メンタルジェットコースター

入院( 1 / 2 )

閉鎖病棟

 「声」の出現から数週間後、私は閉鎖病棟に入院した。それまでも精神科への入院経験はあったが、閉鎖は初めてだった。病棟では、半裸の男性が走り回っていた。これはいよいよヤバイ世界にきてしまった、と思ったが、よくよく考えてみると、自分も幻聴があるような人間な訳で、世間的には十分ヤバイのだった。


 看護師さんに案内されて辿り着いた私の住む事になる病室は、比較的ライトな症状の患者さん向けの4人部屋だった。病院は暖房の効きが悪く、非常に寒かった。そこで、ペットボトルでの湯たんぽの作り方を教えてくれたのが、私のお向かいさんのお婆さん。なるべく熱めのお湯をペットボトルに入れるだけだが、この湯たんぽは、かなりの寒さ対策になった。お上品で、どこが悪いのかさっぱりわからないお婆さんを、私は親しみをこめて「お母さん」と呼んだ。面倒見が良くて、物静かで、本当に「お母さん」はどこが悪かったのか、よく解らなかった。

 私は時代に逆行して愛煙家だ。病院には喫煙所があったが、そこはベランダの外だった。狭いベランダに愛煙家が密集し、ああでもない、こうでもないと、延々とオチの無い話をしていた。喫煙所は1箇所しか無かったので、ライトな症状の患者も、ヘヴィーな症状の患者も同じように集まる。そこは一見、和気藹々に見えて、実はその場にいない患者の悪口の垂れ流しの場でもあった。怒りやすい体質の大場さん(仮名)と、脳性まひで、左半身が不自由だった奈々子(仮名)は特に仲が悪く、大場さんは明らかに奈々子を避けていた。それでも喫煙所は1箇所なので、嫌でも2人とも顔を合わせる事があり、ある日、奈々子が自由のきく右手で煙草を持っていた時、大場さんの服に火をつけて焦がしてしまった事があった。ただでさえ怒りやすい体質の大場さんは激怒。奈々子は少し慌てた後、「ユニクロで買って返す」と言ったが、大場さんの服はユニクロのものでも何でもなく、更に運が悪い事に旦那さんとお揃いの服だった。大場さんは声を荒らげて、

「返さなくていい!これユニクロじゃないし!旦那とお揃いなのに!」

そう叫んで喫煙所から去って行った。大場さんの去った後のその場の空気といったら、なんとも居た堪れないものだった。奈々子はと言うと、最初こそ「どうしよう?」という感じだったが、元々の仲が険悪だったので、暫くすると普段通りに振舞っていて、その場に居た人々から反感を買っていたが、まるっきり気付いてないようだった。私は何故、奈々子から咄嗟に「ユニクロ」というワードが出てきたのかさっぱり解らず、なんとなく「これが閉鎖病棟の人の感覚なのか」と思っていた。それからというもの、大場さんは以前に増して奈々子を避け、喫煙所に奈々子が来ると「また火をつけられたら堪らないわ」と一言吐いて、その場を去った。奈々子は奈々子で、必死で自分の味方を作ろうと、時代遅れの歌手のCDを束で持ち歩き、

「良かったら聴いてね。いつでも貸すから」

等と言っていたが、奈々子からCDを借りる人は一人も居なかった。かと言って、皆が皆、大場さんの味方という訳でもなく、元々取り扱い注意人物である大場さんを持て余していて、結局は2人とも孤立していた。

 そんな日々が過ぎてゆき、私も2人とは距離を置き、喫煙所に行く時以外は、なるべく自分の病室で過ごすか、デイルームと言う、所謂、居間のような所で友達に手紙を書いたりしていた。その頃にはもう「声」は聞こえていなかったが、薬が強かったのか、テーブルに便箋を広げても、ただ、それをぼうっと見つめ、一向にペンは進まなかった。それでも何とか手紙を書き終え、比較的ライトな患者だった私は、病棟の重たいドアを「開けてください」と言えば、開けてもらえる状況で、病院の外のポストに手紙を出しに行き、病院の庭を寒さに震えながら散策し、一息ついてから病室に戻った。

 ある晩、月の綺麗な夜。一人で喫煙所に向かうと先客がいた。身だしなみのきちんとした、若くて綺麗な美穂子(仮名)だった。私は美穂子から少し離れた所に座り、ぼうっと月を眺めていた。退院が近かった美穂子は、何を言うでもなく、静かに煙草を吸っていた。そして、吸い終わった煙草をもみ消しながら、一言、

「疲れるよね…人間関係」

それだけ言って、自分の病室に戻って行った。

 私は美穂子と同じ気持ちだった。なんで療養の為に入院しているのに、こんなに疲れなければいけないのだろう?それから胃痛の日々が始まった。

入院( 2 / 2 )

胃痛の日々の終わり

 入院生活はとにかく酷く疲れて、唯一の心の安らぎだった「お母さん」は外泊が多くなった。外泊から戻ると「お母さん」は痴呆の症状が出ていた。それは外泊を終える度に強くなっていったが、いつでも「お母さん」はふんわりと笑っていた。私は「お母さん」の為に湯たんぽを作っては、「お母さん」のベッドの足元に入れた。「お母さん」は腰痛も酷く、あまり動けなくなっていた。ある日、いつも通り湯たんぽを足元に入れて、「お母さん」と少し話をしていた時、「お母さん」は私に傍に寄るように言い、耳元で小さな声で「私ね、紙おむつのお世話になってるの」と、少し寂しそうに、でも微笑んで言った。「お母さん」は精神の病というより、痴呆の方が深刻らしく、暫くするといつも眠っていて、あまり私とも話さなくなっていった。

 私は食欲が日々落ちてゆき、胃痛も増して、医師の待機所に駆け込んでは胃薬をもらっていた。医師は、

「ストレスにはあまり効かないかもしれないけど」

と、粉薬を毎回出してくれた。もう潮時なのかもしれない、と思ったのは、自宅に外泊した時だった。病院に居る時より、ぐっすり眠れる。猫がいつもそばに寄り添って癒されるし、食欲も戻った。1泊の外泊で病院に戻り、医師に退院したい意向を伝えると、

「これまで、よく頑張ったね」

と、言われた。その3日後、私は閉鎖病棟から退院し、胃痛の日々は終わった。「お母さん」にも別れの挨拶をし、病棟の人々が重たいドアの前まで見送りに来てくれた。皆が大きく手を振って、私も手を振り返して、病院を後にした。

 精神病には「退院後不安」というものがあり、稀に隔離された安全圏から外に出ると不安から自殺してしまうケースがある。私は退院後はしばらくはぼうっとして過ごした。「声」は聞こえない。頭のざわつきもない。全くの「無」だった。ただ、なんとなく漠然とした不安感のようなものは少しだけ感じていて、私は再び、元の通院していた病院に戻った。

事の発端( 1 / 2 )

A県N市

 発病の前年まで、私はA県のN市に度々足を運んでいた。父が単身赴任でその地に居たので、最初は旅行気分で新幹線に3時間揺られてN市に遊びに行き、数日、父のマンションに滞在しては自宅に戻る日々を繰り返していた。仕事もしていた。保険の外交員の見習いだった。仕事を辞めてからは、数日単位だった滞在が数週になった。それには理由があった。私はN市に好きな人が出来てしまったのだった。相手はストリートミュージシャンで、毎週日曜の彼のライブに私は足しげく通い、友達も出来た。N市は最高の居場所だった。昼間はネットカフェに行き、彼のHPの掲示板に書き込みをし、夜には友達と別のストリートの人達を観に行ったり、食事をしたり、日々を楽しんだ。今思うと、毎日、完全にハイだった。N市を離れて自宅に戻ると何もする気が起きず、唯一の繋がりだったHPを毎日チェックし、チャットで話し、それ以外は眠って過ごし、またN市に戻る、という生活をしていた。N市に行くと皆が歓迎してくれた。皆「けい、けい」と呼び、プリクラを撮ったり、ストリートに行ったり、遊び呆けていた。友達は皆言った。「けい、好き!」と。


 ある日、自宅に居る時にN市の友人から泣きながら電話がかかってきて、悩みを聞き、友人を慰め、落ち着かせたりした。私は必要とされていると思っていたし、私にも、彼ら、彼女らが必要だった。それは幸せな事だった。でも、幸せは長続きはしなかった。突然、私の好きな彼が活動を停止する、とHP上で発表した。私は彼の創る音楽が好きだったし、彼に逢えなくなるのも辛かった。それでも、と思い、掲示板に「待ってる」と書いた。彼からの返信は速かった。

「あんたには無理。あんた馴れ馴れしいんだよ。ハッキリ言って俺は嫌いだ」

ハイになって気が大きくなっていた私は、彼にそんな風に思われていたのだと、その時初めて知った。愕然とした。それよりももっと私を打ちのめしたのは、「友達」だと思っていた人々全員から一斉に無視された事だった。誰一人としてメールの返事が返ってこない。1人だけ、短いメールをくれた子が居たが、その内容に私はどん底に叩き付けられた。

「彼がけいの事嫌ってるの、皆、知ってたよ」

内容はそれだけだった。その時ほど、心の底から死にたいと思った時は無いと言っても過言ではない。彼にとって、私は鬱陶しいながらもチケット等を気前よく買ってくれるカモであり、「友達」だと思ってた人々は、私より彼の方が大切で、彼の一声で関係を解消出来る程度の付き合いだったのだ。

 今も、障害者手帳の更新等で医師から診断書を貰うと、必ずこの時の事が書かれる。私の担当医は、私の発病のきっかけはこの出来事だと断言している。
あずみけい
作家:あずみけい
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