消防署の方から来ました!(音声付き)

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 僕は彷徨(さまよ)っていた。人生という嵐の中を。何をやっても空回りして、うまく前へは運ばなかった。足掻けば足掻くほど、格好悪いほどに沈んでいった。周りだけが気楽に、夢を実現していくようだった。


 群馬県安中市。そこが僕の生まれた町だ。今では新幹線も通り、少しばかり有名になったが、相変わらず静かな場所だった。
 それでも空気だけはきれいで、夜の闇に映る信号は、澄んだ光を遠くまで放っていた。もちろん歩く人など、誰もいない。ただ道は広く、車は数台行き交うのに、ひどく寂しかった。
 その頃の僕はここが嫌いだった。たぶん男と逃げた母親の記憶が、そうさせていたのかもしれない。残された五歳の僕と真面目しか取り柄のない父は、それから不器用に生きてきたから。
 抜けだしたい。ただぼんやりと、そう思っていた。

 そんな時、三年間思いを秘めていた山本詩織が、東京の大学を受験するという。結局それが、僕の背中を押したのだ。
「やってみればいいさ。東京への仕送りは、父さんが何とかするさ」
 父は不実な息子の思惑など知らずに、少し誇らし気にそう言った。
「群馬だと、行きたい大学がないんだ。ごめん」
「お前の人生なんさ。好きなようにやるがいい」
 もちろん大学なんて、どこでも良かった。僕はどうにか二流大に引っかかり、これといった目標もないまま、東京に出てきたのだ。

 他に知り合いがないことを理由に、あの山本詩織と連絡を取り合った。
 順調に進展するように思えたけど、数回会ったその後からはサークルが忙しいなどと言って、彼女は待ち合わせ場所に現れなくなった。つまり、振られたのである。
 一方的に追いかけるのは余りにも見苦しく、これが運命なんだと勝手な精神論を組み立てて、僕は自分を納得させた。
 その後は手当たり次第、女と付き合ったけど、誰にも心を開かれることはなかった。

 一流大学を出ても、中々就職が見つからない時代。それでも僕はなんとか、首都圏に三店舗のファミリー向けレストランを持つ会社に就職した。
 仕事の内容は、パートの主婦とほとんど同じ。けど、それなりに努力して、溶け込もうとしていたのに。大卒というくだらない肩書きにコンプレックスを持つ高卒らしき店長から、些細なことでいつもバカにされた。そして気が付いたら、辞表を叩きつけていた。
 それからは飲食店のバイトを転々と。でもどこか、満たされない。心身ともに疲れていく。
 そんな時僕は、西谷さんという三つ年上の同郷の先輩と知り合った。一緒に就職しないかと誘ってくれた。営業らしく、最初は契約社員だが、頑張れば半年で正社員にもなれるという。無条件に、ありがたかった。
 

 仕事は、消火器の訪問セールスだった。別々に売りに歩いてもいいのだが、西谷さんの提案で一緒に組むことにした。二人分売れば問題ないし、何より彼の営業センスは見事で、頼もしかったから。
 西谷さんは下調べをしていたようで、その日は「神岡」と表札のある、いかにも老人が住む古い平屋の前で足を止めた。そして様子を伺う。
 すると歳は二十代前半だろうか。ショートカットで、まだあどけなさが残るかわいらしい一人の女性が出てきた。
「じゃあ、また明後日ね、神岡さん」
 彼女は軽く一礼しながら恥ずかしそうに微笑み、ホッとした様子で横開きの玄関ドアを閉めた。
 僕はその彼女の眩しい輝きに、目を奪われていた。理由はわからない。都会には染まっていない、純粋で優しそうな、ふんわりとしたそんな雰囲気に、ただ引きつけられたのだ。
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オリオンブックス
作家:戸塚孝美
消防署の方から来ました!(音声付き)
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