坂本龍馬の北辰一刀流修行の成果
幕末維新の著名人物のなかで、坂本龍馬ほど様々な創作や捏造、憶測により、その素のままの人物像がわからなくなっている人物はいない。
中でも北辰一刀流の修行については、確たる証拠は少ない。それが今では北辰一刀流の免許皆伝を受けた剣豪であったということになってしまっている。
歴史上の人物を調べる場合、その資料の選定が極めて重要である。
これを誤ると、とんでもなく実像とかけ離れたものとなってしまう。
特に注意しなければならないのは、その人物の縁故者が書いたものや、ある目的(英雄に祭り上げるなど)のもとに書かれたものである。
現在の龍馬像の原型となっているのは坂崎紫瀾の書いた小説「汗血千里駒」である。これは高知の土陽新聞に明治十六年に掲載され、この年に単行本として出版されている。
この小説は今まで無名であった坂本龍馬を世に広く知らしめる為に書かれたものだ。
明治維新の元勲を多く輩出した薩摩、長州に比べ、土佐の人間にはこれが少ない。
それを残念に思っていた坂崎紫瀾は、当時、余り世間に知られていなかった坂本龍馬を引っ張り出し、これを主人公にして小説を書いたのである。
小説であるからには面白くなければならないし、当然、その主人公は英雄でなければならない。その為には誇張や粉飾もあり、創作もありうる。
そのような小説を大真面目に取り上げて、龍馬研究の資料とすることは厳に慎まなければならないことであるが、現在、多くの龍馬を主題とした小説や書籍はこれを下敷きにしている。
次に龍馬を主人公として書かれた本は、弘松宣枝の「阪本龍馬」である。
著者の弘枝は龍馬の係累である。発刊は明治二十九年。
およそ、歴史資料として最も注意しなければならないものは、主人公の子孫や係累の書いたものであろう。当然、悪いことは書かないし、功績は誇張して書く。あるいは捏造もありうる。
江戸、明治期を通じて、我が国には夥しい数の家系図や、先祖の功績を記録したものがあるが、その殆どが贔屓の引き倒しで、真実とは大きくかけ離れたものとなっている。
但し、身内でなければ知り得ないような情報や、手紙などの貴重な資料は持っている可能性があるので、よくよく注意して見分けなければならなことは言うまでもない。
明治に書かれた龍馬を主題とする書籍は以上の二冊である。
何れも土佐の地元の地縁、血縁者によって書かれたもので、すべてを頭から信用してかかると大きく実像から離れてしまうことになる。
次に、大正年間に書かれた書籍としては「維新土佐勤皇史」と「坂本龍馬」がある。
「維新土佐勤皇史」は、武市瑞山を顕彰する瑞山会が編纂している。
これによると、この本が刊行された大正元年当時、武市半平太(瑞山)とともに坂本龍馬が土佐の維新の立役者として世間に広く認められていたことになる。
しかも、この本文は「汗血千里駒」の著者である坂崎紫瀾が書いているところから、龍馬が如何に偉大であったかということを世間に知らしめるという目的は変わらない。
「坂本龍馬」千頭清臣著。これは、大正三年発行であるが、これは田岡正秋というゴーストライターが書いたもの。
昭和に入ってからは、昭和元年に書かれた「雋傑坂本龍馬」があるが、これは、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像を建設するための組織、坂本中岡銅像建設会が編集し、刊行したものである。
平尾道雄著の「坂本龍馬海援隊始末」は今までの龍馬を主題とした研究の集大成というべきもので、これは、各出版社により改訂版が出版されている。
この「坂本龍馬海援隊始末」こそ、多くの後世、多くの龍馬本の下敷きとなったもので、現在の坂本龍馬英雄説の根源をなすものである。
以上来てきたとおり現在の坂本龍馬像を形作った書籍は、いずれも、龍馬を英雄として広く世に知らしめるために書かれたものである。
従って、無いものをあるとし、しなかったものをしたとされることも数多くあっても不思議はない。
その最たるものが、坂本龍馬剣豪説である。
これは、最初から当然のごとく書かれている。英雄であるからには剣術も強くなければならないということであろう。
「汗血千里駒」では、以下のごとく書かれている。
”龍馬は神田お玉ケ池なる千葉周作氏の門に入りて、もっぱら剣道に心を委ね、ひたすら勉強なしたるゆえ、のちには土州藩士に剣客阪本龍馬その人ありとまで算えられて、諸藩を遊歴なすほどに至りける。”
「阪本龍馬」には”彼はお玉ケ池の千葉周作の門に入り、もっぱら剣道に心を委ね、黽励倦るなかりしに、ついに土州藩士に剣客坂本龍馬その人ありと知られ、世の嘖々する所となり、諸藩を遊歴するに至るれり。”
以上のごとく、明治時代に書かれた書籍には、いずれも「剣客」として有名であったとするものである。
また、この両方とも、お玉が池の千葉周作の門に入りとあり、龍馬が入門したのは千葉周作となっている。
この部分は、龍馬の剣豪説を考察するうえで重要であるので特に注意を必要とする。
龍馬剣豪説は、実は、坂本龍馬を世に出した張本人、坂崎紫瀾の「汗血千里駒」ですでに土佐藩士の剣客坂本龍馬ありと知られていたとする。
小説ではあるし、主人公が剣術が強かったとするのは無理のないところではあるが、このことの虚偽を何ら検証することなく後世に引き継がれ、尾ひれがつき、今ではすっかり龍馬剣豪説が定着してしまった。
では、龍馬は本当に剣術は強かったのか。
それには、大きな誤解がある。
その第一は龍馬が土佐で永年修行した「小栗流」は「剣術」の流派ではないということ。「柔術」の流派である。
今まで、ほとんどの龍馬本の著者たちは、これを剣術の流派と信じ込んでいた。
そのため、龍馬がすでに土佐で剣術の修行を積んでいたので、江戸に上り、「北辰一刀流」に入門した後に短期間で長足の進歩を遂げたと主張する。
しかし、龍馬の受けた小栗流の免許を見るとこれは明らかに柔術の伝書である。つまり、龍馬は、土佐ではろくに剣術の稽古をしていなかったことになる。
剣術では素人同然の人間が江戸に出て、たった三年足らずの修行で果たして北辰一刀流の免許皆伝を取得できるものだろうか。まず、あり得ぬことである。
誤解のその第二は、現存する龍馬が受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」をもって龍馬が北辰一刀流の剣術の免許皆伝を受けたとするものである。
しかし、これは剣の目録ではない。長刀(なぎなた)の目録であり、しかもそこに書かれているのは薙刀の技法の前半部分でしかない。
いわば、長刀の最初の目録、初伝を受けたということなのだ。
しかも、これさえ北辰一刀流の正式な目録ではなく、ある目的のために特別に作られたもののように思われるのである。
そのある目的とはなにか。そのヒントは龍馬自身の手紙にある。
その手紙とは姉の乙女に当てた文久三年六月十四日付の手紙である。
手紙の初めのほうに、「薙刀順付は千葉先生より越前老公け申し付けにて書きたるなり」とあり、この後ろに師の千葉定吉の長女佐那の説明が続く。
問題は長刀順付とは何かということである。
これは龍馬の受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」のことではないか。そう考えると全ての疑問が説明できるのではなかろうか。
つまり、この「北辰一刀流長刀兵法目録」は北辰一刀流の正式な目録ではなく、後年、龍馬が越前公、松平春嶽に拝謁するために師の定吉が特別に作成した「長刀順付」だった。
こう考えると、たかだか長刀の初伝目録にすぎないものが、必要以上に豪華な装丁がなされていることの説明もつく。
ところが最近、龍馬剣豪説を裏づける資料が出てきたという。
今年(2015年)夏、坂本家が高知県立坂本龍馬記念館に寄贈した龍馬関係の資料のなかに、北辰一刀流免許皆伝の実在を証明する書類が見つかった。
坂本家七代当主弥太郎が龍馬の甥の妻に出した預かり書である。
そこに書かれていたのは「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」の三巻で、日付は明治43年8月30日付けである。
しかし、昭和4年の展覧会の時にはすでに消失して無い。
現物が現存すれば問題はないが、消失したとあっては詳しく検証することはできず、本物とも偽物とも判断がつきかねるのだが。
問題なのは、その免状の名称である。
北辰一刀流の免許は初目録、中目録、大目録であり、それに箇条目録が加わる。
上記、三巻のうち、北辰一刀流としての正式な名前の目録は「北辰一刀流兵法箇条目録」だけで、「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」は他には例がない。
もしこれが正式な北辰一刀流の免許であるならば、「初目録」「中目録」「大目録」でなければならず、決して「皆伝」などといった一般的な名称は使わなかったはずだ。
これを考えるに、この三巻の巻物は、北辰一刀流に詳しくないものが後に作った贋作ではないだろうか。その他に、このことを合理的に説明できる理屈は思い浮かばない。
もう一つ腑に落ちないことがある。
それは、この免許は「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部消失セリ 於釧路市」とあるとおり千葉周作が出したということになっている。
しかし、千葉周作は安政二年(1855年)に死んでいる。
もし、千葉周作から免許を受けたのであれば、嘉永6年(1853年)から安政元年(1854年)の一年間ということになるが、これは龍馬の北辰一刀流一年目である。
入門一年目で免許皆伝まで受けることなどあり得ぬことである。
このことをもってしても、この三巻の免許状は後世、偽造されたのではないか。
その際、偽造者は当時出版されていた「汗血千里駒」あるいは「阪本龍馬」を読み、そこに(千葉周作の門に入り)と記載さてれているのを見てこの三巻の免許状を千葉周作の名前で偽造したものと考えられる。
そもそも、北辰一刀流の免許はそう簡単にとれるものではない。
通常、子供のころに入門し、十年で大目録をとれれば早い方である。清河八郎などは、人一倍の努力の末、人が三年かかる初目録を一年で取得し、それから六年後に中目録である。
清河八郎を本科生とするならば、龍馬は短期講習生にあたる。最初の一年で土佐に帰り、改めて江戸に出て千葉道場に復帰して一年で帰国するところ一年延長を願いでてもう一年。
これでは本格的な剣術修行など到底無理であり、龍馬本人もそれは十分納得の上の修行ではなかったか。
龍馬はよく手紙を書いている。もし、彼がその短期間のうちに免許皆伝まで取得したのであれば真っ先に手紙に書くことであろう。
それが全く残っていないということは、北辰一刀流の免許は何一つ貰っていないということを何より雄弁に物語っているのではなかろうか。
以上を考えると、坂本龍馬の実像がおぼろげながら浮かんでくる。
坂本龍馬は当時としては大柄な体格で、永年小栗流和(やわら)を修練したお蔭で体力はあったが剣術はその基礎を習った程度であった。
江戸に遊学して北辰一刀流に入門するが、都合三年足らずの修行ではその最初の目録さえ得ることができず、土佐に帰ることとなった。そして、その後は剣術より国事にのめり込むようになるのである。
現存する唯一の伝書、「北辰一刀流長刀兵法目録」さえ、後世、師の千葉定吉が松平春嶽に見せるために特別に作られたもので、北辰一刀流としての正式な免許状ではない可能性が大きい。
坂本龍馬の実像は、剣術は初心者に毛の生えた程度であり、決して剣豪などではなかった。それ故、拳銃を持ち歩いたのである。
日本刀の強さ
日本刀の強度については諸説ある。
使い方を誤ると折れたり曲がったりする。刃こぼれなどはしょっちゅうある。
新撰組の山南敬介の使った刀の絵が残っている。
刃はぼろぼろで、一カ所大きな切り込みがあり、そこから峰の方に曲がっている。
これでは、もう一度研ぎ直して打刀として使うことはできまい。
これをもって刀は消耗品であると主張する人もいる。
これにより、新撰組は、如何に激しい斬り合いをやっていたということがよくわかる。
では、当時の日本刀は、一度の斬り合いで2度と使い物にならぬほどの損傷を受けるような脆弱なものだったのだろうか。
お互いが力一杯打ち合っただけでこれほどのダメージを受けるとすれば、よほど軟弱な刀を使っていたか、斬り合うお互いの力が、よほど強かったとしか考えられない。
恐らく、この両方の原因によって、この刀がこうまで激しい損傷を受けたものと思われる。
まず。刀自体の問題である。
戦国時代の刀は、あくまでも実用本位であった。身は厚く、極めて頑丈で、少々打ち合っても決して折れず曲がらずというものであった。
というのは、合戦の度に折れたり曲がったりでは命に関わることである。
刃が良く切れるとか、姿、形、刃紋が美しいということは重要ではなかった。
この様に、実戦が行われていた戦国当時の刀は極めて頑丈なものであった。
ところが、徳川の代になり、戦がなくなると、刀は実用一点張りのものから、姿形が美しく美術的価値が高い、よく切れるものが珍重されるようになった。
この、よく切れるということと頑丈ということとは相矛盾する事柄である。
恐らく、山南敬介のこの佩刀も、良く切れるということを追求したあまり、頑丈さに欠ける刀を使ったのではないのだろうか。
しかし、刀自体の問題よりも、それを扱う人間のほうが遙に重要である。
では、次ぎに、人的原因を調べてみることにする。
幕末の刀
戦国時代の実用刀と江戸以降の日本刀ではその評価が異なることは前に述べた通りである。
江戸時代は、島原の乱以降、全く戦争がなかった。禁門の変までのおよそ二百三十年間、大規模な戦闘がなかったわけである。
太平の世では、日本刀は美術的価値と良く切れるという事が重要とされた。
藩によっては幾つもの試し切りを行い、折れず曲がらずといったことを、刀鍛冶採用の条件としたところもあるが、一般世間の風潮は、見て美しく良く切れるということが名刀の条件であった。
当然、幕末の動乱期において、2世紀以上の合戦の記憶などあるはずもなく、最初の戦闘は、新撰組にとっても実際の斬り合いは始めてのことであり、以後、実戦により体験を積んでいったものであろう。
そのとき、彼らの持っていたのは、当時もてはやされた「良く切れる」刀であったことは想像に難くない。
当時の話として、名の知れた名刀を持ち出して斬り合ったところ、簡単に折れてしまった。一方、普通の名もなき刀の方はびくともしなかったという。
このことを見ても、当時の名刀なるものの実態がわかろうかというものだ。
名刀といっても、古刀では過去随分使われている。当然、刃が欠け、刀身に傷もついていたと思われる。
そうして、合戦の度に研ぎ減らされていればいくら名刀といえど身は薄くなり、使用限度を超えてくる。
その様な刀を名刀であるばかりに、化粧研ぎを施して、さらに身を細らせ、高い値段で売りつけたものであろう。
これには異を唱える方もおられるとおもうが、所詮、刀は人切り包丁である。包丁も研ぎ減ってくればその役割を終える。
包丁や鑿なら短くなるまで研ぎ減らして最後まで使うこともできるが、刀ではそうもいかない。
本来ならば、研ぎ減らして脇差しや短刀にするべきなのだが、それでは高く売ることはできない。
こういった、名刀といえど耐用期限の過ぎた刀で斬り合いをやるとどういうことになるか。
当然、刃はぼろぼろに欠け、敵が思いっきり切り込んできたのを我が刀の刃で受ければ、鎬まで深く切り込まれ棟の方に曲がる。
このように刀身がつかえないようになる原因は以上の刀自身の問題のほかに、剣術そのものが200年前の刀法と全く違ってしまったことも大きな原因である。
幕末の剣術
合戦に明け暮れた戦国時代と、太平の世が二百年余り続いた幕末では、その刀の使い方に大きな変化があった。
剣術流派の開祖達は、幾多の実戦の経験から当時の刀に一番ふさわしい刀法を集大成して後世に残した。
古い流派としては、念流、天真正伝香取神道流、鹿嶋新當流、新陰流、一刀流などが世に知られている。
これらの主立った流派から、江戸時代のおよそ250年のあいだに無数に枝分かれして様々な流派ができたのだが、この二世紀余りの間に、驚くほどその技法は変化していた。
各流派の偉大な始祖が確立した剣法は、当然のことながら介者剣法(鎧武者の剣法)であった。
当然身構えも刀の振り方、切る場所も今とは違う。
そして今の剣道と大きく違うのは、刀の多彩な使い方である。刀の鎬を使って相手の刀を打ち落としたり払ったり、反りを利用して相手の剣先をはじき敵小手にすり込んだり、極めて精緻な技で構成されていた。
足も所謂撞木といわれるもので、今の剣道のように足を平行にして踵はあげない。
ぐっと腰を落として重心を下げ、体は相手に向かって半身である。これで重心は安定し、敵に体当たりを受けたり、突き飛ばされても耐えることができる。
素人目には、なんとも格好悪く、動きも、今の剣道に比べて鈍重に見えるかも知れないが、実は、実戦の経験から導き出された極めて合理的なものである。
そして、切る場所は主に表、裏の小手である。真っ向唐竹割などといった馬鹿なことはやらない。
ただ、鎬で敵の刀を落としたり、はたいたりということをやるので、あくまでも刀の刀身は頑丈でなければならなかった。少しぐらい雑に扱っても、折れたり曲がったりしては困るからだ。
つまり、刀の切れ味よりも頑丈さが要求されたのである。
これらの有力流派も太平の世に合わせて、その技も内容も変わっていった。
もはや、鎧を着て斬り合うことはなくなった。介者剣法から素肌剣法に代わり、腰を落とした低い構えから今の剣道のような相手に対して正対し、直立する構えになった。
当初の介者剣法は、切る場所は限られている。小手を切り、内兜に突っ込むか、首にすり込むか、鎧の隙間を狙うかでその形の数は多くない。
しかし、素肌になると、兜や鎧といった邪魔のものはない。頭でも胴でも自由に打ち込めるわけだ。
自然と、技の数も増えてくる。
しかし、それまでは、多少の変化があったにせよ本質的な変化はなかった。基本的に形稽古という稽古法に変化はなかった。
江戸中期ごろ、今の剣道の防具の原型である竹具足が考案され、次第に改良されて現在のものと殆ど変わらないものとなった。
こうなれば稽古のやり方も全く変わってくる。今までは、木刀や刃引き太刀を使っていたため実際に相手を打つことができなかった。
寸止めである。
そして、形を見ればその防ぎ手や勝つ方法が解るため、部外者には見せなかったし、他流試合も止められていた。
ところが、防具が発明されると事情は一変した。
思い切り打ち合っても怪我はしない。安心して稽古ができる。そして他流試合も簡単にできるようになった。実際に打ち合って優劣がわかるからである。
他流試合や稽古試合が増えるに従って、ある変化が起きた。試合の勝敗によりその流派や道場の評価が決まって来る。もし、試合が弱ければその道場の入門者はいなくなる。道場の存続にかかわる問題である。
形稽古ばかりやっていたのでは、一向に竹刀打ちの試合には勝てない。当然、形稽古は疎かになり、今の剣道の稽古と同じ竹刀打ちの稽古ばかりやるようになる。
竹刀打ちの稽古の良いことは、一度に多くの弟子を取ることができるという点である。これは道場経営上非常に有利である。
なぜなら、従来の形稽古というものは、一度に多くの弟子を教えることはできない。
師匠が打太刀、弟子が仕太刀となってマンツーマンで教える。一度に教えることの数は限られる。
そして、この一代目の弟子達が師匠の代わりに代稽古が出来るようになるまで数年待たなければならない。そしてその時点でやっと多少弟子の数を増やすことができる程度である。
つまり、昔ながらの形稽古をやる流派では、道場を作ってからかなり時間が経たないと道場経営ははなはだ苦しいものであったのだ。
ところが、幕末には、千葉周作の北辰一刀流、斉藤弥九郎の神道無念流、桃井春蔵の鏡新明智流などの新興の流派は大いに栄えていたのである。
従来の形稽古というものは、その形を覚え、使いこなすまでにはかなりの時間がかかる。
ところが、竹刀打ち稽古の場合は、一通りの基本を学んだら、あとは、お互いが打ち合って稽古をすればよい。
こうなれば、技より運動神経、反射神経の天分に恵まれていることのほうが有利に働く。才能に恵まれれば入門数年にして、試合で優勝することも夢ではない。
この様な稽古、つまり刀より長い竹刀を使い、面や胴、小手を打つのに特化した稽古ばかりやっていると、竹刀の撃ち合いは強いが、当然のことながら刀を持った斬り合いには大して役にたたない。
何故ならば、竹刀で一定の部位を打つのと、実際の真剣を持っての斬り合いは違う。
竹刀打ちの稽古をやっていれば当然そのような刀の使い方をする。切り込むとき、茶巾絞りに絞り込む。
切るときはまっすぐに切り込まなければならないが、こういう手の内ではどうしても刃筋は回り、平打ちとなって、刀は、折れたり曲がったりする。ましてや竹刀で力一杯打つ癖がついている。まともに刃と刃を思い切り打ち合わせば、傷は刃の幅の半分以上に及び、その力で刀身は棟のほうにまがる。
これは、今の剣道ののような稽古を行ってきた者の特色である。ましてや当時流行の切れ味に重きをおいた軟弱な刀を使っていたのならなおさらである。
山南敬介の描いた斬り合い後のスケッチに、刃こぼれ甚だしく、刀の峰近くまで深く切り込まれ折れる寸前まで曲がった刀が書かれているのはそういった理由である。
これを見て、刀は消耗品であると考える人もいると思うが、そうでないことは、本稿を読んでいただければ十分に理解していただけるものと思う。
なお、山南敬介は最初は北辰一刀流(一説には小野派一刀流)を学び免許皆伝を得、その後、天然理心流に入門する。
もっとも、免許皆伝まで得ているからには、当然組太刀の形稽古も積んでいると思われるが、竹刀の撃ち合い形式の稽古を重きをおいた流派であるから、組太刀の形稽古をみっちり積んだ近藤勇や土方歳三、沖田総司などとは違って当然である。