メンタルジェットコースター

事の発端( 1 / 2 )

A県N市

 発病の前年まで、私はA県のN市に度々足を運んでいた。父が単身赴任でその地に居たので、最初は旅行気分で新幹線に3時間揺られてN市に遊びに行き、数日、父のマンションに滞在しては自宅に戻る日々を繰り返していた。仕事もしていた。保険の外交員の見習いだった。仕事を辞めてからは、数日単位だった滞在が数週になった。それには理由があった。私はN市に好きな人が出来てしまったのだった。相手はストリートミュージシャンで、毎週日曜の彼のライブに私は足しげく通い、友達も出来た。N市は最高の居場所だった。昼間はネットカフェに行き、彼のHPの掲示板に書き込みをし、夜には友達と別のストリートの人達を観に行ったり、食事をしたり、日々を楽しんだ。今思うと、毎日、完全にハイだった。N市を離れて自宅に戻ると何もする気が起きず、唯一の繋がりだったHPを毎日チェックし、チャットで話し、それ以外は眠って過ごし、またN市に戻る、という生活をしていた。N市に行くと皆が歓迎してくれた。皆「けい、けい」と呼び、プリクラを撮ったり、ストリートに行ったり、遊び呆けていた。友達は皆言った。「けい、好き!」と。


 ある日、自宅に居る時にN市の友人から泣きながら電話がかかってきて、悩みを聞き、友人を慰め、落ち着かせたりした。私は必要とされていると思っていたし、私にも、彼ら、彼女らが必要だった。それは幸せな事だった。でも、幸せは長続きはしなかった。突然、私の好きな彼が活動を停止する、とHP上で発表した。私は彼の創る音楽が好きだったし、彼に逢えなくなるのも辛かった。それでも、と思い、掲示板に「待ってる」と書いた。彼からの返信は速かった。

「あんたには無理。あんた馴れ馴れしいんだよ。ハッキリ言って俺は嫌いだ」

ハイになって気が大きくなっていた私は、彼にそんな風に思われていたのだと、その時初めて知った。愕然とした。それよりももっと私を打ちのめしたのは、「友達」だと思っていた人々全員から一斉に無視された事だった。誰一人としてメールの返事が返ってこない。1人だけ、短いメールをくれた子が居たが、その内容に私はどん底に叩き付けられた。

「彼がけいの事嫌ってるの、皆、知ってたよ」

内容はそれだけだった。その時ほど、心の底から死にたいと思った時は無いと言っても過言ではない。彼にとって、私は鬱陶しいながらもチケット等を気前よく買ってくれるカモであり、「友達」だと思ってた人々は、私より彼の方が大切で、彼の一声で関係を解消出来る程度の付き合いだったのだ。

 今も、障害者手帳の更新等で医師から診断書を貰うと、必ずこの時の事が書かれる。私の担当医は、私の発病のきっかけはこの出来事だと断言している。

事の発端( 2 / 2 )

ODとチャット

 オーバードーズを始めたのもこの頃からだ。とにかく通常の、処方通りの睡眠薬では眠れないのだ。布団に入って目を閉じると、N市での出来事や、掲示板に書かれた文字が頭を過り、いつまで経っても眠れない。眠れないので沢山、薬を飲んだ。親に気付かれないように、深夜、泣きながら薬を口に押し込んだ。そして、明け方ふらふらになりながら漸く眠りにつく。そんな日々の繰り返しだった。

 自慢にはならないが、私は友人は少ない方だった。その数少ない友人の誰にも、オーバードーズの事は言わなかったし、ましてや親にバレたら薬を取り上げられるので、絶対にバレないようにした。沢山の薬を飲んでは吐き、また飲む事もあった。

 そんな時期の私を救ってくれたのが、顔の見えない、一夜限りの友人の集まるチャットだった。その頃、大きなチャット専門のサイトがあり、私は深夜になるとそのサイトにアクセスし、顔の見えない人達と一夜限りの友人になり、語り合った。顔が見えないというのは気が楽だった。後腐れなく、色んな人達と話をし、明け方にはチャットを落ち、オーバードーズをして眠るのが習慣化していた。

 そのうち、何回も同じチャットに入る子と仲良くなった。毎日アクセスしていたら常連の人も居て、小さなコミュニティが出来た。そして、「自分達だけのチャットが欲しいね」という話になり、私がサイトを立ち上げて、チャット部屋を作る事になった。我が家には何故かホームページビルダーというソフトがあり、私はそれを使いホームページを作り、チャットもレンタルし、無事に小さなコミュニティの集まりが出来るようになったが、それも長続きはしなかった。元々が自由人ばかりなので、1つの所には皆、居られなかった。また、その頃一番仲が良かった男の子に私の写真を送ったところ、顔は言うほど不細工じゃないけど、部屋があまり綺麗じゃない、と指摘され、恥ずかしくなり私の方から音信不通にしてしまった事もあり、コミュニティは崩壊。皆、散り散りになった。

 私の手元に残ったのは、ド素人の作った変なホームページと、使われなくなったチャットルームだけだった。

 そして、また眠れない夜を持て余す私に、「声」が降りかかってきたのだった。それが、全ての始まりになった。

病む人々( 1 / 3 )

ルイ

 一夜限りの友人たちは散り散りになり、私はまた一人になった。ハイとロウを繰り返す日々に辟易しながらも、なんとか日々をやり過ごし、相変わらずオーバードーズも繰り返し自分でも訳の解らない生活をしていた矢先、何の気なしに流していたTVから流れてきた曲に一瞬で心を奪われた。Pというバンドの曲だった。物凄いエネルギーを感じて、一瞬で虜になった。Pの事をよく知らない私は、当時、山ほどあったPのファンサイトの中で1つ、お気に入りのサイトを見つけた。管理人は年の近い女の子で名前は春(仮名)と言った。春のサイトは割りと静かで、落ち着きのあるサイトだった。私は今度こそ失敗しないように、慎重に春に近付き、Pの事やプライベートの事も話す間柄になった。ルイと出逢ったのもそんな頃だった。ルイは以前からの春のサイトの住人で、少し大人しくて、でもどこか凛としたルイとも仲良くなった。私達は同じPファンという絆で結ばれ、ルイとは東京でのPのライブでも逢ったりした。


 Pを通じては色んな人々と出逢ったが、今も付き合いがあるのはルイだけだ。それは、ルイも同じように心に痛みを抱えた人間だったからだ。春に彼氏が出来て、ルイと私から離れてゆき、連絡も取らないようになっても、私とルイは、時にぶつかりながらも、その血の繋がりのような絆が切れる事は無かった。

 私と知り合って間もなく、ルイは精神科に通うようになった。プライバシーに関わる事なので割愛するが、今もルイは病院に通っている。彼女もメンタルジェットコースターの乗客だった。上がったり下がったり、それは私も同じで、私達はきっと、同じコースターに乗っている。それは、偶然でなく、必然だと思っている。

 ルイと知り合い、親交を深め、Pのファンの友達も沢山出来た頃から、私の乗ったメンタルジェットコースターは凄い勢いでアップダウンを繰り返すようになった。良くも悪くも、私の人生がもう一度動き始めた。

 そして、次々と「病む人々」と出会う事になるとは、この時は思いもしなかった。

 それから間もなく、ルイは入院した。

病む人々( 2 / 3 )

友美

 数年は、私達Pファン仲間は上手くやっていた。小さないざこざはあったものの、上手くかわすことも出来た。この頃、私のコースターは上の方を走っていた。
 
 コースターが急カーブを切ったのは、PバンドにNさんというサポートメンバーが入った頃だった。私はNさんに夢中になった。物凄く魅力的な人であり、彼の演奏する楽器の音色もまた素晴らしかった。その頃Nさんは下北沢で定期的に個人のライブを行っていた。キャパシティ40のライブバーに、私は毎月通った。NさんがPのサポートに入った事で、ライブの観客数は増え、私のようにPから流れてきたファンは、元々のNさんのファンに煙たがられた。この頃の私はまたしても完全にハイで、乗れなかった電車にも乗れ、びっくりするくらい活動的だった。私の髪は金色で、気分によっていきなり黒く染めたり、長い髪を突然ベリーショートにしたり、正常な判断がまるっきり出来ていなかった。

 そんな最中に出逢ったのが友美(仮名)だった。友美はうつ病だったが、互いの病気の事は最初は伏せていた。次第に仲良くなり、仲良くなる過程で互いの病気の事を伝え合った。友美はうつ期以外は前向きで、

「病気を治して、彼と結婚するんだ」

と、口癖のように言っていた。私はルイと友美には何でも話せた。

 その頃、私は正気とは思えない日誌をつけていた。オーバードーズ日誌だ。毎日、寝る前に何をどのくらい飲んだか、オフラインならまだしも、オンラインで書いていた。その場所を知っていたのはルイと友美だけだったが、その頃、完全ハイな私は「どうだ、凄いだろう」くらいの勢いで日誌をつけていたが、最初はコメントを寄せていた友美が、急にコメントを残さなくなり、どうしたの?と訊ねると、実にまっとうな答えが返ってきた。

「けいは病気を治す気があると思えない」

その言葉ではっと我に返った私は、日誌のページを消した。そして友美とも疎遠になっていった。

 友美はその後、医師から寛解の太鼓判をもらい、めでたく恋人と結婚したが、皮肉な事に、私を批判したオーバードーズが原因で離婚する事になった。
あずみけい
作家:あずみけい
メンタルジェットコースター
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