算命学余話 #G103

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算命学余話 #G103 (page 1)

 前回の『算命学余話#G102「バランスを取れない社会」』も前々回同様長い文章となりました。活字が苦手な方には申し訳ありませんが、筆者は現在、伝達本能を司る星が回っているため、言いたい事があれば書かずにはいられない状態なのです。ご容赦下さい。
 いえ、このように星のせいにするのは本当はいけない姿勢だということは、算命学の学習者には承知して頂きたいです。星のせいにするのは、責任逃れの表れです。自分の身の周りで起きている諸相は、良い事も悪い事も全て、自分のせいなのです。算命学風に言葉を変えて「自分の持って生まれた星のせい」と言ってもいいですが、それはつづめれば「自分のせい」なのです。
 何らかの被害を被った時には「自分は被害者だ」「あいつのせいだ」「自分に非はなかった」と言いたいでしょうが、その被害を自分に向けて呼び寄せたのは紛れもなく当の本人なのです。その被害を、無意識では「星」が呼び寄せたし、有意識では自分が「何かをやらかした」又は「何もしなかった」ことによって引き寄せた。そう考えると、この世に被害者というものは存在しないということになります。
 あるのは事象だけ。事象には陰陽がありますが、陰陽は善悪と同義ではありません。被害者・加害者も、前者を陰と仮定するなら後者は陽になりますし、前者を陽と仮定するなら後者は陰になる。だから「被害者は善であり、陽である」といった思い込みは間違っています。少なくとも算命学の思想ではそうなっています。そうしたわけで、自らを「被害者」と決めつけて「加害者」と呼ばれる相手を容赦なく叩いたり、いもしない加害者をわざわざ探し出して吊るし上げるような行為は、慎むべきなのです。そんなことをしても、得られる快感は「一時的」で「持続力のない」下等なものです。どうせ快感を求めるのなら、自分自身が上等になる方向を目指した方が「本物」が手に入ります。被害者意識は人間をダメにします。

 前回は世間で起きている「ダメな諸相」をいくつか並べて、算命学的解釈で斬ってみました。そのうちの一つでは、「戦争は悪くない」「戦争は撲滅してはならないし、する必要もありません」と、それだけ読むと不穏なフレーズを書きました。「それだけ切り取って読む」ことによる弊害は世間で散々批判されていますから、真意を知りたい方には前回余話を全文読んで頂くとして、最近、武田邦彦氏が真顔で「戦争は悪くない」説を唱えていました。ひとたび聞いて「なるほど、その通りだ!」と膝を打ちました。算命学とは論点が全然違いますが、固定概念に凝り固まった頭をほぐすにはうってつけなので、ここに簡単な概要を記します。

 それは、現代人が「戦争」と「虐殺」を混同しているという説です。これを正しく分別すれば、虐殺は悪いけれども戦争は悪くないことが判る。なぜなら、戦争とは兵士や軍人だけが殺し合う行為であって、そこにはルールがある。降参したら武器を置き、捕虜になったら人道的に扱われるとか、事前に宣戦布告が必要だとか、民間人と区別できるよう軍属は制服を着るとか、戦闘に巻き込まれそうな民間人は予め避難させておくとか、生物兵器やクラスター爆弾など民間人に被害の広がる恐れのある残虐兵器は使わないとか、です。これは近現代の戦争のルールで、決めたのは欧米人なので、この点について私は気に入りませんが、現状今も行われている有名無名の戦争行為は、こうしたルールが守られていれば問題がなく、国連その他第三者が割って入って非難したり停戦を求めたりする必要はなく、あくまで当事国が自力で停戦するなり賠償額を決めるなりすればいい、というものです。

 しかし、兵器の進化によって、いつの頃からか戦争は民間人を巻き込む「虐殺」に様相が変わって来た。爆弾や爆撃によって被害が広範囲になり、そこに民間人がいて死傷するケースが急増したし、日中戦争では中国軍が「便衣兵」という民間人の格好をした兵士を登場させ、「軍属との識別」不能なルール違反の市街戦を始めた。このため日本軍は民間人を含む中国人を無差別に拘束したり攻撃したりしなければならなくなった。当時も今もこのゲリラ戦は、無辜の民間人が攻撃される可能性が圧倒的に高いため、正当な戦争行為とは見做されていない反則行為なのです。
 民間人が巻き込まれた最大の事件は原爆投下であり、その後ベトナム戦争で撒かれた、奇形児を生む枯葉剤であり、戦争終結後に突然爆発して農民の足を吹き飛ばす遅発性地雷の大量埋設でした。これらはいずれも現在は「禁止」行為になっています。戦争は起こしてもいいし、軍属同士がいくら殺し合っても構わないけれど、こうした道具は民間の被害が甚大だから使ってはいけない、ということになっています。クラスター爆弾もこれに該当するので使用禁止だったのに、最近あちこちの国でいま使うの使わないのと話題になりました。結局どうなったのでしょうね。報道は「その後」を全然伝えません。
 日本の例で言えば、沖縄戦を最後に、日本はどことも戦争をしていない計算になります。なぜなら沖縄戦から終戦の8月15日までに行われたのは全部米軍による一方的な「虐殺」であって、軍人同士がルールを守って戦う戦争には当てはまらないからです。民間人が普通に暮らしているのに頭上から事前避難通告もなく原爆が降って来るという事態を、米国は承知の上で投下したのだから、これは虐殺である。このことを米軍人たちに問いただすと、彼らは沈黙すると言います。虐殺だったとの自覚があるから反論できないのです。

 こうした理屈で、戦争は悪くないけれども、虐殺は悪い。だからそもそも悪くない戦争をやめろと言っても、人類は一向にやめられない。けれども虐殺は誰にとっても悪いことが判るので、虐殺をやめることを我々は考えて議論するべきだ、というのが武田氏の主張です。なるほど。ユニークですが、筋は通っているようです。自決権については前回余話で取り上げたので、再読下さい。
 算命学の戦争解釈とは随分視点が違いますが、「自決権として戦うことは悪ではない」という結論は奇しくも同じでした。私は猫も杓子も「戦争反対」と叫ぶ人たちに、物事を深く洞察したり過去から今日までの経緯を精査したりする種類の知性を見出せないので、今も昔も全く共感できずに来ましたが、武田氏の説には知性を見出せるので、現実的な解決法としては有望だと感じています。少なくとも「戦争反対」をただ叫ぶだけの感情論とは離れています。尤も、私は算命学者なので、根本的には戦争だろうと虐殺だろうと、陰陽に帰結するだけだと考えています。しかしこの思想は、現実の惨状を解決する手段にはなりません。

 そんな算命学は実生活では役立たずなのでしょうか。そうでもないと思っている人がそこそこいるから、こうして私は執筆を続けられるのです。今回の余話は天中殺シリーズで、天堂星中殺を考えます。
 天中殺の個別解説は、当初は人気がありましたが、最近は人気が下火になってきました。恐らく、天中殺をよく理解すると、わざわざ個別解説しなくても大体こうだろうという予測がつくようになったからでしょう。そこまで読者の理解が深まったのなら、書いている私としても本望ですし、わざわざ個別解説を読むようおススメするまでもありません。それでも、まだ理解が深まっていないと思っておられる謙虚な方のために、今回も続きを書きましょう。
 天堂星は老人の星です。この星を持っているからといって老けているとかシワが多いとかいうことはありません。ただ雰囲気が幼少から大人びていたり、じじむさい口振りだったりということはあります。
 ところで昨今の老人の話題といえば、昔に比べて寿命が延びたこと、老後が長いこと、生活のために、或いは健康のために高齢でも働いている人が多いこと、元気である一方、認知症や長期介護の危険もあること、老害と呼ばれる諸事象を引き起こしていること、などが挙げられます。なんとこれらの現象は、ほぼすべて、天堂星中殺が引き起こす現象とかぶっています。まるで、現代老人はもれなく天中殺だとでも言わんばかりです。一体どうしてそうなのか。見て参りましょう。
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