属国離脱への道〜【入門編】日本近現代の謀略探求〜

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第2章 孝明天皇は殺された( 1 / 1 )

孝明天皇は殺された

孝明天皇暗殺は公然の秘密だった


 彼らは、また天皇(訳注 孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に直面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。この保守的な天皇をもってしては、戦争をもたらす紛議以外の何ものも恐らく期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。前将軍(訳注 家茂)の死去の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇についてそんな噂のあることを何も聞かなかった。天皇が、ようやく十五、六歳になったばかりの少年を後継者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役立ったことは否定し得ないだろう。

(『一外交官の見た明治維新 上』アーネスト・サトウ 坂田精一訳 234頁)


 これは、イギリスの外交官で駐日英国公使や通訳を務めたアーネスト・サトウの証言である。十四代将軍・徳川家茂、孝明天皇両者の暗殺は、イギリス人外交官の間でも知られていたことが分かる。

 孝明天皇、そして将軍家茂を謀殺したのは、誰なのか。

 家茂が死亡したのは、上洛中の1966年7月20日。その4、5日前から風邪気味で臥せっていた。すると、宮中から回されたという医者がやってくる。どうやらこの人物の名前ははっきりとはしていないようだ。孝明天皇の妹・和宮が家茂に降嫁して以来、2人の仲は良好。疑いもせず、家茂は医者の診療を受ける。医者が処方した薬を飲んでから、3、4日後に家茂は死亡した。家茂は、胸のあたりに紫色の斑点ができ、激しく苦しみながら息を引き取った。

 一方、孝明天皇は、一般には1866年12月25日に天然痘で亡くなったこととされている。12月11日頃から症状が出始めていたが、17日から便通もあり、食欲も回復し、熱も順調に下がり始めていた。21日から膿が出始め、23日には膿の吹き出しも収まって、全快に向かっていた。病状が急変したのは、25日。激しい下痢と嘔吐、最後には体中の穴等穴から出血という激しい死に様だった。

 孝明天皇は強硬な攘夷派として知られるが、和宮降嫁をきっかけに公武合体派でもあった。攘夷を実行するのは幕府という考え方に至っていたのだ。

 いわば、孝明天皇ー将軍家茂というラインが出来上がっていた。こうなってくると、困るのは薩長である。天皇が幕府と手を結んでしまえば、倒幕の大義は失われてしまう。薩長にとって、公武合体派の孝明天皇と家茂は邪魔者というしかない。両者が邪魔なのは、薩長に武器を売り支援するイギリスにとっても同じことだ。戦いが起きなければ、戦争経済を発動することはできない。日本に内戦をしかけ、騒乱を通じて利益を貪り、さらに勝ち馬を支援して、その後の日本を操っていく。これがイギリスの思惑だ。

 歴史家の鹿島曻氏は、孝明天皇、家茂の暗殺犯を岩倉具視と西郷隆盛、木戸孝允、伊藤博文ら薩長グループによる武略であり、その背後にイギリスの影ありとしている。

 鹿島氏によると、孝明天皇の暗殺には刺殺説もあるという。直接の犯人は伊藤博文と岩倉具視という当時を知る人物の遺言を発掘することにも成功している。

 長州ファイブの1人として英国留学に旅立っていた伊藤博文は、完全にグラバー、そして背後のユダヤ金融資本に洗脳されてしまっていたのだろうか。

 司馬遼太郎史観に基づく人たちから総スカンを食らいそうだが、筆者はいわゆる幕末の志士たちは、各藩の諜報者(スパイ)であり、国士と呼べるような輩ではおよそありえなかったと考えている。彼らは、総じてみな下級武士である。諜報活動のような危険の伴う仕事は下級武士の仕事だったのだろう。下級武士からしてみれば、一攫千金、成りがあるチャンスである。そのためには天皇殺しすら厭わない。残念ながら、これが現実であろう。伊藤博文にしても、1862(文久2)年には公武合体論を唱える長井雅楽の暗殺を画策し、山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺している。志士というよりは、さながらヒットマンというしかない。もともと農家に生まれ父が足軽の養子となったことで、かろうじて足軽武士の地位を手に入れた伊藤にとって、これしか成り上がっていく道はなかったのだろう。

 鹿島氏は、さしたる功績もない伊藤が、維新後先輩諸氏を押しのけて君臨できたのは、天皇暗殺の首謀者であったからだと推測している。実際に武士の中でも最底辺に位置する足軽の伊藤は、明治維新と同時に参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事、初代工部卿、宮内卿などの要職を歴任した。伊藤は幕末史において暗殺以外に重要な案件には参加していないだけに、天皇暗殺の論功行賞だったとしても納得できるのである。

 また、後年、伊藤博文を暗殺した韓国人の安重根は、動機として15の理由を挙げた。そのうちの一つに注目すべき一説があった。


「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。」


 明治天皇の父、つまり孝明天皇を伊藤博文が暗殺し、韓国の国民の間では周知の事実だというのである。伊藤博文が孝明天皇暗殺の真犯人であるということは、この時代、日本海を越えて韓国までも流布していた一つの証拠と言えるだろう。

 もちろん、伊藤本人の自白があるわけでもなく、伊藤の犯行を裏付ける決定的な証拠や目撃があるわけではない。が、前述したように伊藤は暗殺の前科持ちだ。長州藩の鉄砲玉として、藩の謀略活動の最前線にいた。天皇暗殺に長州藩が絡んでいるとすれば、真っ先に名前が挙がってくるのが伊藤というわけだ。こうした状況証拠から伊藤暗殺犯説を主張する研究者は鹿島の他にも少なくはない。その1人、太田龍氏は、孝明天皇を祭神とする玉鉾神社を伊藤博文が弾圧していた事実を指摘する。なぜ、現天皇の父上を顕彰する神社を伊藤が弾圧しなければならないのか。これも伊藤が暗殺犯なら納得できる。


睦仁親王も暗殺、明治天皇はすり替えられていた?


 そして、伊藤をはじめとする薩長の連中や岩倉具視らが犯したと思われる大罪は、孝明天皇殺しだけにとどまらない。家茂を暗殺したのも連中の仕業ではないかと推測するのはもちろんであるが、もっと酷い話がある。

 孝明天皇の子どもだった睦仁親王を殺害したのも彼らの手によるものではないかと考えられるのだ。もちろん、正史上では睦仁親王はそのまま明治天皇となっている。

 ネット上では、明治天皇すり替え説として広く知られている。山口県田布施町にある大室家とは南朝の末裔とされ長州藩が代々、保護してきた。その大室家のある人物・大室寅之祐が睦仁親王とすり替えられて、そのまま明治天皇となってしまったというわけである。

 孝明天皇を暗殺した側からすれば、犯行を隠し通すには周囲を買収したとしても息子の存在は大きな障害となるだろう。攘夷志向の強い天皇の息子だけに、都合良く操れるとは限らない。何よりも天皇殺しについて沈黙はしなかっただろう。

 それでは本当にすり替えられてしまっているのか。睦仁親王と明治天皇は、使用前使用後のごとく立ち居振る舞い、見た目がことなっているという証言がある。

 睦仁親王は天然痘にかかったことがあったが、明治天皇にはその痕跡はない。

 睦仁親王は女官に囲まれて大切に育てられたためか弱々しい性格だったようだ。13歳だった1864年7月の「禁門の変」のときは、砲声と女官たちの悲鳴に驚いて失神してしまった。ところが、明治天皇は馬を乗りこなし馬上から近衛兵を閲兵し、大声で号令をかけるなど、堂々としたものだった。もちろん睦仁親王が乗馬をした記録は残っていない。

 また、睦仁親王は性格だけでなく肉体的にも虚弱体質であり、毎年のように風邪をこじらせていた。十代半ばの思春期となっても女官たちと一緒に遊技に興じていたという。一方、明治天皇は体重24貫の巨軀。側近と相撲をすれば、投げ飛ばすほどの馬力を誇った。

 睦仁親王は16歳となっても書は下手だったが、明治天皇は達筆。

 このように、16歳の睦仁親王と明治天皇の間には、明らかに断絶があるようだ。父の孝明天皇同様に暗殺されてしまったと考えるのが自然だろう。

 もちろん、明らかなすり替えがあるわけではなく、暗殺の確かな証拠が残っているわけではない。

 だが、孝明天皇暗殺よりも濃厚な疑惑が漂うのである。

 その一つが、明治天皇の正妻「昭憲皇太后」だ。この表現を見て、「あれ?」と思わないか。通常、天皇の后妃であれば、本来は「昭憲皇后」となるべきところだ。皇太后は天皇の母や先帝の后妃に付けられる。しかも、明治天皇と昭憲皇太后の間には1人も子どもが生まれていない。それだけではない。会った形跡すら残されていないのだ。

 しかし、これも睦仁親王と明治天皇が別人なら納得できる。すり替えが事実なら、睦仁親王は先帝となり、昭憲皇太后は睦仁親王の后妃だ。だから、明治天皇にとっては皇太后となる。暗殺犯=維新の重鎮は、昭憲皇太后にはよくよく言いくるめ、沈黙の人生を送らせた。

 そして、もう一つ。明治天皇は本来、北朝の天皇のはずである。ところが、明治期、南朝の見直しが進み、南朝正統説が政府の見解とされた。足利尊氏は後醍醐天皇を裏切った逆賊となった。北朝であるはずの明治天皇の統治下において、著しく不可解な出来事である。大正15年に発令された皇統譜令では、正式に南朝の正統を政府が認め、南北朝時代の光厳天皇から後円融天皇までを皇統系譜から外してしまったほどだ。

 南朝天皇家として大室家のほかにも熊沢天皇、三浦天皇が知られる。その一家の当主、三浦芳堅が昭和初期、田中光顕・元宮内大臣を訪れたときの田中の言葉が、三浦の著作『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』に載っている。この中の一説が、『天皇の伝説 天皇にまつわる秘史とロマンを旅するノンフィクション』中の鹿島氏の文章(「天皇は二人いた!!」)だ。


 実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。(中略)実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御子孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩に於て、此の御王孫を御守護申し上げてきた。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古御一新を志した謹皇の運動である。

 吉田松陰亡き後、此の謹皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。此の桂小五郎と西郷南州とを引き合わせて遂に薩長を連合せしめたのは、我が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。

(『天皇の伝説 天皇にまつわる秘史とロマンを旅するノンフィクション』26頁)


 田中は、「我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ」という桂小五郎の言葉に南朝の忠臣菊池氏の子孫だった西郷が深く感銘して薩長連合が成功したと続ける。坂本龍馬の門下生だった田中の言葉だけに信憑性がある。

 明治維新は王朝交代でもあったのだ。天皇殺し、皇子殺し、将軍殺しという連続殺人と天皇すり替えという大掛かりな謀略が大政奉還直前に進行していたのだった。

 坂本龍馬の暗殺もこの流れの中で考えられるだろう。グラバーに育てられた龍馬は当初は、深い真相も知らされないままユダヤ金融資本の意向通りに倒幕へと動いていたが、結局、直接対決を避け公武合体の道を探り出した。日本人同士相争わず内戦を避けようと奔走した。龍馬は邪魔になった。

 果たして、これらの大仕掛けを足軽上がりの下級武士たちだけで考えられたであろうか。失礼ながら、彼らは鉄砲玉の実行部隊だった。

 龍馬を操り、薩長の下級武士を欧州留学に送ったのがグラバー(ロスチャイルド家の下僕)だったことを思い起こすべきである。シナリオライターはグラバーらを中心とするユダヤ国際金融資本だったと考えれば、維新後の遣欧使節団などを考えても、すべての筋道が通る。

 そして、表向き民間人だったグラバーに加え、英国公使も謀略側の一味だったことはいうまでもないだろう。そうなってくると、アーネスト・サトウの日記もあたかも自分は暗殺に無関係だというアリバイの主張のようにも思えてくる。

 大室寅之祐天皇については、ネットでは様々な分析がなされている。そのうちの一つには、寅之祐は大室家の養子であり南朝の末裔などではないという説もある。

 それによると大室家が南朝後裔を自称するようになったのは文政時代のことであるが、幕末に断絶している。大室寅之祐は大室家に嫁いだスヘの連れ子であり、南朝の血筋などつながっていないというのだ。

 これが事実とすると、明治維新の邪悪な目論見が透けて見えるようだ。悲しいまでの茶番である。日本を換骨奪胎させて統治する。この邪悪さこそ、ユダヤ国際金融資本の持つ専売特許なのである。長州とユダヤの歪んだ関係がその後の日本の針路を決めた。それは、現在に至るまで続いていると言えるのかもしれない。


 「明治の新政府ができてまもなく、十六歳の少年天皇が、わがままをして“元勲”の言うことをきかないと、西郷隆盛は、『そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ』といって叱りつけた」

(『実録天皇記』大宅壮一)


 読むと日本人として悲しくなってくる話だが、どこの馬の骨とも分からぬ輩を現人神に祭りあげて国民を騙してきたのが、残念ながら明治維新の真実だったのか。幕末の騒乱に策を弄してユダヤ国際金融資本の下男と成り果てることで権力の座に成り上がった元勲たちが、すり替えた明治天皇を自由に操って国を統治した。そのインチキぶりに欺瞞を感じた西郷は政府から離脱して、やがて叛乱軍の烙印を押されて滅んだ。一方、明治天皇は大酒飲みで、結果的には糖尿病と尿毒症というから今風に言えば糖尿病性腎症から腎不全を発症して61歳で亡くなった。国民全体を欺いていたという事実が、酒を浴びるように飲まずにはいられないほどのストレスとなっていたのではないか。

 後の章で検討するが、日本は第2次世界大戦前は英国、戦後は米国の属国であった。とくに1985年のプラザ合意以降はバブル演出&崩壊、対日年次改革要望書の丸呑み、そして今度のTPP参加強要による永久属国化と、米国の意図するがままに従ってきた。その姿はまるで同前だが、こうした体たらくの根本的な原因は明治天皇のすり替え隠蔽にあるのではないかと考えている。これは謀略中毒症の米国にとってみれば、絶好の脅しネタである。ジャーナリストの鬼塚英昭氏は『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』において、大室寅之介の出身地である田布施周辺出身の有力者やその秘密を握り守っていく集団による統治体制を“田布施システム”と呼び、解明している。いま日本政府に求められるのは、明治天皇すり替えの事実を天下に公表してしまうことだろう。そこに突破口がある。


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作家:磯田尚
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