メンタルジェットコースター

病む人々( 1 / 3 )

ルイ

 一夜限りの友人たちは散り散りになり、私はまた一人になった。ハイとロウを繰り返す日々に辟易しながらも、なんとか日々をやり過ごし、相変わらずオーバードーズも繰り返し自分でも訳の解らない生活をしていた矢先、何の気なしに流していたTVから流れてきた曲に一瞬で心を奪われた。Pというバンドの曲だった。物凄いエネルギーを感じて、一瞬で虜になった。Pの事をよく知らない私は、当時、山ほどあったPのファンサイトの中で1つ、お気に入りのサイトを見つけた。管理人は年の近い女の子で名前は春(仮名)と言った。春のサイトは割りと静かで、落ち着きのあるサイトだった。私は今度こそ失敗しないように、慎重に春に近付き、Pの事やプライベートの事も話す間柄になった。ルイと出逢ったのもそんな頃だった。ルイは以前からの春のサイトの住人で、少し大人しくて、でもどこか凛としたルイとも仲良くなった。私達は同じPファンという絆で結ばれ、ルイとは東京でのPのライブでも逢ったりした。


 Pを通じては色んな人々と出逢ったが、今も付き合いがあるのはルイだけだ。それは、ルイも同じように心に痛みを抱えた人間だったからだ。春に彼氏が出来て、ルイと私から離れてゆき、連絡も取らないようになっても、私とルイは、時にぶつかりながらも、その血の繋がりのような絆が切れる事は無かった。

 私と知り合って間もなく、ルイは精神科に通うようになった。プライバシーに関わる事なので割愛するが、今もルイは病院に通っている。彼女もメンタルジェットコースターの乗客だった。上がったり下がったり、それは私も同じで、私達はきっと、同じコースターに乗っている。それは、偶然でなく、必然だと思っている。

 ルイと知り合い、親交を深め、Pのファンの友達も沢山出来た頃から、私の乗ったメンタルジェットコースターは凄い勢いでアップダウンを繰り返すようになった。良くも悪くも、私の人生がもう一度動き始めた。

 そして、次々と「病む人々」と出会う事になるとは、この時は思いもしなかった。

 それから間もなく、ルイは入院した。

病む人々( 2 / 3 )

友美

 数年は、私達Pファン仲間は上手くやっていた。小さないざこざはあったものの、上手くかわすことも出来た。この頃、私のコースターは上の方を走っていた。
 
 コースターが急カーブを切ったのは、PバンドにNさんというサポートメンバーが入った頃だった。私はNさんに夢中になった。物凄く魅力的な人であり、彼の演奏する楽器の音色もまた素晴らしかった。その頃Nさんは下北沢で定期的に個人のライブを行っていた。キャパシティ40のライブバーに、私は毎月通った。NさんがPのサポートに入った事で、ライブの観客数は増え、私のようにPから流れてきたファンは、元々のNさんのファンに煙たがられた。この頃の私はまたしても完全にハイで、乗れなかった電車にも乗れ、びっくりするくらい活動的だった。私の髪は金色で、気分によっていきなり黒く染めたり、長い髪を突然ベリーショートにしたり、正常な判断がまるっきり出来ていなかった。

 そんな最中に出逢ったのが友美(仮名)だった。友美はうつ病だったが、互いの病気の事は最初は伏せていた。次第に仲良くなり、仲良くなる過程で互いの病気の事を伝え合った。友美はうつ期以外は前向きで、

「病気を治して、彼と結婚するんだ」

と、口癖のように言っていた。私はルイと友美には何でも話せた。

 その頃、私は正気とは思えない日誌をつけていた。オーバードーズ日誌だ。毎日、寝る前に何をどのくらい飲んだか、オフラインならまだしも、オンラインで書いていた。その場所を知っていたのはルイと友美だけだったが、その頃、完全ハイな私は「どうだ、凄いだろう」くらいの勢いで日誌をつけていたが、最初はコメントを寄せていた友美が、急にコメントを残さなくなり、どうしたの?と訊ねると、実にまっとうな答えが返ってきた。

「けいは病気を治す気があると思えない」

その言葉ではっと我に返った私は、日誌のページを消した。そして友美とも疎遠になっていった。

 友美はその後、医師から寛解の太鼓判をもらい、めでたく恋人と結婚したが、皮肉な事に、私を批判したオーバードーズが原因で離婚する事になった。

病む人々( 3 / 3 )

様々な人々

 友美と疎遠になってからも、様々な人と出会っては離れていった。しかし、現在進行形で仲良くしてもらっている人々の中にも病む人々が多い。Kさん、Tさん、Sさん、Aちゃん…私の周りに病む人のなんと多い事か。皆、メンタルジェットコースターの乗客だ。落ちたり上がったり、それでも皆、懸命に生きている。

 どういう訳か、必然か、私は所謂、健常者と人間関係を構築するのが苦手らしい、という事には最近気付いた。発病から11年も経って、だ。ハイになっている時はどんな人でも受け入れられる。しかし、一旦ロウになると、コースターが落ち始めると、私のキャパはいっぱいになってしまう。他者を受け入れられず、極端に人を避け、1人きりで過ごす時間が多くなる。1人は楽だ。寂しさも感じない。どんなに「1人だ」と思っても、私にはルイが居る。ルイとの関係は今後も続いていくだろう。

 Nさんのファンになって様々な人と出会った。再びN市に住む人とも仲良くなったが、その関係は長くは続かなかった。私にとってN市は鬼門だ。Pのファンだった頃、広島、大阪と新幹線に乗って出かける事があったが、N市のそばを通ると心拍数が上がり、気分が悪くなった。それでもなんとかN市に行く機会もこの5年ほどで数回あったが、やはり気分のいいものではなかった。大抵、遠くに行く時はライブの遠征であるが、なるべくN市は避けている。何より私は現在、無職なので、そうそうライブ遠征も出来ないのが現状だが。

 Nさんのライブも、Pのライブも行かなくなった今、新しい出会いは少なくなったが、それでも少しは出会いがあり、そして出会う人は大抵、健常者だ。彼ら、彼女らも、いつかは、私のそばから離れていくだろう。最近はそれもまた人生だと思うようになった。彼ら彼女らとの出会いはこの先、試練になる事もあるだろう。そして、いつかは過ぎ去った過去になるのであろう。健常者と仲良くなる事は、私にはほぼ不可能だ。

 医師から言われている事がある。

「あなたには寛解は無い」

と。

手の中( 1 / 2 )

空っぽの手の中

   私はコースターが垂直落下、即ち、ロウの状態の時に何度も死のうと思った。今でこそ、希死念慮は少なくなったものの、何時でも逝けるようにレボトミン25mgと、1錠飲むと半日は眠ってしまうロゼレムを溜め込んでいる。レボトミンは500錠を超えた。いつでも逝ける準備をしていないと不安になる。自分には明るい未来など無いと思っているからだ。医師からは、寛解状態になる事は無いと宣言されているし、仕事にも就けない。障害年金はおりなかった。発病時(16歳)の時の診断名(重度うつ)と今の診断名が違うというのが理由で、本当にあっけなく、申請は却下された。私に残されたものは、数少ない友人と、起動に5分以上かかるオンボロのパソコン、ほぼ役に立たない障害者手帳。そんなものだ。

 私の手の中は空っぽに近い。友人は皆、遠方に住んでいるし、N市と同じくらい嫌っている地元には友人は居ない。この田舎町には、良い思い出など1つも無く、有るのは暗い過去だけだ。

 重度のうつを発病した16歳。私はこの町のはずれにある、県内で一番レベルの低い高校に通っていた。友達は居なかった。寧ろ、いじめに遭っていた。影口を叩かれ、仲間はずれにされ、16歳の私はもう、生きる事に絶望していたし、いじめに遭っている事を親にも言えず、どこにも居場所が無かった。

 ある日、校医の問診を受けた時に、「死にたくなる事がある」という項目があり、私は迷わずそれに丸をつけた。すぐに保険医に呼び出され、市の精神保健センターに行くように言われた。言われるまま行ったセンターで精神科医とおぼしき人と会い、問診を受け、下された病名は重度うつ、だった。学校はそのまま休学した。(後に復学し、奇跡的に卒業する事が出来たが、本当に奇跡としか言い様が無い)

 私は小学校も中学校もろくに通っていない。精神病の基礎は、もう幼い頃に出来上がっていたのだと思う。小学生の時は過敏性腸炎で、集団登校の迎えが来る度にトイレに駆け込んだ。小学校は2回転校した。その度にいじめに遭った。無能で非力な私にはいじめに勝つ自信もなく、この頃からきっと私の手の中には何も無かったのだと思う。

 何時だって、手の中は空っぽだった。
あずみけい
作家:あずみけい
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