レニングラード

プロローグ( 1 / 1 )

プロローグ


人は異様なほど美しいものを享受した後には、異様なほど残酷な目に遭うのだろうか……?

ふと、心の中に浮かんだ言葉に、僕は訝しく思うと同時にそんな馬鹿な、とも思った。過酷な経験に遭うことと、美麗であったり享楽的であったりする「何か」を体験することの間には、何ら関係などはないだろう、そんなふうに頭を巡らせて理性で結論した。

にもかかわらず、その問いは僕の内部に、秋に舞い落ちる枯れ葉のようにゆるゆると旋回しながら落ちて行くのだった。

人は、異様なほど美しいものを享受した後には、異様なほど残酷な目に、遭うのだろうか。

 

僕は海を見ている。波濤が打ち寄せる。

心地よく晴れて、水色の空には白い雲が、幼子のほっぺたのようなふわふわとした形で浮かんでいる。

しかしその海岸線には、破壊された家の壁と、不定形のコンクリートの残骸と、戦車か飛行機かと疑われる巨大な金属片、すすけた煙突、折れた柱、金庫の扉といった、凄惨なものが一面に積み重なっているのだった。

綺麗な青い空の下の、瓦礫というか残骸というか破壊され尽くしたモノの集積は、異様で、現実感がなかった。しかし、潮の香りと金属と重油と家庭ゴミのブレンドされた匂いが、現実を突きつける。この国の一部が、凄まじい天災によって、激しく傷つき、痛手を被り、今も出血し続けていることを。

あの日、2011年3月11日の午後2時46分に東京にいた僕が、大震災と津波によって家族と、生活とを喪失した人々の心を、本当の意味で理解することができるとは思えない。それはまさに、おこがましいというものだ。

「瓦礫」とは亡骸だ、との思いが僕の脳裏を掠める。モノの亡骸も人の亡骸と同様に、墓地があってしかるべきではないのか? もちろんそれは比喩的な表現で、これほどの膨大なモノの亡骸は、撤去、除去、処理されるべきだ。処理して、再出発を計ること、それこそが、「けじめをつける」ことだと思う。

 

僕はもう一度、自分の目の前の荒涼たる情景を目に焼き付け、一礼してレンタカーに戻った。東北の夕方は、4月でもこれほど寒いのだろうか。吹き付ける風がズボンの上からでさえ、身にしみてゆくのが感じられる。

 

まだ亀裂がほうぼうにあるアスファルトに難渋しながら、宿泊先のビジネスホテルへと運転して行った。aaaaaaaa

「マーラー5番」、そして「1917年」ーラー( 1 / 3 )

「マーラー5番」、そして「1917年」

僕がここ、岩手県に来たのは、東日本大震災による瓦礫撤去にボランティアとして参加したからだ。4月上旬に申し込みをして以来、何とかあの甚大な被害から復旧出来る役に立ちたいと思っていたので。

あの大震災には多くの都内のサラリーマンと同様に、会社で遭遇した。他の人より恵まれていたのは、オフィスが門前仲町でアパートが西葛西と、通勤距離が短かったことだ。だから僕は歩いて家に帰れた。

しかし、翌々日の夕方にはスーパーマーケットのお米の棚がすかすかになっており、やむなくインスタントラーメンを多めに買うということに。こういう時一人暮らしは厳しい。そして、火曜日はその店に、「4ロール入りトイレットペーパーはお一人様1つまで、ミネラルウォーターはお一人様1本」との張り紙が出ていて、いずれ首都圏で大混乱が起きるのでは、と恐怖感を覚えた。幸いそれは的中しなかったが。また、北海道にいる両親の無事も確認出来たのでひとまず安心した。

 

しかしながら原発事故については、東京電力の記者会見などを観ると、「こいつら本当に危機管理やっていなかったんだな。それを知られたくなくて詭弁を弄しているんだろうな」と呆れるしかなかった。

 

週が明けて、僕のオフィスは、都内の大半の企業がそうだったように、大規模停電を防ぐために5時ぴったりに終わって、自由時間がいきなり手に入った。しかし、余震もあったし、夜遊びする気分には到底なれない。照明を最小限にした西葛西の町は、それはそれは暗く、わびしい風情だったが、そのために東京の割には、星が綺麗に瞬いていたことが忘れられない。

一人暮らしゆえ、何か起きた時には対応出来るように、テレビかラジオを常に

「マーラー5番」、そして「1917年」ーラー( 2 / 3 )

つけておいたが、15日の晩に、どこかのFM放送をつけると、マーラーの交響曲5番の第1楽章が流れてきた。

よく知っている曲のはずなのに、いつにもまして荘重で「この世の終わり」を告げる音楽に思えて、僕は震えながら聴き入ってしまった。たまらなかった。だが、曲が終わってからのナビゲーターの明るい声によるマーラーの生きた時代の説明が、その余韻を壊してしまったのだけが、どうにも頂けなかった。やはりマーラーは、前後に説明も注釈もなしで聴くに限る。

 

ところで僕は、音楽業界の人間どころか、行政書士事務所の職員なのだが、アマチュアオーケストラで打楽器をやっている。親がどちらもクラシック音楽が好きだったので、小さい頃から普通に、バーンスタイン指揮のベルリンフィルのCDなんぞを聴いていたのだ。

 

アマチュアオーケストラで打楽器を演奏しているというと、多くの人が「優雅ですねえ」などと(半分お世辞で)言ってくれるが、実は強靭な体力を必要とする極めてマッチョな趣味なのである。クラシック音楽とは、人の肉体が活動し、振動し、楽器に対して闘いを挑む火花の記録なのだと、格好を付けて言いたいくらいだ。

それはともかく、僕が所属しているアマチュアオーケストラは、他にはない特徴を持っている。旧ソビエト連邦の作曲家、ドミトリー・ショスタコーヴィチの作品をもっぱら演奏しているのだ。その名も「オーケストラ・アクチャーブリ」。「アクチャーブリ」とはロシア語で「十月」を表す。これはショスタコーヴィチの作品「交響詩 十月」が名曲だからこれにしよう!というノリで決まったそうである。長ったらしいので、「アクティ」と呼ばれることもある。

僕は大学でもオーケストラに入っていたので、舞台で演奏することの魔力に魅入られていたが、卒業して社会人になったら他のことをしようと思っていた。しかし。

2000年の暮れに、「ショスタコーヴィチだけを専門にやるアマチュアのオケがある」と知って、俄然興味をそそられ、翌2001年2月に東京芸術劇場での定期演奏会を聴きにいった。僕は三度の飯よりもショスタコの交響曲が好きなのだ。そのときの曲は、交響曲第12番「1917年」と、ショスタコーヴィチが世に出て間もない21歳の時の曲「主題と変奏」であった。

「マーラー5番」、そして「1917年」ーラー( 3 / 3 )

打楽器奏者にとってこの12番という曲は、最高に達成感のある楽曲で、ことに第3楽章の金管群のダンディズム溢れる旋律に合わせて打ち鳴らされるティンパニに、おおおっ、と胸がときめく。小気味良いシンバルといいトライアングルのちりんちりんという澄んだ音といい、ショスタコーヴィチの楽曲のビートには、聴く者にめくるめく高揚をもたらし、ガッツポーズしたくなる魔法があると思うのだが、どうだろう? 少なくとも、僕は聴くたびにそうなってしまう。

そんな僕にとって、彼らの演奏している姿は、技術に少々難があったとしても許せてしまうものであった。実のところ演奏は、やはりアマチュアだけあって、多少危なげなところがあった。ところどころピッチが甘かったし。しかし、オーケストラ・アクチャーブリの団員が、いかにショスタコーヴィチの音楽に惚れ込んでいるか、いかに交響曲12番をやることに精魂を注ぎ込んでいるかは、一目で分かった。

彼らを形容するとしたら、「気合いと集中力のオケ」というのが最も相応しい。チェロ奏者は目一杯弓を返し続け、オーボエ奏者はリードを唇にぎゅっとくわえて、打楽器奏者は両腕を、旧ソ連の労働者よろしく汗を飛び散らして振り下ろす。今日はわれわれの考える「ショスタコーヴィチの音」を世に問うのだ、との執念にも似た決意がみなぎっていた。指揮者と団員、その汗ばんだ額に、旋回する腕に、忙しく上下する指にも、そしてタキシードの絹ずれの音にさえ、僕はどうしようもなく愛おしさを感じ、惹き付けられた。

そして、自分もこのオケに加わりたい! との思いが押さえようもなく起こってきた。

定期演奏会終了後すぐに、アクチャーブリに参加願いを出したが、当初は断られた。打楽器は人数が足りているからと…だがなんと、打楽器奏者の一人が海外赴任になり、おかげで、というのはいけないのだが、2001年5月に、めでたくオーケストラ・アクチャーブリの一員になれた。

初顔合わせの時、パートリーダーの古屋(ふるや)さんに、満面の笑顔で「ようこそ!」と言われたときの嬉しさといったらなかった。指揮者の小田(おだ)先生には「あー君は背が高くて腕が長いから、パーカッショニストとしてはトクだね」と言われて、続いて「入りどころを間違えると観客には一発で分かるけどね」と釘を刺されたりした。

深良マユミ
レニングラード
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