メンタルジェットコースター

病む人々( 2 / 3 )

友美

 数年は、私達Pファン仲間は上手くやっていた。小さないざこざはあったものの、上手くかわすことも出来た。この頃、私のコースターは上の方を走っていた。
 
 コースターが急カーブを切ったのは、PバンドにNさんというサポートメンバーが入った頃だった。私はNさんに夢中になった。物凄く魅力的な人であり、彼の演奏する楽器の音色もまた素晴らしかった。その頃Nさんは下北沢で定期的に個人のライブを行っていた。キャパシティ40のライブバーに、私は毎月通った。NさんがPのサポートに入った事で、ライブの観客数は増え、私のようにPから流れてきたファンは、元々のNさんのファンに煙たがられた。この頃の私はまたしても完全にハイで、乗れなかった電車にも乗れ、びっくりするくらい活動的だった。私の髪は金色で、気分によっていきなり黒く染めたり、長い髪を突然ベリーショートにしたり、正常な判断がまるっきり出来ていなかった。

 そんな最中に出逢ったのが友美(仮名)だった。友美はうつ病だったが、互いの病気の事は最初は伏せていた。次第に仲良くなり、仲良くなる過程で互いの病気の事を伝え合った。友美はうつ期以外は前向きで、

「病気を治して、彼と結婚するんだ」

と、口癖のように言っていた。私はルイと友美には何でも話せた。

 その頃、私は正気とは思えない日誌をつけていた。オーバードーズ日誌だ。毎日、寝る前に何をどのくらい飲んだか、オフラインならまだしも、オンラインで書いていた。その場所を知っていたのはルイと友美だけだったが、その頃、完全ハイな私は「どうだ、凄いだろう」くらいの勢いで日誌をつけていたが、最初はコメントを寄せていた友美が、急にコメントを残さなくなり、どうしたの?と訊ねると、実にまっとうな答えが返ってきた。

「けいは病気を治す気があると思えない」

その言葉ではっと我に返った私は、日誌のページを消した。そして友美とも疎遠になっていった。

 友美はその後、医師から寛解の太鼓判をもらい、めでたく恋人と結婚したが、皮肉な事に、私を批判したオーバードーズが原因で離婚する事になった。

病む人々( 3 / 3 )

様々な人々

 友美と疎遠になってからも、様々な人と出会っては離れていった。しかし、現在進行形で仲良くしてもらっている人々の中にも病む人々が多い。Kさん、Tさん、Sさん、Aちゃん…私の周りに病む人のなんと多い事か。皆、メンタルジェットコースターの乗客だ。落ちたり上がったり、それでも皆、懸命に生きている。

 どういう訳か、必然か、私は所謂、健常者と人間関係を構築するのが苦手らしい、という事には最近気付いた。発病から11年も経って、だ。ハイになっている時はどんな人でも受け入れられる。しかし、一旦ロウになると、コースターが落ち始めると、私のキャパはいっぱいになってしまう。他者を受け入れられず、極端に人を避け、1人きりで過ごす時間が多くなる。1人は楽だ。寂しさも感じない。どんなに「1人だ」と思っても、私にはルイが居る。ルイとの関係は今後も続いていくだろう。

 Nさんのファンになって様々な人と出会った。再びN市に住む人とも仲良くなったが、その関係は長くは続かなかった。私にとってN市は鬼門だ。Pのファンだった頃、広島、大阪と新幹線に乗って出かける事があったが、N市のそばを通ると心拍数が上がり、気分が悪くなった。それでもなんとかN市に行く機会もこの5年ほどで数回あったが、やはり気分のいいものではなかった。大抵、遠くに行く時はライブの遠征であるが、なるべくN市は避けている。何より私は現在、無職なので、そうそうライブ遠征も出来ないのが現状だが。

 Nさんのライブも、Pのライブも行かなくなった今、新しい出会いは少なくなったが、それでも少しは出会いがあり、そして出会う人は大抵、健常者だ。彼ら、彼女らも、いつかは、私のそばから離れていくだろう。最近はそれもまた人生だと思うようになった。彼ら彼女らとの出会いはこの先、試練になる事もあるだろう。そして、いつかは過ぎ去った過去になるのであろう。健常者と仲良くなる事は、私にはほぼ不可能だ。

 医師から言われている事がある。

「あなたには寛解は無い」

と。

手の中( 1 / 2 )

空っぽの手の中

   私はコースターが垂直落下、即ち、ロウの状態の時に何度も死のうと思った。今でこそ、希死念慮は少なくなったものの、何時でも逝けるようにレボトミン25mgと、1錠飲むと半日は眠ってしまうロゼレムを溜め込んでいる。レボトミンは500錠を超えた。いつでも逝ける準備をしていないと不安になる。自分には明るい未来など無いと思っているからだ。医師からは、寛解状態になる事は無いと宣言されているし、仕事にも就けない。障害年金はおりなかった。発病時(16歳)の時の診断名(重度うつ)と今の診断名が違うというのが理由で、本当にあっけなく、申請は却下された。私に残されたものは、数少ない友人と、起動に5分以上かかるオンボロのパソコン、ほぼ役に立たない障害者手帳。そんなものだ。

 私の手の中は空っぽに近い。友人は皆、遠方に住んでいるし、N市と同じくらい嫌っている地元には友人は居ない。この田舎町には、良い思い出など1つも無く、有るのは暗い過去だけだ。

 重度のうつを発病した16歳。私はこの町のはずれにある、県内で一番レベルの低い高校に通っていた。友達は居なかった。寧ろ、いじめに遭っていた。影口を叩かれ、仲間はずれにされ、16歳の私はもう、生きる事に絶望していたし、いじめに遭っている事を親にも言えず、どこにも居場所が無かった。

 ある日、校医の問診を受けた時に、「死にたくなる事がある」という項目があり、私は迷わずそれに丸をつけた。すぐに保険医に呼び出され、市の精神保健センターに行くように言われた。言われるまま行ったセンターで精神科医とおぼしき人と会い、問診を受け、下された病名は重度うつ、だった。学校はそのまま休学した。(後に復学し、奇跡的に卒業する事が出来たが、本当に奇跡としか言い様が無い)

 私は小学校も中学校もろくに通っていない。精神病の基礎は、もう幼い頃に出来上がっていたのだと思う。小学生の時は過敏性腸炎で、集団登校の迎えが来る度にトイレに駆け込んだ。小学校は2回転校した。その度にいじめに遭った。無能で非力な私にはいじめに勝つ自信もなく、この頃からきっと私の手の中には何も無かったのだと思う。

 何時だって、手の中は空っぽだった。

手の中( 2 / 2 )

パンク

  そんな訳で、小学校も中学校もろくに通わなかった。中学校は3年の3学期は3日だけ行った。卒業アルバムの撮影と、卒業式の練習と、卒業式の3日だけだ。形式だけの通知表には「出席が無いので成績が書けません」と書かれていた。小学生時代も、中学生時代も、私はひたすら家に引きこもった。その事で親に辛い思いをさせたのは今でも反省している。でも私には学校の必要性が感じられなかった。小学校に行っていないので、当然、中学の授業についていけず、友達も出来ず、そんな状況で学校に行って楽しい訳もなく、家にこもり、部屋のドアにバリケードを作り、親の侵入を阻止し、好きな音楽をかけて漫画を読みふける日々だった。まだ、精神科に通う事が、「世間体が悪い」と思われた時代の話だ。

 そうした事から私は頭が悪く、勉強は全く出来なかった。大抵の事は大人になってから覚えた。空っぽだったのは手の中だけでなく、頭の中もだったので、二十歳になる頃には私の頭はパンク寸前だった。否。今もパンクしそうな日々だ。ハイとロウのメンタルジェットコースターに加えて、様々な学び。今もそうだが、私はよく眠る。睡眠薬の量が多い所為もあるが、毎日が学びで疲れるからだ。人との関わりあいもそうだ。上手く人間関係を構築出来ないのは、まだそこまで学んでいないからだと思う。単に人間嫌いというのもあるし、健常者と関わりたいとも思わないが、その考えは今後変わるかもしれない。今はまだ、健常者と健全な人間関係を構築するのは不可能だと思う。何しろパンク寸前なのだから。少しコースターが上がり始めると、「仕事に就きたい」と思うが、これも今は不可能だ。必要以上に眠っている今、朝から元気に仕事に行く、等という事は夢のまた夢だ。医師からは、昼寝はなるべくしないように、と言われている。でも、絶対に駄目、という訳ではなく、あくまで「目標」として、12時~18時までは眠らないようにしましょう、と。

 私の頭をもう1つパンクさせるのは、精神科の担当医がコロコロと代わる事だ。1番酷い時で、3ヶ月に1度医師が代わった。元の担当医が産休に入ったからであるが、申し送りをちゃんとしていないのか、単に私の口から病状が聞きたいからか、担当医が代わる度に、いちいち説明しないといけないので、本当に頭がパンクしそうになる。そんな元の担当医は今、2度目の産休に入っている。でも、様々な医師に会う事で、人間観察をする癖がつき、今の私の手の中には、少しは何かがあるかもしれない。
あずみけい
作家:あずみけい
メンタルジェットコースター
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