れて登るメリットがないね。」

助六が言い終わると同時にすずえは自分の視線の先を指差しながら助六に言った

「助六さん、あの木になにか果物がなってるわ!何かしら?わたしったら今日に限ってめがねを忘れてしまってよく見えないわ。」

「どの木だい?あ、あれか!何だろう、よしちょっと見てこよう。」

そういうと助六は果実のなる木に向かって一歩一歩近づいていった。木に近づく助六の姿をすずえは後ろからじっと見つめていた。

「梨だ!梨がなっているよ!来てごらん!」

助六はおおはしゃぎだ。それもそうだ。助六が無類の梨好きなのは付き合っている時から知っていたのだから。そしてあえてこの山を選んだのも梨が自生している数少ない山であったからだ。

「ほんとうに!?こんな山に梨がなってるんですね!偶然ですね助六さん。」

「あぁ!今びっくりしているよ!びっくりというよりはむしろ感動だよ!」

「こんなこともあるんですね。登山も捨てたものじゃないんじゃない?」

「そうだな!登山愛好会に入ることを前向きに考えてみるよ!登山もいいもんだ!いい意味で期待を裏切ってくれた!」

すずえはしめたと思った。やはり助六は梨につられて登山愛好会に入ることを決めた。ここまでは思い通りだ。そして次からは愛好会として登山に参加することになる。次の山も梨が自生する山であることは山根に確認済みである。この時をずっと待っていたのだ。次の山にも梨があるとわかれば必ず助六は参加するだろう。そして梨と聞けば松平もきっと参加する。すずえははしゃぐ助六を見つめ不気味な笑みを浮かべた。

濡ヶ岳へ( 1 / 1 )

 ついに助六が登山愛好会に入って初めての登山の日がやってきた。初秋とは思えないほどの日差しが窓枠を明るく照らした。すずえはいつものようにお茶を入れ、どこか遠いところを見つめながら物憂げに湯飲みを口に運んだ。梨の自生する数少ない山、濡ヶ岳に助六を連れて行くのだと思うとすずえは高鳴る鼓動を抑え切れなかった。心臓の音が助六に聞こえはしないかと思うほどだった。すずえはずっとこの日を待っていた。何せ助六と松平が共に動く数少ない機会だったのだから。 

 松平は登山愛好会の古くからのメンバーで、近所に住んでいることもあり助六やすずえとも面識があった。松平は独身で年寄りにしては元気で豪快な性格をしていた。甘い顔と巧みな話術を兼ね備えており常に周りには女をはべらしている。そんな男だった。登山愛好会の女性の間でも人気で、女性陣は常に松平の横をキープしようと必死だった。

 すずえはそんな松平と不倫関係にあった。きっかけはささいなことだった。松平が助六と梨の話をしにきた時に始めて出会ったのだ。それ以来、二人はなるべく二人だけの時間を作るように努力をした。助六に怪しまれないように。 「二人で今度海外に行ってアルプス系の山に登ろう。」 松平からそう言われた時、すずえは完全に一人の少女に戻っていた。いつかはこの人と。すずえはそんなことも考えたりしていた。しかしある日、すずえは見てはいけないものを見てしまったのだ。一緒にアルプス系の山に登ろうと約束したはずの松平が他の女と登山していたのだ。あの時のあの約束は?私は遊びだったの?・・・色々な思いが交錯した。そして傷ついた乙女心はある一つのささいなし返しを思いついた。もともと一途に助六を思い続けてきたすずえだが、あまりに女としてみてくれない助六への不満もあり松平と関係を持ってしまった。だから助六にも悪いところはある。すずえはそうも考えていた。助六と松平を同時に困らせてやりたい。そんなことを考えていた。そしてすずえはその仕返しの場を今回の濡ヶ岳に選んだのだ。

  登山の準備を済ませ二人は電車に乗った。濡ヶ岳までは電車を乗り継いで14駅。家から1時間30分と決して近くない距離にあった。濡ヶ岳のふもとに現地集合というアバウトな待ち合わせに遅れないように二人は歩を進めた。

 ふもとに着くと愛好会のメンバーが既に何人か集まっていた。すずえはつかさずあたりを見回した。いた!松平だ!やはり来ていた。すずえの読みはずばり的中した。しかし助六の前で露骨に態度に出すと助六が気を悪くする。すずえは松平へかける言葉を慎重に選んだ。

「あら松平さん!お久しぶりね!いらっしゃってたのね。」

「あぁ、普段はあまり参加しないんだけど今回は濡ヶ岳だし、参加しないわけにはいかないだろう?違うか?俺が何か間違えたこと言っているかい?」

「いいえ~何一つ間違いなんてないわ!」

「それにしてもすずえ、いや、すずえさんこそ登山なんて珍しいね。何で参加してるんだい?」

「いやそれはうちの助六さんが登山愛好会に入ったからなんです。今回が記念すべき初登山で。」

「そぉ~でしたか!よろしく、助六さん。」 そう言うと松平は助六に握手を求めた。

「よろしく。」

差し出された松平の手を握り返した。 しかし助六は松平のことを前から苦手としていた。自分とは性格が間逆だし、女を常に連れている松平に好感なんか持てるわけないと思っていた。何より一番は自分より梨好きの可能性があったからだ。知り合った当初はお互い梨好きということもあり馬があっていた。しかし一度梨のことで口論となりそれ以来微妙に気まずい関係が続いている。けど今日の山は梨が多く実っているらしい。複雑な心境の中登山することとなった。

「みなさん準備はいいですか?では出発しますよ~。くれぐれもはぐれないようにしてくださいね!」

山根が二十数名のメンバーに告げた。いよいよ濡ヶ岳への登山が始まった。

梨で即死( 1 / 1 )

 濡ヶ岳は登山初心者から上級者まで様々な登山客に人気の山で、そのレベルに合わせた登山コースがいくつか用意されている。今回は一番簡単なコースが選ばれた。全員が高齢。当然の選択だった。

 山に入りしばらくは皆と歩調を合わせ歩いていたすずえだったが、先日助六と登った時に痛めた左足のふくらはぎにまた違和感を覚え始めていた。肉離れかもしれない。すずえは言うことを聞かない左足にムチを打ちながら登山を続けた。しかしやはりペースを合わせて登ることが苦しくなっていき、気づけば列の最後尾になっていた。そんなすずえを気遣う助六とその横にはさりげなく松平の姿もあった。松平はごく自然に振舞い、特に意識していないようだったが助六の胸中は穏やかではなかった。またこいつか。そんな思いに駆られていた。

 助六は二人の関係が怪しいと密かに睨んでいた。助六が外出から帰ってくると松平が家にあがっていることがしばしばあった。松平は助六と梨の話がしたくて帰宅を待っていたと毎回言っていた。そんなに梨の話がしたいものか。梨の情報なんてそんなに頻繁に更新されないし、新種もなかなかでない。何を話したいのかと毎回疑問に思っていた。しかしひとたび話し始めると何故か異様に盛り上がった。松平への警戒心は強くなる一方で、梨に対する思い入れも日に日に強くなっていった。

「すずえさん大丈夫かい?何か足が痛そうだけど、大丈夫かい?足が痛そうだけども。」

「だ、大丈夫よ松平さん。ありがとう。もう少しでお昼休憩になりそうだし、頑張るわ!」

「そうかい。あまり無理はしないようにね。何かあればすぐ言ってくれよ!」

「ありがとうございます。」 いちいちうっとしいことを言うやつだと思った。明らかに聞こえる距離で、しかも夫の前で。助六にも夫の意地があった。

「すずえ大丈夫か?いけるか?」

「・・・」

 無視である。すずえは助六の言葉なんて聞こえていないかのようにもくもくと登山している。多分思った以上に声が小さかったのだと自分に言い聞かして助六も山に登り続けた。

 先頭とはだいぶ離れてしまった。しかし3人で一緒に行動している限り心配はされないし、すずえにとっては好都合だった。するとぽつぽつと梨の木が生えてきているのに気づいた。次の道を右にいけば梨の木が大量に生えているエリアにいけるはずだった。梨の楽園。地元の人たちは上手いこと言ってそう呼んでいた。

「すずえさん、助六さん、梨の木がみえてきましたね!ついにお楽しみの時間ですよ!」

「本当だ!噂は本当だったんだ!梨だ!また梨だ!すずえ!」

「そこの道を右にいけばもっとたくさんあるらしいですよ」

すずえが二人を導くようにそう告げた。

 「少しぐらい寄り道をしてもいいでしょう。こっちは3人で行動しているわけだし。どうです?助六さん。行ってみませんか?」

「ええ!行きましょう!」

二人は完全に興奮状態だ。微妙に気まずいことなどどこ吹く風状態だ。すずえは後を追った。すずえの脈拍は明らかに速さを増していた。

「すごい!すごい梨だ!楽園だ!」

「こりゃすごい!まさに楽園だ!楽園だ!」

松平に続いて助六も声を上げた。二人は我れを忘れて梨に夢中だ。二人にしばらく思い思いの時間を過ごさせた後、意を決してすずえは言った。

「助六さん、松平さんちょっとちょっと~。」

 間もなく二人がすずえのもとにやってきた。

 「なんだい?すずえ。梨を見ていたのに。」

すずえはおもむろに松平の腰に手を回し、ぐっと寄り添った。

「実はわたし、松平さんとできてるの!できちゃってるの!」

「す、すずえさん!なんて事を言うんだ!違う、違うんだ助六さん!」

「違うことないじゃない。幾度も登山プランを一緒に練ったじゃない!忘れたとは言わせない!」

松平は明らかに狼狽していた。その様子は助六にもわかった。

「おい松平本当なのか!?お前はやっぱりそうだったか!この野郎!」

助六は松平の胸ぐらを掴んだ。そして激しく詰め寄った。

 「何回だ!?何回登山プランを立てたんだ!?」

「2回だ。」

「2回もか!俺のいないところでぬけぬけと!許すわけにいかん!」

二人は激しくもみあっていた。それはすずえが想像したものよりはるかに激しいものだった。それゆえすずえはだいぶ驚いていた。

 次の瞬間だった。助六が激しく突き飛ばした時、松平が大きく後方に転倒し落ちていた梨に頭をぶつけたのだ。鈍い音がした。まさか。我にかえった助六とすずえは松平に駆け寄った。即死だった。

「やってしまった。殺す気はなかったんだ!」

「早く埋めましょ!みんなが来るとまずいわ!」

二人は必死で松平の遺体を埋めた。そして何食わぬ顔で少し上で既に休憩をしているだろうメンバーの元に合流しようとした。しかし何か様子がおかしい。上で騒ぎが起きている。なぜだ!?まだばれているはずがない! 休憩所近くの展望台付近で人だかりができていた。助六とすずえはどうやって怪しまれずに合流するかを必死に考え、一番心配していた。しかしその騒ぎのお陰で自然に合流できた。そしてその人だかりの中に山根を見つけた。

 「何があったんだい!?」

「梨太郎、梨太郎が!!」

西尾麦茶
作家:西尾麦茶
梨太郎
0
  • 0円
  • ダウンロード

1 / 8