人形の森

人形の森( 1 / 1 )

プロローグ

 オネがい なかナイデ。そンナに クルシまないで。
カナしまないで キみが カナしいと ボくも かなシイ。
 ボくが イル、 きみをすきな ボくガ ズット。
ダレか、アのなみダヲ トめて。 
あノ ナみダを エがおニ かエて。


「咲也ぁ!いやあっ!目を開けてぇっ!!」
一人の少女が、サクヤにしがみついて泣き叫んでいる。
サクヤは青白い顔で、静かに眠っている。
彼女の声はもうサクヤに届くことはない。
 サクヤは死んだ。触れればまだ暖かいのに、彼は目覚めない。
そして、やがて冷たくなる。
まるで、人形のように。
たった今、医師が生命維持装置のスイッチを切った。
サクヤはもう、記憶の中でしか笑わない。
「咲也ぁ…嘘よ……お願い、起きてぇ……」
サクヤの体はまだ温かいのに、魂はもうそこにない。
少女の声が、だんだんと弱くなってゆく。
握り返してはくれないサクヤの手を握り締めて、彼女は泣いている。
 サクヤの両親は酷く疲れたような顔で、サクヤを見つめていた。
サクヤの弟は、サクヤを見つめてずっと泣いている。
とても、とても愛されていたのに、サクヤはもう目覚めない。
「咲也」
お父さんがぽつんと呟いた。
「この、親不幸者が……」
かすれた声で、お父さんが言った。

 サクヤは消えてしまう直前に、強く強く願ったことがあった。
 その気持ちはとても強くて、僕たちの女神まで届いた。
サぁ 歯車ヲ まワそう
  モのがたりガ ハジまる
ボくの命ガ ウゴき出ス

「沙夜……」
低い声で、イクタはサヤの名を呼んだ。
イクタは、サクヤの親友だった。
サクヤが死んでからサヤにずっと付いていた。
彼もサクヤが死んで、とても悲しんでいたけれど、でも、彼は生きていた。
生きていたから、立ち直ろうとしていた。
「沙夜、もう咲也が帰ってくる訳じゃないんだ」
サヤはじっと黙ったままだ。
サクヤが死んでから、サヤは喋らない。
「もう一ヶ月も経ったんだ。悲しくても、沙夜は生きてるんだから……」
「さくやが……」
ぽつん、とサヤが呟いた。
一ヶ月ぶりにまともに喋ったサヤにイクタは安心したように微笑んだ。
そして、サヤに顔を近付けた。
「咲也、ずっと一緒にいるって言ったのに、どこにもいないのよ……」
サヤやどこか虚ろな目をして、イクタを見つめた。
 イクタは目を大きく見開いた。
「ねぇ、生田君。咲也知らない?」
「沙夜……」
イクタは掠れた声で呟いた。微かに指先が震えている。
 しばらく、呆然とサヤを見つめていたイクタは、
やがて目元を抑えてふらふらと外へ出て行った。
サヤはそれに気付く様子もなく、床に転がった人形をぼんやりと見つめていた。

壊れそうな サヤ。大好きなサクヤを失って、泣いているサヤ。
僕はサヤが好きだ。サヤはサクヤが……
 でも僕は、サクヤのことも大好きだった。

 僕はいつの間にか、そこに座っていた。
サヤは体を震わせて、僕のことを見つめていた。
「……サ…ヤ」
異質な声がこぼれた。
自分の喉が震えて、声が出るのだと知った。
 手を伸ばすと、サヤに触れた。
サヤは信じられないというように、目に涙を一杯にためて、震えていた。
「サヤ」
「さくやぁっ!!」
サヤの目から大粒の涙が零れた。
痛いほど僕の体にしがみつきながら、サヤは泣いた。
泣いて泣いて、一生分の涙を流し尽くすかと思うほど泣いた。
 僕は誤解を解くことも出来ずに、ただサヤの背中をなでることしか出来なかった。
 子供のように、泣きじゃくるサヤを抱きしめて、僕は少し昔のことを思い出した。

 あれはいつの頃だっただろう。
サヤと出会った頃、もうサクヤは体が弱かった。
ほとんど、病院から出ることも出来なかったけれど、
その日は具合が良かったのだと、何度も聞いた。
 サクヤは意外とゲームが得意で、僕はその賞品だった。
僕のしていた帽子は、たまたまサクヤのお気に入りの帽子とよく似ていた。
サクヤはあまり使う機会のない、その帽子をとても大切にしていた。
だから、サヤは僕を「さくちゃん」と呼んだ。サクヤのさくちゃんだって、笑っていた。
 サクヤは照れくさそうに、僕をいつも片手で放り投げては、サヤに叱られていた。
サクヤは照れてたけど、本当は僕だって照れくさかったんだ。
 それから、サヤは僕を大切にしてくれた。

ねェ サヤ 知っテいた?人形は 人の心を映ス 鏡ナンだっテ。
イろいロな 心を映シて 学習しテイくんだっテ。
ジャあ 僕は誰の心を映シているんダロうね。

 ふと視線を落とすと、サヤは穏やかな寝息をたてていた。
僕はサヤの少し癖のある髪を撫ぜた。
彼女は少しだけ声を漏らすと、僕の服にしがみついた。
「大好キダヨ、サヤ」
頬の涙を拭う。
「僕ハ、イツダッテ、サヤノ味方ダヨ」
僕の白い指が、サヤの首に絡まる。
指にゆっくりと力がこもり、サヤが苦しそうに眉を寄せた。
僕には彼女が泣きそうに見えた。
「僕ガ、味方ダヨ」
サヤが目を開いた。そして、嬉しそうに笑った。
僕の頬に手を伸ばした。
 涙を流しながら、彼女は笑っていた。
そして、声もなく唇が動いた。
「さ く や」
僕は彼女を放り出すように手を離した。
サヤは激しく咳き込んだ。僕は震える自分の体を抱きしめた。
どうしても、体の震えは止まらなかった。
サヤは涙で滲んだ目を僕に向けた。
「デ…キナイ」
サヤの首に紅く指の跡が残っている。
「僕ニハ、デキナイ」
「連れて行ってくれないの?咲也」
サヤの手がゆっくりと伸ばされる。
僕はずるずると体を引きずって、サヤの手から逃げることしか出来ない。
「僕たチハ、サヤを愛シテいルから」
サヤはふわりと首を傾げた。
「僕モ サクヤも ズット サヤ ノ 傍ニイル」
「咲也?」
「ココロは サヤ ト いるカら」
サヤは僕を捕まえた。
泣きながら、僕を捕まえていた。
 僕は罰を受けるだろう。
サヤはサクヤのところへ行きたかったのに。
その願いを叶えることがどうしても出来ない。
 こんなことなら、もっと大きな罪を犯せばよかった。
サヤのために、最愛のサヤのために。
サクヤがもっと、サヤと一緒にいられるように。
「生きテ、サヤ」
僕はただの人形に戻る。
 もう何の魔法も持てなくなる。
動けない人形の中にあった、かりそめの魂すらなくなってしまう。
もう、永遠にサヤを見ることも出来なくなる。
僕ハもウ、最愛ノヒとニハあえナイ。
 もう時間がナい。
体がモトノ小サな人形へトもドってユク。
「ボクたチは、きミが ダいすキだヨ」
ぽてん、と布製の人形が床に落ちた。
それきりだった。
 サヤは黙って、長い長い時間、その人形を見つめていた。

エピローグ

 僕はまだ存在し続けていた。
体はもうチリに還り、サヤはもう年老いて死んでしまったであろう長い時間が過ぎた。
あれから、僕はとてもたくさんのことを考えた。
サヤはどうなったのだろう。
突然現れて、消えてしまった僕をサヤはどう思っただろう。
 あぁ、だけど僕はあの瞬間、確かに幸せだったんだ。
それが、サヤを不幸にしたとしても、僕は幸せだった。
『ウ ラ ギ リ モ ノ』
サクヤと同じ望みを抱いていたんだ。
サヤにもう一度笑って欲しいと思った。
でも、サヤはサクヤと一緒に行きたかったんだ。
『ウ ソ ツ キ』
人形の心はただの借り物。
人が命を掛けて、僕たちに心を吹き込む。
「沙夜!咲也!!僕は間違えたの?!」
もう、想いだけしか残っていない。
あの僕を呼ぶ優しい声はどこにもない。
ただ、僕は答えの出ない迷宮で永遠に彷徨っているだけ。

「さくちゃんったら、泣き虫ね」
くすり、と笑う声がした。
僕は恐る恐る振り向く。
「まったく、そんなことも分からないのか?」
苦笑しながら伸ばされる手は、とても優しい。
怯えながら手を伸ばすと、ふたりは強く、抱きしめてくれた。
僕はまだ信じられなくて、呆然としていた。
 沙夜と咲也が笑っていた。
「さくちゃん、ありがとうね」
沙夜が言い、咲也は笑顔で頷いた。
「サヤ……サクヤ………」

浄化の炎が三人を包んだ
そして、もう苦しむことはないのだと
僕たちの女神の優しく、哀しい呟きが聞こえた
 炎は暗い森を照らした
 人形たちは、もう泣かない……

可哀想な猫( 1 / 1 )

一匹の猫がおりました。
猫はとても、とても幸せな猫でした。
猫を縛るものは何もなく、
何も持ってはいなかったけれど、
猫は「自由」を持っていたのです。

星の綺麗な夜には、猫は川べりを散歩しながら、星たちと語りました。
空の綺麗な日には、木陰で雲の流れる様子をいつまでも眺めていました。

あるとき、猫はひとひらの羽を見つけました。
おおきな 白い羽でした。
転々と落ちている羽に導かれるまま
猫は広場へゆきました。

広場にはたくさんの羽が落ちていました。
そして、羽と同じ色をした白い猫がおりました。

白い猫は、彼を見つけるとにっこりと笑いました。
「こんにちは。灰色の猫さん」
白い猫は言いました。
「こんにちは。白い猫さん」
猫は言いました。

猫はすぐに、この白い猫が好きになりました。
「僕は自由な猫なんだよ」
猫は言いました。
「そう……」
白い猫は、笑顔でそう言いました。
「僕はとても幸せな猫なんだ」
猫はいかに自分が幸せなのかを語りました。
何者にも縛られず、何も持たず、自由だけを持っていると。
白い猫は、そのたびに静かに「そう……」と呟くのでした。

「僕は幸せな猫なんだ」
猫は、少し怒ったように言いました。
白い猫は少し首をかしげていいました。
「幸せってなあに?」
「幸せってのは、自由ってことさ。何にも縛られずに自由でいることさ」
「そう……」

猫は少しだけ不安になりました。
『幸せって何だろう』
猫は生まれてからずっと、ひとりぼっちでした。
猫は、ひとりで生きていく方法をすぐに覚えました。
あるとき、猫は人間に拾われました。エサも寝床も心配する必要なく、
穏やかに過ごしていましたが、
人間の子供がひとりおりました。

あるとき、いつものように人間の子供は猫のしっぽと戯れ、
ころりころりと転がっておりました。
突然、猫の右目に激痛がはしりました。
子供の指が右目に入ったのです。
猫はたまらず子供の顔をひっかきました。

そして、猫は再び一人になっていました。
目はしくしくと痛み、猫はうろうろと町を彷徨いました。
右目はもう何も見えなくなっていました。
そして……

「うわ、なんだこの汚い猫」
「おい、これこれ」
そう人間は言いました。
猫は必死で叫びました。
人間たちはずっと笑っていました。

ふと、気付くと白い猫はもういませんでした。
「あぁ……」
猫は呟くと、左の目で空を見上げました。
空は綺麗な月夜でした。
息も凍るほど冷たい空気の中、猫は地面に倒れたまま、にっこりと笑いました。

一匹の猫がおりました。
とても可哀想な猫がおりました。
猫はずっと「自由」を持っていました。
ずっと、ひとりぼっちでした。
優しい手は、猫にはとても遠いものだったのです。

存在感( 1 / 2 )

あの日、彼女は本当にそこにいて
あの日、俺は彼女に会っていて
あの日、彼女は笑っていて
あの日、彼女はいなくなった
本当に、俺はひとりが好きで
本当に、彼女はひとりで
本当に、彼女は笑っていて
だけど、彼女はどこにもいなくて
だけど、彼女を忘れられない
だけど、本当に彼女はそこにいたのだろうか

廃ビルの屋上で、俺はいつもたった一人で夕日を眺めていた。
学校で誰かと笑っているのもうんざりだった。
曖昧に笑っていれば、それでいいだけの関係。
本当は一緒にいたって楽しくもなんともない。クダラナイ奴ら。
俺は大抵一人だった。
ただ、それでもこんな空の日には、少しだけ人恋しいような気持ちになったけど、
誰かと一緒にいる煩わしさに比べれば、孤独に夕日でも眺めている方がよほど気楽だった。
だから、俺はひとりが好きだった。
家に帰れば、ハハオヤが塾だ受験だと騒ぎ立て、キリキリとした雰囲気に胃が痛くなった。
とにかくひとりでいたかった。
親切顔のおせっかいな教師も反吐が出たし、そもそも俺は何もかもがうっとうしかった。
本当に大学に行きたいのかすらわからない。
「みんなが行くから」「それが普通だから」。
「高校のランクがこれくらいだから、これくらいの大学へ」本当にそれだけだった。
理由なんてそれだけしかない。

だから、俺は本当にひとりが好きだった。
だから、俺はこんな廃ビルの屋上で、たったひとりで夕日を眺めながら、
ぬるくなった缶コーヒーを相棒に、泣きたいような、笑いたいような気持ちで空を見ていた。
それを共有する誰かなんて必要じゃない。
誰にも邪魔されないで、夜になるまで夕日を眺めていた。

そこで彼女と会ったのは、いつものように夕日を眺めていたときだった。
黒髪で眼鏡をしていて、近くの中学の制服を着ていた。
クラスか学年に一人はいたような図書委員とか委員長とかしてそうな真面目そうな女の子。
でも、俺の周囲の女に比べれば、格段に大人の目をしているような気がした。

「こんばんは」
寝転がったまま、「ここから立ち去ろうか」なんてことを考えていた俺に、
彼女は涼やかな声でにっこりと笑って言った。
とにかく俺は煩わしくて、黙って空を眺めていた。
空は血のように赤くて、紫色に染まっていて、そして夜の青が近かった。
なんとなく、立ち去るのも悔しい気がして、俺は彼女が諦めるのを待っていた。
 そのうち、居心地が悪くなって去るだろうって。
 だけど、彼女は俺の隣に腰を降ろした。
そして、俺の顔を覗き込んで、にっこりと笑った。
「こんばんは」
「…………なんだよ、中坊はとっとと帰れや」

なれなれしくて、不快だと思った。
無視するつもりだったのに、なぜか笑顔に吸い寄せられるように振り向いてしまった。
それがまた腹立たしくて、俺はことさら乱暴な口調になった。
でも、彼女は気にしなかった。
「おひとり……ですか?」
結構、可愛い声だった。
別にロリコンなわけでもないから、中坊をそういう対象に見る気もなかったけど、
何ていうか、馬鹿っぽくなかった。
数年経てば、いい女になるかなっていう、そんなクダラナイことを考えていた。

 だから、だったのかもしれない。
 返事をしてしまったのも、悔しかったのも。

「そうだけど。お前は?」
「私もひとりなんです。良かった、少しだけ誰かと話がしたかったから」
「…………だったら、友だちとでも喋ってろよ。学校にいるだろ」
小さく呟いたつもりの声は、人気のない場所では奇妙に響いた。
彼女は少しだけ泣きそうな顔のまま、微笑んでいた。
「ともだち……いませんから」
「…………」
俺が何も言えなくなって空を見上げると、彼女も俺の隣で空を見上げていた。

 そうして、二人で黙って空を見ていた。
 彼女の横顔が夕日で赤く染まっていた。
彼女は透明な笑みを浮かべて、夕日を眺めていた。
俺は、それだけでもうどうしようもなくなってしまった。

「話したいこと、あるんじゃなかったっけ?」
沈黙に耐え切れずに言うと、彼女はきょとんとした顔で俺を見下ろした。
「話したいって言ってただろ?」
「きいて……くれるんですか?」
「………まぁな」
照れくさくて、頑なに空を見たまま言った。
「ありがとう………」
ちらりと横目で彼女を見ると、本当に嬉しそうな笑顔だった。
そんな笑顔を俺はしばらく見ていなかったかもしれない。

しばらく黙っていると、彼女は俺の隣に寝転んだ。
振り向くと、彼女はじっと空を見上げていた。

「わたしは、ひとごろし………なんです。
ひとを、ころしたんです」
「………なんで?」
彼女は驚いたように、俺の顔を見つめた。
「驚かないんですか?ひとを……ひとを殺したんですよ、わたし」
「別に……どうでもいいし」
彼女は座りなおすと、膝に顔をうずめた。そして、小さく息を吐いた。
「だから、わたしは死ななきゃいけないんです」
「それこそ、『なんで?』だな」
彼女は顔をあげた。
泣いているかと思ったけど、彼女は自嘲気に笑っただけだった。
「ひとを……ころしたから。ユキを助けられなかったから……」
ユキってダレ?なんてことを聞く気なんてなかった。
ただ、俺は「ふうん」と呟いただけだった。
「殺した」なんてのも、半分思い込みか何かだろう。
こんな大人しそうな子が人殺しなんて信じられない。

「……アンタが死んでなんとかなるわけ?」
「でも……死ななきゃいけないんです」
ぽつん、と呟くように言って彼女はまた笑った。
 結構、頑固っぽいなと思った。
何となく、俺と話をしているんじゃなくて、
何となく、独り言でも言ってるつもりで喋っている感じがした。多分。

 しばらくして、やっぱり二人とも黙ったまま夕日を見ていたら、
いつの間にか空は暗くなっていた。
俺はともかく、彼女は帰らなくていいんだろうかと思って、隣を見ると、
彼女はじっと俺を見ていて、にっこりと笑った。

「なんで、あなたはひとりでここにいるんですか?」
「俺?」
驚いた顔をしていたんだろう。
彼女は頷きながら微笑んでいた。
「なんでだろうな……」
気がついたら、俺はそんなことを呟いていた。
空は晴れているはずなのに、地上が明るくて星はまったく見えない。
俺は目を閉じて大きく息を吐いた。
「ひとりって、寂しくないですか?
わたしは、ひとりでは寂しいです。ここに来るのも、本当は恐かった……」
「なら何で来たわけ?」
「……ユキを裏切って、ひとりだけで、生きていても仕方ないんです」
俺はため息をついた。
「わたしとユキはずっと一緒だったんです。だから、ユキがいなくなったら……
わたしのせいでユキはいなくなったんですから」
彼女は大きく息を吐いた。吐息は少し震えていた。
「どこにも居場所がないって、分かりますか?」
「さあ、俺、あんまりそういうことって考えないから」
彼女はクスクスと笑い始めた。

 俺は妙に苛立ってきた。
これだから、他人と関わるのは嫌なんだ、と思った。
女なんて、何を考えてるのかさっぱり分からなくて、苛々する。
そもそもなんで声をかけてきたのかもわからない。
段々、うっとうしくなってきた。
結局、からかわれていたんだろうか。
そう考えると、ムカついて腹が立ってきた。

「………」
俺は黙って鞄と空き缶を取ると、無言のまま立ち上がった。
彼女はぽかんとした顔で、俺を見上げていた。
 俺は深いため息をついた。
「あんたもさ、そろそろ帰ったら?オヤが心配するだろ?」
「………帰るんですか?」
「あぁ」
彼女が立ち上がった気配がした。
そして俺はさっさと帰ろうとして、立て付けの悪い扉に手をかけた。
「あの……わたし、チヒロっていいます。忘れてもいいです」
なんとなく腹が立って、何か言ってやろうと勢いよく振り向いた。

 彼女は風に吹かれて乱れる髪を片手で抑え、屋上の縁に立って笑っていた。
「おい………危ないぞ?」
一歩、足を踏み出して俺は言った。彼女はやっぱり笑っていた。
「おい、お前……」
「話……聞いてくれてありがとうございました」
「おい………」
更に俺は一歩足を踏み出した。
さっきまでふたりで座っていた場所には、ぽつんと彼女の鞄が転がっていた。
「わたし、最後にあなたに会えて良かったと思います。ありがとうございました」
そう言って、彼女はぺこんと頭を下げた。
そして、顔をあげるとにっこりと笑った。

今までで一番、綺麗な笑顔だった。
 そして、俺が駆け出すよりもほんの少しだけ早く、彼女の体が宙に舞った。
 伸ばした手は、屋上の端にすら届かず、俺は屋上の真中で立ち尽くした。
足元には彼女の鞄だけが残されていた。

 一瞬の後、下から誰かの悲鳴が聞こえてきた。
入り乱れる叫び声が聞こえる。
だけど、俺はそこから動くことも出来ず、ただ立ち尽くしていた。

 蛇足にはなるが、それからの話をしよう。
俺は直後にかけつけた警察に、一時は疑われもした。
けれど、遺された彼女の鞄からは遺書が見つかった。

後日、警察からの話で、彼女が覚悟の自殺だったことと、
親族が誰もおらず福祉施設で葬式が行われたことをきいた。

俺の両親は、随分と彼女への怒りをぶちまけていた。
学校では一躍時の人となった。
俺はそんな雑音が煩わしくて、何も聞くことをやめた。

だから、彼女が本当に『ひとごろし』だったのかはわからない。
彼女は初めから決めていた。
あの屋上の扉を開ける前から、全部決めていたのだ。
だから、少しだけ恐かったと言ったのだ。
きっと、止めても無駄だったのかも知れない。
どんな言葉も、頑固な彼女には届かなかったかも知れない。

なぜなら、彼女は笑っていた。ずっと笑っていたんだ。
俺の周囲の騒ぎも、しばらくすると収まった。
ただ、流石にあの廃ビルは立ち入り禁止となり、半年後には取り壊された。
だから、あの時から俺ももうあの場所へは行っていない。

だから、まだあの場所で彼女が笑っている気がしている
でも、本当に彼女がいたなんて証拠はどこにもない
RUN
人形の森
0
  • 0円
  • ダウンロード

2 / 8