信ずるものは、救われぬ

第2章 独裁と洗脳( 3 / 7 )

 昭和四五年四月。

 四年生になった私は、新しいクラスで急速に親しくなった丸畑尚を教会に誘い、間もなく大野、丸畑、私の妹と四人で、大野の母の送迎ではなく、自分たちで電車に乗って、毎週日曜学校に通い始めた。
 買い物が好きだった母と、心斎橋のそごうや大丸へ行くためによく乗った大阪市内方面にではなく、府県境に向かって逆方向に電車に乗るということで、その二駅 の旅が子供にとってはちょっとした冒険だった。そして日曜学校の後で、当時まだ珍しかった、焼きたてのパンの店で、軽く塩味がついた、大きな丸いパンを 買って帰るのが、新たな楽しみのひとつとなった。母もそのパンが好きになり、私と妹は、いつも母のためにもうひとつパンを買って帰った。
 日曜学校で何を習ったかは、実はほとんど覚えていない。断片的な聖書の言葉は覚えているが、正直言って、子供のころは聖書そのものに、余り関心はなかった。
 しかし、成長してから読んだ、旧約聖書に書かれてあるオリエント史は、素直に面白かった。高校で世界史を学んだ時、聖書に書かれてあったことが事実として登場していることにひとり感動を覚えた。
 例えば、『エレミア書』に出てくるネブカデレザル王が、新バビロニアのネブカドネザル二世だと知ったとき、『エステル記』に登場するアハシュエロス王が、アケメネス朝ペルシャのクセルクセス大王だと知った時、或いは、ダビデ王、ソロモン王、そしてイエスの名前を教科書に見つけた時、私は、「ああ、私が信じて 読んでいる『聖書』は、真の神の書物だ」と、自分で再確認していたのだった。

 牧師や先生たちの説教の詳細は覚えていないが、繰り返し歌わされた讃美歌は、今でもいくつかはそらで歌える。
 信者でない人の間でも、有名な『星の界』のメロディーと同じであるこの歌。

 「いつくしみ深き、友なるイエスは
 罪、咎、憂いを、取り去り給う
 心の嘆きを、包まず述べて
 などかは降ろさぬ、負える重荷を」

 (賛美歌三一二番)

 そして、その歌の別ヴァージョン。
 「罪咎を担う友なるイエスに
 打ち明け得るとは、如何なる幸ぞ
 安きのなき者、悩み負う者
 ともなるイエスをば、訪れよかし」

 (聖歌六〇七番)

 キリスト教のキャッチコピーのようなフレーズを連呼するこの歌。
 「十字架にかかりたる、救い主を見よや
 こはなが犯したる、罪のため
 ただ信ぜよ、ただ信ぜよ
 信ずる者はたれも、皆救われん」

 (聖歌四二四番)

 聖霊を求めて祈る時よく歌ったこの歌は、私の一番のお気に入りだった。
 「いずこにある、島々にも
 いずこに住む、人々にも
 喜ばしく、のべつたえよ
 聖霊きたれり
 聖霊きたれり、聖霊きたれり
 あまくだりし、慰め主
 地の果てまでのべつたえよ
 聖霊来たれり」

 (聖歌五七六番)

 思い出せばきりがない。

 子供向けの歌もあったが、私は小さいころから何故か、文語調の古い賛美歌が好きだった。

 いや正直に言うと、今も好きだ。

 ク リスマスソングも頭に焼き付いている。『もろびとこぞりて』(賛美歌一一二番)や「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」の件で有名な『荒野の果てに』 (賛美歌一〇六番)など、小学生のときから、言葉の意味も教えられないまま、何度も何度も歌わされたが、これらも大好きな賛美歌だ。
 新旧約聖書にある六六巻の名前を、『鉄道唱歌』のメロディーで覚えるという替え歌のお陰で、今でも私は、『創世記』から『ヨハネの黙示録』まで、それらの名前はすべて記憶している。

 旧約は、「創(創世記)、出(出エジプト記)、レビ(レビ記)、民(民数記)、申命記。
 ヨシュア(ヨシュア記)、士師(士師記)、ルツ(ルツ記)、サム(サムエル記上・下)、列王(列王記上・下)。
 歴代(歴代志上・下)、エズ(エズラ記)、ネヘ(ネヘミア記)、エステル記。
 ヨブ(ヨブ記)、詩(詩篇)、箴言、伝道(伝道の書)、雅歌。
 イザヤ(イザヤ書)、エレ(エレミア書)、哀(哀歌)、エゼ(エゼキエル書)、ダニル(ダニエル書)。
 ホセア(ホセア書)、ヨエ(ヨエル書)、アモ(アモス書)、オバ(オバテヤ書)、ヨナ(ヨナ書)、ミ(ミカ書)。
 ナホム(ナホム書)、ハバクク(ハバクク書)、ゼパ(ゼパニア書)、ハガイ(ハガイ書)。
 ゼカリア(ゼカリア書)、マラキ(マラキ書)、三九(さんじゅうく)」。

 新約は、「マタイ(マタイによる福音書)、マコ(マルコによる福音書)、ルカ(ルカによる福音書)、ヨハネ伝(ヨハネによる福音書)。
 使徒(使徒行伝)、ロマ(ローマ人への手紙)、コリント(コリント人への手紙第一・第二)、ガラテヤ書(ガラテヤ人への手紙)。
 エペソ(エペソ人への手紙)、ピリ(ピリピ人への手紙)、コロ(コロサイ人への手紙)’、テサロニケ(テサロニケ人への手紙第一・第二)。
 テモ(テモテへの手紙第一・第二)、テト(テトスへの手紙)、ピレモン(ピレモンへの手紙)、ヘブル書(ヘブル人への手紙)。
 ヤコブ(ヤコブの手紙)、ペテロ(ペテロの手紙第一・第二)、ヨハネ(ヨハネの手紙第一・第二)、ユダ(ユダの手紙)。
 ヨハネの黙示(ヨハネの黙示録)、二七(にじゅうしち)。
 旧新両約あわせれば、聖書の数は六六(ろくじゅうろく)」。

 この実用的な歌は、結構早い段階で覚えさせられた。そして、先生が聖書の箇所を言ったときに、この歌をすばやく頭の中で口ずさみ、聖書のページを繰った。そして誰が早くそのページにたどり着くか、私たちはお互いに競いあっていた。

この歌詞を書きながら、重度身体障害者の越智悟という信者のことを思い出した。

 彼は脳性麻痺で、歩くことも、話すことも困難なのだが、介護人の手を借りて、自分で何でもやろうとする、すばらしい人だった。なぜか今はつながらないが、ネットサーフィンをしていて、彼が作ったというウェブサイトをわたしは見つけたことがある。
 高校生のころ、どういう経緯だったか覚えていないのだが、ある集会で、私が彼の隣に座ることになった。牧師が聖書の箇所を言った時、私は先に彼の聖書を開こ うとした。頭の中でその『鉄道唱歌』の替え歌を口ずさんでページを繰っていると、突然彼が不自由な手を出して、私の手を止めた。えっと思って見てみると、 私はぼおっとしていて、開かねばいけない箇所をとっくに通り過ぎていたのだった。
 私の歌よりも、彼の記憶の方が正確だった。

第2章 独裁と洗脳( 4 / 7 )

 吉川の説教には、ジョークがよく登場し、説教中に爆笑が起こることもしばしばだった。他の牧師に比べると、元塾講師だけあって、中身はともかく、説教は上手かった。しかし、それと対照的に、日曜学校の先生の説教は、真面目くさっていて面白みがなかった。

 私たち子供が日曜学校で頭に叩き込まれたのは、「日曜学校の五原則」というものだった。

 それは、「祈る」、「聖書を読む」、「献金する」、「伝道する」、そして、「日曜日に教会に行く」ということだった。
 その根拠は、『出エジプト記』第二〇章八節にある、「モーセの十戒」の第四番目。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という言葉だった。
 この安息日とはもともと、神が天地創造の事業を休んだ第七日目、即ち土曜日のことだった。だからユダヤ教では土曜日を休む。しかし、イエスが復活した日、イースターが週の初めの日、即ち日曜日だったので、キリスト教ではそれを新しい安息日とするようになったという。

 安息日と言えば、吉川は説教中に、こんなことを言ったことがある。

 「イエス様が復活されたのは、週の初めの日、即ち日曜日です。その前の三日三晩、イエス様は葬られていました。だから、イエス様が十字架にかかったのは、金曜 日ではなく、木曜日なのです。世間では『一三日の金曜日』だと言っていますが、私たちは、イエス様の受難は木曜日だと、みんなに教えてあげなければなりません」。

 大胆な意見だ。

 しかし、吉川自身がその後、「イエス磔刑木曜日説」を広げようとした形跡はない。今もそう思っているのか聞いてみたいところだ。

 古代ユダヤでは、日没から日没までを一日として数えたらしい。

 だから日曜日とは、土曜日の日没から日曜日の日没までを指すことになる。そうだとすれば、金曜日に十字架にかかったイエスが、その日没までに葬られていれば、日曜日に復活にしていても、金曜日から三晩という数え方と矛盾しない。

 しかし実際には、そんなことはどうでもよいハズだ。

 イエスの誕生日とされるクリスマスが、本当はイエスの誕生日ではないというのは定説である。一二月二五日は、ミトラ教の冬至の祭に由来する日だという。

 聖書を見ても、実際のイエスの生誕日は、少なくとも真冬ではないということは明らかなのだそうだ。なぜなら『ルカによる福音書』第二章八節に、羊飼いたち が、夜に戸外で家畜の群れの番をしていたとあるからだ。一二月はパレスティナも冬は寒く、夜外で羊の番をする季節ではない。

 いずれにしても聖書だけでは、イエスの誕生日を特定することはできない。しかし、だからと言って、「イエスの誕生日」ではなく、「イエスの誕生を祝う日」として定着し ている一二月二五日を、これは異教の祭の日だから別の日にしようと言っても、世界中から冷笑されるだけだろう。

 吉川が金曜日ではなく、木曜日を受難日だと主張したのも同じことだ。仮に学術的にそうだったとしても、意味はない。

 イエスの誕生は学術的には、紀元前六年~四年だ。しかし、キリスト教を国教とする国でも、Anno Domini(我らの主の年)として数えられている今の西暦を、変えようとは決して主張しないだろう。

 しかも吉川の主張は、思いつきの言いっぱなしだ。察するところ、勢いで口を滑らせたのだ。

 話を五原則に戻そう。結局のところ、その中で、「日曜日は教会を休んではいけない」ということが最も重要だと、先生は私たち子供に叩き込んだ。

 ある日、日曜学校の授業中に、若山が私たちにこう尋ねた。

 「とても仲のよいお友達が病気で入院しました。他のお友達はみんな一緒に、日曜日の朝にお見舞いに行くことにしました。その中のひとりが皆さんにこう言いました。『あなた、教会に行ってるんでしょう、病院でお祈りしてあげてよ』。さぁ、みなさんはどうしますか」。

 誰も手を挙げなかった。

 そこで彼女は、吉川の娘・マリアをあてた。彼女は私よりひとつ年上だった。

 「お見舞いには行かないで、教会に行って、そのお友達のためにお祈りします」。

 私は実は、マリアのことがちょっと好きだった。高校時代、付き合っていたわけではないのだが、同じ沿線の女子高に通っていた彼女と、私が乗る駅で待ち合わせをして、同じ電車で、しばらくの間途中まで一緒に通っていたことがある。

 このとき私は、彼女の答えを聞いて、ちょっと驚いた。「マリアちゃんって、冷たいんや」と一瞬思った。

 しかし、若山の反応は違っていた。満面に笑みをたたえてこう言った。

 「そうですね。教会を休まないことが、どんなことよりも一番大事です」。

 私は、マリアの答えもそうだが、先生の言葉に大きなショックを受けた。友情よりも、義理人情よりも、教会に行くことは絶対的な重要事だったのだ。
 眼から鱗が落ちたとは、まさにこのことだった。私はそれを、額面どおりに受け入れた。

 「アーメン」(しかり)、と。

第2章 独裁と洗脳( 5 / 7 )

 もちろん、教会という組織がある以上、それを維持するために、ある程度の拘束や献金は必要だ。しかしそれは絶対的な戒律であってはならないのだ。
 イエスが教会を休むなとは言っていないのに、教団や牧師がそんなことを決められるはずがない。ところが、日曜学校に通う子供たちにとって、五原則を守ること、なかんずく、日曜日に教会に行くことは、いつのまにか地獄に落ちないための、必要不可欠な条件にされていた。
 この根本的な戒律は、金属製バッジの誘惑とともに、いとも簡単に、幼く単純な私の精神を縛った。私はだんだんと、日曜日に教会を休むことを恐れるようになった。もしも、私が日曜学校を休んだその日にイエスが再臨したら、私はみんなに置いて行かれてしまう。そう思っていた。

 プロテスタントは完全な二元論だ。残った者の運命は、地獄行き以外にはない。

 「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子(筆者注、イエスのこと)が来るからである」(『マタイによる福音書』二四章四四節)、と教えられた私は、その言葉をそのまま信じていた。

 讃美歌は「信ずる者は誰も、皆救われん」と歌うが、本当は、信じるだけでは救われない。教会に行っていないと、私は天国に行けない。天国に行けなければ、地獄に落ちるだけだ。
 つまり、教会に来ない私の母は、天国に一緒に行けない。私の父は、教会に行っていなかったので、今地獄にいる。先生たちは幼い私に、冷酷にも、間接的にそう教えたのだった。

 私は二七歳の時に脱会を決行するまで、たった二回だけしか日曜日を休むことはなかった。

 それは二回とも、中学一年の時だった。一回目はオーディションに合格して、とあるテレビ番組に出るために、ひとりで東京へ行った時。もう一回は、友人の家族から海水浴に誘われた時だ。その時私は最初、「行かない」と言った。しかし、いつもは日曜日に私を繋ぎ止めることを断念していた母が、珍しくその時は激怒 して、好意を無にしないで必ず行くように命じた。
 中学生になったら、もう日曜学校の表彰も景品もない。それで気が緩んだのかも知れない。私と妹は、日帰りで和歌山の海に連れて行ってもらった。父のいない家庭では滅多にできないドライブ旅行を、私たちは楽しんだ。
 
 中学生になって、立て続けに休んだからか、教会から家庭訪問があった。

 女性の特訓生がふたり来た。別に私に無理強いするわけでもなく、学校の先生が家庭訪問に来た時と同じように、茶菓子を食べて、世間話をして帰った。
 しかし私は、私は、自分が休んだことで、教会から家庭訪問があったということに、結構プレッシャーを感じた。
 
 やはり休むべきではなかったのだ。私はそう思った。

 母はそのころ私に、「あんた、いつまで教会に通うつもりや」と一度だけ聞いたことがあった。母は私には、よく言えば自主性に任せ、悪く言えば無関心だった。勉強していなくても、成績がそこそこだったこともあって、勉強せよと言うことなどなかった。漠然と、大学には行けとは言っていたが、教会にのめりこんで行く私に、流石に心配になったのかもしれない。

 ただ私が母の目を見ずに、「ずっとや」と一言だけつぶやくと、母はそれ以上何も言わなかった。

 私は、もしもその時母が、海水浴の時のように、怒って教会に行くのを止めよと命じていたら、きっと、後先を考えずに止めていたような気がする。

 母子家庭では、母の権威は牧師のそれと同じだったからだ。

 私は脱会後、母が私に勉強を強要しなかったこともそうだが、無理に私の教会通いを止めさせてくれなかったことを恨んだ。

 自分勝手な話だということは百も承知だ。

 しかし、母があの教会の中身や、牧師の正体に関心を持たなかったから、母には、子供たちの教会通いを止める理由が見当たらなかったのだ。
 そういった意味で、親は子供の行動範囲には大いに関心を持つ必要があると、つくづく思っている。私は私と同じ目に、自分の子供を遭わせたくはない、と。

第2章 独裁と洗脳( 6 / 7 )

 五年生のときだったと思うが、福井が私たちのクラスの担当をはずれ、若山は突然同じ教団の他の教会へ転籍することになり、先生は総入れ替えになった。一緒に通っていた友人たちのことは、おぼろげながら覚えているのだが、なぜか新しい先生の顔を思い出せない。
 勿論先生が変わっても、私たち日曜学校の生徒は、毎回毎回、日曜日に教会に来ることは、殺されても守らねばならない戒律だと教えられることに変わりはなかった。
 先生は、ローマ帝国でキリスト教が公認される以前、競技場に集められ、棄教を強要されてもイエスを否定せず、ライオンに食い殺された子供の殉教者、あるいは 江戸時代初期のキリシタン弾圧の際に、幕府の役人に脅されてもイエスを信じ続けて火あぶりになった子供の殉教者に倣って、あなたたちも、殺されても教会に来なさいと教えた。
 もちろん、現代の日本で殺されることはないだろう。しかし、私たちは家族との楽しみを捨てて、友情を捨てて、教会に来 なければならないと教えられた。父や母に反対されても、来なければならないと教えられた。そして、地獄へ落ちないように、家族や友人を折伏して、教会に連 れて来いと言われた。
 
 しかし、それは本当にイエスの教えだったのだろうか。

 『マルコによる福音書』第二章二七節で、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」とイエスは述べている。

 イエスは教会よりも遥かに寛容ではないか。

 そんなイエスが、踏絵を踏んでしまった信者を、自分の命のためにイエスを否定した転びキリシタンを、地獄へ落としたのだろうか。

 そんな冷たい「愛の神」なら、こっちからお断りだ。

 確かに、『マタイによる福音書』第一〇章三一、三二節によれば、イエスを公に否定した人に対して「私も父の前であなたを知らないと言う」とイエスは冷たく宣言しているかのように読める。しかしこれは、イエスを信じない者への警告を意味するのであって、弾圧に負けて表面的に棄教した人に対する宣告ではないだろう。それならイエス自身が、「踏絵」で信者を試していることになる。

 仮に他人の面前でイエスを公に否定しても、その人は心から信じていたが、口に出す勇気がなかったとしたら、それでもその人は地獄へ行かねばならないというのか。

 私には、愛を説くイエスが、そんなに冷酷なシステムを作っていたとは思えないのだ。

イエスの一番弟子であり、カトリックでは聖人にもなっているペテロも、イエスが捕らえられた直後、イエスの預言どおりに、彼を三度否定している。それは、イエスに「死刑判決」が下ったあと、彼が人々に侮辱されているときに起こった。

 「ペテロは外で中庭に座っていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、『あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった』と言った。するとペテロは、みんなの 前でそれを打ち消して言った。『あなたが何を言っているのか、わからない』。そういって入り口のほうに出て行くと、他の女中が彼を見て、そこにいる人々に向かって、『この人はナザレ人イエスと一緒だった』と言った。そこで彼は再びそれを打ち消して、『そんな人は知らない』と誓って言った。しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った。『確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる』。彼は『その人のことは何も知ら ない』と言って、激しく誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは『鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い 出し、外に出て激しく泣いた。」(『マタイによる福音書』第二六章六九~七五節)。

 しかしペテロは、その後もイエスの弟子であり続け、最終的にローマ・カトリック教会の祖となった。

 イエスはペテロを断罪してはいないではないか。

 ヴァチカンにある、彼の名を冠したサン・ピエトロ寺院は、文字通りペテロの墓の上にある。『マタイによる福音書』第六章十八節で、イエスが岩(イエスの時代の 共通語であるアラム語でケパ。ギリシア語でぺトロス。転じてペテロ、またはペトロ)の上に教会を建てると言った通りに。
 教会学校の先生も、ペテロがイエスを拒否したから地獄に落ちたとは教えなかった。これは大きな矛盾ではないか。
 カ トリック教会の伝承によれば、ペテロは、ネロ帝の迫害から逃れるためにローマを後にしたときに、イエスと再会した。ペテロはイエスに、「ドミネ、クォ・ ヴァディス」(Domine, quo vadis)、すなわち、「主よ、いずこへ」と尋ねた。これに対してイエスは「再び十字架に架かりにローマへ」と答えた。ペテロは自分を恥じ。殉教の決意 をしてローマに戻った。
 新約外典の『ペトロ行伝』第三八章によれば、ペテロはローマで、自ら望んで逆さ磔になっている。これは史実ではないと言われているが、もしかしたら後世の作家が、イエスを否定してしまったペテロに「罪滅ぼし」をさせたのかも知れない。
 繰り返すが、そもそも「信ずる者は救われる」のだ。このフレーズは、さっき紹介した聖歌四二四番にもあった。これは日本のキリスト教における名コピーだ。 『マルコによる福音書』第一六章一六節には、「信じてバプテスマを受けるものは救われる」とある。『使徒行伝』第二章二一節にも「主の名を呼び求めるもの はみな救われる」とある。それなのになぜ、牧師や教会が勝手に「救済」に条件をつけるのか。思い上がりも甚だしいことだ。

 キリスト教は阿弥陀如来信仰と似て、本来、完全な他力本願だ。

 だから、イエスを信じることは、「南無阿弥陀仏」と唱えることと同じなのだ。キリスト教が愛の宗教を自認するのであれば、親鸞のように、「善人猶以って往生を遂ぐ、況や悪人をや」という教えにならねばならないのではないか。
 だから五原則など履行しなくても、誰でも信ずる者は、それだけで救われるはずだし、そうでないならイエスの価値は、阿弥陀如来よりも低くなってしまうではないか。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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