勧善懲悪

       二

 いつだったか、……いや、覚えている、六年前のことだ、……「川那子丹造の真相をあばく」という、題名からして、お前の度胆を抜くような本が、出版された。
 忘れもせぬ、……お前も忘れてはおるまい、……青いクロース背に黒文字で書名を入れた百四十八頁の、一頁ごとに誤植が二つ三つあるという薄っぺらい、薄汚い本で、……本当のこともいくらか書いてあったが、……いや、それ故に一層お前は狼狽ろうばいして、莫迦ばかげた金と人手を使って、その本の買い占めに躍起となった。
 むかし新聞屋(……というより外に適当な言葉も見当らぬが、お望みならば、新聞社の社長と言いかえても良い……)をしていた頃、さんざ他人の攻撃をして来た自分が、こんどは他人より手ひどく攻撃されるという、廻合せの皮肉さに、すこしは苦笑する余裕があっても良かりそうなものだのに、お前はそんな余裕は耳掻きですくう程も無く、すっかり逆上してしまって、自身まで出向いて、市中の書店を駈けずりまわり、古本屋まで買いあさったというじゃないか。
 思えば、気の小さい、そんな男のことなどをあばいた本など、たいして売れもしなかっただろうと、おれは思っていたが案に違って、誇張めいた言い方をすると、瞬く間に版を重ねて、十六版も出たという。お前は知るまいが、初版は千五百部で以後五百部ずつ版を重ねたのだ。
「――なぜ、こんな本が売れるのでしょう?」
 と、出版屋も不思議がったくらいだが、不思議でもなんでもない。お前が買うから売れたのだ。出る尻から本が無くなるので、出版屋は首をひねりながら、ともかく増刷していたのだ。増刷の本が出ると、またお前が買い占める。出版屋はまた増刷する。……この売りと買いの勝負は、むろんお前の負けで、買い占めた本をはがして、包紙にする訳にも思えば参らず、さすがのお前もほとほと困って挙句に考えついたのが「川那子丹造美談集」の自費出版。
 しかし、これはおかしい程売れず、結果、学校、官庁、団体への大量寄贈でお茶を濁すなど、うわべは体裁よかったが、思えば、醜態だったね。だいいち、褒めるより、けなす方が易しいのでんで、文章からして「真相をあばく」の方が、いくらか下品にしろ、妙味があった。話の序でだから、この一部をそこへ挿むことにしよう。
 ――もともと出鱈目でたらめ駄法螺だぼらをもって、信条としている彼の言ゆえ、信ずるに足りないが、その言うところによれば、彼の祖父は代々やり一筋の家柄で、備前岡山の城主水野侯に仕えていた。
 彼の五代の祖、川那子満右衛門の代にこんなことがあった……。
 当時満右衛門は大阪在勤で、蔵屋敷の留守居をしていた。蔵元から藩の入用金を借り入れることが役目である。
 ところが、ある年の暮、いよいよ押し詰まって来たのにかかわらず、蔵元町人の平野屋ではなんのかんのと言って、一向に用達してくれない。年内に江戸表へ送金せねば、家中かちゅう一同年も越せぬというありさま故、満右衛門はほとほと困って、平野屋の手代へ、品々追従賄賂して、頼み込んだが、聞き入れようともせず、挙句に何を言うかときけば、
「――頼み方が悪いから、用達出来ぬ」
 との挨拶だった。
「――これは異なることを承る。拙者の頼み様がよろしからずとは、何をもって左様申されるか」
 と、満右衛門が詰め寄ると、
「――貴方は、御主人の大切な用を頼むのに、手をお下げにならん。普通なら、両手をしかと突いて、額を下げて頼むところでしょうがな……」
 と言われた。途端に、満右衛門は頭を畳に付けて、
「――田舎者の粗忽許して下され」
 と、煮えくりかえる胸まで畳につけんばかりに、あやまった。
 すると相手は、
「――暫く其のままで……」
 と、満右衛門の天窓あたまの上で咳などをして、そして、言うことには、
「これで頼み方がお判りでしょうがな」
「――はア」
 満右衛門は真赧まっかになって、畳にしがみついていた。
「――ははは……。頼み方を教えて、大切な金を貸すというのは、世間には類の無いことじゃ。しかし、貴方はとも角も、御主人は見捨て難い故、まあ、お貸ししましょう。頭をお上げになって、よろしい」
 満右衛門は頭を上げた咄嗟とっさに、相手を討ち果たして、腹を切ろうと思った。が、いや、差しかかった主人の用向が大切だ、またおれの一命はこんなところで果すべきものではないと、思いかえして、堪忍をこらし、無事に其の時の用を弁じて間もなく退役し、自ら禄を離れて、住所を広島に移して斗籌を手にする身となった……。
 それより三世、即ち彼の祖父に至る間は相当の資産をもち、商を営み農を兼ね些かの不自由もなく安楽に世を渡って来たが、彼の父新助の代となるや、時勢の変遷に遭遇し、種々の業を営んだが、事ごとに志と違い、徐々に産を失うて、一男七子が相続いで生れたあとをうけ、慶応三年六月十七日、第九番目の末子として、彼川那子丹造が生れた頃は、赤貧洗うが如きであった。
 新助は仲仕なかしを働き、丹造もまた物心つくといきなり父のく荷車の後押しをさせられたが、新助はある時何思ったか、丹造に、祖先の満右衛門のことを語ってきかせた。
 兄姉の誰もがまだ知らなかったこの話を、とくにえらんで末子の自分に語ってくれた父の心を想って、丹造は何か発奮し、祖先は金のためにまたとない恥をかいた。よし、このおれは……と、荷車の押す手に、思い掛けない力が籠って、父親の新助がおどろくくらいだった。
 十六歳の時、丹造は広島をあとにして、立身出世の夢を宿毎に重ねて、大阪の土を踏んだ。時に明治十五年であった。
 すぐに道修町どしょうまちの薬種問屋へ雇われたが、無気力な奉公づとめに嫌気がさして、当時大阪で羽振りを利かしていた政商五代友厚の弘成館へ、書生に使うてくれと伝手つてを求めて頼みこんだ。
 五代は丹造のきょときょとした、眼付きの野卑な顔を見て、途端に使わぬ肚をきめたが、八回無駄足を踏ませた挙句、五時間待たせた手前もあって、二言三言口を利いてやる気になり、
「――お前の志望はいったい何だ?」
 と、きくと丹造はすかさず、
「――わしゃ金持ちになりたい」
 と答えた。
「――そうか。それなら他所よそへ行くが良かろう。おれはいま百万円の借金がある。この借金は死ぬまで返せまい。そんなおれに、金持ちになる道が教えられると思うのか。うはははは……」
 笑いやんで、五代は、
「――帰れ」
 と、言った。
 丹造はその後転々奉公先をかえたが、どこでも尻が温らず、二十歳の時には何とかの罪で罰金七円、二十一の時には罰金十円をくらった。
 それで何となく大阪に住みにくく、丹造は東京へ走った。職を求めて東京市中を三日さまよう内に、僅かな所持金もなくなり、本郷台町のとある薄汚いしもたやの軒に、神道研究の看板が掛っているのを見て、神道研究とはどういうものかわからなかったが、兎も角も転がり込んだ時は、書生にしてくれと、頼む泣声も出なかったほど、あわれに飢え疲れていた。
 広島なまりに大阪弁のまじった言葉つきをわらわれながら、そこで三月、やがて自由党の壮士の群れに投じて、川上音次郎、伊藤痴遊等の演説行に加わり、各地を遍歴した……と、こう言うと、体裁は良いが、本当は巡業の人足に雇われたのであって、うだつの上がる見込みは諦めた方が早かったから、半年ばかり巡業についてまわったあげく、到頭飛び出して大阪へ舞い戻った。
 断り無しに持って来た荷物を売りはらった金で、人力車を一台い、長袖の法被はっぴ長股引ながももひき、黒い饅頭笠まんじゅうがさといういでたちで、南地溝の側の俥夫しゃふの溜り場へのこのこ現われると、そこは朦朧俥夫もうろうしゃふの巣で、たちまち丹造の眼はひかり、彼等の気風に染まるのに何の造作も要らなかった。
 田舎出の客を見ると、五銭で大阪名所を案内してやる……と、寄って行く。そして、市中をガラガラ引き廻しながら、あやしげな名所案内の説明をやり、宿屋へ送りこむと、名所の説明代は一ヵ所五銭だ、六十ヵ所説明してやったから三円くれと、凄むのである。折柄、悪いところへ巡査ガチャガチャが通り掛っても、丹造はひるまず折合ったところで、一円以下ではなかなかケリをつけなかった。当時、溝の側から貝塚まで乗せて三十六銭が相場で、九十銭くれれば高野山まで走る俥夫もざらにいた。
 しかし、間もなく朦朧俥夫の取締規則が出来て、溝の側の溜場にも※(二の字点、1-2-22)しばしばお手入れがあってみると、さすがに丹造も居たたまれず、暫らくまごまごした末、大阪日報のお抱え俥夫となった。殊勝な顔で玄関にうずくまり、言葉つきもにわかに改まって丁寧だったが、それが存外似合った。
 一年ばかり、そこの記者衆を乗せて、出先と社の玄関を往復している間に、彼等の内幕やコツをすっかり覚えこんでしまったある雨の日、急に丹造の野心はもくもくと動きだして、よし、おれも一番記者になって……と、雨に敲かれた眼にきっと光を見せたが、しかし、お抱え俥夫から一足飛びに記者になろうというのは、町医者づきの俥夫が医者になろうというのと同然、とてものことに見込みはなかったから、いっそのこと、自身新聞社を経営してやろうと、丹造は本気で思い、この想いを毎日ガラガラ走らせていた。
 横堀筋違すじかい橋ほとりの餅屋の二階を月三円で借り、そこを発行所として船場せんば新聞というあやしい新聞をだしたのは、それから一年後のことであった。俥夫三年の間にちびちび溜めて来たというものの、もとより小資本で、発行部数も僅か三百、初号から三号までは、無料で配り、四号目には、もう印刷屋への払いが出来なかった。のみならず、いかに門前の俥夫だったとはいえ、殆んど無学文盲の丹造の独力では、記事の体裁も成りがたくて、広告もとれず、たちまち経営難に陥った。そこを助けたのが、丹造今日の大を成すに与って力のあった古座谷こざたに某である。古座谷はかつて最高学府に学び、上海シャンハイにも遊び、筆硯ひっけんを以って生活をしたこともある人物で、当時は土佐堀の某所でささやかな印刷業を営んでいた……。
 まず無難な書き方だ。あとでどう辛辣しんらつに変ろうとも、また、そうでなくては「あばく」ことにもならないわけだが、ここらあたりまでは、お前も辛抱できるだろう。もっとも、二つの罰金刑を素っ破抜かれた点は、いくらか痛かろうが……。
 嘘も無さそうだ。いや、一個所だけある。古座谷某が最高学府に学んだ云々うんぬんはあれは真赤な嘘だ。最高学府なんぞ出たからとて、べつだん自慢にも、世渡りのたしにも、……ことに今になっては……ならぬ故、どうでもよいことだが、しかし、まあ誤謬ごびゅうだけは正して置こう。実は、おれは中等学校へは二三年通ったことはあるが、それ以上の学問は、少なくとも学校と名のつくところでは、やらなかった。当のおれが言うのだから、間違いはなかるまい。
 いや、そんなことは、どうでもよい。それよりも、「丹造今日の大を成すに与って……」云々と、ちゃんとおれの力を認めている点、これが問題だ。いま引いた文章にも書いてある通り、おれとお前の関係はこの船場新聞にはじまって以後いわば蔭になり日向ひなたになり、おれはお前を助けて来たのだ。早い話が、この時もしおれが居なければ、あの新聞は四号でつぶれていたところだ。当時お前も、
「――古座谷さん、この恩は一生忘れませんぞ」
 と、呶鳴どなるように言っていたくらい、随分尽してやったものだ。印刷は無論ただ同然で引き受けてやったし、記事もおれが昔取った杵柄きねづかで書いてやった。なお「蘆のめばえ咲分娘」と題して、船場娘の美人投票を募集するなど、変なことを考えついたのも、おれだった。これは随分当って、新聞は飛ぶように売れ、有料広告主もだんだん増えた。
 もっとも、こう言ったからとて、べつだん恩に着せようというのではない。それに、もともとこの船場新聞ではお前もたいして得るところはなかった。それのみか、某事件の摘発、攻撃の筆がたたって、新聞条令違反となり、発売禁止はもとより、百円の罰金をくらった。続いて、某銀行内部の中傷記事が原因して罰金三十円、この後もそんなことが屡※(二の字点、1-2-22)あって、結局お前は元も子もなくしてしまい無論廃刊した。
 お前は随分苦り切って、そんな羽目になった原因のおれの記事をぶつぶつ恨みおかしいくらいだったから、思わずにやにやしていると、お前は、
「あんたという人は、えげつない人ですなあ」
 と、呆れていた。
「――まあ、そう言うな。潰してしまっても、もともとたいした新聞じゃなかったんだから……」
 と、笑っていると、お前は暫らくおれの顔を見つめていたが、何思ったか、いきなり、
「――冗談言うと、なぐりますぞ」
 と、言って出て行き、それきりおれのところへ顔出しもしなかったが、それから大分経って、損害賠償だといって、五十円請求して来た。
 その手紙を見るなり、おれは、こともあろうに損害賠償とはなんだ、折角これまで尽して来てやったのに……と、直ぐ呶鳴り込んでやろうと思ったが、莫迦莫迦ばかばかしいから、よした。実際、腹が立つというより、おかしかったのだ。五十円とはどこから割り出した勘定だろうと一寸考えて、なるほど、罰金の額から、印刷費の残りを引いたのが五十円だなとわかると、おれは正直な話、噴きだしたくらいだ。阿呆らしくて、怒りも出来なかったのだ。それに、おれの方にも、案外呶鳴り込みに行けない弱味があった。と、いうのは外でもない。何も廃刊させようと思って、あんな危い記事を書いたわけではないが、しかし、ひそかにお前の失脚をねがう気持がなかったとは、言えなかったからだ。だから、廃刊になってみるとざまあ見ろと、おれは些か良い気持だったのだ。
 何故、そんな気持を抱いたのか。今だからこそ白状するが、原因はお千鶴だ。と、こう言えば、お前はびっくりするだろうが、当時おれもまだ三十七歳、若かった、惚れていたのだ。
 ところが、この博労ばくろう町の金米糖こんぺいとう屋の娘は余程馬鹿な娘で、相手もあろうにお前のものになってしまった。それもたで食う虫が好いて、ひょんなまちがいからお前に惚れたとか言うのなら、まだしも、れいの美人投票で、あんたを一等にしてやるからというお前の甘言に、うかうか乗ってしまったのだ……と、判った時は、おれは随分口惜しかった。情けなかった。
 あとからは知らず、最初お千鶴はお前になんか一寸も惚れていなかったのだ。その証拠に……と言うのは、ひどく理詰めな言い方だが、お千鶴はおれに惚れていたのだ。いや、少なくとも、おれはそううぬぼれていた。その眼付きが証拠だと信じていた。もっともお千鶴は美人は美人にしろ、一等には少し無理かと思えるほどの眇眼すがめで、本当はおれの思いちがいだったかも知れないが、とにかくお前よりはおれの方が好かれていたことだけは、たしかだ。
 それを、お前に、いやな言い方をすると、横取りされてしまったのだ。それもほかの理由でならともかく、おれが、大阪弁で言うと、「阿呆あほの細工に」考えだした美人投票が餌になったのだから、いってみれば、おれは呆れ果てたお人善し、上海まで行き、支那人仲間にもいくらか顔を知られたというおれが、せっせっと金米糖の包紙を廉い単価で印刷してやっていたことなぞ、自分でも忘れてしまいたいくらい、情けなく恥かしかった。
 普通なら、嫉妬の余り、お前の顔を見るのもいやだと、それきり手を切ってしまうところを、そうしなかったのも、ひとつには、そんな気持を見すかされるのを怖れたからなのだ。いや、見すかされる云々は第二段、そんな大人気ない自分自身を恥じたからなのだ。
 けれど、さすがにおれは、おれのおかげで……と言っても、そんなに言い過ぎではあるまい――お千鶴をわがものにして、船場新聞の社長で収まり込んでいるお前を見ると、こいつ、良い気になりやがって、いっぺん失脚させてやったら、どんな顔をするだろうか、とひそかに思わぬこともなかったのだ……。
 どうだ? 驚いたか。恐れ入ったか。お人善しだとお前が思っていたおれのはらの中は、こんな風だったのだ。それを、損害賠償の請求とは、相手を知らぬ可愛いい振舞いを、お前もしたものじゃないか。普通、恩を知っている者なら、そんな五十円の賠償金なぞ請求できぬところを、そうしたのは、余程おれを甘く見たのだろうが、そうはおれは甘く出来ていなかった。いや、ただ甘く見たのではあるまい。それがお前の流儀なのだ。ちょっと余人では真似の出来ない神経なのだ。図太いというのもちょっと違う。つまりは、一種気が小さい方かも知れない。ともかく、滑稽こっけいだった。勿論おれはそんな請求には応じなかった。黙って放って置くと、それきりお前はうんともすんとも言って来なかった。
 
      三

 船場新聞を廃刊してしまうと、お前はすっかり文無しで、たちまち暮しに困った。どうするかと見ていると、お千鶴は家で手内職、お前はもと通り俥をひいて出て、まるで新派劇の舞台が廻ったみたいだった。
 当時、安堂寺橋に巡航船の乗場があり、日本橋まで乗せて二銭五厘で客を呼んでいたが、お前はその乗場に頑張って、巡航船へ乗る客を、俥の方へ横取りしようと、金切声で呶鳴っていた。巡航船に赤い旗がついているのを見て、お前も薄汚れた俥にそれと似た旗をつけて、景気をつけたものの、客は正直で、同じ二銭五厘で乗る分にはと、やはり速い巡航船の方をえらんだ……とわかった途端に、お前は流しの方へ逆戻った。が、何分取締りがきびしくて、朦朧もうろうも許されず、浮かぬ顔をして、一里八銭見当の俥を走らせていたらしかったが、さすがにいつまでもそんなことをしている気のなかった証拠には、……ここらあたり、「真相をあばく」も存外誤植がすくない故、手間をはぶいて、そのまま借用させてもらうと、――

 ある日、玉造で拾った客を寺町の無量寺まで送って行くと、門の入口に二列に人が並んでいた。ひょいと中を覗くと、それが本堂まで続いていたので、何と派手な葬式だが、いったいどこの何家の葬式かと、訊いてみると、
「――阿呆らしい。葬式とちがいまっせ。今日はあんた、きゅうの日だんがな」
 と、わらわれた。が、丹造は苦笑もせず、そして、だんだん訊くと、の日が灸の日で、この日は無量寺の紋日だっせ、なんし、ここの灸と来たら……途端に想いだしたのは、当時丹造が住んでいた高津四番丁の飴屋あめやの路地のはいり口に、ひっそりひとり二階借りしていたおかね婆さんのことだ。
 名前はおかねだが、彼女はおから以外の食物を買うて帰ったためしがないというくらい、貧乏していた。界隈の娘に安い月謝で三味線を教えてくらしていたがきこえて来るのは、年中、「高い山から谷底見れば」ばかり、つまりは、弟子が永続きしないのだった。それというのも、新しい弟子が来ると、誰彼の見境いもなしに灸をすえてやろうと、執拗しつこく持ちかけるからで、病気ならともかく、若い娘の身で、むやみに灸の跡をつけられてはたまったものではないと、たいていの娘は「高い山から」をすまさぬうちに、逃げてしまうのだった。おかね婆さんは昔灸婆をしていたこともあり、弟子を掴まえてそんな風に執拗く灸をすすめるのも、月謝のほかに十銭、二十銭余分の金を灸代として取りたい胸算用だから……と、専らの評判をいつか丹造もきき知っていたのである。
 その日、路地へ帰ると、丹造は早速おかね婆さんを掴まえて、
「――実はおまはんを見込んで、頼みがある」
 金儲かねもうけだときかされると、途端におかね婆さんは歯ぐきを出して、にこにこし、つまりは何の造作もなく説き伏せられてしまった。
 だが、さて、どんな風に実行に移したものかという段になると、丹造にはからきし智慧もなく、あくまで相棒が要った。いいかえれば、再び古座谷某の智慧が必要だった……。
 あきれた。いや、正直なところ、以前のことなぞ忘れた顔で、よくもぬけぬけおれのところへやって来られたものだと、さすがのおれもあきれた。が、それよりも、
「――ひとつ社会奉仕をしてみようと思うんですよ」
 と、いけ酒蛙酒蛙しゃあしゃあと言ったのには、一層あきれてしまった。
 何が社会奉仕なもんか。いってみれば、施灸せきゅう巡業で一儲けしようというだけの話じゃないか。一里八銭の俥よりも、三里の灸銭の方がぼろい……と言えば、済むところを、社会奉仕とは、どこを押せば、そんな音が出るのだと、おれはおかしかったが、そういうおれもおれで、話をきくなり、
「――よし、来た」
 と、ひどく弾んで、承諾してしまったのだから、世話はない。
 普通なら、横面のひとつも撲りつけてから、
「――お前のような奴の片棒をかつぐのは、もう御免だよ」
 と、断るところだ。それを、そんな風にあっさり引き受けてしまったのは、欲から出たことだ……と、思われたくない。事実またそんな気はなかった。
 いかにおれの精神が腐っていたからといって、まさか恋敵のお前を利用して、金銭欲を満足させようなどとは、思いも寄らぬ、実はそれと反対、恋敵のお前に儲けさせてやりたい気持だった。この気持はそのまま、お千鶴に貧乏の苦労をさせたくないという、われながらいじらしい気持と通ずる。と、こう言い切ってしまうと、簡単でわかりやすく、殊勝でもあり、大向うの受けは良いのだが無論それもある。が、それだけでは、新派めいて、気が引ける。ありていに言うと、ひとつにはおれの弥次馬根性がそうさせたのだ。施灸の巡業ときいて、
「――面白い」
 と思ったのだ。巡業そのものに、そして、そんなことを思いつくお前という人間に、興味を感じたのだ。お前のような人間に……つまりは、腐れ縁といった方が早い。
「社会奉仕」というからには、あくまで善は急ぐべしと、早速おかね婆さんを連れて、三人で南河内かわち狭山さやまへ出掛けた。
 寺院に掛け合って、断られたので、商人宿の一番広い部屋を二つ借り受け、ふすまを外して、ぶっ通しの広間をつくり、それを会場にした。それから、「仁寄せ」に掛った。
「仁寄せ」などと言えば、香具師やしめくが、やはりここはあくまでこの言葉でなくてはならぬ。それほど、なにからなにまで香具師の流儀だったのだ。
 だいいち、服装からして違う。随分凝ったもんだ。一行三人いずれも白い帷子かたびらを着て、おまけに背中には「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」の七字を躍らすなど、われながらあやしい装立ちだった。が、それで気がさすどころか、存外糞度胸ができてしまって、まるで村芝居にでも出るようなはしゃぎ方だった。
 お前もおれも何思ったか無精髭ぶしょうひげり、いつもより短く綺麗きれいに散髪していた。お前の顔も散髪すると存外見られると思ったのは、実にこの時だ。
 おれは変にうれしくなってしまい、「日本一の霊灸れいきゅう! 人ダスケ! どんな病気もなおして見せる。▽▽旅館へ来タレ」とチラシの字にも力がこもった。チラシが出来上がると、お前はそれを持ってまわり、村のあちこちに貼りつけた。そして散髪屋、雑貨屋、銭湯、居酒屋など人の集まるところの家族には、あらかじめ無料ですえてやり、仁の集まるのを待ち構えた。
 もし、はやらなければ、宿賃の払いも心細い……と、口には出さなかったが、ぎろりとした眼を見張ってから一刻、ひょいと会場の窓から村道の方を覗くと、三々伍々ぞろぞろ歩いて来る連中の姿が眼にはいり、あ、宣伝が利いたらしいとむしろ狼狽ろうばいした。
「――婆さん頼んだぜ」
 と、すぐさまおれは「受付」の机のうしろに坐り、そして、来た順に並ばせていちいち住所、氏名、年齢、病名をきいて帖面へ控えた。一見どうでもよいことのようだったが、これが妙に曰くありげで、なかなか莫迦ばかに出来ぬ思いつきだった。
 お前はおかね婆さんの助手で、もぐさをひねったり、線香に火をつけて婆さんに渡したり、時々、
「――はいッ!」
 と、おかしげな気合を掛けたり、しまいには数珠じゅずを揉んで、
「――南無妙法蓮華経!」
 と、唱えて見たり、必要以上にきりきり舞いをしていたが、ふと見ると、お前は鉢巻をしていた。おれはぷっと噴きだし、折角こっちが勿体ぶっているのに、鉢巻とはあんまり軽々し過ぎる、だいいち帷子との釣合いがとれないではないかと、これはすぐやめさせた。
 面白いほどはやり、婆さんははばかりに立つ暇もないとこぼしたので、儲けの分を増してやることにして埋め合せをつけるなど、気をつかいながら、狭山で四日過し、
「――こんな眼のまわる仕事は、年寄りには無茶や。わてはやっぱし大阪で三味線ひいている方がよろしいおますわ」
 と言う婆さんを拝み倒して、村から村へ巡業を続け、やがて紀州の湯崎温泉へ行った。
 温泉場のことゆえ病人も多く、はやりそうな気配が見えたので、一回二十銭の料金を三十銭に値上げしたが、それでも結構患者が集まった。
「――どうです? 古座谷さん、この繁昌はやりようは、実際わしの思いつきには……」
 さすがに驚きはしたが、しかし、何といっても、繁昌った原因は、おれの宣伝のやり方が堂に入っていたからだ。
 いかにおれが宣伝の才にめぐまれていたかは、いずれ後ほど詳しく述べる故、ここでは簡単に止めて置くが、たとえば湯崎へ来た最初の日集まった患者のなかで口の軽そうな、話好きそうな婆さんを見ると、
「――この灸は天下一の名灸ではあるが、真実効をあらわそうと思えば、たった一つ守って貰わねばならぬことがある。いや、いや、こういったからって、何もむつかしいことじゃない。灸をすえて三十分後にすぐ温泉に浸り、そして十三時間湯殿から一歩も出ず、灸の穴へひっきりなしに湯気をあてて置けば良いのだ。これをむつかしい言葉で言うと温泉灸療法という……。いや、言葉はどうでもよい。わかったね。十三時間温泉にいるんですよ」
 温灸という言葉ならあるが、温泉灸療法とは変な言葉だと、われながら噴きだしたくなるのをこらえこらえ、おごそかに言い渡したものだ。
 病人というものはいったいに正直なものだが、おまけに年寄りで、広告にひきつけられて灸をしに来るというからには、まかりまちがっても、おれの言葉をあやしむことはあるまい。いそいそとして、長風呂にはいり、退屈まぎれに、湯殿へやって来る浴客を掴まえては、世間話、その話の序でには、どこそこでよく効く灸をやっている、日蓮宗の施灸奉仕で、ありがたいことだ、げんにわたしもいま先……と、灸の話が出ることは必定……と、可哀想に長風呂でのぼせてしまう迷惑も考えずに、おれも随分罪な宣伝をやったものだが、これがまた莫迦に当ったのだ。
 前後一週間のうちにいくら儲けたか、いま記憶はないが、大阪に残して来たお千鶴のもとへ、お前がひそかに為替をくんで送金してやったことだけは、さすがのこいつもお千鶴のことは気になると見える、存外殊勝なもんだと、その時感心しただけに、今もおぼえている。もっとも、その金は「売上げ」(とお前は言っていた、つまり収入だ)のなかから、内緒でくすねていたものらしいと、あとでわかった時は、興冷めしたが……。
 とにかく、儲かった。お前は有頂天になり、
「もうおかね婆さんさえしっかり掴まえて置けば一財産出来ますぞ」
 と、変に凄んだ声でおれに言い言いし、働きすぎて腰が抜けそうにだるいと言う婆さんの足腰を湯殿の中で揉んでやったり、晩食には酒の一本も振舞ってやったりして鄭重ていちょうに扱っていたが、湯崎へ来てから丁度五日目、
「――ほんまに腰が抜けてしもた」
 と、婆さんは寝ついてしまった。
 あわてて按摩あんまを雇ったり、見よう見真似の灸をすえてやったりしたが、追っ付かず、「どんな病気もなおして見せる」という看板の手前、恥かしい想いをしながらこっそり医者をよんで診せると、
「――こりゃ、神経痛ですよ。まあ、ゆっくり温泉に浸って、養生しなさい。温泉灸療法でもやることですな」
 と、知っていたのか、簡単に皮肉られて、うろたえ、まる三日間二人掛りで看病してやったが、実は到頭中風になってしまっていた婆さんの腰が、立ち直りそうにもなかった。
「――これももと言うたら、あんたらがわてをこき使うたためや」
 と、おかね婆さんは大分怪しくなって来た口調でぼそぼそぼやくし、宿や医者への支払いは嵩む一方だし、それに、婆さんに寝込まれているのは「医者の不養生」以上に世間にも恰好がわるい話だと、おれは随分くさってしまったが、お前ときてはおれ以上、
「――もう、こうなっては、宿の客ひきをするか、どろんをきめるか、どちらかですな」
 と、何ともいいようのない顔で苦り切っていた。
 宿の客ひきもどろんも、どちらもいずれ劣らずお前らしくて似合っていると、おれはおかしかったが、しかし、まさか婆さんの中風がなおるまで客ひきをするほど殊勝なお前でもあるまいと、ひそかに考えていたところ、案の定、ある日、
「――うさばらしに田辺で遊んで来ますよ」
 と、そわそわ出掛けて行ったきり、宿へ戻って来なかった。
 蒸気船の汽笛の音をきいた途端に、逐電しやがったとわかり、薄情にもほどがあると、すぐあとを追うて、たたきのめしてくれようと、一旦は起ち上がったが、まさか婆さんを置き去りにするわけにもいかず、折柄、
「――古座谷はん、済まへんけど、ししさしたっとくなはれんか」
 と、情けない声をだした婆さんの方にかまけて、思い止まり、背中にまわっていつもお前がしてやっていたように、存外思い腋の下を抱え起し、尿をとってやった。ごつごつした身体だった。
 それから、四五日も看病してやったろうか、いよいよ宿や医者への支払いにさし迫られたので、たまりかねて婆さんを背負って、綱不知つなしらずから田辺へわたり、そこから船で大阪へ舞い戻るまで、随分おれは情けない目を見た。みなお前のせいだ。
 
       四

 高津の裏長屋の二階へ帰って四日目におかね婆さんは、息をひきとった。
 身寄りの者もないらしく、また、むかしの旦那だと名乗って出る物好きもなく葬儀万端、二三の三味線の弟子と長屋の人たちの手を借りて、おれがしてやった。長屋の住人の筈のお前は、その時既にどこやら姿をくらましていた。
 ひとにきけば、湯崎より逃げかえった翌日、お千鶴と一緒に、夜逃げしてしまったということだった。ここらあたりから急に悪趣味になって来た「真相をあばく」の時代がかった文章を借りていうと、

 ――さて、お千鶴を道連れに夜逃げをきめこんだ丹造は、流れ流れて故国の月をあとに見ながら、朝鮮の釜山に着いた。
 馴れぬ風土の寒風はひとしおさすらいの身に沁み渡り、うたた脾肉ひにくたんに耐えないのであったが、これも身から出たさびと思えば、落魄らくはくの身の誰を怨まん者もなく、南京虫なんきんむししらみに悩まされ、濁酒と唐辛子をめずりながら、温突おんどるから温突へと放浪した。
 しかし、空拳と無芸では更に成すべき術もなく、寒山日暮れてなお遠く、徒らに五里霧中に迷い尽した挙句、実姉が大邱に在るを倖い、これを訪ね身の振り方を相談した途端に、姉の亭主に、三百円の無心をされた。姉夫婦も貧乏のどん底だった。
「百円はおろか五円の金もおまへんわ」
 と、わざと大阪弁をつかって、ありていに断ると、姉の亭主は、
「――そうか、そりゃ、残念だ。ここに百円あれば、ぼろい話があるんだが……」
 と、いかにもがっかりした顔だった。釣られて、
「――では、何かうまい話でも……?」
 と、きくと、実は砂金の鉱区が売物に出ているという。銀主を見つけて、採取するのもよし、転売しても十倍の値にはなるとの話に、丹造の眼はみるみる光り泪一つこぼさず、三味線の心得あるを倖い、お千鶴をしかるべきところへ働きに出した。そして砂金の鉱区を買ったが……。

 写していて、よくもまあ、お前という人間のいやらしさにうってつけの文章だと、あきれるくらいだが、さて、そうやって砂金の鉱区を買ったものの、ここでも未だ運は向かなかったらしい。
 お前が大阪から姿を消してしまってから二年ばかり経ったある日、御霊みたま神社の前を歩いていると、薄汚い男がチラシをくれようとした。
 どうせ文楽の広告ビラだろうくらいに思い、懐手ふところでを出すのも面倒くさく、そのまま行き過ぎようとして、ひょいと顔を見ると、平べったい貧相な輪郭へもって来て、頬骨だけがいやに高く張り、ぎょろぎょろ目玉をひからせているところはざらに見受けられる顔ではない――すぐお前だとわかった。倭小な体躯たいくを心もち猫背にかがめているのも、二年前と変らぬお前の癖だった。
「こいつ奴!」
 と、思わず出掛った言葉に代る「よう!」という声をいっしょにあわててチラシをうけとったが、それは見ずに、
「どうしてたんだい? 妙なところで会うね」
 チラシ撒きなんぞに落ちぶれてしまったかと、匂わせながら言うと、案外恥じた容子も見せずに、酒蛙酒蛙しゃあしゃあと、
「――いや、どうもすっかり御無沙汰しまして……。いつぞやは、飛んだ御迷惑を……」
 と、それで、湯崎の一件を済して置いて、言葉を続け、
「――実は、あれから、朝鮮へ行って、砂金に手を出したりしましたんですが、一杯くわされましてな、到頭食いつめて、またこちらへ舞い戻って来ました」
「――そりゃ大変だったね」
 と鷹揚おうように湯崎でのことは忘れたような顔をして、
「それで、なにはどうしてるんだね? 今でもやっぱし……」
 お前と一緒にいるのかと、わざとぼんやりきくと、お前は直ぐお千鶴のことだと察し、
「ああ、――あいつですか。朝鮮に残して来ました。これをしてますよ」
 三味線をもつ真似をしてみせ、けろりとしていた。
「――なるほどね」
 と、おれも平気な顔をしていた筈だが、果してどうか。実は内心うなっていたのだ。が、いつまでもお千鶴のことを立ち話にきくのも変だと、すぐ話をかえて、
「――ところで、お前の方は、いまどうしているんだい?」
 と、きくと、
「――薬屋をしているんです」
「――へえ?」
 驚いた顔へぐっと寄って来て、
「――それもあんた、自家製の特効薬でしてね。わたしが調整してるんですよ」
「――そいつア、また。……ものによっては、一服寄進にあずかってもよいが、いったい何に効くんだい?」
「――肺病です。……あきれたでしょうがな」
「――あきれた」
 かつて灸婆をつかって病人相手の商売に味をしめた経験から、割り出してのことだろうと、思わず微笑させられたが、同時にあきれもした。
 むかし道修町の薬問屋に奉公していたことがあるというし、また、調合の方は朝鮮の姉が肺をわずらって最寄りの医者に書いてもらっていた処方箋しょほうせんを、そっくりそのまま真似てつくったときくからは、一応うなずけもしたが、それにしてもそれだけの見聞でひとかどの薬剤師になりすまし、いきなり薬屋開業とは、さすがにお前だと、暫らく感嘆していた。
 それと、もうひとつあきれたのは、お前の何ともいえぬ薄汚い恰好、そして自身でその薬の広告チラシを配っていることだった。が、この事情は「真相をあばく」に詳しい。

 ――朝鮮を食い詰めて、お千鶴を花街に残したまま、再び大阪へ舞い戻って来た丹造は、妙なヒントから、肺病自家薬の製造発売を思い立ち、どう工面して持って来たのか、なけなしの金をはたいて、河原町に九尺二間の小さな店を借り入れ、朝鮮の医者が書いた処方箋をたよりに、あかだらけの手で、そら豆のような莫迦に大きな、不恰好ぶかっこうな丸薬をみだした。
 そして、肺病とはこんな大きな玉を頬ばらねばならぬものかと、患者が迷惑するだろうなどとは考えず、如何にすればこれが売れるだろうかと、ただもうそればかり頭をひねった。薬の原価代を払ったあと、殆んど無一文の状態で、今日つくった丸薬を今日売らねば、食うに困るというありさまだった。
 新聞広告代など財布を叩き破っても出るわけはなく、看板をあげるにもチラシを印刷するにもまったく金の出どころはない。万策つきて考え出したのが手刷りだ。
 辛うじて木版と半紙を算段して、五十枚か百枚ずつ竹の皮でこすっては、チラシを手刷りした。が、人夫を雇う金もない。已むなく自ら出向いて、御霊神社あたりの繁華な場所に立って一枚一枚通行人に配った。そして、いちはやくせ戻り、店に坐って、客の来るのを待ち受けるのだった。しかし、たいして繁昌はやりもしなかった……。

 繁昌らぬのも道理だ。家伝薬だというわけではなし、名前が通っているというわけでもなし、正直なところ効くか効かぬかわからぬような素人手製の丸薬を、裏長屋同然の場所で売っていて誰が買いに来るものか。
 無論、お前もそのことは百も承知してか、ともかく宣伝が第一だと、嘘八百の文句を並べたチラシを配るなど、まあ勢一杯に努めていたというわけだが、そのチラシ自体がわるかった。
 おれもお前に貰って、見たが、版がわるい上に、紙も子供の手習いにも使えぬ粗末なもので、むろん黒の一色刷り、浪花節なにわぶしの寄席の広告ひろめでも、もう少し気の利いたのを使うと思われるような代物だった。余程熱心に読まねば判読しがたい、という点も勘定に入れて、全くのところ、まるで薬の信用をみずから落しているのも同然だった。
 おまけに、丸薬をしかるべく包装するわけでもなく、夜店で売る「一つまけとけ」の飴玉みたいに、白い菓子袋に入れて、……それでは売れぬのも無理はなかった。
 そんな情けない状態ゆえ、その時お前がおれに出会ったのは、いわば地獄に仏全くお前にとっては、運の神だといってもよいくらいだった。
 知っての通り、まずおれはお手のものの活版で、二色刷りの凝ったチラシをつくってやった。次に包装だ。箱など当時としては随分思いきったハイカラな意匠で体裁だけでいえば、どこの薬にもひけをとらぬ斬新なものだった。なお、大阪市内だけだが、新聞に三行広告も出してやった。
 無論、全部おれが身銭を切ってしてやったことで、なるほどあとでの返しはそれ相当に受け取りはしたが、当時はなにもそれを当てにしていたわけではない。簡単にいえば親切ずく、――あとで儲けを山分けなどというけちな根性からではさらになかった。
 何ごとも算盤そろばんずくめのお前には、そんなおれの親切が腑に落ちかねて、済みません、済みません、一生恩に着ますなんて、泪をこぼさんばかりにしながらも、内心は、こいつどこまで親切な奴だろうと、いくらか呆れていたろう。いや、それに違いあるまい。全くの話、おれ自身にしても、なぜそんなに親切にしてやったのか、はっきりとは判らなかったくらいだ。
 朝鮮の花街に残して来たというお千鶴のことをきけば、どうにも不憫ふびんで、ここでお前に一儲けさせてやれば、お前もお千鶴を迎えに行くだろう――という気持は無論あった。が、何度も言うようだが、それだけの気持からではない。俗にれこむというあの気持だった。いや、そういえば、たしかにお前にはひとに惚れこませるだけのものはあった。少なくとも、おれのような人間に……。
 例えば、お抱え車夫からいきなり新聞を経営するなど、既にただの人間ではない――と思っていたところ、果して施灸せきゅう巡業を思いついたり、どこかへ姿をくらましてしまったと思っていると、いつの間にか、九尺二間の店ながら、製薬の本舗に収まっている。ちょっと、普通の人間に出来る芸当ではないと、その図々しいといおうか。たくましいといおうか、人並みはずれた実行力におれは惚れこんだのだ。
 それに、貧相な面ながら、けいけいたる光を放っているあの眼、ただ世渡りをする男ではないと、おれには興味ふかい眼付きだった。むざむざ見捨てるには惜しい男だと、見込んだのだ。ちっぽけな怒りはすべて忘れて……。
 昔、政党がさかんだった頃、自身は閣僚になる意志はてんで無く、ただ、誰かこいつと見込んだ男を大臣にするために、しきりに権謀術策をもちい、暗中飛躍をした男がいたが、良い例ではないけれども、まず、おれの気持もそんなとこだったろうか。
 もっとも、チラシや包装がそれだとは言わぬ。敢えてその権謀術策を挙げよというなら、間もなくおれが智慧をしぼって考えだした支店長募集など、そのひとつだろう。例によって「真相をあばく」を引用しよう。
 
      五

 ――馴れぬ手つきで揉みだした手製の丸薬ではあったが、まさか歯磨粉を胃腸薬に化けさせたほどのイカサマ薬でもなく、ちゃんと処方箋を参考にして作ったもの故、どうかすると、効目があったという者も出て来た。市内新聞の隅っこに三行広告も見うけられ、だんだんに売れだした。売れてみると、薬九層倍以上だ。
 たちまち丹造の欲がふくれて、肺病特効薬のほか胃散、痔の薬、脚気かっけ良薬、花柳病かりゅうびょう特効薬、目薬など、あらゆる種類の薬の製造を思い立った。いわば、あれでいけなければこれで来いと、あやしげな処方箋をたよりに、日本中の病人ひとり余さず客にして見せる覚悟をころころと調合したのである。
 間もなく河原町の裏長屋同然の店をひき払って、霞町附近に「川那子メジシン全国総発売元」の看板を掛けた。同じヤマコを張るなら、高目に張る方がよいと、つい鼻の先の通天閣を横目に仰いで、二階建ての屋根の上にばかに大きく高く揚げたのだ。
 そのように体裁だけはどうにか整ったが、しかし、道修町の薬種問屋には大分借りが出来、いや、その看板の代金にしたところで……。そんな状態ではいくら総発売元と大きく出しても、何程の薬をこしらえてみても、……しかも、その薬にしたところで、そろそろ警戒しだした問屋からは原料がはいらず、「全国」どころか、店での小売りにも間に合いかねた。
 そこで、考えた丹造は資金調達の手段として、支店長募集の広告を全国の新聞に出した。
「妻子養うに十分の収益あり」という甘い文句の見出しで、店舗の家賃、電灯・水道代は本舗より支弁し、薬は委託でいくらでも送る。しかも、すべて卓効疑いのない請合薬で、卸値は四掛けゆえ十円売って六円の儲けがある。なお、売れても売れなくても、必ず四十円の固定給は支給する云々うんぬんの条件に、申し分がなく、郵便屋がこぼすくらい照会の封書や葉書が来た。
 早速丹造は返事を出して曰く、――御申込みにより、貴殿を川那子商会支店長に任命する。ついては身元保証金として、金六百円を納められたい。――活版刷りの美麗な辞令だった。
 そして、待機していると、世間は広いものだ。一生妻子を養うことが出来れば、六百円の保証金も安いものだと胸算用してか、大阪、京都、神戸をはじめ、東は水戸から西は鹿児島まで、ざっと三十人ばかりの申し込みがあった。なけなしの金をはたいたのか、無理算段したのかいずれにしてもあまり余った金ではない証拠に、為替に添えた手紙には、いずれも血の出るような金を手ばなす時の表情がありありと見え、どうぞよろしくと、簡単な文句にも十二分の想いがこもっていた。やっと五百円だけ工面しました。残金百円はあと十日以内に何とかして送金します故、何とぞ支店長に任命のほどを……と、あわれなまでにあわてて送金して来た向きもあった。
 そうして集まった金が一万八千円ばかり、これで資金も十分出来たと、丹造は思わずにやりとしたが、すぐ渋い顔になると、
「――まだちょっと足りぬ」
 気味のわるい声で呟いた。
「……いっそのこと、保証金を八百円にすればよかった」
 と、丹造は頭をひねった。間もなく、彼は三十軒の支店長へ手紙をだして曰く、――支店の成績をあげるためには、それ相当に店舗を飾る必要がある。この意味に於いて、総発売元は各支店へ戸棚二個、けやき吊看板二枚、紙張横額二枚、金屏風きんびょうぶ半双を送付する。よって、その実費として、二百円送金すべし。その代り、百円分の薬を無代進呈する。
 ……いきなり二百円を請求された支店長たちは、まるで水を浴びた想いに青く濡れた。六百円の保証金をつくるのさえ、精一杯だったのだ。それを、この上どこを叩いて二百円の金を出せというのか。しかし、出さねば、折角の保証金がフイになるかも知れない――と、むろん、そうはっきりと凄文句でおどしつけたわけではなかったが、彼等はそんな心配をした。
 それに、考えてみれば、無理は無理でも、装飾品のほかに百円の薬がただで貰えるというのだ。けっして割のわるい話ではない――と、結局、彼等は乾いた雑巾ぞうきんを絞るようにして、二百円の金を工面せざるを得なかった。
 その結果集まった金が六千円、うち装飾品の実費一軒あたり七十円に無代進呈の薬の実費が十円すなわち三十軒分で二千四百円をひいたざっと四千円が、丹造の懐ろに流れ込んだ。さきの保証金とあわせて二万二千円、但し新聞広告代にざっと三千円掛り、差し引き一万九千円の金がはいったと、丹造は算盤をはじいた……。

 嘘みたいな上首尾だった。こうまで巧く成功するのは、お前……いや、このおれも予想しなかった。たいていのことに驚かぬおれだが、この時ばかりは、自分でも嫌気がさすくらいだった。
 無論、これはおれだけの気持、お前と来ては、一万九千円を抱いて、うろうろ狼狽するほどの喜び方だった。「渋い顔」なぞと書いているが、違う。あれは言葉のあやで、他の時は知らず、この時ばかりは、お前の渋い顔なぞいっぺんも見たことはない。
 序でに言って置くが、この「渋い顔」という言葉に限らず、少なくともこのあたり「真相をあばく」の筆者は重大な手落ちをやっている。この支店長募集をすべてお前の頭からひねり出したように書いているが、また、そうして置く方が、お前の真相をあばく効果を強めることにもなるわけだろうが、むろんここへはおれの名を書きそえるところだった。いや、もっと正確を期するなら、一切合財おれが下図を描いたものとすべきだった。
 そんな手落ちはあったが、その代り(といってはおかしいが)それに続く一節は、筆者の脚色力はさきの事実の見落しを補って余りあるほど逞しく、筆勢もにわかに鋭い。
 ――口に蜜ある者は腹に剣を蔵する。一人分八百円ずつ、取るものは取ったが、しかし、果して新聞の広告文通り約束を実行したかどうか。
 なるほど、最初の一月は一提の薬と、固定給四十円を交付したが、その後は口実を構えて補給薬も固定給も送らない。家賃、電灯代も忘れた顔をしていたのだ。
 そんな風に扱われては、支店長たちも自然自滅のほかはないと、切羽つまった抗議の手紙を殆んど連日書き送ったが、さらに効目はない。やっと返事が来たかと思うと、請求したくば、売り上げをもっと挙げてからにしろという文面だ。
 そして、いきなり店員を遣って、支店長の外出中を襲わしめ、大事の商売を留守にして、外出とは何ごとか。それで支店長の責任が果せると思うのか。そんなありさまだから、成績があがらぬのだと、不意に逆ねじをくわせる。なお、売上台帳を調べて、難癖をつけるのだ。
 例えば、背に腹はかえられず、困窮のあまり、つい台帳をごまかしたり、売上金を費消(――といっても、その中から固定給や家賃を無断借用しているだけのことだが、形式上は費消だ)しているのを発見すると、もうそれだけで、十分馘首かくしゅの口実にも保証金没収の理由にもなるのだった。
 こうして、追っ払われた支店長は二三に止まらず、しかも、悪辣あくらつなる丹造は、その跡釜へ新たに保証金を入れた応募者を据えるという巧妙な手段で、いよいよ私腹を肥やしたから、路頭に迷う支店長らの怨嗟えんさの声は、当然高まった。
 ある支店長のごときは、旅費をどう工面したのか、わざわざ静岡から出て来て、殆んど発狂同然の状態で霞町の総発売元へあばれ込み、丹造の顔を見た途端に、昂奮のあまり、鼻血を出して、
「川那子! この血をすすれ! この血を。おれの血の最後の一滴まで啜らせてやるぞ!」
 と、呶鳴った。
 もともと臆病な丹造は、支店長の顔を見るなりぶるぶるふるえていたが、鼻血を見るが早いか、あっと叫んで、小柄の一徳、相手の股をくぐるようにして、跣足はだしのまま逃げてしまい、二日居所をくらましていた……。

 ここに到って「真相をあばく」もいよいよそれらしくなって来たが、同時に嘘めいて見える。事実また嘘だった。ことに鼻血のくだりなど、さすがにお前の臆病な性質を見抜いているという取得があるにせよ、誰が読んでも嘘だとわかる。また、保証金没収の一件にしても、そうだ。
 一万九千円を握っただけで能事足れりとするような、けちな肚ならともかく、いくら何でも、そんな非合法な、かつ信用に関するような真似は、お前がやりたくても、おれがやらなかった。
 そんな悪辣な手段ばかりろうさなかった証拠には、第一期の(などといえば、語るに落ちるが)支店長で、後に川那子メジシンの首脳部に収まった連中が随分あった筈だ。もっとも、淘汰とうたした者も全然ないわけではなく、たとえば、売上げ金費消の歴然たる者は、罪状明白なりとして馘首、最初の契約どおり保証金は没収した。
 しかし、これとても全然はなからの計画ではなく、冷酷といってしまえばそれまでだが、敢えて「あばく」に足るほどのことでもなかった。同じ「あばく」なら、書き洩らしたところに、もっと効果的な材料があった筈だ。
 すなわち、成績のわるい支店の鼻の先に、何の前触れもなしに、いきなり総発売元の直営店を設置したのがそれだ。大阪でいうならば、難波の前に千日前、堂島の前に京町堀、天満の前に天神橋といったあんばいに、随所に直営店をつくり、子飼いの店員をその主任にした。
 支店と直営店とは、だいいち店の構えからして違って、直営店に客が集まるのは当然のこと、支店の自滅策としてこれ以上の効果的な方法はなかったと、いまもおれは己惚れている。しかしこれも弁解すれば、結果から見てのこと、何も計画的に支店をつぶす肚ではなかった。
 あって邪魔になるわけでもない支店をつぶすために、わざわざ直営店をつくるにも当らないとは、常識で判断してもわかることで、いうまでもなく直営店はより多く薬を売るための手段、いわば全くの営業政策にほかならなかったのだ。
 同時にまた、こうも言えるだろう。全国に多くの支店を擁しながら、なおかつ直営店の経営に乗り出すほど、事業は盛大になって来ていた――と。事実、支店の数も何もむやみにつぶしたわけでない証拠に、第一期の募集当時にくらべると、三倍にも増えていたのだ。無論、そのような盛大を来たすには、それ相当の歳月と、苦心がなければならぬ筈だった。効目ききめすぐれていたから、薬がよく売れた、――そんな莫迦ばかげたことは、お前も言うまい。
 
藍岩堂
作家:織田 作之助
勧善懲悪
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