メンタルジェットコースター

病む人々( 3 / 3 )

様々な人々

 友美と疎遠になってからも、様々な人と出会っては離れていった。しかし、現在進行形で仲良くしてもらっている人々の中にも病む人々が多い。Kさん、Tさん、Sさん、Aちゃん…私の周りに病む人のなんと多い事か。皆、メンタルジェットコースターの乗客だ。落ちたり上がったり、それでも皆、懸命に生きている。

 どういう訳か、必然か、私は所謂、健常者と人間関係を構築するのが苦手らしい、という事には最近気付いた。発病から11年も経って、だ。ハイになっている時はどんな人でも受け入れられる。しかし、一旦ロウになると、コースターが落ち始めると、私のキャパはいっぱいになってしまう。他者を受け入れられず、極端に人を避け、1人きりで過ごす時間が多くなる。1人は楽だ。寂しさも感じない。どんなに「1人だ」と思っても、私にはルイが居る。ルイとの関係は今後も続いていくだろう。

 Nさんのファンになって様々な人と出会った。再びN市に住む人とも仲良くなったが、その関係は長くは続かなかった。私にとってN市は鬼門だ。Pのファンだった頃、広島、大阪と新幹線に乗って出かける事があったが、N市のそばを通ると心拍数が上がり、気分が悪くなった。それでもなんとかN市に行く機会もこの5年ほどで数回あったが、やはり気分のいいものではなかった。大抵、遠くに行く時はライブの遠征であるが、なるべくN市は避けている。何より私は現在、無職なので、そうそうライブ遠征も出来ないのが現状だが。

 Nさんのライブも、Pのライブも行かなくなった今、新しい出会いは少なくなったが、それでも少しは出会いがあり、そして出会う人は大抵、健常者だ。彼ら、彼女らも、いつかは、私のそばから離れていくだろう。最近はそれもまた人生だと思うようになった。彼ら彼女らとの出会いはこの先、試練になる事もあるだろう。そして、いつかは過ぎ去った過去になるのであろう。健常者と仲良くなる事は、私にはほぼ不可能だ。

 医師から言われている事がある。

「あなたには寛解は無い」

と。

手の中( 1 / 2 )

空っぽの手の中

   私はコースターが垂直落下、即ち、ロウの状態の時に何度も死のうと思った。今でこそ、希死念慮は少なくなったものの、何時でも逝けるようにレボトミン25mgと、1錠飲むと半日は眠ってしまうロゼレムを溜め込んでいる。レボトミンは500錠を超えた。いつでも逝ける準備をしていないと不安になる。自分には明るい未来など無いと思っているからだ。医師からは、寛解状態になる事は無いと宣言されているし、仕事にも就けない。障害年金はおりなかった。発病時(16歳)の時の診断名(重度うつ)と今の診断名が違うというのが理由で、本当にあっけなく、申請は却下された。私に残されたものは、数少ない友人と、起動に5分以上かかるオンボロのパソコン、ほぼ役に立たない障害者手帳。そんなものだ。

 私の手の中は空っぽに近い。友人は皆、遠方に住んでいるし、N市と同じくらい嫌っている地元には友人は居ない。この田舎町には、良い思い出など1つも無く、有るのは暗い過去だけだ。

 重度のうつを発病した16歳。私はこの町のはずれにある、県内で一番レベルの低い高校に通っていた。友達は居なかった。寧ろ、いじめに遭っていた。影口を叩かれ、仲間はずれにされ、16歳の私はもう、生きる事に絶望していたし、いじめに遭っている事を親にも言えず、どこにも居場所が無かった。

 ある日、校医の問診を受けた時に、「死にたくなる事がある」という項目があり、私は迷わずそれに丸をつけた。すぐに保険医に呼び出され、市の精神保健センターに行くように言われた。言われるまま行ったセンターで精神科医とおぼしき人と会い、問診を受け、下された病名は重度うつ、だった。学校はそのまま休学した。(後に復学し、奇跡的に卒業する事が出来たが、本当に奇跡としか言い様が無い)

 私は小学校も中学校もろくに通っていない。精神病の基礎は、もう幼い頃に出来上がっていたのだと思う。小学生の時は過敏性腸炎で、集団登校の迎えが来る度にトイレに駆け込んだ。小学校は2回転校した。その度にいじめに遭った。無能で非力な私にはいじめに勝つ自信もなく、この頃からきっと私の手の中には何も無かったのだと思う。

 何時だって、手の中は空っぽだった。

手の中( 2 / 2 )

パンク

  そんな訳で、小学校も中学校もろくに通わなかった。中学校は3年の3学期は3日だけ行った。卒業アルバムの撮影と、卒業式の練習と、卒業式の3日だけだ。形式だけの通知表には「出席が無いので成績が書けません」と書かれていた。小学生時代も、中学生時代も、私はひたすら家に引きこもった。その事で親に辛い思いをさせたのは今でも反省している。でも私には学校の必要性が感じられなかった。小学校に行っていないので、当然、中学の授業についていけず、友達も出来ず、そんな状況で学校に行って楽しい訳もなく、家にこもり、部屋のドアにバリケードを作り、親の侵入を阻止し、好きな音楽をかけて漫画を読みふける日々だった。まだ、精神科に通う事が、「世間体が悪い」と思われた時代の話だ。

 そうした事から私は頭が悪く、勉強は全く出来なかった。大抵の事は大人になってから覚えた。空っぽだったのは手の中だけでなく、頭の中もだったので、二十歳になる頃には私の頭はパンク寸前だった。否。今もパンクしそうな日々だ。ハイとロウのメンタルジェットコースターに加えて、様々な学び。今もそうだが、私はよく眠る。睡眠薬の量が多い所為もあるが、毎日が学びで疲れるからだ。人との関わりあいもそうだ。上手く人間関係を構築出来ないのは、まだそこまで学んでいないからだと思う。単に人間嫌いというのもあるし、健常者と関わりたいとも思わないが、その考えは今後変わるかもしれない。今はまだ、健常者と健全な人間関係を構築するのは不可能だと思う。何しろパンク寸前なのだから。少しコースターが上がり始めると、「仕事に就きたい」と思うが、これも今は不可能だ。必要以上に眠っている今、朝から元気に仕事に行く、等という事は夢のまた夢だ。医師からは、昼寝はなるべくしないように、と言われている。でも、絶対に駄目、という訳ではなく、あくまで「目標」として、12時~18時までは眠らないようにしましょう、と。

 私の頭をもう1つパンクさせるのは、精神科の担当医がコロコロと代わる事だ。1番酷い時で、3ヶ月に1度医師が代わった。元の担当医が産休に入ったからであるが、申し送りをちゃんとしていないのか、単に私の口から病状が聞きたいからか、担当医が代わる度に、いちいち説明しないといけないので、本当に頭がパンクしそうになる。そんな元の担当医は今、2度目の産休に入っている。でも、様々な医師に会う事で、人間観察をする癖がつき、今の私の手の中には、少しは何かがあるかもしれない。

夢( 1 / 1 )

写真詩との出会い

   石井克明氏の著書を手に取ったのは、素晴らしい偶然が重なっての事だ。私の実兄と同じ職場だった石井氏の「素直だね、にね」。素晴らしい写真詩集だった。某Amazonで送料の方が高く売られていたが、すぐに購入した。大元を辿れば、写真を使った詩集は、銀色夏生さんも出版されているし、私は若い頃、夢中でそれを読んだ。石井氏は、兄の知り合いという事もあって、勝手に親しみを感じて、その本、「素直だね、にね」を夢中になって読んだ。日本語の美しさ、言葉の重みを感じる本だった。写真もとても素敵だった。それから私は自分でも写真詩を創るようになった。石井氏や、銀色さんは「写真」と「言葉」は別々だったが、私は写真の中に文字を入れた。写真を撮るのは楽しい。どのアングルで撮れば、上手く文字を入れる場所が出来るか考えながら撮る写真は、いつも似たようなアングルになってしまうが、私は今はそれでも良いと思っている。ここ数年で、トイカメラを3台手に入れ、もっとちゃんとした写真が撮りたい時は一眼レフを出して写真を撮っている。そして、沢山、本を読み、どんな風に言葉を並べたら美しい日本語になるか、読み手に如何に伝わるかを考え、今もちまちまと写真詩を創っている。

 私の夢は、自分の本を自費でなく、出版する事だ。某大手ブログサービスでずっと写真詩を発表し続けていた頃、大手2社、マイナー2社から出版の誘いがあったが、全て自費なのでお断りした。某社から提示された金額は120万で500部だった。私の財布には50円玉が2つ入っているきりだ。どう転んでも、120万等と言う金額は用意出来ない。それでも、本を出版したい気持ちが高まっていた私は、「ブログ本」として13部だけ、自費で作った事がある。それは本意ではなかったが、どうしても形にして残したかった。数少ない友人や親戚が買ってくれて13部はあっという間に完売した。採算度外視の価格設定だったが、とりあえず売り切った。勿論、赤字だった。でも、1つ、夢を叶えた瞬間だった。

 今、此処で2冊の写真詩集を出させて頂いているが、本当の事を言えば、紙が良い。紙媒体の物が売れない時代に、電子書籍というのは手軽でとても良いとは思う。思うが、やはり紙で自分の作品を残したい。それが、私の未来の夢。夢を叶える為に、私は今日も本を読み、「言葉」を学び続ける。
あずみけい
作家:あずみけい
メンタルジェットコースター
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