幻の恋

 

              *京都への旅*

 

 拓也は8月11日(月)出発当日、朝7時に病院に佳織を迎えに行った。両親は広いロビーの左隅に静かに立っていたが、佳織は両親を避けるように、一人玄関の外に立っていた。「おはよう、佳織」拓也は学生のように元気に挨拶した。「おはようございます」普通の学生と変わらない明るい佳織の声が響いた。拓也は駆け足で両親に挨拶にいくと、母親だけが口を開いた。「よろしくお願いします」母親は丁寧に頭を下げた。「娘も佳織さんに会えるのを喜んでいます。それでは行ってまいります」二人と握手を交わすと、佳織が待っているタクシーに飛びこんだ。この旅行で現実のすばらしさを知ってくれることと佳恵との出会いが未来への第一歩になってくれることを願って東京駅に向かった。

 


 窓際の指定席に着くと佳織は自分の空間を手に入れた満足感で、遠足に向かう子供の笑顔を見せた。佳織は流れる風景をぼんやり眺めている。拓也の視線を感じ取ったのか、小さな声で窓に向かって話し始めた。「先生、ドクターって偉いんでしょう。世界的にも有名なんでしょう」真っ青な空を見つめて独り言を言った。「ああ」拓也は話しかけてくれたことに驚き即座に答えた。

 


 「どうして、こんなガンマーランクの大学にいるの?先生も?」佳織は自分の学歴のことを気にしている。「ハハハ・・・どうしてだろうね。確かに、最下位のランクだけど、学問にアルファーもガンマーも無いと思うんだが」拓也は軽く受け流す。「え!そうー」佳織は予想外の返答に驚いた。「だけど、先生もできの悪い学生相手はうんざりでしょ」拓也に振り向くと顔を近づける。「そんなことは無いよ。佳織さん、高校は何処だったの?」
 

 

 

 

佳織は黙っていた。「軽蔑されるから言えないわ」また、窓から遠くの景色を眺め始めた。拓也は佳織を怒らせたと思い次の言葉が出てこなかった。二人はしばらく窓の外を眺めていた。このまま怒らせては取り返しのつかないことになるのではないかと思い、勇気を出して口火を切った。「軽蔑しないよ」拓也は会話を続けた。「ヒルベルト大付属」佳織は消えるような声でささやいた。

 


 「え!アーベル大に100名合格する、あの名門!君こそどうして?」田舎育ちの拓也にとって雲の上の高校であった。「ほら、軽蔑したじゃない」佳織はすばやく振り向くとほほを膨らませた。「いや、まあ、失言でした」拓也は自分の愚かさがいやになった。もうだめだと思い、黙って下を向いてしまった。再び、二人の間に沈黙の時間が流れた。

 


 「佳織、思うんだけど、馬鹿でいいの。エリートじゃなくても、レールから脱線しても、いいの、親のロボットにはなりたくないの」佳織は目を閉じると寝言を言うようにゆっくりと小さな声で言った。拓也はなんと応えて言いか戸惑った。拓也は田舎で自由に育ち佳織のような悩みを持ったことが無かった。「先生は田舎者だからつまんないやつだよ」とにかく言葉をつないだ。

 

 

 「先生はどんなレールを走ってきたの?」佳織はハイトーンの声でたずねた。「え!僕にはレールなんて無かったよ。夢はあったけど、宇宙の謎を解く夢!」拓也は自分の青春時代を思い出していた。「夢か!佳織には何にも無いな」佳織は黙り込んでしまった。拓也はまたしても怒らせたのではないかと気が気ではなかった。

 


 「先生、実を言うと佳織、うそをついていたの。流産の話、うそなの。死にたくても死ねないから、ママを苦しめたくて言ったの。家出したのも、信者になったのも、母から逃げ出したかったからなの」このことはドクターにも話していなかった。佳織は拓也の優しさを感じ取っていた。佳織の始めての告白であった。佳織は自分をわかってくれる人に巡り会ったように思えて拓也の顔をじっと見つめた。

 


 拓也は笑顔を作ると「そうだったのか、本当に、神の子を流産したと思っていたよ」拓也はうそと聞いて内心ほっとしていた。「先生、実際にいるのよ。教祖の妻は!20人以上いるはずよ。だけど、佳織はなれなかった。教祖は人間なのよ。神じゃないわ。それに・・・」佳織は自分の気持ちを伝えたい衝動にかられていた。拓也は佳織の途切れた言葉が気になったが、話を続けてくれたことに感謝した。

 

 

 「人間は不完全でいいんだよ、できそこないでいいんだよ。悩んで、苦しんで、泣いて、笑って、恥かいて、それでいいんだよ」拓也はもっと会話が続くことを願った。「ママってね、他人に自慢できる、エリート人間になれって言うの。成績は一番、品行方正、常に模範生。そんな人間になんてなれっこないのに。もっとムカつくのは男の子からメールが来ると目を吊り上げたりするの。いつも監視されてるの。佳織はママのロボットじゃないわ」佳織の声は悲しげであった。

 


 佳織の心の傷がとても深いことに気づいた。拓也は女性の心理は苦手であったが自分の気持ちを素直に話すことにした。「先生も逃げ出したくなるときが何度もあったな。スポーツ音痴だから運動会は死ぬほどいやだった。水泳もだ。まったく泳げなかったから、水泳の時間は仮病を使ってたな。それに、口下手だから女の子と話せなくて、話しかけられると逃げてたっけ。高校の合格発表の日も怖くて見にいけなかったな」拓也は学生のころを思い出しぼそぼそと話した。佳織は子供のような瞳で流れる景色をじっと見つめていた。

 


 佳織は静かに小さな声で話し始めた。「確かに逃げているの。自分を救ってくれる夢の中に。だけど、いつまで、逃げればいいのかしら」佳織は本当の悩みを見つけようとしていた。「そうだなー、おかしなもので、とことん逃げてもメビウスの輪みたいに、いつの間にか元のところに戻ってくるんだな。ほら、楽しい夢を見ていて終わらないで、このまま夢が続いてって、思ったことがあるだろ。だけど、目が覚めたとき、やはり、夢の中の自分はうその自分であることに気づくんだな。夢は夢でいいじゃないか。

 

 

 

春日信彦
作家:春日信彦
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