武の歴史の誤りを糺す

江戸、幕末( 7 / 18 )

日本刀の強さ

日本刀の強さ

 

日本刀の強度については諸説ある。

使い方を誤ると折れたり曲がったりする。刃こぼれなどはしょっちゅうある。

新撰組の山南敬介の使った刀の絵が残っている。

刃はぼろぼろで、一カ所大きな切り込みがあり、そこから峰の方に曲がっている。
これでは、もう一度研ぎ直して打刀として使うことはできまい。
これをもって刀は消耗品であると主張する人もいる。

これにより、新撰組は、如何に激しい斬り合いをやっていたということがよくわかる。


では、当時の日本刀は、一度の斬り合いで2度と使い物にならぬほどの損傷を受けるような脆弱なものだったのだろうか。

お互いが力一杯打ち合っただけでこれほどのダメージを受けるとすれば、よほど軟弱な刀を使っていたか、斬り合うお互いの力が、よほど強かったとしか考えられない。

恐らく、この両方の原因によって、この刀がこうまで激しい損傷を受けたものと思われる。

まず。刀自体の問題である。

戦国時代の刀は、あくまでも実用本位であった。身は厚く、極めて頑丈で、少々打ち合っても決して折れず曲がらずというものであった。
というのは、合戦の度に折れたり曲がったりでは命に関わることである。
刃が良く切れるとか、姿、形、刃紋が美しいということは重要ではなかった。

この様に、実戦が行われていた戦国当時の刀は極めて頑丈なものであった。

ところが、徳川の代になり、戦がなくなると、刀は実用一点張りのものから、姿形が美しく美術的価値が高い、よく切れるものが珍重されるようになった。

この、よく切れるということと頑丈ということとは相矛盾する事柄である。

恐らく、山南敬介のこの佩刀も、良く切れるということを追求したあまり、頑丈さに欠ける刀を使ったのではないのだろうか。

しかし、刀自体の問題よりも、それを扱う人間のほうが遙に重要である。


では、次ぎに、人的原因を調べてみることにする。

江戸、幕末( 8 / 18 )

新撰組 山南敬介の刀

 

幕末の刀

 

戦国時代の実用刀と江戸以降の日本刀ではその評価が異なることは前に述べた通りである。

江戸時代は、島原の乱以降、全く戦争がなかった。禁門の変までのおよそ二百三十年間、大規模な戦闘がなかったわけである。

太平の世では、日本刀は美術的価値と良く切れるという事が重要とされた。
藩によっては幾つもの試し切りを行い、折れず曲がらずといったことを、刀鍛冶採用の条件としたところもあるが、一般世間の風潮は、見て美しく良く切れるということが名刀の条件であった。

当然、幕末の動乱期において、2世紀以上の合戦の記憶などあるはずもなく、最初の戦闘は、新撰組にとっても実際の斬り合いは始めてのことであり、以後、実戦により体験を積んでいったものであろう。

そのとき、彼らの持っていたのは、当時もてはやされた「良く切れる」刀であったことは想像に難くない。

当時の話として、名の知れた名刀を持ち出して斬り合ったところ、簡単に折れてしまった。一方、普通の名もなき刀の方はびくともしなかったという。
このことを見ても、当時の名刀なるものの実態がわかろうかというものだ。

名刀といっても、古刀では過去随分使われている。当然、刃が欠け、刀身に傷もついていたと思われる。
そうして、合戦の度に研ぎ減らされていればいくら名刀といえど身は薄くなり、使用限度を超えてくる。
その様な刀を名刀であるばかりに、化粧研ぎを施して、さらに身を細らせ、高い値段で売りつけたものであろう。

これには異を唱える方もおられるとおもうが、所詮、刀は人切り包丁である。包丁も研ぎ減ってくればその役割を終える。
包丁や鑿なら短くなるまで研ぎ減らして最後まで使うこともできるが、刀ではそうもいかない。
本来ならば、研ぎ減らして脇差しや短刀にするべきなのだが、それでは高く売ることはできない。

こういった、名刀といえど耐用期限の過ぎた刀で斬り合いをやるとどういうことになるか。
当然、刃はぼろぼろに欠け、敵が思いっきり切り込んできたのを我が刀の刃で受ければ、鎬まで深く切り込まれ棟の方に曲がる。

このように刀身がつかえないようになる原因は以上の刀自身の問題のほかに、剣術そのものが200年前の刀法と全く違ってしまったことも大きな原因である。

 

江戸、幕末( 9 / 18 )

幕末の剣術

幕末の剣術

 

合戦に明け暮れた戦国時代と、太平の世が二百年余り続いた幕末では、その刀の使い方に大きな変化があった。

剣術流派の開祖達は、幾多の実戦の経験から当時の刀に一番ふさわしい刀法を集大成して後世に残した。

古い流派としては、念流、天真正伝香取神道流、鹿嶋新當流、新陰流、一刀流などが世に知られている。
これらの主立った流派から、江戸時代のおよそ250年のあいだに無数に枝分かれして様々な流派ができたのだが、この二世紀余りの間に、驚くほどその技法は変化していた。

各流派の偉大な始祖が確立した剣法は、当然のことながら介者剣法(鎧武者の剣法)であった。

当然身構えも刀の振り方、切る場所も今とは違う。

そして今の剣道と大きく違うのは、刀の多彩な使い方である。刀の鎬を使って相手の刀を打ち落としたり払ったり、反りを利用して相手の剣先をはじき敵小手にすり込んだり、極めて精緻な技で構成されていた。

足も所謂撞木といわれるもので、今の剣道のように足を平行にして踵はあげない。

ぐっと腰を落として重心を下げ、体は相手に向かって半身である。これで重心は安定し、敵に体当たりを受けたり、突き飛ばされても耐えることができる。

素人目には、なんとも格好悪く、動きも、今の剣道に比べて鈍重に見えるかも知れないが、実は、実戦の経験から導き出された極めて合理的なものである。

そして、切る場所は主に表、裏の小手である。真っ向唐竹割などといった馬鹿なことはやらない。

ただ、鎬で敵の刀を落としたり、はたいたりということをやるので、あくまでも刀の刀身は頑丈でなければならなかった。少しぐらい雑に扱っても、折れたり曲がったりしては困るからだ。
つまり、刀の切れ味よりも頑丈さが要求されたのである。

これらの有力流派も太平の世に合わせて、その技も内容も変わっていった。

もはや、鎧を着て斬り合うことはなくなった。介者剣法から素肌剣法に代わり、腰を落とした低い構えから今の剣道のような相手に対して正対し、直立する構えになった。

当初の介者剣法は、切る場所は限られている。小手を切り、内兜に突っ込むか、首にすり込むか、鎧の隙間を狙うかでその形の数は多くない。

しかし、素肌になると、兜や鎧といった邪魔のものはない。頭でも胴でも自由に打ち込めるわけだ。

自然と、技の数も増えてくる。

しかし、それまでは、多少の変化があったにせよ本質的な変化はなかった。基本的に形稽古という稽古法に変化はなかった。

江戸中期ごろ、今の剣道の防具の原型である竹具足が考案され、次第に改良されて現在のものと殆ど変わらないものとなった。

こうなれば稽古のやり方も全く変わってくる。今までは、木刀や刃引き太刀を使っていたため実際に相手を打つことができなかった。
寸止めである。
そして、形を見ればその防ぎ手や勝つ方法が解るため、部外者には見せなかったし、他流試合も止められていた。

ところが、防具が発明されると事情は一変した。

思い切り打ち合っても怪我はしない。安心して稽古ができる。そして他流試合も簡単にできるようになった。実際に打ち合って優劣がわかるからである。

他流試合や稽古試合が増えるに従って、ある変化が起きた。試合の勝敗によりその流派や道場の評価が決まって来る。もし、試合が弱ければその道場の入門者はいなくなる。道場の存続にかかわる問題である。

形稽古ばかりやっていたのでは、一向に竹刀打ちの試合には勝てない。当然、形稽古は疎かになり、今の剣道の稽古と同じ竹刀打ちの稽古ばかりやるようになる。

竹刀打ちの稽古の良いことは、一度に多くの弟子を取ることができるという点である。これは道場経営上非常に有利である。

なぜなら、従来の形稽古というものは、一度に多くの弟子を教えることはできない。
師匠が打太刀、弟子が仕太刀となってマンツーマンで教える。一度に教えることの数は限られる。
そして、この一代目の弟子達が師匠の代わりに代稽古が出来るようになるまで数年待たなければならない。そしてその時点でやっと多少弟子の数を増やすことができる程度である。

つまり、昔ながらの形稽古をやる流派では、道場を作ってからかなり時間が経たないと道場経営ははなはだ苦しいものであったのだ。

ところが、幕末には、千葉周作の北辰一刀流、斉藤弥九郎の神道無念流、桃井春蔵の鏡新明智流などの新興の流派は大いに栄えていたのである。

従来の形稽古というものは、その形を覚え、使いこなすまでにはかなりの時間がかかる。
ところが、竹刀打ち稽古の場合は、一通りの基本を学んだら、あとは、お互いが打ち合って稽古をすればよい。
こうなれば、技より運動神経、反射神経の天分に恵まれていることのほうが有利に働く。才能に恵まれれば入門数年にして、試合で優勝することも夢ではない。

この様な稽古、つまり刀より長い竹刀を使い、面や胴、小手を打つのに特化した稽古ばかりやっていると、竹刀の撃ち合いは強いが、当然のことながら刀を持った斬り合いには大して役にたたない。

何故ならば、竹刀で一定の部位を打つのと、実際の真剣を持っての斬り合いは違う。

竹刀打ちの稽古をやっていれば当然そのような刀の使い方をする。切り込むとき、茶巾絞りに絞り込む。
切るときはまっすぐに切り込まなければならないが、こういう手の内ではどうしても刃筋は回り、平打ちとなって、刀は、折れたり曲がったりする。ましてや竹刀で力一杯打つ癖がついている。まともに刃と刃を思い切り打ち合わせば、傷は刃の幅の半分以上に及び、その力で刀身は棟のほうにまがる。

これは、今の剣道ののような稽古を行ってきた者の特色である。ましてや当時流行の切れ味に重きをおいた軟弱な刀を使っていたのならなおさらである。

山南敬介の描いた斬り合い後のスケッチに、刃こぼれ甚だしく、刀の峰近くまで深く切り込まれ折れる寸前まで曲がった刀が書かれているのはそういった理由である。

これを見て、刀は消耗品であると考える人もいると思うが、そうでないことは、本稿を読んでいただければ十分に理解していただけるものと思う。

なお、山南敬介は最初は北辰一刀流(一説には小野派一刀流)を学び免許皆伝を得、その後、天然理心流に入門する。

もっとも、免許皆伝まで得ているからには、当然組太刀の形稽古も積んでいると思われるが、竹刀の撃ち合い形式の稽古を重きをおいた流派であるから、組太刀の形稽古をみっちり積んだ近藤勇や土方歳三、沖田総司などとは違って当然である。


 

江戸、幕末( 10 / 18 )

武市瑞山の剣術

 

小野派一刀流と鏡心明智流

 

坂本龍馬と並んで幕末の日本に大きな影響を与えたのは、土佐勤皇党の盟主、武市半平太(瑞山)である。
土佐勤皇党は、国元で藩の参政吉田東洋暗殺を皮切りに、京都や大阪で多くの天誅と称した暗殺事件を起こし、天誅事件などの政治テロの中心的役割を果たした。
彼らの暗殺は、町人、公家、武士等見境いなく行われた。
これにより、有為の人材が多く失われた為に、その後の日本の未来に大きな影響をあたえたと言われている。

武市半平太、号、瑞山は、文政十二年(1829)に生れた。
天保十二年(1841)、一刀流、千頭伝四郎に入門したが嘉永三年(1850)師の千頭が死亡したのを機に高知城下に移り住み、小野派一刀流の麻田勘七に師事する。
麻田に入門して間もなく初伝を受けた。千頭に入門して以来、九年も修行してやっと初伝である。
如何にも遅いと思われるが、おそらく、最初の師、千頭伝四郎は、門弟に指導する資格はあったが免許の発行権はなかったと考えられる。

その後、技は長足の進歩を遂げ、嘉永五年(1852)に中伝、二年後の嘉永七年(1854)には皆伝を受けた。
同年、免許皆伝を許されたのを機に新道場を開いたが、創建間もなく地震にて家屋が倒壊した為に、道場も失うことになる。
翌安政二年(1855)、新たに道場を再建した。

この新道場は大いに栄え、中岡慎太郎、岡田以蔵、吉村虎太郎など120名以上の門弟を抱えるまでになる。これが、後の土佐勤皇党の母体である。

安政三年(1856)八月、藩の命により、岡田以蔵、五十嵐文吉等数人の弟子を伴って江戸に上り、鏡心明智流の士学館に入門した。
ここでは、師の桃井春蔵の信任厚く、間もなく塾監を任され、門下生の綱紀粛正に成果をあげる。
次年、安政四年には相次いで免許を許され、最後には允可まで授けられている。
安政四年(1857)9月、土佐へ帰国。

これをみると、江戸に滞在し、士学館で鏡心明智流を学んだのはたった一年であることがわかる。

注目すべきは、入門して間もなく、塾監に任用されたばかりでなく、入門一年を待たずして允可まで受けている。

普通、これは常識では考えられない。普通では絶対に有り得ぬことだ。
藩命での修行、いわば官費留学であり、バックに土佐山内家がついていて、さらに門弟数人を引き連れての入門であったとはいえ、これは如何にも早すぎる。

塾監に任じ、門弟の生活指導をやらせたことは、武市の人柄や指導力を見込んでのことであるから理解できる。
しかし、入門一年も経たないうちに允可を与えたとなると問題は別だ。如何に人格に優れ、土佐藩の後ろ盾があったとしてもこれは無理だ。鏡心明智流の免許がそんなに軽い筈はない。
 
当初、これは、武市瑞山を英雄に祭り上げるための後世の創作かと思った。

しかし、この伝書は現存するという。高知県立民俗資料館が所蔵しているとか。

では、この事実をどう説明すればよいのか。

鏡心明智流が、一刀流の系統であればある程度理解できる。しかし、そうではない。この流派は桃井八郎左衛門直由が無辺流槍術、戸田流、一刀流、柳生流、堀内流などを学び、安永二年、江戸にでて士学館を開いたことに始まる。どう見ても一刀流の系統ではない。

もしやと思い、武芸流派大事典を開いてみた。

なんと、そこに、武市の一刀流の師である麻田勘七の名があるではないか。

これによると、麻田は、武市の師である桃井春蔵直正の先代、桃井春蔵直雄の高弟の一人であったのだ。

なるほど、これで一気に謎が解けた。武市は、小野派一刀流を十三年修行して皆伝を得ている。

今まで一刀流とされていたものが、実は鏡心明智流であったとすれば、全ての説明がつく。

武市は鏡心明智流を十三年も修行していた。

師は先代の桃井春蔵の高弟麻田勘七である。

つまり、武市は、土佐で十三年、鏡心明智流の修行を積んでいた。
江戸に出て士学館に入門した時点ですでにこの流派の允可を受けるだけの実力を備えていたと考えれば、入門後一年で允可を得た説明がつく。

ただ、これでは、土佐側の記録とは食い違いがでてくる。

武市の師の麻田勘七は小野派一刀流であり、鏡心明智流との記録は土佐側にはない。
土佐藩の藩校である致道館の剣術教授に小野派一刀流、麻田勘七の名がある。

これから考えるに、麻田は、小野派一刀流と鏡心明智流の二流派を修めていたと思われる。
ただ、小野派一刀流は免許の発行権を持っていたので武市に土佐で免許皆伝を与えることができたが、鏡心明智流ではそれが無かった。
その為、武市に鏡心明智流の免許を出すことが出来なかったというわけである。

これで、武市が江戸で小野派一刀流に入門せず、鏡心明智流に入門した理由がわかった。

武市が、江戸に出て、士学館に入門したのは、ゼロからこの流派を修行するのが目的ではなく、いままで長年積んだ鏡心明智流剣術の成果を士学館主、桃井春蔵直正に確認してもらい、允可を受けることであったのだ。

これが、武市半平太がたった一年で鏡心明智流の免許を允可まで許された本当の理由である。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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