武の歴史の誤りを糺す

江戸、幕末( 4 / 18 )

坂本龍馬 北辰一刀流

龍馬と北辰一刀流

 

坂本龍馬が土佐で修めた小栗流和(小栗流やわら)は甲冑伝とも武者取りともいわれるいわゆる柔術を主とするものであった。

柔術にも、その発生時期により様々な技法がある。

この小栗流は、江戸創世期からの由来をもつ極めて古い流派である。そして、柔術の柔という字を嫌って甲冑伝とも武者取りとも言ったことから推察すると、主に甲冑組討を基礎とした技法をもつものと思われる。

この武者取りの取るという言葉は、相撲を取ると同じ意味であり、やわらの場合に使われたもので、剣術に使われることは無かった。

このことから考えても、この小栗流が剣術の流派ではなく、極めて古い形を残した柔術の一形態であったことがわかるのである。 

龍馬は数え年十四歳から十九歳までの五年間、相当本気でこの稽古に打ち込んだようで、僅か五年で「小栗流和兵法事目録」に記載されたすべての技を習得したということは、かなり優秀といってよい。
しかし、江戸に上がり、北辰一刀流に入門するまでは、撃剣(剣術)の方は、余り得意ではなかったであろう。

なぜならば、小栗流で習った太刀は、おそらく木刀か袋竹刀を使った型稽古であったろうし、それも基本の五本のみである。

ただ、江戸と国元の高知との交流は、参勤交代や藩士の交代、江戸への遊学などで活発に行われていたから、当然、江戸で流行していた防具をつけての打ち合い稽古も導入されていた筈だ。

龍馬も、江戸遊学にあたり、この稽古を多少は積んでいたとしても不思議はない。

当時、江戸で隆盛を極めた鏡心明知流、神道無念流、北辰一刀流の各大流派は、全く新しい稽古法を取り入れていた。

正徳年間( 1711 ~ 1715 )直新影流の長沼四郎左衛門が防具を開発し、実際に打ち込んで稽古を行う「打込み稽古法」を始めた。

その後、一刀流の中西忠蔵が鉄面、竹具足を使って現在の剣道とかわらぬ「打込み稽古」を採用したことにより、この稽古法は幕末期に大流行したのである。

こうして、面、胴、籠手をつけて実際に打ち合って稽古を始めると、当然のことながら流儀の垣根が無くなり、寛政年間( 1789 ~ 1801 )には頻繁に他流試合が行われるようになった。

そして、龍馬が上京したころには、ほとんどの剣術流派がこういった打込み稽古をやるようになっていたが、流派によっては、昔ながらの組太刀の稽古を重視した天然理心流のような流派もあった。

龍馬が入門したのは、北辰一刀流の千葉周作の弟の定吉の長男、重太郎である。その後、定吉の指導も受け、お玉ケ池の道場にも顔を出すようになる。

龍馬がこの千葉定吉や重太郎の道場で学んだ期間はあまり永くない。

彼が千葉道場に入門したとされる嘉永六年四月から土佐に帰国した翌安政元年六月まで、およそ一年二ヶ月が最初に江戸に上ったときの修行期間である。
但し、この間、三ケ月は湾岸警備についていたので除外すると、実質江戸に居たのは一年に満たない。
江戸に二度目に行ったのは安政三年八月、再び帰郷したのが安政五年九月であるから、江戸に二度目に滞在したのは約二年余りということになる。

その後、龍馬は武市瑞山の土佐勤皇党に参加し、翌、文久二年には脱藩して、江戸に奔り、勝海舟の門人となった。
そして、次の文久三年には神戸の海軍塾に行っているので、これ以降は剣の修行はせず、専ら国事に奔走したのである。

このように、龍馬が北辰一刀流を学んだ期間を合算しても約三年間余りである。この短期間で一体どれほどの成果が期待できようか。

北辰一刀流の元となった小野派一刀流の伝授段階は八段階あったが、北辰一刀流では、千葉周作が大幅にこれを簡略化して、初目録、中目録、大目録皆伝の三段階にしてしまった。

この為、小野派一刀流では、三年修行を積めば、最初の小太刀、あるいは次の段階の刃引の免状を授けられたかもしれないが、たった三段階しかない北辰一刀流では、まだ最初の初目録を授けられる段階まで辿り着くことができなかったのではないかと思われる。

これが、現在に到るまで論争の的になっている、坂本龍馬の実力である。

間違いのないように言っておくが、これは、龍馬が、竹刀の打ち合い、つまり撃剣で強かったか弱かったかという事とは関係がない。

当時の稽古は、防具を付けて竹刀で打ち合う「打込み稽古」と、昔ながらの組太刀による形稽古があった。
北辰一刀流などの新しい流派では、この打込み稽古を重視していて他流試合で勝ちを制することが重要なことではあったが、組太刀の稽古もおろそかにはしていなかった。

特に各段階の免状を受けるばあい、その流派の組太刀の形を習得していなければならなかったのである。

防具をつけての打込み稽古の場合は、運動神経がすぐれ、体力もあれば、入門からさほど経っていなくても兄弟子を打ち負かすことができる。

龍馬も、やわらで鍛えた身のこなしと、当時としては大柄であった体で、試合に出ればかなり強かったのではないだろうか。

しかし、もう一方の組太刀の習得はそう簡単にはいかない。一定の年月の修練が必要である。

ましてや、免状の段階が三段階しかない北辰一刀流では、その最初の段階の免状のハードルがかなり高かったに違いない。
いかに、試合に強くとも、この形稽古の習得無しにはとても初伝免状さえ発行することはできなかった。
そう考えれば、坂本龍馬の北辰一刀流の太刀の免状が存在しないという説明がつく。

その参考として、龍馬が受けた現存する唯一の免状、「北辰一刀流長刀兵法目録」を検証してみよう。

授けられたのは安政五年一月のことである。これまでの修行年限は多く見積もっても二年三ケ月。

この目録は太刀でも長い太刀でもない。なぎなたのことである。この「長刀」の意味がわからず「長い太刀」のことだと勘違いしている人もおられるようだが、薙刀を長刀と書くのは常識であろう。

北辰一刀流の長刀は、表十五本、裏十六本、さらに複法として十一本、都合四十二本の技法がある。

龍馬に出された目録は、水玉以下表技十五本、裏の陰陽刀、七曜剣、九曜剣、十文字の十九本である。
これは、入門して最初に習得すべき表技にその次の段階、裏技四本が入っている最初の免状、初伝目録である。
これの意味することは、二年あまりの期間に、薙刀の技法十九本を習得したということである。

これは、進歩の度合としても無理がない。理論的にも納得できる。

このことからも、剣のほうもこの程度、つまり他流派なら初伝の免状を受ける程度であったが、北辰一刀流では初目録を授けられるまでには至っていなかったということが推察できるのである。

もう一つこの伝書から読み取れることがある。

この目録の発行者は師の定吉である。
この師である千葉定吉の後に、長男の重太郎、三人の娘である佐那女、里幾女、幾久女と続く。

これを素直に読めば、重太郎と佐那、里幾、幾久がこの薙刀の技を龍馬に教えたということなのであり、これ以外の解釈はありえない。

「綿谷雪、山田忠史編・武芸流派大事典」によると、こうある。

「長女佐那女は鬼小町といわれて剣・薙刀にすぐれていた。周作の制定した北辰一刀流薙刀の伝系は、定吉ー重太郎ー佐那女とうけつがれたのである。」

このように、はっきりと佐那女がこの薙刀の技法を継承したと明記してある。

また、佐那については「坂本龍馬が嘉永六年に土佐から出て来て入門したのは、鍛冶橋外、狩野新道の千葉重太郎の道場で、そのころ、中目録の腕前であった鬼小町の佐那女にどうしても歯が立たなかったという。」

こう見てくると、後年、千葉佐那の談話とされているものは、いささかあやしくなってくる。

「父は坂本さんを塾頭に任じ、、翌五年一月、北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私達三姉妹の名も書き込むように頼んでおりました。
父は、「例のないことだ」と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み坂本さんに与えました。」(高木薫明「千葉鍼灸院」)

これには佐那本人であれば間違いようのない誤りがある。
北辰一刀流長刀目録を剣の北辰一刀流目録と勘違いして書いている。文面からすると明らかにこの目録を剣術のものと勘違いしているのである。もし、佐那本人ならば、剣術と長刀を間違うわけはない。
そして、この三姉妹の名を入れたことも、彼女達が龍馬に長刀を教えたのであれば至極当然なことで珍しくもなんともない。

このように、間違った事を当の本人の佐那が言うはずはないのである。
従って、この部分は、この本の著者の聞き違いか、素人考えによる後世のつじつま合わせか、あるいは話を面白くするための作者のでっち上げであろう。

江戸、幕末( 5 / 18 )

坂本龍馬 結論

龍馬の剣の実力は大したことはなかった。

 

坂本龍馬については、多くの俗説や後世の創作などにより、その実像が分からなくなっている。

いまや、歴史上の人物では最も人気があると思われ、その名前は小さな子供でさえ知っていよう。

それだけに、多くの小説や映画、歴史ドラマ、漫画の主人公として取り上げられ、次第に、その虚像だけが大きく膨らんでいった。

特に、一昨年放映されたNHKの大河ドラマはひどかった。あそこまで出鱈目な造りかたをされるとあほらしくて見ていられなくなる。視聴料を返せと言いたくなる。
そういえば、今放映中のやつも見るに堪えない。公共放送があんなものを作っていいのか。

この坂本龍馬についても、虚像や創作で雪だるまのようにふくれあがり、その過去生きた、生身の人間としての実像がわからなくなってしまっている。

今や、龍馬は我が国で人気一、二を争う英雄である。

多くの人達が、英雄に求めるものは、その人格、能力等のすべてのものが他に卓越して優れているということだ。そうでなければ英雄とは言えない。そう信じている。
人には真似のできない能力をもっているからこそ、凡人には成し得ない偉業をやってのけたのだと。

大衆は同じことを坂本龍馬という実在の人物に求めた。それに応えて多くの小説が書かれ、ドラマが作られ、漫画が描かれた。そして、ついに、剣術の達人ということになってしまった。

しかし、事実はそうではなかったことは、これまで私が説明してきたとおりである。

そもそも、すべての英雄が、剣豪であったり、豪傑である必要はなかろう。

とくに龍馬の場合は国士として偉業を成し遂げたものであって、武術家としてではないはずだ。

彼とて一人の人間である。その真実を知るには、残された文献資料から読み解いてゆくしかない。

この場合、龍馬の武術に関する文献資料として最も信頼できるものは、残された四巻の伝書である。

幸いなことに、この四巻の伝書は、ネット上にもその写真が公開されている。

小さくて判読不明の字もあるが、他の文献と突き合わせてみればだいたいのことはわかる。

こうして、龍馬の人間としての実像が浮かび上がってきたのである。

では、次に今まで説明してきた龍馬の武術の修行の跡を簡単に辿ってみよう。

 

嘉永元年、龍馬数え十四のとき、小栗流和術、日野根弁治に入門する。

五年後の嘉永六年三月、江戸に向かう。この直前に「小栗流和兵法事目録」を授けられる。
これまでの修行は主にやわら(柔術)の修行である。
五年間でこれだけの技法を習得したということは、かなり優秀であったと言うことができる。

この年、江戸の北辰一刀流の千葉重太郎に入門する。
千葉重太郎は、この流派の創始者である千葉周作の弟、定吉の長男である。
龍馬はその後、定吉にも教えを受け、周作のお玉が池の玄武館にも出入りするようになる。

同年のうち、三ヶ月は沿岸警備のために江戸を離れていた為に北辰一刀流の稽古はしていない。

翌、安政元年、土佐に帰る。帰国後、「小栗流和兵法十二箇條并和二十五箇條」を受けた。
これは、江戸に出府の折に渡すべきものを、間に合わなかったので、帰郷した時に与えたものであろう。それまでの五年間で、それだけ龍馬の修行が進んでいたと考えられる。

土佐に二年いたのち、安政三年。再び江戸に向かう。
安政五年、「北辰一刀流長刀兵法目録」を千葉定吉よりうける。この目録には、重太郎、佐那女などに三姉妹の名がある。これにより、定吉の長男重太郎をはじめ、佐那女など三姉妹からも長刀の教えを受けたことがわかる。

同年(安政五年)九月、土佐に帰る。

文久元年(1861)「小栗流和兵法三箇條」を受ける。二度目に土佐に帰ってからおよそ三年目でこの高位の免状を受けた。この間も小栗流の稽古を絶やさなかったことがわかる。
龍馬は修行年数合計十年にして、このやわらに関する限り、相当高い階位にまで技が進んだことは間違いない。

それから間もなく。翌年文久二年三月に龍馬は脱藩する。以後は勝海舟について海軍塾に関わっているため、以後の武術修行はなかったものと考えてよい。

小栗流和術については以上のとおりであるが、北辰一刀流のほうはどうであったろう。

前に書いたとおり、その修行年限は長く見積もっても二年あまりである。

これだけの短い期間では、その成果はたかが知れている。長刀の初伝目録を貰ったのがせいぜいであろう。

結論をいうと、坂本龍馬は、柔術は一流であったが、剣術は決して一流とは言えなかった。これが結論である。

これが故に、闘争の場でも、刀を使うことがなかった。6発しか撃てない拳銃で役人を撃ち、親指に重傷を負うたのもこれが原因である。
ここは、当然、刀で対応すべき場面である。剣術に自信があれば当然、剣で防いだことであろう。
この事をみても、坂本竜馬は剣術には自信がなかったと言われても仕方があるまい。

もっとも、当時流行の竹刀打ち剣術ではあまり実戦には役に立たず、天然理心流のような古い剣法のほうが切り合いには強かったことは、当時も世に知られていたことではあったが。

 

江戸、幕末( 6 / 18 )

坂本龍馬は何一つ北辰一刀流の免許は受けていない

坂本龍馬の北辰一刀流修行の成果


幕末維新の著名人物のなかで、坂本龍馬ほど様々な創作や捏造、憶測により、その素のままの人物像がわからなくなっている人物はいない。

中でも北辰一刀流の修行については、確たる証拠は少ない。それが今では北辰一刀流の免許皆伝を受けた剣豪であったということになってしまっている。


歴史上の人物を調べる場合、その資料の選定が極めて重要である。

これを誤ると、とんでもなく実像とかけ離れたものとなってしまう。

特に注意しなければならないのは、その人物の縁故者が書いたものや、ある目的(英雄に祭り上げるなど)のもとに書かれたものである。


現在の龍馬像の原型となっているのは坂崎紫瀾の書いた小説「汗血千里駒」である。これは高知の土陽新聞に明治十六年に掲載され、この年に単行本として出版されている。

この小説は今まで無名であった坂本龍馬を世に広く知らしめる為に書かれたものだ。


明治維新の元勲を多く輩出した薩摩、長州に比べ、土佐の人間にはこれが少ない。

それを残念に思っていた坂崎紫瀾は、当時、余り世間に知られていなかった坂本龍馬を引っ張り出し、これを主人公にして小説を書いたのである。

小説であるからには面白くなければならないし、当然、その主人公は英雄でなければならない。その為には誇張や粉飾もあり、創作もありうる。

そのような小説を大真面目に取り上げて、龍馬研究の資料とすることは厳に慎まなければならないことであるが、現在、多くの龍馬を主題とした小説や書籍はこれを下敷きにしている。


次に龍馬を主人公として書かれた本は、弘松宣枝の「阪本龍馬」である。

著者の弘枝は龍馬の係累である。発刊は明治二十九年。

およそ、歴史資料として最も注意しなければならないものは、主人公の子孫や係累の書いたものであろう。当然、悪いことは書かないし、功績は誇張して書く。あるいは捏造もありうる。

江戸、明治期を通じて、我が国には夥しい数の家系図や、先祖の功績を記録したものがあるが、その殆どが贔屓の引き倒しで、真実とは大きくかけ離れたものとなっている。

但し、身内でなければ知り得ないような情報や、手紙などの貴重な資料は持っている可能性があるので、よくよく注意して見分けなければならなことは言うまでもない。

明治に書かれた龍馬を主題とする書籍は以上の二冊である。

何れも土佐の地元の地縁、血縁者によって書かれたもので、すべてを頭から信用してかかると大きく実像から離れてしまうことになる。


次に、大正年間に書かれた書籍としては「維新土佐勤皇史」と「坂本龍馬」がある。


「維新土佐勤皇史」は、武市瑞山を顕彰する瑞山会が編纂している。

これによると、この本が刊行された大正元年当時、武市半平太(瑞山)とともに坂本龍馬が土佐の維新の立役者として世間に広く認められていたことになる。

しかも、この本文は「汗血千里駒」の著者である坂崎紫瀾が書いているところから、龍馬が如何に偉大であったかということを世間に知らしめるという目的は変わらない。


「坂本龍馬」千頭清臣著。これは、大正三年発行であるが、これは田岡正秋というゴーストライターが書いたもの。


昭和に入ってからは、昭和元年に書かれた「雋傑坂本龍馬」があるが、これは、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像を建設するための組織、坂本中岡銅像建設会が編集し、刊行したものである。


平尾道雄著の「坂本龍馬海援隊始末」は今までの龍馬を主題とした研究の集大成というべきもので、これは、各出版社により改訂版が出版されている。

この「坂本龍馬海援隊始末」こそ、多くの後世、多くの龍馬本の下敷きとなったもので、現在の坂本龍馬英雄説の根源をなすものである。


以上来てきたとおり現在の坂本龍馬像を形作った書籍は、いずれも、龍馬を英雄として広く世に知らしめるために書かれたものである。

従って、無いものをあるとし、しなかったものをしたとされることも数多くあっても不思議はない。


その最たるものが、坂本龍馬剣豪説である。

これは、最初から当然のごとく書かれている。英雄であるからには剣術も強くなければならないということであろう。


「汗血千里駒」では、以下のごとく書かれている。

”龍馬は神田お玉ケ池なる千葉周作氏の門に入りて、もっぱら剣道に心を委ね、ひたすら勉強なしたるゆえ、のちには土州藩士に剣客阪本龍馬その人ありとまで算えられて、諸藩を遊歴なすほどに至りける。”

「阪本龍馬」には”彼はお玉ケ池の千葉周作の門に入り、もっぱら剣道に心を委ね、黽励倦るなかりしに、ついに土州藩士に剣客坂本龍馬その人ありと知られ、世の嘖々する所となり、諸藩を遊歴するに至るれり。”


以上のごとく、明治時代に書かれた書籍には、いずれも「剣客」として有名であったとするものである。

また、この両方とも、お玉が池の千葉周作の門に入りとあり、龍馬が入門したのは千葉周作となっている。

この部分は、龍馬の剣豪説を考察するうえで重要であるので特に注意を必要とする。


龍馬剣豪説は、実は、坂本龍馬を世に出した張本人、坂崎紫瀾の「汗血千里駒」ですでに土佐藩士の剣客坂本龍馬ありと知られていたとする。

小説ではあるし、主人公が剣術が強かったとするのは無理のないところではあるが、このことの虚偽を何ら検証することなく後世に引き継がれ、尾ひれがつき、今ではすっかり龍馬剣豪説が定着してしまった。


では、龍馬は本当に剣術は強かったのか。

それには、大きな誤解がある。

その第一は龍馬が土佐で永年修行した「小栗流」は「剣術」の流派ではないということ。「柔術」の流派である。

今まで、ほとんどの龍馬本の著者たちは、これを剣術の流派と信じ込んでいた。

そのため、龍馬がすでに土佐で剣術の修行を積んでいたので、江戸に上り、「北辰一刀流」に入門した後に短期間で長足の進歩を遂げたと主張する。

しかし、龍馬の受けた小栗流の免許を見るとこれは明らかに柔術の伝書である。つまり、龍馬は、土佐ではろくに剣術の稽古をしていなかったことになる。

剣術では素人同然の人間が江戸に出て、たった三年足らずの修行で果たして北辰一刀流の免許皆伝を取得できるものだろうか。まず、あり得ぬことである。


誤解のその第二は、現存する龍馬が受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」をもって龍馬が北辰一刀流の剣術の免許皆伝を受けたとするものである。

しかし、これは剣の目録ではない。長刀(なぎなた)の目録であり、しかもそこに書かれているのは薙刀の技法の前半部分でしかない。

いわば、長刀の最初の目録、初伝を受けたということなのだ。

しかも、これさえ北辰一刀流の正式な目録ではなく、ある目的のために特別に作られたもののように思われるのである。


そのある目的とはなにか。そのヒントは龍馬自身の手紙にある。

その手紙とは姉の乙女に当てた文久三年六月十四日付の手紙である。

手紙の初めのほうに、「薙刀順付は千葉先生より越前老公け申し付けにて書きたるなり」とあり、この後ろに師の千葉定吉の長女佐那の説明が続く。

問題は長刀順付とは何かということである。

これは龍馬の受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」のことではないか。そう考えると全ての疑問が説明できるのではなかろうか。

つまり、この「北辰一刀流長刀兵法目録」は北辰一刀流の正式な目録ではなく、後年、龍馬が越前公、松平春嶽に拝謁するために師の定吉が特別に作成した「長刀順付」だった。

こう考えると、たかだか長刀の初伝目録にすぎないものが、必要以上に豪華な装丁がなされていることの説明もつく。


ところが最近、龍馬剣豪説を裏づける資料が出てきたという。

今年(2015年)夏、坂本家が高知県立坂本龍馬記念館に寄贈した龍馬関係の資料のなかに、北辰一刀流免許皆伝の実在を証明する書類が見つかった。

坂本家七代当主弥太郎が龍馬の甥の妻に出した預かり書である。

そこに書かれていたのは「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」の三巻で、日付は明治43年8月30日付けである。

しかし、昭和4年の展覧会の時にはすでに消失して無い。

現物が現存すれば問題はないが、消失したとあっては詳しく検証することはできず、本物とも偽物とも判断がつきかねるのだが。


問題なのは、その免状の名称である。

北辰一刀流の免許は初目録、中目録、大目録であり、それに箇条目録が加わる。

上記、三巻のうち、北辰一刀流としての正式な名前の目録は「北辰一刀流兵法箇条目録」だけで、「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」は他には例がない。

もしこれが正式な北辰一刀流の免許であるならば、「初目録」「中目録」「大目録」でなければならず、決して「皆伝」などといった一般的な名称は使わなかったはずだ。

これを考えるに、この三巻の巻物は、北辰一刀流に詳しくないものが後に作った贋作ではないだろうか。その他に、このことを合理的に説明できる理屈は思い浮かばない。


もう一つ腑に落ちないことがある。

それは、この免許は「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部消失セリ 於釧路市」とあるとおり千葉周作が出したということになっている。

しかし、千葉周作は安政二年(1855年)に死んでいる。

もし、千葉周作から免許を受けたのであれば、嘉永6年(1853年)から安政元年(1854年)の一年間ということになるが、これは龍馬の北辰一刀流一年目である。

入門一年目で免許皆伝まで受けることなどあり得ぬことである。

このことをもってしても、この三巻の免許状は後世、偽造されたのではないか。

その際、偽造者は当時出版されていた「汗血千里駒」あるいは「阪本龍馬」を読み、そこに(千葉周作の門に入り)と記載さてれているのを見てこの三巻の免許状を千葉周作の名前で偽造したものと考えられる。


そもそも、北辰一刀流の免許はそう簡単にとれるものではない。

通常、子供のころに入門し、十年で大目録をとれれば早い方である。清河八郎などは、人一倍の努力の末、人が三年かかる初目録を一年で取得し、それから六年後に中目録である。

清河八郎を本科生とするならば、龍馬は短期講習生にあたる。最初の一年で土佐に帰り、改めて江戸に出て千葉道場に復帰して一年で帰国するところ一年延長を願いでてもう一年。

これでは本格的な剣術修行など到底無理であり、龍馬本人もそれは十分納得の上の修行ではなかったか。


龍馬はよく手紙を書いている。もし、彼がその短期間のうちに免許皆伝まで取得したのであれば真っ先に手紙に書くことであろう。

それが全く残っていないということは、北辰一刀流の免許は何一つ貰っていないということを何より雄弁に物語っているのではなかろうか。

 

以上を考えると、坂本龍馬の実像がおぼろげながら浮かんでくる。

坂本龍馬は当時としては大柄な体格で、永年小栗流和(やわら)を修練したお蔭で体力はあったが剣術はその基礎を習った程度であった。

江戸に遊学して北辰一刀流に入門するが、都合三年足らずの修行ではその最初の目録さえ得ることができず、土佐に帰ることとなった。そして、その後は剣術より国事にのめり込むようになるのである。

現存する唯一の伝書、「北辰一刀流長刀兵法目録」さえ、後世、師の千葉定吉が松平春嶽に見せるために特別に作られたもので、北辰一刀流としての正式な免許状ではない可能性が大きい。

 

坂本龍馬の実像は、剣術は初心者に毛の生えた程度であり、決して剣豪などではなかった。それ故、拳銃を持ち歩いたのである。

 

 


 

江戸、幕末( 7 / 18 )

日本刀の強さ

日本刀の強さ

 

日本刀の強度については諸説ある。

使い方を誤ると折れたり曲がったりする。刃こぼれなどはしょっちゅうある。

新撰組の山南敬介の使った刀の絵が残っている。

刃はぼろぼろで、一カ所大きな切り込みがあり、そこから峰の方に曲がっている。
これでは、もう一度研ぎ直して打刀として使うことはできまい。
これをもって刀は消耗品であると主張する人もいる。

これにより、新撰組は、如何に激しい斬り合いをやっていたということがよくわかる。


では、当時の日本刀は、一度の斬り合いで2度と使い物にならぬほどの損傷を受けるような脆弱なものだったのだろうか。

お互いが力一杯打ち合っただけでこれほどのダメージを受けるとすれば、よほど軟弱な刀を使っていたか、斬り合うお互いの力が、よほど強かったとしか考えられない。

恐らく、この両方の原因によって、この刀がこうまで激しい損傷を受けたものと思われる。

まず。刀自体の問題である。

戦国時代の刀は、あくまでも実用本位であった。身は厚く、極めて頑丈で、少々打ち合っても決して折れず曲がらずというものであった。
というのは、合戦の度に折れたり曲がったりでは命に関わることである。
刃が良く切れるとか、姿、形、刃紋が美しいということは重要ではなかった。

この様に、実戦が行われていた戦国当時の刀は極めて頑丈なものであった。

ところが、徳川の代になり、戦がなくなると、刀は実用一点張りのものから、姿形が美しく美術的価値が高い、よく切れるものが珍重されるようになった。

この、よく切れるということと頑丈ということとは相矛盾する事柄である。

恐らく、山南敬介のこの佩刀も、良く切れるということを追求したあまり、頑丈さに欠ける刀を使ったのではないのだろうか。

しかし、刀自体の問題よりも、それを扱う人間のほうが遙に重要である。


では、次ぎに、人的原因を調べてみることにする。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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