レニングラード

「マーラー5番」、そして「1917年」ーラー( 1 / 3 )

「マーラー5番」、そして「1917年」

僕がここ、岩手県に来たのは、東日本大震災による瓦礫撤去にボランティアとして参加したからだ。4月上旬に申し込みをして以来、何とかあの甚大な被害から復旧出来る役に立ちたいと思っていたので。

あの大震災には多くの都内のサラリーマンと同様に、会社で遭遇した。他の人より恵まれていたのは、オフィスが門前仲町でアパートが西葛西と、通勤距離が短かったことだ。だから僕は歩いて家に帰れた。

しかし、翌々日の夕方にはスーパーマーケットのお米の棚がすかすかになっており、やむなくインスタントラーメンを多めに買うということに。こういう時一人暮らしは厳しい。そして、火曜日はその店に、「4ロール入りトイレットペーパーはお一人様1つまで、ミネラルウォーターはお一人様1本」との張り紙が出ていて、いずれ首都圏で大混乱が起きるのでは、と恐怖感を覚えた。幸いそれは的中しなかったが。また、北海道にいる両親の無事も確認出来たのでひとまず安心した。

 

しかしながら原発事故については、東京電力の記者会見などを観ると、「こいつら本当に危機管理やっていなかったんだな。それを知られたくなくて詭弁を弄しているんだろうな」と呆れるしかなかった。

 

週が明けて、僕のオフィスは、都内の大半の企業がそうだったように、大規模停電を防ぐために5時ぴったりに終わって、自由時間がいきなり手に入った。しかし、余震もあったし、夜遊びする気分には到底なれない。照明を最小限にした西葛西の町は、それはそれは暗く、わびしい風情だったが、そのために東京の割には、星が綺麗に瞬いていたことが忘れられない。

一人暮らしゆえ、何か起きた時には対応出来るように、テレビかラジオを常に

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つけておいたが、15日の晩に、どこかのFM放送をつけると、マーラーの交響曲5番の第1楽章が流れてきた。

よく知っている曲のはずなのに、いつにもまして荘重で「この世の終わり」を告げる音楽に思えて、僕は震えながら聴き入ってしまった。たまらなかった。だが、曲が終わってからのナビゲーターの明るい声によるマーラーの生きた時代の説明が、その余韻を壊してしまったのだけが、どうにも頂けなかった。やはりマーラーは、前後に説明も注釈もなしで聴くに限る。

 

ところで僕は、音楽業界の人間どころか、行政書士事務所の職員なのだが、アマチュアオーケストラで打楽器をやっている。親がどちらもクラシック音楽が好きだったので、小さい頃から普通に、バーンスタイン指揮のベルリンフィルのCDなんぞを聴いていたのだ。

 

アマチュアオーケストラで打楽器を演奏しているというと、多くの人が「優雅ですねえ」などと(半分お世辞で)言ってくれるが、実は強靭な体力を必要とする極めてマッチョな趣味なのである。クラシック音楽とは、人の肉体が活動し、振動し、楽器に対して闘いを挑む火花の記録なのだと、格好を付けて言いたいくらいだ。

それはともかく、僕が所属しているアマチュアオーケストラは、他にはない特徴を持っている。旧ソビエト連邦の作曲家、ドミトリー・ショスタコーヴィチの作品をもっぱら演奏しているのだ。その名も「オーケストラ・アクチャーブリ」。「アクチャーブリ」とはロシア語で「十月」を表す。これはショスタコーヴィチの作品「交響詩 十月」が名曲だからこれにしよう!というノリで決まったそうである。長ったらしいので、「アクティ」と呼ばれることもある。

僕は大学でもオーケストラに入っていたので、舞台で演奏することの魔力に魅入られていたが、卒業して社会人になったら他のことをしようと思っていた。しかし。

2000年の暮れに、「ショスタコーヴィチだけを専門にやるアマチュアのオケがある」と知って、俄然興味をそそられ、翌2001年2月に東京芸術劇場での定期演奏会を聴きにいった。僕は三度の飯よりもショスタコの交響曲が好きなのだ。そのときの曲は、交響曲第12番「1917年」と、ショスタコーヴィチが世に出て間もない21歳の時の曲「主題と変奏」であった。

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打楽器奏者にとってこの12番という曲は、最高に達成感のある楽曲で、ことに第3楽章の金管群のダンディズム溢れる旋律に合わせて打ち鳴らされるティンパニに、おおおっ、と胸がときめく。小気味良いシンバルといいトライアングルのちりんちりんという澄んだ音といい、ショスタコーヴィチの楽曲のビートには、聴く者にめくるめく高揚をもたらし、ガッツポーズしたくなる魔法があると思うのだが、どうだろう? 少なくとも、僕は聴くたびにそうなってしまう。

そんな僕にとって、彼らの演奏している姿は、技術に少々難があったとしても許せてしまうものであった。実のところ演奏は、やはりアマチュアだけあって、多少危なげなところがあった。ところどころピッチが甘かったし。しかし、オーケストラ・アクチャーブリの団員が、いかにショスタコーヴィチの音楽に惚れ込んでいるか、いかに交響曲12番をやることに精魂を注ぎ込んでいるかは、一目で分かった。

彼らを形容するとしたら、「気合いと集中力のオケ」というのが最も相応しい。チェロ奏者は目一杯弓を返し続け、オーボエ奏者はリードを唇にぎゅっとくわえて、打楽器奏者は両腕を、旧ソ連の労働者よろしく汗を飛び散らして振り下ろす。今日はわれわれの考える「ショスタコーヴィチの音」を世に問うのだ、との執念にも似た決意がみなぎっていた。指揮者と団員、その汗ばんだ額に、旋回する腕に、忙しく上下する指にも、そしてタキシードの絹ずれの音にさえ、僕はどうしようもなく愛おしさを感じ、惹き付けられた。

そして、自分もこのオケに加わりたい! との思いが押さえようもなく起こってきた。

定期演奏会終了後すぐに、アクチャーブリに参加願いを出したが、当初は断られた。打楽器は人数が足りているからと…だがなんと、打楽器奏者の一人が海外赴任になり、おかげで、というのはいけないのだが、2001年5月に、めでたくオーケストラ・アクチャーブリの一員になれた。

初顔合わせの時、パートリーダーの古屋(ふるや)さんに、満面の笑顔で「ようこそ!」と言われたときの嬉しさといったらなかった。指揮者の小田(おだ)先生には「あー君は背が高くて腕が長いから、パーカッショニストとしてはトクだね」と言われて、続いて「入りどころを間違えると観客には一発で分かるけどね」と釘を刺されたりした。

オーケストラもまた、揺れ続けた( 1 / 2 )

その「気合いと集中力のオケ」である、われらがアクチャーブリを襲った運命は、もちろん震災の被災地の方に比べるべくもないものだったが、それなりに重いものだった。

 

それは、今まで行なってきたaaaaaaaa「趣味の音楽活動」を真っ向から否定されたと受け止めざるを得ない試練。すなわち、道楽で音楽をやっていることで貴重なエネルギーを消費、浪費しているのではないか? という疑い。このことが喉に刺さったトゲのように、各人を苦しめていた。

音楽で誰かを救うことは無理だという事実が、僕たち全員にのしかかってきたのだ。


オーケストラもまた、揺れ続けた

 

僕の所属する「オーケストラ・アクチャーブリ」は、3月27日に、団員101名全体の緊急会議を行なった。議題は、「第19回定期演奏会を行うか否か」である。

 

なぜそのような議題になったかというと、震災の一周年の2012年3月11日を第19回定期演奏会としていたからだ。果たして、「この日」にプロならばいざ知らず、アマチュアオーケストラがイベントをやってよいのか? あるいは電力状況が逼迫しているかもしれないと言うのに? 

節電のために懐中電灯が廊下にとりつけられた森下文化センターでの会議は紛糾を極めた。結論から言うと

「2012年3月11日の第19回定期演奏会は、この日には行なわず、延期とする」と決したのであった。

 

これほどのことがあって、日本全体で何万人も人が亡くなっていると言うのに、オケで音楽をやっている場合なんだろうか?

 

定期演奏会の延期を主張した団員たちの考えは、だいたいそういうものであった。その主張の団員に被災地である東北出身者が多かったのは理の当然だった。

みんな直接の被災地ではなく、内陸部の市町村の出身者だったのだが、これを


深良マユミ
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