ここまでお話ししてきたとおり、生命は奇跡と言える過去を経て誕生した。そして、人間は、出会いと出会いが重なり合って、子孫を残してきた。それ以外の生命も同じである。植物や動物もそれぞれの出会いがある。
花が受粉させるのに小さな虫を使うように、一つ一つの生命と生命のつながりあいが、生命全体を支えている。
食物連鎖という言葉があるはご存知だろう。私たち人間を含め動物は何かを食べなければ生きることは出来ないし、その食べるもののほとんどが自然の生命である。動物は自然の生命を食べなければ生きていけない。
他の生命を犠牲にする食事の際に、日本では「いただきます」という。素晴らしい伝統であり文化であり、そして日本人の価値観の現れだ。生命の尊さを知らない限り、こういった言葉は生まれてこない。
また、人間は、命を授かりながら生きて産まれてこないこともあるし、幼いころ命を落とすこともある。それは、植物も人間以外の動物もすべての生命に言えることなのだ。人間は、こうして命の尊さを学び、生命の価値を知る。
こうした生命の価値観を失うと、人は戦争を起こしたり、いつまでも妬みが絶えず復讐として報復の攻撃をしたりする。戦争とは、生命の尊さを知らない、もしくはその価値を見失った人間の侵す、最大で最悪の犯罪である。
あなたは何もないところから生まれてきたわけではない。父親と母親が必ずいる。その前には2組の祖父・祖母がいる。そして、それぞれが違う場所で生まれ、出会い、そして子孫を残してきた。
つまり、あなたは、人類が誕生した時からずっと続いている「出会いと出会いの宝物」だ。
あなたの両親が毎日口げんかをしている。「そんなに喧嘩するくらいなら、なんで結婚したんだ」と不思議に思うかもしれない。実際に、私の両親も面白いくらい喧嘩するし、私自身、二人の娘がいるが、様々な事情を経て離婚をしている。
なんだかんだ言っても、自分が生まれるときに両親が出会っていなければ、私はこの世にはいない。元妻と別れてしまっても、私は二人の娘の母親(元妻)と出会っていなければ、娘たちはこの世にいない。
私が、娘たちと遊んで二人の笑顔を見るたびに、この出会いと出会いのもたらす価値を思い知らされる。
私の知人に子どもができない人がいる。私は友人(旦那さん)のことしか知らないが、二人は奥さんが子どものできないカラダであることを知って結婚をした。それが二人の場合は、最初からわかっていたのだが、夫婦になって初めて子どもができない状態にあることを知り、不妊治療に取り組む夫婦も多いだろうし、その成果がでないことも多いだろう。
たまたま、あんたは子どもができたから能天気なことを言っているという批判は、甘んじて受け入れる。だが、ここで強調したいのは、出会いはとっても大切だということ。
私はその知人に色々と助けられた。彼が私を助けてくれなかったら、自分の人生はどうなっていたのだろうと深く考えるときがある。
そう考えると、決してある特定の二人の出会いのもとに宝物があるとは限らない。子を授かるすべての父親と母親は、何かしらの出会いと出会いが幾重にも重なりあって、子を授かることができる。
だから、子どもはたった二人だけのものでもないし、それ以前に出会ったすべての出会いから、大きな影響を受けている。
そして、出会いには勝ち負けがない。その出会いに価値を見出すかどうかは、あなた次第なのだ。価値組の人間は、すべての出会いに感謝し、そして価値あるものとして扱わなければならない。
他人よりも、自分を大切にしなければならない。多くの日本人は、あまりこういった言葉に良い印象を受けないと思う。
自己犠牲を伴うボランティア精神やある一定のコミュニティの一員として、自分よりも他を重んじなければならない時がある。ましてや、東日本大震災からようやく1年経過した時期だ。他人よりも、自分を大切にしなければならないと言われても、矛盾を感じることも多いだろう。
「絆」という言葉が日本では広く使われている。日本漢字能力検定協会(京都市下京区)は12日、2011年を表す漢字は「絆」と発表した[i]。また、ユーキャン新語流行語大賞に「絆」は選出されており[ii]、多くの人たちが絆を大切にしたいと感じている。
大辞泉によると、絆とは、経つことのできない人と人との結びつきのことをいう[iii]。あなたがいなければ、あなたと誰かは結びつくことができない。だからこそ、他人よりも自分自身を大切にしなければならない。絆を守るためにも。
あなたは、誰かの代わりに死ぬことはできない。誰かの代わりに傷つくこともできない。誰かの代わりに津波で家を失うこともできないし、福島第一原発事故の影響で誰かの代わりにあなたが避難生活を送ることもできない。
例え、あなたが今避難している誰かと代わったとする。あなたは、避難生活を送ることになるが、果たしてそれで何になるのだろう。もしくは、誰かがあなたの代わりにあなたの仕事を明日からしろと言っても無理がある。
例え、あなたが自己犠牲の精神に則り、仕事を捨て、被災地でボランティア活動をする。それがあなたの新しい仕事であり、あなたはそのボランティア活動がうまくいくようにしなければならない。
ここまで話をしてご理解いただけた読者の方もいると思う。人間は、自分自身である限り、他人にはなれないのだ。
あなたが私になるのも無理。私があなたになるのも無理。だからこそ、人間一人一人に価値がある。そして、自分自身を他人より大切にしなければ、他人を大切にすることはできない。
あなたは価値のある一人の人間として、自分自身を大切にするべきである。そう、あなたの代わりになる人はいないのだから。
ここまでの流れの中で、私はかなり「言い切り」の言葉を使ってきた。「でなければならない」とか「すべきである」といった具合だ。しかし、これらの言い切り言葉は、他人に価値を押し付ける言葉である。
価値組とは、それぞれ自分自身の価値観を大切にしなければならないはずである。しかし、私は、「言い切り言葉」で価値を押し付けようとしている。
矛盾。
そう言われても仕方がない。そう言われるように書いてきたつもりだ。この価値組の16の法則の中で、1では、価値測定器といって自分自身で価値を判断する尺度というか判断基準というかそういった価値の測定には、おカネというツールは使うものの、その「おカネ使う意味」自体は、価値に大きく左右されると説明をした。
そして、2~5では、あなた自身の置かれた状況を生命や時間、出会いといった分野で全ての人に当てはまるような状況を想定して書き進めてきた。ここまで書いた全ての言い切りの言葉に、あなた自身の価値観を当てはめて欲しい。
価値観を押し付けると押し付けられた方は、どことなく嫌な感じがするものである。しかし、一方で価値観は他人の影響を受け易いものでもある。例えば、兄弟がいる場合、年上の兄、姉が好きだった音楽のジャンルやマンガなどは影響を受け易いと思う。
日頃から価値観を鍛えなくてはならない。本当に正しいのか正しくないのを判断する価値測定器を養うためだ。
もちろん、筆者の言っていることはワケのわからない話だとあなたが思えば、私の話は価値がないだろうし、「そういう考え方もあるなぁ」とか「言われてみれば確かに」とか少しでも価値組に興味を示して頂けたら、私としては至福の極みである。
但し、価値は必ず自分で最終的に判断をする訓練をしなければ、価値組にはなれない。そして、価値を押し付けてしまうと、それは他人の自由を侵害するので、あまり望ましくはない。
矛盾が生まれるときに、人間は価値観を最大限に発揮するようにできている。ここで価値観を最大限に高めていただき、次なる章へと進んでいきたい。