一
ざまあ見ろ。
可哀相に到頭落ちぶれてしまったね。報いが来たんだよ。良い気味だ。
この寒空に縮の単衣をそれも念入りに二枚も着込んで、……二円貸してくれ。見れば、お前じゃないか。……声まで顫えて、なるほど一枚ではさぞ寒かろうと、おれも月並みに同情したが、しかし、同じ顫えるなら、単衣の二枚重ねなどという余り聴いたことのないおかしげな真似は、よしたらどうだ。……それに、二円貸せとは、あれは一体なんだ? 同じことなら、二千円貸せ……と、大きく出るんだね。だいいち、その方がお前らしいよ。
もともとヤマコで売っていたお前の、そんな惨めな姿を見ては、いかな此のおれだって、涙のひとつも……いや、出なんだ。出るもんか。……随分落ちぶれたもんですね、川那子さん、ざまあ見ろ。ああ、良い気味だ……と、嗤ってやった。驚きもしなんだ。なに、驚くもんか。判っていたんだ。こう成るとは、ちゃんと見通していたのだ。
良いか。言ってやるぞ。……お前から手を引いた時、おれは既にお前の「今日ある」を予想していたのだ。だからこそ、手を引いた。お前の方では、おれを追い出してやったと、思っているらしいが、違う。おれの方から見限ったのだ。……あいつはもう駄目だと、愛想を尽かしたのだ。いまに落ちぶれやがるだろうと胸をわくわくさせて、この見通しの当るのを、待っていたのだ。案の定当った。ざまあ見ろ。
ところで、いま、おれが使った此の「今日ある」という言葉を、お前は随分気に入って、全国支店長総会なんかで、やたらに振りまわしていたね。そんな時、お前は自分ひとりの力で、「今日ある」をもたらしたような口利いていたが、聴いていて、おれは心外……いや、おかしかった。なにが、お前ひとりの力で……。いまとなっては、いかな強情なお前も認めるだろうが、みなおれの力だった……。例えば、支店長募集のあの思いつきにしろ、新聞広告にしろ、たいていの智慧はみな此のおれの……。まあ、だんだんに、聴かせてやろう。
三
船場新聞を廃刊してしまうと、お前はすっかり文無しで、たちまち暮しに困った。どうするかと見ていると、お千鶴は家で手内職、お前はもと通り俥をひいて出て、まるで新派劇の舞台が廻ったみたいだった。
当時、安堂寺橋に巡航船の乗場があり、日本橋まで乗せて二銭五厘で客を呼んでいたが、お前はその乗場に頑張って、巡航船へ乗る客を、俥の方へ横取りしようと、金切声で呶鳴っていた。巡航船に赤い旗がついているのを見て、お前も薄汚れた俥にそれと似た旗をつけて、景気をつけたものの、客は正直で、同じ二銭五厘で乗る分にはと、やはり速い巡航船の方をえらんだ……とわかった途端に、お前は流しの方へ逆戻った。が、何分取締りがきびしくて、朦朧も許されず、浮かぬ顔をして、一里八銭見当の俥を走らせていたらしかったが、さすがにいつまでもそんなことをしている気のなかった証拠には、……ここらあたり、「真相をあばく」も存外誤植がすくない故、手間を略いて、そのまま借用させてもらうと、――
ある日、玉造で拾った客を寺町の無量寺まで送って行くと、門の入口に二列に人が並んでいた。ひょいと中を覗くと、それが本堂まで続いていたので、何と派手な葬式だが、いったいどこの何家の葬式かと、訊いてみると、
「――阿呆らしい。葬式とちがいまっせ。今日はあんた、灸の日だんがな」
と、嗤われた。が、丹造は苦笑もせず、そして、だんだん訊くと、二、三、四、六、七の日が灸の日で、この日は無量寺の紋日だっせ、なんし、ここの灸と来たら……途端に想いだしたのは、当時丹造が住んでいた高津四番丁の飴屋の路地のはいり口に、ひっそりひとり二階借りしていたおかね婆さんのことだ。
名前はおかねだが、彼女はおから以外の食物を買うて帰ったためしがないというくらい、貧乏していた。界隈の娘に安い月謝で三味線を教えてくらしていたがきこえて来るのは、年中、「高い山から谷底見れば」ばかり、つまりは、弟子が永続きしないのだった。それというのも、新しい弟子が来ると、誰彼の見境いもなしに灸をすえてやろうと、執拗く持ちかけるからで、病気ならともかく、若い娘の身で、むやみに灸の跡をつけられてはたまったものではないと、たいていの娘は「高い山から」をすまさぬうちに、逃げてしまうのだった。おかね婆さんは昔灸婆をしていたこともあり、弟子を掴まえてそんな風に執拗く灸をすすめるのも、月謝のほかに十銭、二十銭余分の金を灸代として取りたい胸算用だから……と、専らの評判をいつか丹造もきき知っていたのである。
その日、路地へ帰ると、丹造は早速おかね婆さんを掴まえて、
「――実はおまはんを見込んで、頼みがある」
金儲けだときかされると、途端におかね婆さんは歯ぐきを出して、にこにこし、つまりは何の造作もなく説き伏せられてしまった。
だが、さて、どんな風に実行に移したものかという段になると、丹造にはからきし智慧もなく、あくまで相棒が要った。いいかえれば、再び古座谷某の智慧が必要だった……。
あきれた。いや、正直なところ、以前のことなぞ忘れた顔で、よくもぬけぬけおれのところへやって来られたものだと、さすがのおれもあきれた。が、それよりも、
「――ひとつ社会奉仕をしてみようと思うんですよ」
と、いけ酒蛙酒蛙と言ったのには、一層あきれてしまった。
何が社会奉仕なもんか。いってみれば、施灸巡業で一儲けしようというだけの話じゃないか。一里八銭の俥よりも、三里の灸銭の方がぼろい……と言えば、済むところを、社会奉仕とは、どこを押せば、そんな音が出るのだと、おれはおかしかったが、そういうおれもおれで、話をきくなり、
「――よし、来た」
と、ひどく弾んで、承諾してしまったのだから、世話はない。
普通なら、横面のひとつも撲りつけてから、
「――お前のような奴の片棒をかつぐのは、もう御免だよ」
と、断るところだ。それを、そんな風にあっさり引き受けてしまったのは、欲から出たことだ……と、思われたくない。事実またそんな気はなかった。
いかにおれの精神が腐っていたからといって、まさか恋敵のお前を利用して、金銭欲を満足させようなどとは、思いも寄らぬ、実はそれと反対、恋敵のお前に儲けさせてやりたい気持だった。この気持はそのまま、お千鶴に貧乏の苦労をさせたくないという、われながらいじらしい気持と通ずる。と、こう言い切ってしまうと、簡単でわかりやすく、殊勝でもあり、大向うの受けは良いのだが無論それもある。が、それだけでは、新派めいて、気が引ける。ありていに言うと、ひとつにはおれの弥次馬根性がそうさせたのだ。施灸の巡業ときいて、
「――面白い」
と思ったのだ。巡業そのものに、そして、そんなことを思いつくお前という人間に、興味を感じたのだ。お前のような人間に……つまりは、腐れ縁といった方が早い。
「社会奉仕」というからには、あくまで善は急ぐべしと、早速おかね婆さんを連れて、三人で南河内の狭山へ出掛けた。
寺院に掛け合って、断られたので、商人宿の一番広い部屋を二つ借り受け、襖を外して、ぶっ通しの広間をつくり、それを会場にした。それから、「仁寄せ」に掛った。
「仁寄せ」などと言えば、香具師めくが、やはりここはあくまでこの言葉でなくてはならぬ。それほど、なにからなにまで香具師の流儀だったのだ。
だいいち、服装からして違う。随分凝ったもんだ。一行三人いずれも白い帷子を着て、おまけに背中には「南無妙法蓮華経」の七字を躍らすなど、われながらあやしい装立ちだった。が、それで気がさすどころか、存外糞度胸ができてしまって、まるで村芝居にでも出るようなはしゃぎ方だった。
お前もおれも何思ったか無精髭を剃り、いつもより短く綺麗に散髪していた。お前の顔も散髪すると存外見られると思ったのは、実にこの時だ。
おれは変にうれしくなってしまい、「日本一の霊灸! 人ダスケ! どんな病気もなおして見せる。▽▽旅館へ来タレ」とチラシの字にも力がこもった。チラシが出来上がると、お前はそれを持ってまわり、村のあちこちに貼りつけた。そして散髪屋、雑貨屋、銭湯、居酒屋など人の集まるところの家族には、あらかじめ無料ですえてやり、仁の集まるのを待ち構えた。
もし、はやらなければ、宿賃の払いも心細い……と、口には出さなかったが、ぎろりとした眼を見張ってから一刻、ひょいと会場の窓から村道の方を覗くと、三々伍々ぞろぞろ歩いて来る連中の姿が眼にはいり、あ、宣伝が利いたらしいとむしろ狼狽した。
「――婆さん頼んだぜ」
と、すぐさまおれは「受付」の机のうしろに坐り、そして、来た順に並ばせていちいち住所、氏名、年齢、病名をきいて帖面へ控えた。一見どうでもよいことのようだったが、これが妙に曰くありげで、なかなか莫迦に出来ぬ思いつきだった。
お前はおかね婆さんの助手で、もぐさをひねったり、線香に火をつけて婆さんに渡したり、時々、
「――はいッ!」
と、おかしげな気合を掛けたり、しまいには数珠を揉んで、
「――南無妙法蓮華経!」
と、唱えて見たり、必要以上にきりきり舞いをしていたが、ふと見ると、お前は鉢巻をしていた。おれはぷっと噴きだし、折角こっちが勿体ぶっているのに、鉢巻とはあんまり軽々し過ぎる、だいいち帷子との釣合いがとれないではないかと、これはすぐやめさせた。
面白いほどはやり、婆さんははばかりに立つ暇もないとこぼしたので、儲けの分を増してやることにして埋め合せをつけるなど、気をつかいながら、狭山で四日過し、
「――こんな眼のまわる仕事は、年寄りには無茶や。わてはやっぱし大阪で三味線ひいている方がよろしいおますわ」
と言う婆さんを拝み倒して、村から村へ巡業を続け、やがて紀州の湯崎温泉へ行った。
温泉場のことゆえ病人も多く、はやりそうな気配が見えたので、一回二十銭の料金を三十銭に値上げしたが、それでも結構患者が集まった。
「――どうです? 古座谷さん、この繁昌りようは、実際わしの思いつきには……」
さすがに驚きはしたが、しかし、何といっても、繁昌った原因は、おれの宣伝のやり方が堂に入っていたからだ。
いかにおれが宣伝の才にめぐまれていたかは、いずれ後ほど詳しく述べる故、ここでは簡単に止めて置くが、たとえば湯崎へ来た最初の日集まった患者のなかで口の軽そうな、話好きそうな婆さんを見ると、
「――この灸は天下一の名灸ではあるが、真実効をあらわそうと思えば、たった一つ守って貰わねばならぬことがある。いや、いや、こういったからって、何もむつかしいことじゃない。灸をすえて三十分後にすぐ温泉に浸り、そして十三時間湯殿から一歩も出ず、灸の穴へひっきりなしに湯気をあてて置けば良いのだ。これをむつかしい言葉で言うと温泉灸療法という……。いや、言葉はどうでもよい。わかったね。十三時間温泉にいるんですよ」
温灸という言葉ならあるが、温泉灸療法とは変な言葉だと、われながら噴きだしたくなるのをこらえこらえ、おごそかに言い渡したものだ。
病人というものはいったいに正直なものだが、おまけに年寄りで、広告にひきつけられて灸をしに来るというからには、まかりまちがっても、おれの言葉をあやしむことはあるまい。いそいそとして、長風呂にはいり、退屈まぎれに、湯殿へやって来る浴客を掴まえては、世間話、その話の序でには、どこそこでよく効く灸をやっている、日蓮宗の施灸奉仕で、ありがたいことだ、げんにわたしもいま先……と、灸の話が出ることは必定……と、可哀想に長風呂でのぼせてしまう迷惑も考えずに、おれも随分罪な宣伝をやったものだが、これがまた莫迦に当ったのだ。
前後一週間のうちにいくら儲けたか、いま記憶はないが、大阪に残して来たお千鶴のもとへ、お前がひそかに為替をくんで送金してやったことだけは、さすがのこいつもお千鶴のことは気になると見える、存外殊勝なもんだと、その時感心しただけに、今もおぼえている。もっとも、その金は「売上げ」(とお前は言っていた、つまり収入だ)のなかから、内緒でくすねていたものらしいと、あとでわかった時は、興冷めしたが……。
とにかく、儲かった。お前は有頂天になり、
「もうおかね婆さんさえしっかり掴まえて置けば一財産出来ますぞ」
と、変に凄んだ声でおれに言い言いし、働きすぎて腰が抜けそうにだるいと言う婆さんの足腰を湯殿の中で揉んでやったり、晩食には酒の一本も振舞ってやったりして鄭重に扱っていたが、湯崎へ来てから丁度五日目、
「――ほんまに腰が抜けてしもた」
と、婆さんは寝ついてしまった。
あわてて按摩を雇ったり、見よう見真似の灸をすえてやったりしたが、追っ付かず、「どんな病気もなおして見せる」という看板の手前、恥かしい想いをしながらこっそり医者をよんで診せると、
「――こりゃ、神経痛ですよ。まあ、ゆっくり温泉に浸って、養生しなさい。温泉灸療法でもやることですな」
と、知っていたのか、簡単に皮肉られて、うろたえ、まる三日間二人掛りで看病してやったが、実は到頭中風になってしまっていた婆さんの腰が、立ち直りそうにもなかった。
「――これももと言うたら、あんたらがわてをこき使うたためや」
と、おかね婆さんは大分怪しくなって来た口調でぼそぼそぼやくし、宿や医者への支払いは嵩む一方だし、それに、婆さんに寝込まれているのは「医者の不養生」以上に世間にも恰好がわるい話だと、おれは随分くさってしまったが、お前ときてはおれ以上、
「――もう、こうなっては、宿の客ひきをするか、どろんをきめるか、どちらかですな」
と、何ともいいようのない顔で苦り切っていた。
宿の客ひきもどろんも、どちらもいずれ劣らずお前らしくて似合っていると、おれはおかしかったが、しかし、まさか婆さんの中風がなおるまで客ひきをするほど殊勝なお前でもあるまいと、ひそかに考えていたところ、案の定、ある日、
「――うさばらしに田辺で遊んで来ますよ」
と、そわそわ出掛けて行ったきり、宿へ戻って来なかった。
蒸気船の汽笛の音をきいた途端に、逐電しやがったとわかり、薄情にもほどがあると、すぐあとを追うて、たたきのめしてくれようと、一旦は起ち上がったが、まさか婆さんを置き去りにするわけにもいかず、折柄、
「――古座谷はん、済まへんけど、ししさしたっとくなはれんか」
と、情けない声をだした婆さんの方にかまけて、思い止まり、背中にまわっていつもお前がしてやっていたように、存外思い腋の下を抱え起し、尿をとってやった。ごつごつした身体だった。
それから、四五日も看病してやったろうか、いよいよ宿や医者への支払いにさし迫られたので、たまりかねて婆さんを背負って、綱不知から田辺へわたり、そこから船で大阪へ舞い戻るまで、随分おれは情けない目を見た。みなお前のせいだ。