武の歴史の誤りを糺す

江戸、幕末( 2 / 18 )

坂本龍馬 剣の実力

龍馬の剣術の実力への疑問

 

歴史上の人物で、誰が一番好きかと聞かれたら、その一、二を占めるのが坂本龍馬ではないだろうか。
日本人は非業の死を遂げた人物に対する同情心がとりわけ強い。判官贔屓というやつだ。

特に、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」をはじめ、多くの小説、映画、テレビドラマ、漫画にまで、この人物を主人公にした作品は数えきれない。

小説や映画などで歴史上の英雄を描く場合、とかく実像よりはるかに偉大な人物として表現されがちである。

龍馬の場合、剣の実力も、事実以上に誇張されているきらいがある。多くの龍馬フアンにとって、そうであってもらいたいとの心情は理解できるが、大切なことは、本当はどうであったかという真実であろう。

坂本龍馬が小説として登場するのは、明治十六年に高知の土陽新聞に掲載された坂崎紫瀾著「汗血千里駒」が最初である。龍馬の剣の実力はこの時点で、すでに相当なものであったとして描かれている。

「龍馬は神田お玉ケ池なる千葉周作氏の門に入りて、もっぱら剣道に心を委ね、ひたすら勉強なしたるゆえ、のちには土州藩士に剣客阪本龍馬その人ありとまで算えられて、諸藩を遊歴なすほどに至りける。」

このように、最初に小説に書かれた段階で、すでに相当な剣客であったとされていて、その後、これを下敷きとして、話がだんだんと大きくなっていったものと思われる。

では、事実はどうであったのか。

龍馬の江戸での剣術修行期間は極めて短期間であった。その短い間になぜこの様な土州藩士に坂本龍馬その人ありとまで言われるようになったのか。

多くの龍馬フアンは、「それが龍馬の非凡なところで、これが龍馬の英雄たる所以である。」というであろう。
しかし、それは、小説としては面白くはあっても、事実としては全く説得力に欠けるのである。

では、理論的に納得できる理由はないのか。

ただひとつ考えられることは、土佐ですでに相当な剣術の修行を積んでいて、その基礎があったればこそ、江戸で北辰一刀流の稽古を受けることにより、短期間で瞠目すべき進歩を遂げたというものである。

確かに、龍馬は数え十四歳から江戸に出てくる十九歳までの五年間、小栗流和兵法を日野根弁治について修行していた。
そして、江戸に上がる直前に、師から初伝目録である「小栗流和兵法事目録」一巻を与えられている。

多くの論者は、この事実をもって、坂本竜馬が剣豪であったとする根拠としているのである。

しかし、ちょっと待っていただきたい。

この小栗流という武術、一体何であったのか。

次に、この小栗流を検証してみることにしよう。

江戸、幕末( 3 / 18 )

坂本龍馬 小栗流

龍馬の修行した小栗流は柔術であり剣術ではない。

 

坂本竜馬が武術を修行したのは土佐で小栗流、江戸で北辰一刀流の二流派である。

では、この小栗流とは一体どのようなものだったのだろうか。

多くの書籍では、この流派を剣術を主にしたものであるという。

そして、この小栗流の剣の実力があったことが、のちに北辰一刀流の短期間での長足の進歩の基礎になったように思わせていることが多い。

では、この小栗流は、はたして剣を主体とする流派であったのだろうか。

今現在、高知にはこの流派の伝承者は存在しない。

従って、この小栗流の実像を調べるにあたって、その唯一の資料は、この流派の伝書しかない。

幸いなことには、龍馬が師の日野根弁治より与えられた三巻の伝書、すなわち、「小栗流和兵法事目録」「小栗流和兵法十二箇條並二十五箇條」「小栗流和兵法三箇條」が国立京都博物館に所蔵されている。

まず、この流派の名前である。
「小栗流和」。この「和」は(やわら)である。(やわら)つまり柔術である。世間に流布されているような「剣術」ではない。
この「和」という文字がやわらであるということは、多少なりとも武術に興味のある人ならば、当然知っている筈である。
しかるに、なぜ、やわらが剣術ということになったのか。
それはわからない。
しかし、本々は柔術を主体とする流派であったが、この時代は剣術を主に稽古したのだという論者もいると思う。

では、龍馬が最初に授けられた「小栗流和兵法事目録」を見てみよう。
この目録とは、龍馬が実際に習得した技法の目録であり、これをみればどのような技を習っていたかわかるのである。

まず、太刀の技は、天刀、地刀、抜刀、右曲、左曲の五本のみである。小太刀の七本を入れても十二本でしかない。

一方、やわら(柔)の技はどうか。

取胸、折指、取手、纏頭、取帯の主たる技法に、それぞれ応用技か変化技と思われる移、乱があり、さらに、それら各々に上、中、下、の段階がある。
それらを合計すると、この小栗流和術とは、四十五本ものさまざまな技法を有する極めて充実した内容をもつ優れた柔術の流派であることがわかる。

江戸初期からの古い流派であるので、主たる柔術の他に、外の物として太刀、小太刀、居合、棒なども含む総合武術である。

外の物とは、いわば武士の教養科目ともいうべきものであり、一通り習得すべきものであるが、あくまでも心得としての範囲を出ることはない。
故に、いくらこの太刀技を稽古したところで、たった五本しかない技では、大した進歩は望めまい。
せいぜい、簡単な基本的な形を覚えるにすぎないであろう。

龍馬は幼少のころから寝小便たれで虚弱であったという。

これを、治し、頑健な体を作るには、剣術と柔術とどちらが有効であろうか。

言うまでもなく柔術である。

柔術は、全身を使う。活法や整骨などもあり、こと健康に関するかぎり剣術の比ではない。
龍馬の親も当然、柔術を習わせたと考えるほうが自然である。

龍馬が日野根弁治の小栗流和術に入門したのは、数えで十四歳である。
それから、十九歳で江戸に出立するまでの五年間が彼の修行期間である。

この上京寸前に最初の目録「小栗流和兵法事目録」を与えられている。

入門は十四歳といっても数え年である。満でいえば十二歳。それから数えの十九歳、満十七歳までの五年間でこれだけの技を習得したことになる。
今でいえば、ちょうど中一から高二にあたるか五年間で、これだけの技を習得したということである。
坂本竜馬は、小栗流のやわら(和)では、まずまず優秀であったといえよう。

但し、剣術は、その基礎を修めた程度で江戸に向かったのである。

 


 

江戸、幕末( 4 / 18 )

坂本龍馬 北辰一刀流

龍馬と北辰一刀流

 

坂本龍馬が土佐で修めた小栗流和(小栗流やわら)は甲冑伝とも武者取りともいわれるいわゆる柔術を主とするものであった。

柔術にも、その発生時期により様々な技法がある。

この小栗流は、江戸創世期からの由来をもつ極めて古い流派である。そして、柔術の柔という字を嫌って甲冑伝とも武者取りとも言ったことから推察すると、主に甲冑組討を基礎とした技法をもつものと思われる。

この武者取りの取るという言葉は、相撲を取ると同じ意味であり、やわらの場合に使われたもので、剣術に使われることは無かった。

このことから考えても、この小栗流が剣術の流派ではなく、極めて古い形を残した柔術の一形態であったことがわかるのである。 

龍馬は数え年十四歳から十九歳までの五年間、相当本気でこの稽古に打ち込んだようで、僅か五年で「小栗流和兵法事目録」に記載されたすべての技を習得したということは、かなり優秀といってよい。
しかし、江戸に上がり、北辰一刀流に入門するまでは、撃剣(剣術)の方は、余り得意ではなかったであろう。

なぜならば、小栗流で習った太刀は、おそらく木刀か袋竹刀を使った型稽古であったろうし、それも基本の五本のみである。

ただ、江戸と国元の高知との交流は、参勤交代や藩士の交代、江戸への遊学などで活発に行われていたから、当然、江戸で流行していた防具をつけての打ち合い稽古も導入されていた筈だ。

龍馬も、江戸遊学にあたり、この稽古を多少は積んでいたとしても不思議はない。

当時、江戸で隆盛を極めた鏡心明知流、神道無念流、北辰一刀流の各大流派は、全く新しい稽古法を取り入れていた。

正徳年間( 1711 ~ 1715 )直新影流の長沼四郎左衛門が防具を開発し、実際に打ち込んで稽古を行う「打込み稽古法」を始めた。

その後、一刀流の中西忠蔵が鉄面、竹具足を使って現在の剣道とかわらぬ「打込み稽古」を採用したことにより、この稽古法は幕末期に大流行したのである。

こうして、面、胴、籠手をつけて実際に打ち合って稽古を始めると、当然のことながら流儀の垣根が無くなり、寛政年間( 1789 ~ 1801 )には頻繁に他流試合が行われるようになった。

そして、龍馬が上京したころには、ほとんどの剣術流派がこういった打込み稽古をやるようになっていたが、流派によっては、昔ながらの組太刀の稽古を重視した天然理心流のような流派もあった。

龍馬が入門したのは、北辰一刀流の千葉周作の弟の定吉の長男、重太郎である。その後、定吉の指導も受け、お玉ケ池の道場にも顔を出すようになる。

龍馬がこの千葉定吉や重太郎の道場で学んだ期間はあまり永くない。

彼が千葉道場に入門したとされる嘉永六年四月から土佐に帰国した翌安政元年六月まで、およそ一年二ヶ月が最初に江戸に上ったときの修行期間である。
但し、この間、三ケ月は湾岸警備についていたので除外すると、実質江戸に居たのは一年に満たない。
江戸に二度目に行ったのは安政三年八月、再び帰郷したのが安政五年九月であるから、江戸に二度目に滞在したのは約二年余りということになる。

その後、龍馬は武市瑞山の土佐勤皇党に参加し、翌、文久二年には脱藩して、江戸に奔り、勝海舟の門人となった。
そして、次の文久三年には神戸の海軍塾に行っているので、これ以降は剣の修行はせず、専ら国事に奔走したのである。

このように、龍馬が北辰一刀流を学んだ期間を合算しても約三年間余りである。この短期間で一体どれほどの成果が期待できようか。

北辰一刀流の元となった小野派一刀流の伝授段階は八段階あったが、北辰一刀流では、千葉周作が大幅にこれを簡略化して、初目録、中目録、大目録皆伝の三段階にしてしまった。

この為、小野派一刀流では、三年修行を積めば、最初の小太刀、あるいは次の段階の刃引の免状を授けられたかもしれないが、たった三段階しかない北辰一刀流では、まだ最初の初目録を授けられる段階まで辿り着くことができなかったのではないかと思われる。

これが、現在に到るまで論争の的になっている、坂本龍馬の実力である。

間違いのないように言っておくが、これは、龍馬が、竹刀の打ち合い、つまり撃剣で強かったか弱かったかという事とは関係がない。

当時の稽古は、防具を付けて竹刀で打ち合う「打込み稽古」と、昔ながらの組太刀による形稽古があった。
北辰一刀流などの新しい流派では、この打込み稽古を重視していて他流試合で勝ちを制することが重要なことではあったが、組太刀の稽古もおろそかにはしていなかった。

特に各段階の免状を受けるばあい、その流派の組太刀の形を習得していなければならなかったのである。

防具をつけての打込み稽古の場合は、運動神経がすぐれ、体力もあれば、入門からさほど経っていなくても兄弟子を打ち負かすことができる。

龍馬も、やわらで鍛えた身のこなしと、当時としては大柄であった体で、試合に出ればかなり強かったのではないだろうか。

しかし、もう一方の組太刀の習得はそう簡単にはいかない。一定の年月の修練が必要である。

ましてや、免状の段階が三段階しかない北辰一刀流では、その最初の段階の免状のハードルがかなり高かったに違いない。
いかに、試合に強くとも、この形稽古の習得無しにはとても初伝免状さえ発行することはできなかった。
そう考えれば、坂本龍馬の北辰一刀流の太刀の免状が存在しないという説明がつく。

その参考として、龍馬が受けた現存する唯一の免状、「北辰一刀流長刀兵法目録」を検証してみよう。

授けられたのは安政五年一月のことである。これまでの修行年限は多く見積もっても二年三ケ月。

この目録は太刀でも長い太刀でもない。なぎなたのことである。この「長刀」の意味がわからず「長い太刀」のことだと勘違いしている人もおられるようだが、薙刀を長刀と書くのは常識であろう。

北辰一刀流の長刀は、表十五本、裏十六本、さらに複法として十一本、都合四十二本の技法がある。

龍馬に出された目録は、水玉以下表技十五本、裏の陰陽刀、七曜剣、九曜剣、十文字の十九本である。
これは、入門して最初に習得すべき表技にその次の段階、裏技四本が入っている最初の免状、初伝目録である。
これの意味することは、二年あまりの期間に、薙刀の技法十九本を習得したということである。

これは、進歩の度合としても無理がない。理論的にも納得できる。

このことからも、剣のほうもこの程度、つまり他流派なら初伝の免状を受ける程度であったが、北辰一刀流では初目録を授けられるまでには至っていなかったということが推察できるのである。

もう一つこの伝書から読み取れることがある。

この目録の発行者は師の定吉である。
この師である千葉定吉の後に、長男の重太郎、三人の娘である佐那女、里幾女、幾久女と続く。

これを素直に読めば、重太郎と佐那、里幾、幾久がこの薙刀の技を龍馬に教えたということなのであり、これ以外の解釈はありえない。

「綿谷雪、山田忠史編・武芸流派大事典」によると、こうある。

「長女佐那女は鬼小町といわれて剣・薙刀にすぐれていた。周作の制定した北辰一刀流薙刀の伝系は、定吉ー重太郎ー佐那女とうけつがれたのである。」

このように、はっきりと佐那女がこの薙刀の技法を継承したと明記してある。

また、佐那については「坂本龍馬が嘉永六年に土佐から出て来て入門したのは、鍛冶橋外、狩野新道の千葉重太郎の道場で、そのころ、中目録の腕前であった鬼小町の佐那女にどうしても歯が立たなかったという。」

こう見てくると、後年、千葉佐那の談話とされているものは、いささかあやしくなってくる。

「父は坂本さんを塾頭に任じ、、翌五年一月、北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私達三姉妹の名も書き込むように頼んでおりました。
父は、「例のないことだ」と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み坂本さんに与えました。」(高木薫明「千葉鍼灸院」)

これには佐那本人であれば間違いようのない誤りがある。
北辰一刀流長刀目録を剣の北辰一刀流目録と勘違いして書いている。文面からすると明らかにこの目録を剣術のものと勘違いしているのである。もし、佐那本人ならば、剣術と長刀を間違うわけはない。
そして、この三姉妹の名を入れたことも、彼女達が龍馬に長刀を教えたのであれば至極当然なことで珍しくもなんともない。

このように、間違った事を当の本人の佐那が言うはずはないのである。
従って、この部分は、この本の著者の聞き違いか、素人考えによる後世のつじつま合わせか、あるいは話を面白くするための作者のでっち上げであろう。

江戸、幕末( 5 / 18 )

坂本龍馬 結論

龍馬の剣の実力は大したことはなかった。

 

坂本龍馬については、多くの俗説や後世の創作などにより、その実像が分からなくなっている。

いまや、歴史上の人物では最も人気があると思われ、その名前は小さな子供でさえ知っていよう。

それだけに、多くの小説や映画、歴史ドラマ、漫画の主人公として取り上げられ、次第に、その虚像だけが大きく膨らんでいった。

特に、一昨年放映されたNHKの大河ドラマはひどかった。あそこまで出鱈目な造りかたをされるとあほらしくて見ていられなくなる。視聴料を返せと言いたくなる。
そういえば、今放映中のやつも見るに堪えない。公共放送があんなものを作っていいのか。

この坂本龍馬についても、虚像や創作で雪だるまのようにふくれあがり、その過去生きた、生身の人間としての実像がわからなくなってしまっている。

今や、龍馬は我が国で人気一、二を争う英雄である。

多くの人達が、英雄に求めるものは、その人格、能力等のすべてのものが他に卓越して優れているということだ。そうでなければ英雄とは言えない。そう信じている。
人には真似のできない能力をもっているからこそ、凡人には成し得ない偉業をやってのけたのだと。

大衆は同じことを坂本龍馬という実在の人物に求めた。それに応えて多くの小説が書かれ、ドラマが作られ、漫画が描かれた。そして、ついに、剣術の達人ということになってしまった。

しかし、事実はそうではなかったことは、これまで私が説明してきたとおりである。

そもそも、すべての英雄が、剣豪であったり、豪傑である必要はなかろう。

とくに龍馬の場合は国士として偉業を成し遂げたものであって、武術家としてではないはずだ。

彼とて一人の人間である。その真実を知るには、残された文献資料から読み解いてゆくしかない。

この場合、龍馬の武術に関する文献資料として最も信頼できるものは、残された四巻の伝書である。

幸いなことに、この四巻の伝書は、ネット上にもその写真が公開されている。

小さくて判読不明の字もあるが、他の文献と突き合わせてみればだいたいのことはわかる。

こうして、龍馬の人間としての実像が浮かび上がってきたのである。

では、次に今まで説明してきた龍馬の武術の修行の跡を簡単に辿ってみよう。

 

嘉永元年、龍馬数え十四のとき、小栗流和術、日野根弁治に入門する。

五年後の嘉永六年三月、江戸に向かう。この直前に「小栗流和兵法事目録」を授けられる。
これまでの修行は主にやわら(柔術)の修行である。
五年間でこれだけの技法を習得したということは、かなり優秀であったと言うことができる。

この年、江戸の北辰一刀流の千葉重太郎に入門する。
千葉重太郎は、この流派の創始者である千葉周作の弟、定吉の長男である。
龍馬はその後、定吉にも教えを受け、周作のお玉が池の玄武館にも出入りするようになる。

同年のうち、三ヶ月は沿岸警備のために江戸を離れていた為に北辰一刀流の稽古はしていない。

翌、安政元年、土佐に帰る。帰国後、「小栗流和兵法十二箇條并和二十五箇條」を受けた。
これは、江戸に出府の折に渡すべきものを、間に合わなかったので、帰郷した時に与えたものであろう。それまでの五年間で、それだけ龍馬の修行が進んでいたと考えられる。

土佐に二年いたのち、安政三年。再び江戸に向かう。
安政五年、「北辰一刀流長刀兵法目録」を千葉定吉よりうける。この目録には、重太郎、佐那女などに三姉妹の名がある。これにより、定吉の長男重太郎をはじめ、佐那女など三姉妹からも長刀の教えを受けたことがわかる。

同年(安政五年)九月、土佐に帰る。

文久元年(1861)「小栗流和兵法三箇條」を受ける。二度目に土佐に帰ってからおよそ三年目でこの高位の免状を受けた。この間も小栗流の稽古を絶やさなかったことがわかる。
龍馬は修行年数合計十年にして、このやわらに関する限り、相当高い階位にまで技が進んだことは間違いない。

それから間もなく。翌年文久二年三月に龍馬は脱藩する。以後は勝海舟について海軍塾に関わっているため、以後の武術修行はなかったものと考えてよい。

小栗流和術については以上のとおりであるが、北辰一刀流のほうはどうであったろう。

前に書いたとおり、その修行年限は長く見積もっても二年あまりである。

これだけの短い期間では、その成果はたかが知れている。長刀の初伝目録を貰ったのがせいぜいであろう。

結論をいうと、坂本龍馬は、柔術は一流であったが、剣術は決して一流とは言えなかった。これが結論である。

これが故に、闘争の場でも、刀を使うことがなかった。6発しか撃てない拳銃で役人を撃ち、親指に重傷を負うたのもこれが原因である。
ここは、当然、刀で対応すべき場面である。剣術に自信があれば当然、剣で防いだことであろう。
この事をみても、坂本竜馬は剣術には自信がなかったと言われても仕方があるまい。

もっとも、当時流行の竹刀打ち剣術ではあまり実戦には役に立たず、天然理心流のような古い剣法のほうが切り合いには強かったことは、当時も世に知られていたことではあったが。

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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