あの日、彼女は本当にそこにいて
あの日、俺は彼女に会っていて
あの日、彼女は笑っていて
あの日、彼女はいなくなった
本当に、俺はひとりが好きで
本当に、彼女はひとりで
本当に、彼女は笑っていて
だけど、彼女はどこにもいなくて
だけど、彼女を忘れられない
だけど、本当に彼女はそこにいたのだろうか
廃ビルの屋上で、俺はいつもたった一人で夕日を眺めていた。
学校で誰かと笑っているのもうんざりだった。
曖昧に笑っていれば、それでいいだけの関係。
本当は一緒にいたって楽しくもなんともない。クダラナイ奴ら。
俺は大抵一人だった。
ただ、それでもこんな空の日には、少しだけ人恋しいような気持ちになったけど、
誰かと一緒にいる煩わしさに比べれば、孤独に夕日でも眺めている方がよほど気楽だった。
だから、俺はひとりが好きだった。
家に帰れば、ハハオヤが塾だ受験だと騒ぎ立て、キリキリとした雰囲気に胃が痛くなった。
とにかくひとりでいたかった。
親切顔のおせっかいな教師も反吐が出たし、そもそも俺は何もかもがうっとうしかった。
本当に大学に行きたいのかすらわからない。
「みんなが行くから」「それが普通だから」。
「高校のランクがこれくらいだから、これくらいの大学へ」本当にそれだけだった。
理由なんてそれだけしかない。
だから、俺は本当にひとりが好きだった。
だから、俺はこんな廃ビルの屋上で、たったひとりで夕日を眺めながら、
ぬるくなった缶コーヒーを相棒に、泣きたいような、笑いたいような気持ちで空を見ていた。
それを共有する誰かなんて必要じゃない。
誰にも邪魔されないで、夜になるまで夕日を眺めていた。
そこで彼女と会ったのは、いつものように夕日を眺めていたときだった。
黒髪で眼鏡をしていて、近くの中学の制服を着ていた。
クラスか学年に一人はいたような図書委員とか委員長とかしてそうな真面目そうな女の子。
でも、俺の周囲の女に比べれば、格段に大人の目をしているような気がした。
「こんばんは」
寝転がったまま、「ここから立ち去ろうか」なんてことを考えていた俺に、
彼女は涼やかな声でにっこりと笑って言った。
とにかく俺は煩わしくて、黙って空を眺めていた。
空は血のように赤くて、紫色に染まっていて、そして夜の青が近かった。
なんとなく、立ち去るのも悔しい気がして、俺は彼女が諦めるのを待っていた。
そのうち、居心地が悪くなって去るだろうって。
だけど、彼女は俺の隣に腰を降ろした。
そして、俺の顔を覗き込んで、にっこりと笑った。
「こんばんは」
「…………なんだよ、中坊はとっとと帰れや」
なれなれしくて、不快だと思った。
無視するつもりだったのに、なぜか笑顔に吸い寄せられるように振り向いてしまった。
それがまた腹立たしくて、俺はことさら乱暴な口調になった。
でも、彼女は気にしなかった。
「おひとり……ですか?」
結構、可愛い声だった。
別にロリコンなわけでもないから、中坊をそういう対象に見る気もなかったけど、
何ていうか、馬鹿っぽくなかった。
数年経てば、いい女になるかなっていう、そんなクダラナイことを考えていた。
だから、だったのかもしれない。
返事をしてしまったのも、悔しかったのも。
「そうだけど。お前は?」
「私もひとりなんです。良かった、少しだけ誰かと話がしたかったから」
「…………だったら、友だちとでも喋ってろよ。学校にいるだろ」
小さく呟いたつもりの声は、人気のない場所では奇妙に響いた。
彼女は少しだけ泣きそうな顔のまま、微笑んでいた。
「ともだち……いませんから」
「…………」
俺が何も言えなくなって空を見上げると、彼女も俺の隣で空を見上げていた。
そうして、二人で黙って空を見ていた。
彼女の横顔が夕日で赤く染まっていた。
彼女は透明な笑みを浮かべて、夕日を眺めていた。
俺は、それだけでもうどうしようもなくなってしまった。
「話したいこと、あるんじゃなかったっけ?」
沈黙に耐え切れずに言うと、彼女はきょとんとした顔で俺を見下ろした。
「話したいって言ってただろ?」
「きいて……くれるんですか?」
「………まぁな」
照れくさくて、頑なに空を見たまま言った。
「ありがとう………」
ちらりと横目で彼女を見ると、本当に嬉しそうな笑顔だった。
そんな笑顔を俺はしばらく見ていなかったかもしれない。
しばらく黙っていると、彼女は俺の隣に寝転んだ。
振り向くと、彼女はじっと空を見上げていた。
「わたしは、ひとごろし………なんです。
ひとを、ころしたんです」
「………なんで?」
彼女は驚いたように、俺の顔を見つめた。
「驚かないんですか?ひとを……ひとを殺したんですよ、わたし」
「別に……どうでもいいし」
彼女は座りなおすと、膝に顔をうずめた。そして、小さく息を吐いた。
「だから、わたしは死ななきゃいけないんです」
「それこそ、『なんで?』だな」
彼女は顔をあげた。
泣いているかと思ったけど、彼女は自嘲気に笑っただけだった。
「ひとを……ころしたから。ユキを助けられなかったから……」
ユキってダレ?なんてことを聞く気なんてなかった。
ただ、俺は「ふうん」と呟いただけだった。
「殺した」なんてのも、半分思い込みか何かだろう。
こんな大人しそうな子が人殺しなんて信じられない。
「……アンタが死んでなんとかなるわけ?」
「でも……死ななきゃいけないんです」
ぽつん、と呟くように言って彼女はまた笑った。
結構、頑固っぽいなと思った。
何となく、俺と話をしているんじゃなくて、
何となく、独り言でも言ってるつもりで喋っている感じがした。多分。
しばらくして、やっぱり二人とも黙ったまま夕日を見ていたら、
いつの間にか空は暗くなっていた。
俺はともかく、彼女は帰らなくていいんだろうかと思って、隣を見ると、
彼女はじっと俺を見ていて、にっこりと笑った。
「なんで、あなたはひとりでここにいるんですか?」
「俺?」
驚いた顔をしていたんだろう。
彼女は頷きながら微笑んでいた。
「なんでだろうな……」
気がついたら、俺はそんなことを呟いていた。
空は晴れているはずなのに、地上が明るくて星はまったく見えない。
俺は目を閉じて大きく息を吐いた。
「ひとりって、寂しくないですか?
わたしは、ひとりでは寂しいです。ここに来るのも、本当は恐かった……」
「なら何で来たわけ?」
「……ユキを裏切って、ひとりだけで、生きていても仕方ないんです」
俺はため息をついた。
「わたしとユキはずっと一緒だったんです。だから、ユキがいなくなったら……
わたしのせいでユキはいなくなったんですから」
彼女は大きく息を吐いた。吐息は少し震えていた。
「どこにも居場所がないって、分かりますか?」
「さあ、俺、あんまりそういうことって考えないから」
彼女はクスクスと笑い始めた。
俺は妙に苛立ってきた。
これだから、他人と関わるのは嫌なんだ、と思った。
女なんて、何を考えてるのかさっぱり分からなくて、苛々する。
そもそもなんで声をかけてきたのかもわからない。
段々、うっとうしくなってきた。
結局、からかわれていたんだろうか。
そう考えると、ムカついて腹が立ってきた。
「………」
俺は黙って鞄と空き缶を取ると、無言のまま立ち上がった。
彼女はぽかんとした顔で、俺を見上げていた。
俺は深いため息をついた。
「あんたもさ、そろそろ帰ったら?オヤが心配するだろ?」
「………帰るんですか?」
「あぁ」
彼女が立ち上がった気配がした。
そして俺はさっさと帰ろうとして、立て付けの悪い扉に手をかけた。
「あの……わたし、チヒロっていいます。忘れてもいいです」
なんとなく腹が立って、何か言ってやろうと勢いよく振り向いた。
彼女は風に吹かれて乱れる髪を片手で抑え、屋上の縁に立って笑っていた。
「おい………危ないぞ?」
一歩、足を踏み出して俺は言った。彼女はやっぱり笑っていた。
「おい、お前……」
「話……聞いてくれてありがとうございました」
「おい………」
更に俺は一歩足を踏み出した。
さっきまでふたりで座っていた場所には、ぽつんと彼女の鞄が転がっていた。
「わたし、最後にあなたに会えて良かったと思います。ありがとうございました」
そう言って、彼女はぺこんと頭を下げた。
そして、顔をあげるとにっこりと笑った。
今までで一番、綺麗な笑顔だった。
そして、俺が駆け出すよりもほんの少しだけ早く、彼女の体が宙に舞った。
伸ばした手は、屋上の端にすら届かず、俺は屋上の真中で立ち尽くした。
足元には彼女の鞄だけが残されていた。
一瞬の後、下から誰かの悲鳴が聞こえてきた。
入り乱れる叫び声が聞こえる。
だけど、俺はそこから動くことも出来ず、ただ立ち尽くしていた。
蛇足にはなるが、それからの話をしよう。
俺は直後にかけつけた警察に、一時は疑われもした。
けれど、遺された彼女の鞄からは遺書が見つかった。
後日、警察からの話で、彼女が覚悟の自殺だったことと、
親族が誰もおらず福祉施設で葬式が行われたことをきいた。
俺の両親は、随分と彼女への怒りをぶちまけていた。
学校では一躍時の人となった。
俺はそんな雑音が煩わしくて、何も聞くことをやめた。
だから、彼女が本当に『ひとごろし』だったのかはわからない。
彼女は初めから決めていた。
あの屋上の扉を開ける前から、全部決めていたのだ。
だから、少しだけ恐かったと言ったのだ。
きっと、止めても無駄だったのかも知れない。
どんな言葉も、頑固な彼女には届かなかったかも知れない。
なぜなら、彼女は笑っていた。ずっと笑っていたんだ。
俺の周囲の騒ぎも、しばらくすると収まった。
ただ、流石にあの廃ビルは立ち入り禁止となり、半年後には取り壊された。
だから、あの時から俺ももうあの場所へは行っていない。
だから、まだあの場所で彼女が笑っている気がしている
でも、本当に彼女がいたなんて証拠はどこにもない