信ずるものは、救われぬ

第2章 独裁と洗脳( 4 / 7 )

 吉川の説教には、ジョークがよく登場し、説教中に爆笑が起こることもしばしばだった。他の牧師に比べると、元塾講師だけあって、中身はともかく、説教は上手かった。しかし、それと対照的に、日曜学校の先生の説教は、真面目くさっていて面白みがなかった。

 私たち子供が日曜学校で頭に叩き込まれたのは、「日曜学校の五原則」というものだった。

 それは、「祈る」、「聖書を読む」、「献金する」、「伝道する」、そして、「日曜日に教会に行く」ということだった。
 その根拠は、『出エジプト記』第二〇章八節にある、「モーセの十戒」の第四番目。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という言葉だった。
 この安息日とはもともと、神が天地創造の事業を休んだ第七日目、即ち土曜日のことだった。だからユダヤ教では土曜日を休む。しかし、イエスが復活した日、イースターが週の初めの日、即ち日曜日だったので、キリスト教ではそれを新しい安息日とするようになったという。

 安息日と言えば、吉川は説教中に、こんなことを言ったことがある。

 「イエス様が復活されたのは、週の初めの日、即ち日曜日です。その前の三日三晩、イエス様は葬られていました。だから、イエス様が十字架にかかったのは、金曜 日ではなく、木曜日なのです。世間では『一三日の金曜日』だと言っていますが、私たちは、イエス様の受難は木曜日だと、みんなに教えてあげなければなりません」。

 大胆な意見だ。

 しかし、吉川自身がその後、「イエス磔刑木曜日説」を広げようとした形跡はない。今もそう思っているのか聞いてみたいところだ。

 古代ユダヤでは、日没から日没までを一日として数えたらしい。

 だから日曜日とは、土曜日の日没から日曜日の日没までを指すことになる。そうだとすれば、金曜日に十字架にかかったイエスが、その日没までに葬られていれば、日曜日に復活にしていても、金曜日から三晩という数え方と矛盾しない。

 しかし実際には、そんなことはどうでもよいハズだ。

 イエスの誕生日とされるクリスマスが、本当はイエスの誕生日ではないというのは定説である。一二月二五日は、ミトラ教の冬至の祭に由来する日だという。

 聖書を見ても、実際のイエスの生誕日は、少なくとも真冬ではないということは明らかなのだそうだ。なぜなら『ルカによる福音書』第二章八節に、羊飼いたち が、夜に戸外で家畜の群れの番をしていたとあるからだ。一二月はパレスティナも冬は寒く、夜外で羊の番をする季節ではない。

 いずれにしても聖書だけでは、イエスの誕生日を特定することはできない。しかし、だからと言って、「イエスの誕生日」ではなく、「イエスの誕生を祝う日」として定着し ている一二月二五日を、これは異教の祭の日だから別の日にしようと言っても、世界中から冷笑されるだけだろう。

 吉川が金曜日ではなく、木曜日を受難日だと主張したのも同じことだ。仮に学術的にそうだったとしても、意味はない。

 イエスの誕生は学術的には、紀元前六年~四年だ。しかし、キリスト教を国教とする国でも、Anno Domini(我らの主の年)として数えられている今の西暦を、変えようとは決して主張しないだろう。

 しかも吉川の主張は、思いつきの言いっぱなしだ。察するところ、勢いで口を滑らせたのだ。

 話を五原則に戻そう。結局のところ、その中で、「日曜日は教会を休んではいけない」ということが最も重要だと、先生は私たち子供に叩き込んだ。

 ある日、日曜学校の授業中に、若山が私たちにこう尋ねた。

 「とても仲のよいお友達が病気で入院しました。他のお友達はみんな一緒に、日曜日の朝にお見舞いに行くことにしました。その中のひとりが皆さんにこう言いました。『あなた、教会に行ってるんでしょう、病院でお祈りしてあげてよ』。さぁ、みなさんはどうしますか」。

 誰も手を挙げなかった。

 そこで彼女は、吉川の娘・マリアをあてた。彼女は私よりひとつ年上だった。

 「お見舞いには行かないで、教会に行って、そのお友達のためにお祈りします」。

 私は実は、マリアのことがちょっと好きだった。高校時代、付き合っていたわけではないのだが、同じ沿線の女子高に通っていた彼女と、私が乗る駅で待ち合わせをして、同じ電車で、しばらくの間途中まで一緒に通っていたことがある。

 このとき私は、彼女の答えを聞いて、ちょっと驚いた。「マリアちゃんって、冷たいんや」と一瞬思った。

 しかし、若山の反応は違っていた。満面に笑みをたたえてこう言った。

 「そうですね。教会を休まないことが、どんなことよりも一番大事です」。

 私は、マリアの答えもそうだが、先生の言葉に大きなショックを受けた。友情よりも、義理人情よりも、教会に行くことは絶対的な重要事だったのだ。
 眼から鱗が落ちたとは、まさにこのことだった。私はそれを、額面どおりに受け入れた。

 「アーメン」(しかり)、と。

第2章 独裁と洗脳( 5 / 7 )

 もちろん、教会という組織がある以上、それを維持するために、ある程度の拘束や献金は必要だ。しかしそれは絶対的な戒律であってはならないのだ。
 イエスが教会を休むなとは言っていないのに、教団や牧師がそんなことを決められるはずがない。ところが、日曜学校に通う子供たちにとって、五原則を守ること、なかんずく、日曜日に教会に行くことは、いつのまにか地獄に落ちないための、必要不可欠な条件にされていた。
 この根本的な戒律は、金属製バッジの誘惑とともに、いとも簡単に、幼く単純な私の精神を縛った。私はだんだんと、日曜日に教会を休むことを恐れるようになった。もしも、私が日曜学校を休んだその日にイエスが再臨したら、私はみんなに置いて行かれてしまう。そう思っていた。

 プロテスタントは完全な二元論だ。残った者の運命は、地獄行き以外にはない。

 「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子(筆者注、イエスのこと)が来るからである」(『マタイによる福音書』二四章四四節)、と教えられた私は、その言葉をそのまま信じていた。

 讃美歌は「信ずる者は誰も、皆救われん」と歌うが、本当は、信じるだけでは救われない。教会に行っていないと、私は天国に行けない。天国に行けなければ、地獄に落ちるだけだ。
 つまり、教会に来ない私の母は、天国に一緒に行けない。私の父は、教会に行っていなかったので、今地獄にいる。先生たちは幼い私に、冷酷にも、間接的にそう教えたのだった。

 私は二七歳の時に脱会を決行するまで、たった二回だけしか日曜日を休むことはなかった。

 それは二回とも、中学一年の時だった。一回目はオーディションに合格して、とあるテレビ番組に出るために、ひとりで東京へ行った時。もう一回は、友人の家族から海水浴に誘われた時だ。その時私は最初、「行かない」と言った。しかし、いつもは日曜日に私を繋ぎ止めることを断念していた母が、珍しくその時は激怒 して、好意を無にしないで必ず行くように命じた。
 中学生になったら、もう日曜学校の表彰も景品もない。それで気が緩んだのかも知れない。私と妹は、日帰りで和歌山の海に連れて行ってもらった。父のいない家庭では滅多にできないドライブ旅行を、私たちは楽しんだ。
 
 中学生になって、立て続けに休んだからか、教会から家庭訪問があった。

 女性の特訓生がふたり来た。別に私に無理強いするわけでもなく、学校の先生が家庭訪問に来た時と同じように、茶菓子を食べて、世間話をして帰った。
 しかし私は、私は、自分が休んだことで、教会から家庭訪問があったということに、結構プレッシャーを感じた。
 
 やはり休むべきではなかったのだ。私はそう思った。

 母はそのころ私に、「あんた、いつまで教会に通うつもりや」と一度だけ聞いたことがあった。母は私には、よく言えば自主性に任せ、悪く言えば無関心だった。勉強していなくても、成績がそこそこだったこともあって、勉強せよと言うことなどなかった。漠然と、大学には行けとは言っていたが、教会にのめりこんで行く私に、流石に心配になったのかもしれない。

 ただ私が母の目を見ずに、「ずっとや」と一言だけつぶやくと、母はそれ以上何も言わなかった。

 私は、もしもその時母が、海水浴の時のように、怒って教会に行くのを止めよと命じていたら、きっと、後先を考えずに止めていたような気がする。

 母子家庭では、母の権威は牧師のそれと同じだったからだ。

 私は脱会後、母が私に勉強を強要しなかったこともそうだが、無理に私の教会通いを止めさせてくれなかったことを恨んだ。

 自分勝手な話だということは百も承知だ。

 しかし、母があの教会の中身や、牧師の正体に関心を持たなかったから、母には、子供たちの教会通いを止める理由が見当たらなかったのだ。
 そういった意味で、親は子供の行動範囲には大いに関心を持つ必要があると、つくづく思っている。私は私と同じ目に、自分の子供を遭わせたくはない、と。

第2章 独裁と洗脳( 6 / 7 )

 五年生のときだったと思うが、福井が私たちのクラスの担当をはずれ、若山は突然同じ教団の他の教会へ転籍することになり、先生は総入れ替えになった。一緒に通っていた友人たちのことは、おぼろげながら覚えているのだが、なぜか新しい先生の顔を思い出せない。
 勿論先生が変わっても、私たち日曜学校の生徒は、毎回毎回、日曜日に教会に来ることは、殺されても守らねばならない戒律だと教えられることに変わりはなかった。
 先生は、ローマ帝国でキリスト教が公認される以前、競技場に集められ、棄教を強要されてもイエスを否定せず、ライオンに食い殺された子供の殉教者、あるいは 江戸時代初期のキリシタン弾圧の際に、幕府の役人に脅されてもイエスを信じ続けて火あぶりになった子供の殉教者に倣って、あなたたちも、殺されても教会に来なさいと教えた。
 もちろん、現代の日本で殺されることはないだろう。しかし、私たちは家族との楽しみを捨てて、友情を捨てて、教会に来 なければならないと教えられた。父や母に反対されても、来なければならないと教えられた。そして、地獄へ落ちないように、家族や友人を折伏して、教会に連 れて来いと言われた。
 
 しかし、それは本当にイエスの教えだったのだろうか。

 『マルコによる福音書』第二章二七節で、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」とイエスは述べている。

 イエスは教会よりも遥かに寛容ではないか。

 そんなイエスが、踏絵を踏んでしまった信者を、自分の命のためにイエスを否定した転びキリシタンを、地獄へ落としたのだろうか。

 そんな冷たい「愛の神」なら、こっちからお断りだ。

 確かに、『マタイによる福音書』第一〇章三一、三二節によれば、イエスを公に否定した人に対して「私も父の前であなたを知らないと言う」とイエスは冷たく宣言しているかのように読める。しかしこれは、イエスを信じない者への警告を意味するのであって、弾圧に負けて表面的に棄教した人に対する宣告ではないだろう。それならイエス自身が、「踏絵」で信者を試していることになる。

 仮に他人の面前でイエスを公に否定しても、その人は心から信じていたが、口に出す勇気がなかったとしたら、それでもその人は地獄へ行かねばならないというのか。

 私には、愛を説くイエスが、そんなに冷酷なシステムを作っていたとは思えないのだ。

イエスの一番弟子であり、カトリックでは聖人にもなっているペテロも、イエスが捕らえられた直後、イエスの預言どおりに、彼を三度否定している。それは、イエスに「死刑判決」が下ったあと、彼が人々に侮辱されているときに起こった。

 「ペテロは外で中庭に座っていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、『あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった』と言った。するとペテロは、みんなの 前でそれを打ち消して言った。『あなたが何を言っているのか、わからない』。そういって入り口のほうに出て行くと、他の女中が彼を見て、そこにいる人々に向かって、『この人はナザレ人イエスと一緒だった』と言った。そこで彼は再びそれを打ち消して、『そんな人は知らない』と誓って言った。しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った。『確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる』。彼は『その人のことは何も知ら ない』と言って、激しく誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは『鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い 出し、外に出て激しく泣いた。」(『マタイによる福音書』第二六章六九~七五節)。

 しかしペテロは、その後もイエスの弟子であり続け、最終的にローマ・カトリック教会の祖となった。

 イエスはペテロを断罪してはいないではないか。

 ヴァチカンにある、彼の名を冠したサン・ピエトロ寺院は、文字通りペテロの墓の上にある。『マタイによる福音書』第六章十八節で、イエスが岩(イエスの時代の 共通語であるアラム語でケパ。ギリシア語でぺトロス。転じてペテロ、またはペトロ)の上に教会を建てると言った通りに。
 教会学校の先生も、ペテロがイエスを拒否したから地獄に落ちたとは教えなかった。これは大きな矛盾ではないか。
 カ トリック教会の伝承によれば、ペテロは、ネロ帝の迫害から逃れるためにローマを後にしたときに、イエスと再会した。ペテロはイエスに、「ドミネ、クォ・ ヴァディス」(Domine, quo vadis)、すなわち、「主よ、いずこへ」と尋ねた。これに対してイエスは「再び十字架に架かりにローマへ」と答えた。ペテロは自分を恥じ。殉教の決意 をしてローマに戻った。
 新約外典の『ペトロ行伝』第三八章によれば、ペテロはローマで、自ら望んで逆さ磔になっている。これは史実ではないと言われているが、もしかしたら後世の作家が、イエスを否定してしまったペテロに「罪滅ぼし」をさせたのかも知れない。
 繰り返すが、そもそも「信ずる者は救われる」のだ。このフレーズは、さっき紹介した聖歌四二四番にもあった。これは日本のキリスト教における名コピーだ。 『マルコによる福音書』第一六章一六節には、「信じてバプテスマを受けるものは救われる」とある。『使徒行伝』第二章二一節にも「主の名を呼び求めるもの はみな救われる」とある。それなのになぜ、牧師や教会が勝手に「救済」に条件をつけるのか。思い上がりも甚だしいことだ。

 キリスト教は阿弥陀如来信仰と似て、本来、完全な他力本願だ。

 だから、イエスを信じることは、「南無阿弥陀仏」と唱えることと同じなのだ。キリスト教が愛の宗教を自認するのであれば、親鸞のように、「善人猶以って往生を遂ぐ、況や悪人をや」という教えにならねばならないのではないか。
 だから五原則など履行しなくても、誰でも信ずる者は、それだけで救われるはずだし、そうでないならイエスの価値は、阿弥陀如来よりも低くなってしまうではないか。

第2章 独裁と洗脳( 7 / 7 )

 日曜に教会を休むのと同じように、私は、先生が言うところの偶像崇拝になる行為、例えば、墓参りをしたり、仏壇の前に座ったり、神社・仏閣でご神体やご本尊に手を合わせることなどを恐れるようになった。
 信者の友人からは、鳥居をくぐることだけで偶像崇拝になるとも注意された。私はそうするようになった。遠足で神社に行った時などは、鳥居の脇から境内に入った。もちろん、本殿で手を合わせることなどなかった。賽銭もしなかった。

 父の仏壇や墓にさえ手を合わさず、法事に行くことさえ躊躇するようになっていった。

 ここまで書いて、日曜学校での説教をひとつ思い出した。信者が迎えられる天国の内部にはランクがあって、この世で善行を行ったり、日曜日に休まなかったりした信者は、天国でよい暮らしができ、信じているだけでサボっていた人は、下層階級になるというものだった。

 天国に行っても階級差があるのだそうだ。聖書のどこにそんなことが書いてあるのだろう。イエスはこう述べている。

 「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、 とついだりすることはない。 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。 」(『ルカによる福音書』第二〇章三四~三六節)、と。

 あの世ではみな、天使に等しくなる。皆平等なのだ。

 インドのカー ストは、古代ヒンドゥー世界の身分差・階級差を今日に伝える制度だが、これが容易になくならないのは、差別されているはずの下層カーストの人々が、伝統的 な宗教観に基づいて、輪廻転生と来世を信じているからだ。だから低い身分でも、来世で高い身分に生まれ変わることを信じ、今生の不遇に甘んじることができ る。しかし、シュードラ(かつての奴隷階級)やカースト外のパリア(不可触民)の中には、現世利益を求めたい人もおり、そういう人々の中には、キリスト教 に改宗する人も多い。キリスト教が完全な平等をうたっているからであって、あの世でも階級があるなら、彼らは決してイエスなど信じはしないだろう。それな ら、輪廻転生を信じ、来世に期待するほうがましだ。実は、バラモン教以来の根強い宗教観念があったにもかかわらず、イスラムがインドで広がったのも、同じ 理由からだ。
 因みに、インドのキリスト教人口は約2%。ざっと二千万人いるのだ。日本人の二十倍のインド人のクリスチャンがいるわけだ。
 日曜学校の先生による、天国での階級差の創設は、彼らなりに「信ずる者は救われる」を合理化したものだろう。それを否定できないから、戒律を守るとあの世で良いことがあるのだと言わざるを得ない。
 それならばいっそのこと、カトリックのように、聖書には書かれていない、「天国へ行くための修練施設」である、練獄の存在をでっち上げるほうがまだましだ。

 日曜日、教会行かねば地獄行き。

 とはいえ、小学校時代の私は、それなりに、毎週日曜日の教会生活を楽しんでいた。朝から親しい友人といつも一緒に行動し、教会に集う他の学校の子供たちとも仲良くなって、彼らに会うのも楽しみだった。最初の目標だったあのバッジはもらえなかったが、賞状やバッジの代替品に満足した。親が信者でもないのに、わざわざ電車で通いながら皆勤賞をもらうという、熱心な子供でありつづけることが、 勉強は中途半端、スポーツはからっきしダメな、私の名誉欲をくすぐったのだった。
 小学生のころは、教会学校に行っても礼拝には出なかった から、昼前には家に帰ってきていた。教会のことは、家に帰ってテレビをつけた時点で、すっとスイッチが切れていた。教会に行くことで、私は免罪符を得てい たからだった。友人との約束がないときは、午後は大好きだった吉本新喜劇、松竹新喜劇や道頓堀アワーのようなお笑い番組を、ずっとテレビで観ていた。岡八朗やルーキー新一は、阪神タイガースの江夏豊、田淵幸一、南海ホークスの野村克也、門田博光と並ぶ、私のヒーローたちだった。
 教会に行ってさえおれば、私は地獄に落ちないという自信があった。だから私は、家で聖書もほとんど読まなかったし、母と妹だけの家庭なのだが、なんだか気恥ずかしくて、朝夕はおろか、食事前に祈ることもしていなかった。
 まさか、教会に毎週行くことを強調した結果が、こういうことになっていたとは、日曜学校の先生も思わなかっただろう。
 
 教育とは難しいものだ。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
0
  • 0円
  • ダウンロード