「桃が泣いている。急がなくちゃ。」
東から吹いてきた風で勢いをつけて、アキラは桃の元へと急ぐ。
いつの間にかサクラがついて来ている。
「サクラも行くのか。」
「桃が呼ぶのよ。」
「俺もさ。」
ふふっと笑い合って、あとは風に乗り、桃の家のかりんの木のてっぺんにくるりと巻きつく。
桃は、赤ん坊の百合を、庭先のベンチに座ってあやしている。百合はなかなか泣き止まぬらしい。桃の頬には涙の筋が。また仕事場で何かあったのか。
「お前が泣いていたら百合は余計眠れないだろう。」
アキラ達の姿は桃には見えない。声も聞こえない。
だがこんな風に、その心に寄り添い語りかけていると、ほどなく、桃は安らいで行く。
サクラは百合の周りをくるくると回ってあやしている。百合が、それを目で追う。いつの間にか泣き止み、にこにこと声を出さずに笑う。
「百合には俺達が分かるんだな。」
「不思議な子ね。最初は驚いたわ。」
桃はすっかり落ち着いて家の中に入り、いつの間にか眠ってしまった百合のそばに寝転び、自分もうつらうつらし始めた。
どのくらい走り続けているのだろう。
明良が、家の裏木戸から抜け出して走り出した時真上にあった月は、雲の上にでも隠れてしまったのか、全く見えなくなっている。
暗闇に目が慣れて来たとは言え、木立の切れ間を見極めるのと、足元の感覚だけで走り続けるのは、もう限界だ。胸は苦しく、両足は鉛の様に重い。
立ち止まって息を整えようとして、明良は初めて、闇の深さに気が付いた。
次の瞬間、背中がぞくぞくして、何とも言いようのない緊張で全身が固まる。
どこをどう走って来たのか。こんな山の奥に、昼間でさえ、足を踏み入れた事など無い。
急に強い風が吹き渡った。
木立を激しく揺らし、明良の恐怖感を煽る。
今鳴いたのは鳥の声か。こんな夜に鳴く鳥などいるのだろうか。
風は頻繁に向きを変え、まるで明良の周りをくるくると回っているかの様だ。
立ちすくむばかりだったが、不意に、背後から突き飛ばすような風が吹き、それに勢いを得て明良は夢中で走り出した。
獣の咆哮のような風音が追いかけて来る。
必死で走り続ける足元には、何か不快な感覚がまとわりついたままだ。
明良の両足は次第に重くなって来る。
ああ、もう駄目だと思った時、ひと際強い風が雲を吹き払い、隠れていた月が現れた。
月の光が、明良の走り行く先に一人の僧の姿を照らし出す。その僧が、両の腕を大きく広げ、明良の目を真っ直ぐに見つめた。
何のためらいも無かった。
明良は最後の力を振り絞って、僧の腕の中に飛び込む。がっしりと抱き止められて、そのまま気を失った。
誰かが、明良の名を呼んでいる。背中がごつごつと何かに当たって痛い。寝返りを打とうとして頭ががくんと落ち、その拍子に目が覚めた。
目の前に、誰かがしゃがみ込んで、明良の顔を覗き込んでいる。
驚いて跳ね起きた明良の前に居たのは、先刻嵐の中で、夢中で飛び込んで行った相手に間違いない。
辺りは深い霧がかかってよく見えないが、どうやら夜明け前のようだ。
「目が覚めたようだな。大丈夫か。」
明良は座り直して両手をつき、頭を地面にこすりつける様にして礼を言った。自分を助けてくれた人なのだと判る。
「何が起きていたのか解りませんが、助けて頂いてありがとうございました。」
顔を上げ、改めてその人物を見ると、僧形ではあるが、髪は伸ばし放題なのを無造作に束ね、脛までしかない短い墨衣を纏っている。一見して山伏の如き出で立ちであるが、乱暴な雰囲気は無く、凛とした厳しさを漂わせている。だが表情は柔らかく、目は笑いを含んで優しい。
「怖かったろう。夜の山に一人で入るなんて、無茶な事をする子供だ。」
「俺は。」
「何も言わなくていい。お前の事は知っている。」
明良は不思議な気持ちでいっぱいだった。
初めて会ったのに、何故こんなに温かい気持ちになるのだろう。何故、これほど安心していられるのだろう。
「あなたは誰ですか。何故俺の事を知っているのか。先刻は何が起こったのですか。」
「私はミョウザン。明るい、山、だ。明良の名と似てるだろう。
お前の事は、ずっと前から知っている。詳しい事はまだ話せないが、いずれ解る時が来る。それまで、今の問いに対する答えはお預けだ。」
そこで明山はくすりと笑って、
「お前が夜の山に走り出したりしなければ、顔を出しはしなかったのだが。正直、危ないところだったのだ。間に合って良かった。
それより、親達が心配しているぞ。帰り道も分からないだろう。送って行こう。」
明良の気持ちは完璧に明山に呑み込まれているから、それ以上聞き返す事が出来ない。ただただ素直な気持ちで、明山と対峙している。
明山と並んで山を下りながら、明良は、家を飛び出した経緯を語った。自分の事を知っていると言ったが、すべてを分かっているのか、明良の存在を知っているだけなのか測りかねる。だが明山は、静かに相槌を打ちながら聴いてくれている。
明良は、この二月で十四になった。高等小学校を卒業したら、進学して、将来は医者になろうと決めていた。
ところが、父親が長年番頭を務めていた薬問屋が、時代を読めず経営に失敗し、年明け間もなくつぶれてしまった。そして、前後の諸事に走り回っていた父が過労で倒れ、長子である明良は、進学どころか、一家の生活の為に、奉公に出なければならなくなったのである。
明日は、住み込みで奉公する先の番頭が、明良を迎えに来る。
明良とて、家の事情はちゃんと理解しているし、親や弟妹の為に丁稚に行く事は納得もしている。とは言え十四歳の少年には、夢を押さえ込む事も消し去る事もできず、自分の中で、どう処理したら良いか分からない。
せめて最後の晩に、好きな本をいっぱい読んでおこうと、遅くまで灯明をつけていて母に叱責された。灯明を消して母が寝床に戻った後、明良は、もう、不満と悔しさで胸が張り裂けそうになり、家を飛び出して夜の道を走り出したのであった。
昨夜明山に助けられた時、憤懣は、いつの間にか恐怖と置き換わっていたが、もとより父や母を恨んでいるわけではない。自分の定めと承知している。それよりも、今頃両親がどれほど心配しているか、帰ったら何ほど叱られるかが気がかりである。
明山にそれを言うと、実に愉快そうに大笑した。
「やはり、まだまだ子供だな。親に叱られるのが怖いか。さあ、家が見えてきたぞ。」
明良は、明山とこのまま別れてしまうのが惜しくなっている。
森を抜ける辺りで、明良と明山は立ち止まった。
「頑張れよ。つらい事こそが、人の心を豊かにしてくれる。人の道を外れなければ、多少の失敗は気に病むことは無い。だが、短気はほどほどにしておけ。」
「ありがとうございました。」
深々と頭を下げて、もう一度心から礼を言った後、明良は思い切って明山に訊ねた。
「医者になる夢は諦めるけど、これから、何を目指して生きて行けば良いのか分かりません。」
「しっかりと前を向いて、一日一日を大切にするのだ。後ろを向いてばかりいると、道を踏み外すぞ。明良は、自分の一生を通して、人を愛する事、人の道を守る事を貫け。私はいつでも、お前の近くで、お前を守っている。」
その不思議な答えに、明良は満足してしっかりと頷いた。
「明山様、又、会えますか。」
「ああ。必ず会える。」
明良はにっこりと笑って明山に手を振り、家に向かって走って行った。
明良が、勇気を振り絞って玄関の戸を開けた時、父と母は、上がりかまちに腰掛けたまま、互いに寄り添うように眠っていた。
それを見た時、明良の幼い夢は、静かに心の奥にしまい込まれ、父と母に対する想いが涙とともに溢れ出し、明良の心を温かくしっとりと湿らせた。
物音で目覚めた父と母の間に、明良が割り込む。三人は、身体を寄せ合ってしばらくじっとしていた。何も言う必要は無かった。
さあ、味噌汁を温めるからと、母が台所に立つ。
明良は、父を支えて家の中に歩き出し、その身体が冷え切っている事に初めて気がついた。春とは言え、まだ桜も咲かぬ時期である。いつから、ああして二人で玄関に腰掛けていたのだろう。明良を丁稚奉公に出すと決めてから、親達も苦しんだのだろうな。そんな事を考えられるほど、明良の心は柔らかくなっている。
朝飯は、明良の好きな、口が曲がるほど塩っ辛い鮭を焼いたのと、大根の味噌汁であった。明良の出立の為に用意してくれていたのだろう。下の弟妹の前はもとより、父の前にも鮭は無い。両親の深い愛情と悲しみに、改めて頭が下がる思いの明良である。
何も知らない幼い弟妹は、羨ましそうに明良だけの魚をちらちらと見ている。明良が、一切れの鮭を三つに分けてそれぞれの皿に乗せてやると、弟達は殊勝に『ありがとう兄ちゃん』と頭を下げて、それから嬉しそうに食べ始めた。父は、にやにやしながら黙ってそれを見ているだけである。
奉公先の番頭が迎えに来て、先払いの明良の給金を父に渡す。次に家に帰れるのは、八月の旧盆が過ぎてからだ。給金は支払われたのだから、どんなにつらくても逃げ帰るわけには行かない。
だが今日の明良は、自分が家族を支えている事が嬉しくて仕方がない。父も母も、朝方明良が帰ってから、叱責もせず説教するでもなかった。むしろ、何も言わなくても、お互いの胸のうちが解り合えている。こんな気持ちの在り様は初めての経験であった。
番頭の後ろから玄関を出て歩き出した明良は、しばらくの名残に家を振り返る。家族の後ろに、明山が、優しい目をして立っていた。