親父から僕へ、そして君たちへ

おやじから僕へ、そして君たちへ( 1 / 1 )

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 (僕から、僕の子供たちへの手紙です) 

 

                                                                   

君たちのおじいちゃん、つまり僕の親父は、僕の知っているかぎりは貧乏画家だった。

 

若い頃は、けっこう若手の画家として認められ、絵も売れたこともあったようだけど。パリに行く予定が、友だちと渡仏祝いに銀座に繰り出して、渡航費用を飲んじまったとか聞いた。結果、モンマルトルの丘には立てなかった。

 

 僕の彼からの離別は突然始まった。

 

 中学2年のある日、学校から帰ってくると親父がぼくにぽろっと言った、「高校から先は、もう責任もてないな…」って。

 

 家の生活は大変だったと思う。

 

戦争で東京・谷中のアトリエを全焼し、仕事もなく、遠い親戚を頼って岡山の山奥に疎開していた一家だったから。

 

その頃、歳のうんと離れた上の姉はもう独立していた。下の姉も実母と一緒に土佐の母の実家にいて、僕とは別れて暮らしていた。僕をかわいがってくれていた父の母、つまりおばあちゃんもちょうどその頃亡くなっていた。結果、僕は親父と二人きりだった。いや、実は、親父は友人の奥さんと、僕と同じ家に住み始めていた。

 

 「高校から先は、もう責任もてないな…」って聞いた瞬間、正直、親父の言葉の意味は良く分からなかった。でも、時間が経つと、その意味はじわっと伝わってきた。

 

その時だった、僕が勉強というものを始めたのは。中学の先生に相談したら高校の入学前に試験を受けて、日本育英会の「特別奨学生」になると高校入学時からりっぱな奨学金がもらえるという。勉強した。そして高校に入れた。

 

 もっとびっくりすることが起きた。親父は大きな古い農家を借りてアトリエにして住んでいたが、高校1年生のある日、帰ってみると家が閉まっている。隣の人に聞くと、「ご夫婦で荷物をまとめて出かけられた」という。

 

実母とはもう離婚していて、親父には「新しい母」がいた。この母と僕の間には、いさかいが絶えなかった。結果、僕は一人取り残されていた、昨日までの生活のあとかたをそのまま残した家に…。

 

 後で分かったのだけど、親父は僕の住みかと食べ物を知人宅に頼んでいた。それが全てだった。でかい油絵や額縁を含めて、僕は一人でその知人宅までリヤカーを借りて引っ越した。暑い夏の始まりの日だった。

 

 これが、あまりにも早い、高校1年の時の僕の突然の独り立ちだった。それ以来、自分の事は全部自分でやるということになった。大学も、幸い学費をほとんどタダにしてもらって卒業した。

 

 きっとその頃のシッポが、オンちゃんが中学生のとき、「高校は留年を含めて4年、大学は浪人を含めて国公立で6年、合計10年間は面倒みるけど…」とぼくに言わせたのだと思う。きつい事、言っているよなぁ、本当に。

 

 オンちゃんがなんだか、なんでもかんでも、「自分で、自分で」ってその頃から行動し始めたのではないかと思う。まったく親父から僕が受けたのと同じことを、僕が君に対してやっていたのだから…。

 

 大学の卒業後、就職して数年の間、僕は「すべて自分で、自分で…」でやっていけたんだけれど、チョット早くえらくなり過ぎたら、たちまち破たんが訪れた。課長さんの人事考課といえば、普通、上の人たちがやるんだけど、僕の会社では同時に下の人たちも課長を評価するんだ、無記名で。

 

 課長になって、最初の1年で仕事は滞り、課の空気はパサパサになった。僕はたちまち行き詰まった。なにしろ課の8割の人が、二度と僕とは一緒に仕事をしたくないと評価したのだから。

 

 それが親父との関係で、知らず、知らず培った「何でもかでも、自分の責任で、自分でやる」という生き方の破綻だった。独立心が旺盛で、人に頼らない、人に任せられない性格だったからだ。

 

確かにひとりだと、何でもうまくやれた。それは傲慢のゆえでは無かったと思う。一匹狼的だといえば分ってもらえるかもしれない。

 

 その後、僕は君達の知っているとおり、酒酔い運転で自損事故を起こし、課長職を失った。そして、いわゆるペナルティー・ボックスに3年間入った、部長付きという肩書きで。

 

 その頃、社外でO先生に出会ったのは幸運だった。「やっぱり、一人だけで出きる仕事なんか、社会には決してないんだ」と発見したのは35歳を過ぎてからだった。

 

 僕は少しずつ変わっていった。その先生のコーチングにしたがって、人との関係を行動しなおし始めた。彼は、僕の性格のいびつさや、人との接し方の未熟さをワークショップで具体的に教えてくれた。それが親父からもらったシッポを切り離すとっかかりだった。

 

少しずつ、僕の周りの風景が変わって行った。僕が、課長職に戻った新しい課では、部下による課長評価で、8割がこれからも僕と一緒に仕事をしたいと評価した。ちょうど、評価が逆転したわけだ。

 

 僕の世界の空気が変わっていって、確か親父と酒を飲めるようになったのはその頃からだったと思う。親父が許せるようになったのだ。

 

 親父の葬式の朝、東京には初雪が降った。その朝、オンちゃん、君はセンター試験とかち合って告別式には出られなかったね、君の好きなおじいちゃんだったけど…。

 

 考えてみると、君たち、とくにオンちゃんは、高校の頃から弓道クラブや同級生の間で、「仕切る」のが得意だったのを良く覚えている。もう、その頃から、君は僕との決別を始めていたのかもしれないね。

 

 ちっちゃい頃、親父とほとんど一緒に遊んだ記憶の無かった僕は、オンちゃんとはいっぱい思い出を作りたかった。オンちゃんがちっちゃい頃、車のプラモデルをいっぱい一緒に作ったし、9ミリゲージも一緒に作った。厚手のベニヤ板を買ってきて、底にキャスターを付けて、オンちゃんのベッドの下に入れられるようなジオラマを二人で作ったりもした。

 

その頃はやりのプラモデルは、僕が週末家に帰るとき、必ず二台くらいは買って帰って、全部で数えると、400台は越えていたね。

 

 あとで読んだんだけど、作家の森瑶子は「愛された経験のない自分にとって、愛のある生活を夢見ても、いかんせん、それは矢張りまねごとに過ぎないのかもしれない。本当に愛されたことがなければ、真似するサンプルさえい知らない」と書いている。

 

 僕もやはり、真似事でしかなかったのかもしれないとも思う。もうその頃は、僕は君たちのお袋とはどうにもならない状況になっていて、僕は、自分で建てた家を出て、一人、ちっぽけなぼろアパートを借りて別居していたから。

 

でも、僕と過ごした君の部屋のプラモデルや、9ミリゲージから物作りの楽しさを知ったのならうれしいことだ。

 

二浪までして、その頃ダサイと言われた「機械工学科」を君は国立大学で終えた。そして、ソフトで一流だったぼくの会社への合格を振り切って、物作りの道を自分で選んだ。すごいと思ったね。

 

 チビも、女の子なのに高校の頃からどこか、みんなを仕切っていた。同じような事を二人ともやるものだと思った。それはそれでとても大切なことだと思っている。

 

 チビは素直に育って、幸いやさしい人に出会って、そのまんま受けとめて貰い円くなった。委ねている姿が良く見える。すごく自然体だ。いいお母さんになるね。心配はない。

 

 オンちゃんは昔のぼくみたいに、ちょっとガンバッて会社の世界をやっているようにみえる。今は一人で、何でもうまくやっているようだけれど、そろそろ僕の経験した最初のつまずきに出合う時期に違いないと思う、つまり人に頼れるかどうかだ。

 

 オンちゃんの、好きなことをあくまで大切にすること、行動することなんかすばらしい資質だ。

 

これらは、結果として親父から僕がもらって、君達につないだものだと思う。

 

 でも、僕が50歳のとき自分自身について大発見したことがあるのを知っているかい。君たちにしっかり話した記憶はない。

 

 アメリカのタホ湖で、ミュリエルおばあちゃん博士の開いた心理学ワークショップでのことだ。インチキではないよ。アカデミックな、論理的な裏づけのある3週間のワークショップでの出来事だ。

 

 僕はそのとき、自分のなかに「すごい寂しがり屋」が潜んでいるのを発見したんだ。

 

「幼い自分自身の後ろ姿を、目を閉じて思い出してごらんなさい」と言われたときのことだ。そこには、ガランとした映画館の椅子にポツンと一人ぼっちで座っている僕がいた。

 

これが、おばあちゃん先生の手で引き出されちまった「ちっちゃな子供の心」だった。僕は生まれて始めてみんなの前で、ボロボロボロボロ、オイオイオイオイ泣いた。涙があふれてきて止めようもなかった。

 

 それが糸口で、「人に本当に甘えてもいいのだ、甘えは受け入れてもらえるのだ、許されるのだ」とミュリエルと、その時の仲間達におそわった。

 

50年間、知らず知らずのうちに溜め込んできた悲しさ、寂しさが一度に湧きあがってきた。涙が流れ出た後は、いつか心が穏やかになっていった。それから、僕は自然体でいられるようになった感じがする。

 

 オンちゃんも早めに、「人に頼るってことは、他の人に受け入れてもらえる」って信じて、行動してみてはどうだろう。もちろん見境もなく、誰にでも…とはいかないかもしれないが。チャンスは君のすぐ側にいっぱい転がっているよ、特にさびしい時に。

 

もっとらくちんに生きるためにね…。

M.シュナウザー三代記( 1 / 1 )

チェルト君とワニさん

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 僕んちには、僕にとって3頭目のM.シュナウザー犬のチェルト君がいる。

 

 M.シュナウザーとの付き合いは、今からざっと30年前、アンナ(メス)との出会いに始まる。当時、まだ日本に3,000頭位しか入っていないマイナーな犬種で、活発で、元気なよく吠える、でも賢い犬だった。

 

 誰にも相談せず、突然僕がもらってきた。下の娘が生まれたばかりだったから、かみさんは大変。手のかかる赤ん坊が一度に二人になったわけだ。けれど、いつのまにかアンナはそのかわいらしさで皆の世界の中に深く入り込んでいた。

郵便屋さんに噛み付いたり、野菜売りのおばさんを追っ払ったり、いろんなことがあって、でも19年間(人間でいうと90歳くらい)まで、下の子と一緒に立派に生きてくれた。

 

 彼女がこの世を去った朝のことを、今も忘れていない。早朝、隣室で寝ていた僕の耳に、小さく「ワン」という声が聞こえたようだった。そのまま寝ていて、いつもの時間に目覚めたらアンナは舌をちょっと出して息を引き取っていた。体は温かかった。涙がいっぱい湧き出てきて、どうにもならなかった。皆で泣いた。会社に電話して休んだ。秘書に「犬が死んだので休む。課長さんたちに伝えてくれ」と頼んだ。

 

 家中でお葬式となった。丈夫な犬で、荼毘に付してくれた隠坊さんが、「ご覧なさい。歯が全部残っていますよ」と見せてくれた。きれいな歯だった。翌日会社に行くと、秘書は「身内に不幸があった」と伝えていたのだが、僕が、「犬が……」といったので、会社を休んだ理由がみんなにばれてしまった。アンナのいなくなった後、家の空気の密度が薄くなった。

 

 そんなことから、けっしてもう犬は飼わないと家族みんなで決心して5ヵ月が過ぎた。しかしシュナウザーは僕たちのうちに突然入り込んできた。

 

あるとき「見るだけ、見るだけ」とか言いながら犬屋さんをのぞいていた。アンナと同い年の娘と目が合ったとき、子犬はその隙をついて家に入り込んできた。β(べー)と名づけられて二代目となった。クルクルとまとわりつくこの仔は、娘の世話で横浜で元気に暮らしている。

 

 三代目がチェルト君だ。犬を手元におきたいと思った時、もう他の犬種は選べなかった。僕の頭のなかには「犬=シュナウ」という図式ができてしまっていた。この仔は一腹の最後、6番目に生まれた仔で、兄弟達との競争にはいつも負けていたと思われる引っ込み思案な仔だった。

 

 犬屋さんの小学5年の男の子がくれたぬいぐるみのワニさんといっしょに、チェルト君はやって来た。それから6年、チェルト君はそのワニさんのぬいぐるみを本当に大切にしている。ちょっと見当たらないといろんなところを探している。見つけると優しく噛んで持ってくる。本当に優しくだ。

 

 どうしても分からないことが一つある。チェルト君は、おいしいものを食べたり、背中をブラッシングしてもらって気持ちよくなると、ワニさんと奇妙な儀式をする。

 

 彼はそっとそっとワニさんを噛んで自分の陣地のソファに登る。そしてガリガリ、ガリガリ、地ならしをした後でワニさんをそこにそっと置く。両手の間にぬいぐるみを置いたままちょっと祈るようにしている。そしてやおら身を起こして、自分のおチンチンの匂いをかぐ。それで儀式はおしまいだ。その後はもうケロッとして、ワニさんをつんと鼻の先で転がして見向きもしない。

 

いつか必ず、この儀式の意味をチェルト君に聞いてみたいと思っている。

 

(2004年 てつんど記)

 

注:文芸社のホームページの「作家のラウンジ/エッセイの庭」に掲載されている僕のエッセイ(No.136)を転載しました。(このカラムは今は消えています)

親父のデザインした墓( 1 / 1 )

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親父の墓は中国山脈の分水嶺、岡山と鳥取の県境、旭川の水源地近くの旧川上村上徳山にある。親父が自分でデザインした天然石の墓に、彼のお袋、トミと一緒に眠りはじめてもう20年がたった。その後、亡くなった彼の最愛の長女も共に。

 

700年は続くという菩提寺の墓地の中、その寺の先々代の和尚の立派な墓の後ろに身よすかのように親父の墓は立っている。明るい南斜面の墓からは、山の中とは思えない実り豊かな広い畑が見える。そのさらに先にはご先祖たちが落城の憂き目に会ったという山城の形が見える。

 

親父の自分の墓のデザインを発見したのは、親父が亡くなって借家のアトリエを返却するため、急いで親父の遺品を整理しているときだった。根岸のアパートの二間をぶち抜いたアトリエで、いつも親父が座っていた辺りにあった小型のスケッチブックの中にそれはあった。材料も天然石、墓の形、表面の碑文、後ろに彫るべき彼の経歴の文章、墓の回りに植える木々たちまでしっかり描かれていた。

 

これはなんとしてもこの墓は建てなくてはならないなと思った。貧乏絵描きとしてこの世を去ったのだが、この希望は何とかかなえてあげなくてはと思った。

 

そもそも、この寺の墓地に、親父が永代使用を申し込んだのは僕には突然だった。それは、僕の子供たち、長男と長女を連れて、親父を案内人に合計4人で、夏休みの「僕たちのルーツ探し」に出た旅でその菩提寺に立ち寄ったときのことだった。新しく開かれた寺の墓地があると聞いて、僕たちは先代の住職の案内で墓地を見た。

 

寺に帰るといきなり、親父はあの場所を自分が購入したいといった。先代は痩せ型で、美しい声と美しい文字を持つ和尚だった。えっとした顔をされたが、まあいいでしょうと即答された。かなりの額の永代使用料を親父が即金で払った。僕は驚いていた。親父は、その区画が気に入って、他には考えられないと思ったようだ。墓は、墓地への石段をあがったすぐのところにあり、前にはその寺の代々の和尚たちの墓が並んでいるだけのすばらしい眺めだった。しかも、親父が小さころ、可愛がってもらったという先々代の和尚の墓の後ろでもあった。

 

戦前、親父は東京で若手の絵描きとして結構羽振りが良かったらしく、「教会の徳山」といわれて、東京のいろんな教会の絵を描いていたようだ。霊南坂教会だとか、テモテ教会だとか、今もいくつかの絵が残っている。

 

生前、親父は自分を東京生まれだと僕に話していた。僕の祖父に当たる人は、東京の台湾総督府関係のお役人で、僕の祖母のトミと一緒になって駒込で親父をつくったとか言っていた。その後、何かの理由でトミさんは東京から一人で岡山の山の中に里帰りし、親父を生んだようだ。結果、親父はトミさんと親一人、子一人で、僕は祖父の影を見たことが無い。

 

親父は高等小学校を卒業後、上京して川端洋画学校に通ったと自分で書いている。その頃、今の「独立」の前身、「1930年協会」に加わって佐伯祐三とか里見勝蔵の影響を受けたようで、ブラマンクのフォービズムの精神に触れたと良く話していた。

 

長い貧乏絵描き絵の時代も過ぎ、だんだん絵も売れるようになったようだ。がしかし、そうなるまで、お袋のトミを東京に呼び出して女中代わりに使いながら、岡山のふるさとの全ての財産を食い尽くした。その結果、岡山の山の中には本籍地として名のみが残り、徳山家の小さな共同墓地のほかにはなにも残らなかった。これが、後で大きく響くことになったんだが…。

 

どういうきっかけだったのか判らないが、親父は、高知の奈半利出身の大地主の娘、しかも、出戻りの母と結婚した。

 

母は親父との間に僕たち三人をもうける前に、前の婚家で男の子と女の子を一人ずつ儲けていた。だから、僕たちは反血兄弟をいれて全体では五人兄弟というわけだ。前の主人を病気で早く亡くした若い母が、なぜ親父と再婚することになったのかはよくわからない。おそらくは、母の父親が、金と権力に物を言わせて、ちょうどアルバイトのように専売公社の役人をやっていた親父に、可愛い自分の末娘をうまく押し付けたような気がする。

 

世界中で戦いが激しくなった昭和16年、谷中にアトリエを建てたと記録がある。アメリカとの戦争に突入するという日本が危ない時代だった。アトリエを建てることができたのはうれしかったに違いない。しかし、時期が悪かった。

 

昭和20年3月10日の東京大空襲で、アトリエは燃え落ちた。借地だったから、後には何も残らなかった。僕たち一家は、遠い親戚を頼り岡山の山の中に疎開した。

 

僕の記憶の最初の断片は、川上村德山にある遠藤家の大きな屋敷にくっついた小さな門長屋で、父と母とトミさんと姉貴二人と僕の六人が暮らしていたところらから始まる。

 

絵を描くしか他に出来ることの無い親父は生活に困った。しかし、売り払う財産も何もかも、親父が自分でそれまでに東京で食い尽くしていたから残っていない。

 

親父との鮮明な記憶は、非常にいやな形で僕の中では始まっている。

 

僕が5~6才の頃、見よう見まねでチビのくせに水彩を描いていたようだ。

ある朝、裏山への登り道から田んぼの向こうに見える山などをスケッチした。秋だったのか、今でも紫色の色調の山々を描いたのを覚えている。きっと褒めてもらいたくて、有頂天で持って帰ったに違いない。ところが、親父は僕が描いた絵だと信じなかった。誰かに描いてもらったのだろうというようなことを言った。

 

そこから、僕と親父との葛藤は始まった。

 

だいたい男の子の最初の邪魔者は、親父だといわれているように、僕を怒らせたのは親父だった。僕は泣きながら、もう一枚、同じ場所で、同じ山々の絵を描いて持って帰った。やっと親父は、その絵を僕が描いたものだと認めた。でもこれが、僕と親父の関係のその後を決定的なものにした。もう絶対に絵描きなんかにはならないと、僕に決心させた出来事だった。

 

親父と一緒にいて、楽しかった思い出はあまりないが、楽しそうな親父の周りに僕がいたことは覚えている。ある時期、旧制中学から高等学校に変わったばかりの高校で親父は美術の教師をしていた。旧制中学のバンカラな雰囲気が残る男子学生たちと、近くの神社で火を焚いて、大酒を飲み、歌を歌い、一緒になって楽しんでいる親父を思い出す。そこに僕がいた。

 

またあるときは、親父が絵画クラブの学生たちと一緒に汽車に乗って、石灰岩の洞穴のある高梁川に写生旅行にいって、学生たちと楽しんでいる親父の側にいたのも覚えている。「風か柳~か、勘太郎さんか~」などと歌っていた記憶がある。親父は愉快そうだった。

 

東京を焼け出されて、岡山の山の中に疎開したのだから貧しい時がすぎていた。

 

母は、そんな生活に耐えられず、裕福な高知の親元を頼って、僕のすぐ上の姉と一緒に家をさまよい出た。母はしょっちゅう出たり入ったりしていて、僕の記憶の中では希薄な存在だ。上の姉は高等女学校から改名された高校を卒業すると、代用教員になって早くから家を出て自活し始めていた。

 

結局残ったのは祖母のトミさんと、いつも機嫌の悪い親父と僕だった。トミさんは、一番長く僕と付き合ってくれた肉親だ。口数は少なく、笑ったのを見たことが無い。でも、孫の僕にはおばあちゃんだった。弁当を持っていけなくて、小学校の昼休みに家まで走って帰る僕を、あったかい芋雑炊のようなものを作って待ってくれたのもトミさんだった。

 

 

そのトミさんが無くなった中学一年のころ、新しい母親になる人が現れた。その人は、親父の友人で労働運動をやり役所を首になり、時計屋さん、といっても修理中心の細かな仕事をやっていた人の奥さんだった人だ。親父は、友達のカミさんを奪ったことになる。それほどの人とは思えない、どちらかといえば大人しいけれど、どこか重たい感じの人だった。

 

僕はその人の出現に戸惑い、本当のお袋と親父は離婚したのを、その時初めて知った。その人のことが原因で、親父と大喧嘩になった。手加減を知らない僕が勝った。それから、親父は僕に手を出さなくなった。

 

親父が本当にひどい奴だと思ったのは、僕が中学三年の春だった。ある日、突然、高校から先はもう面倒見てやれないからな、という趣旨のことを僕にボソッと言った。えっと思った。その意味するところがよくわからなかったからだ。だんだん、判ってきたことは、もう僕の将来の教育に向ける金は稼げない、だから自分で好きにしろと中学生の僕に言ったわけだ。

 

そんなこと、考えていなかったから、僕はどうすれば良いか判らず参った。中学の担任に相談したら、とにかく勉強しろといわれた。高校入学の時から特別奨学金を受けられる可能性があるから、頑張ってテストに合格しろと言われた。それしかないと言ってくれた。

 

そこから、「全て自分でやる」ってことが僕の基本になった。それまで、勉強なんて全くしたこともなく、みんなと同じように中学生から公立の高校生になれると思っていた僕だったから、ビックリした。そこから本気で勉強することになった。

 

高校2年の初夏、さらにビックリする事が起こった。ある日学校から帰ったら、家に戸締りがしてあって、誰もいない。うちが借りていた屋敷の納屋に住んでいた人に聞いたら、お二人でお出かけになりましたといった。嫌な感じがした。鍵を開けて入ってみると、置き手紙がしてあった。

 

二人でちょっと出かけるのでよろしくとあった。家は返却すること、荷物は知人の屋敷まで運んでもらいたい、きみの食事のことはその知人に頼んであると書いてあった。僕は唖然とした。何の前触れもなく、親父と新しいカミさんは忽然と二人して消えたわけだ。残された僕は途方にくれた。

 

親父の友達でもあった高校の先生に助けてもらって、親父の大きな絵や額縁などを借りたリヤカーで2~3キロの道を何回か僕が運んで家を空にして返却した。決して忘れはしない出来事だった。

 

こうして、否応なく僕は早い巣立ちをした。

 

その後、親父は高校卒業までは何とか僕に寝る場所と食事は確保してくれた、彼の友人の好意に頼って…。

 

親父自身は何とか早く、岡山や、高知や、淡路島での放浪を終えて、東京に戻りたいと思っていたようだ。昔の仲間や後輩が、次々と東京に帰って、展覧会で活躍していたからだ。

 

東京に戻ったのは僕のほうが早かった。60年安保で大阪市立大学を中退し、東京の大学に入った時だから。

 

僕が大学の2年の頃、親父は突然、谷中にアトリエを借りて東京に戻ってきた。

 

その引越しも、ひどい思い出だ。僕のアパートに電報が舞い込み、荷物を送ったから谷中の家に受け取って置いてくれという一方的な宣言だった。そのころの頃付き合っていたJ美の女の子と二人で、トラックは入れない谷中の細道を何十箱もの引越し荷物を手で運んだ。彼女もひどい迷惑を食ったわけだ。

 

親父と普通に話せるようになったのは、僕が自分で大学を卒業し、仕事を見つけて大人になった時だった。それまでは、決して親父と話そうという気持ちは僕には生まれなかった。

 

親父は僕の反面教師だった。

 

こんな親父を持ったわけだから、いわゆる「しあわせな家庭」に対する憧れは僕の心の奥底に密かに、強く巣食っていた。

 

それは、父親と母親がそろって子供たちと仲良く、温かな光の下にみんな集まって、穏やかに食事をするというようなありきたりの風景だった。そんな景色には僕は出会った事が無かったから、強い憧れとして少年時代からふつふつと持ち続けた希望だったようだ。

 

僕には、大学時代も、就職してからも、色々なタイプの女性との出会いがあった。素敵な才能の持ち主の絵描きさんの卵だとか、ピアニストの卵だとか、グラフィック・デザイナーだとか、なんでもべったりと纏わり付いてくる人だとか、男性のような行動をする人だとか、とにかくいろんなタイプの人に出会って,愛して、議論して、笑って、泣いて、わかれて…、と言うような生活があった。でもいくら愛していても、あまりにも特別に見える女性に対しては、どこか危険だと僕は思っていた、普通の家庭はつくれないと…。

 

結婚するには必要な条件があるなんて考えていた。その頃、僕が付き合っていた女性たちは、そんな条件を備えているようには見えなかった。いくら大好きで、一緒に居たいと思っても、なんとなく何処かで、それが僕にブレーキをかけていた。おだやかの家庭の風景には、溶け込めないような気がして。

 

僕が30になって結婚した相手は、僕はかなり恣意的に選んだ人だっ

た。明るい家庭の主婦、子供の面倒が見られる母、サラリーマンの妻と

して行動できる人を探した。必要な条件を重視していて、自分の感性の言いなりには行動しないぞ、という意志が僕に強く働いていた。

 

しかしその目論みの破綻は、結婚後3~4年で明らかになった。男の子と女の子に恵まれ、家も立て、一見幸せそうな家庭に、その恣意的行動の結果が現れた。

 

カミさんと僕の二人は、お互いを求め合いながら一緒にやっていくってことが出来なくなって、子供たちとの週末を除いて別の生活を始めることになった。そう、思い描いていた温かい普通な家庭は簡単に崩壊していた。愛し合う二人の男女の姿がまったく消えてしまっていたからだ。自分がiいかにも恣意的に結婚を考えた、その結果だった。

 

子供のことを考え、自分の子供の頃の寂しさを思い出すと、子供達には決してあんな思いをさせたくはないと思った。

 

別居していたちっぽけなアパートから、週末は目いっぱい子供たちとの時間をつくった。上の男の子とは、一緒になって400台ぐらいのプラモデルの車を作ったり、Nゲージが始まった頃で、6畳の彼の部屋に、たたみ一枚分のベニヤの厚板を買ってきてレールを敷き、駅を作り、ベッドの下に格納できるようキャスターをつけたりした。

 

下の女の子は海が大好きで、千葉や、伊豆の海に何度も行って波乗りをした。そして犬が大好きで、その頃珍しかったシュナウザー犬を僕が買ってきて、二人でよく散歩に出かけたものだ。兎に角、共有する時間を可能な限り長く持つことにつとめた。彼らがそれで満足したかどうかは判らなかった。

 

東京に戻ってきた親父は、本職の油絵描きは一応うまく行き、公募展の運営責任者にもなり、自分のお弟子さんたちの指導に加えて、さらに台東区の成人学校で絵を教えることまで始めた。たくさんの、しかも異質の人たちが、親父を絵の先生として取り囲んだ。親父は終始、ニコニコして彼らに接していた。決して、僕や身内には見せた事の無い笑顔と優しさだった。

 

そんな感じなので、僕の家族と親父との接点は、毎年、元旦の訪問ぐらいだった。でも、親父はけっして淋しそうな顔は見せなかった。周りに、いろんなタイプのお弟子さんたちがいたからだ。

 

これについては、ある若い評論家が言った言葉を思い出す。

「先生(親父)は、いつもは崩さない笑顔なのに、一人だととても厳しい顔をされていますね…」と言っていた。そう、残っている一人の写真は、ポーズなのかもしれないが、全て怒ったような雰囲気の写真が多い。僕が子供の頃、畏怖の気持ちで見つめていた横顔だ。

 

親父は、次々と自分の画風を変えていった。最初の具象、フォービズムの影響を受けた抽象的な具象、そして再び具象、ルオーのようなマチエールへの憧憬、さらには日本の文様への興味、華麗な装飾的日本的な世界、幾何学的抽象へとその振幅は大きく振れた。

 

逆に言えば、作家として追い求める自分の絵の課題に収束することなく変わり続けたと、言ってもいいだろう。核を持たないとも見える。親父の絵がいつも訴えてくるものは、どちらかと言うと暗さと厳しさだった。人物は全く描けなかった。

 

親父が亡くなってしばらくして、何かの必要で親父の除籍謄本を取ったことがある。そこには出生地、岡山県川上村上徳山とあった、東京ではなかった。さらに戸籍の「父」の欄は空白だった。この戸籍から読むと、親父はトミさんの私生児だったことになる。アッと僕は思った。そして、何だか急にみんな納得してしまった。

 

「父」という存在を身近に感じることなく過ごした孤独な少年の寂しさと憤りが僕に伝わってきた。そうなんだ、生涯、親父は寂しく、また理不尽にも私生児として生まれてきた、その定めへの憤りをずっと感じていたのだと。親父は、トミさんと姿を見せない彼の父親にひどく怒っていたのだと。そして、その怒りの根っこには、彼の悲しみがあったのだと見えてきた。

 

僕との接点についてあらためて考えてみると、親父自身が自分の親父を持っていなかったわけで、親父の背中を見て育つという世界に居たことが無かったのだと気づいた。だから、僕という息子に、どう父親として接すればいいのかが全くわからなかったのではないかと思えてきた。

 

女の子は社会性が早くから身に尽くし、根っから生きることに対してしぶとさがある。姉達はそれにより何とか親父との間をやっていたのだ。しかし、僕は男の子だった。

 

親父は絵描きとして、あれでもない、これでもないと画風を変えながら悩み、試し、苦悩し、旅し、その絵も旅をしていた。

 

厳しく言えば、制作に没頭し、他を気にせず、振り返りもしないというような、作家としての強さというものが不足していたのかもしれない。そして、それは、自分自身に悔しさとしてはねかえって、自分自身への怒りになったのかもしれない。結果、絵を教える教育者としての自分に、何時か溺れていったのかもしれない。そこには彼を温かく迎え入れてくれる世界があったから。それは自分の寂しさに流された自分だったのかもしれない。

 

一方、失敗に終わった僕の結婚をふりかえってみると、自分が息子や娘にちゃんとした父親でいられたのかどうかは判らない。時間の共有という一点では、がんばったものの、かれらに本当の父親の存在を感じてもらうことが出来たのかどうかは不明だ。

 

ただ僕の場合は、子供たちが社会人になるまでは、何とか子供たちの戸籍を離婚の文字で汚すことはなかった。だが、僕が子供の頃、僕の願っていた「普通の生活」では決してなかったわけだ…。

 

振り返って高校以来の自分のこれまでを見てくると、親父とそっくりではないかと気がつく。親父と全く同じことをやってきた自分が見える。そして、その影はさらに、僕の息子の不似合いな相手との結婚と離婚、そして再婚と言う現実に突き当たることになる。やっぱり、息子にとって、俺はいい父親ではなかったのかもしれないと思う。

 

親父の納骨のとき、遠い岡山の山の中まで、東京からお弟子さんを中心として20名ほどの人が一緒に行ってくれた。その中にFさんがいた。今は亡くなった姉が声をかけたのかもしれない。その人の指に、親父から僕が生前もらったものと同じプラチナの指輪を見つけた。サンスクリット、もしくはヒンドゥー語のデーバナーガーリー文字らしき文字の彫られた指輪を見たとき、アッもうこの指輪は使えないなと思った。

 

うすうす存在を感じてはいた親父の本当に愛していた人は、親父が昔、美術の先生をしていた高校の教え子のFさんだったとわかった瞬間だった。

 

親父は、あの怒りに満ちた寂しさを感じないでいられる時間があったのだと確信した。それは救いだった。

僕んちの僕( 1 / 1 )

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僕の家の家族は、お父さんとお母さんとそして僕。みんなで二人と一匹、いやほんとは三人だと僕は思っている。

 

お父さんとお母さんが結婚するとき、M.シュナウザーの子犬を飼うということは決まっていたようだ。お父さんとお母さんの間に、人間の子供は作らないということも決まっていたようだ。それで、お父さんとお母さんが、伊豆高原に新しい家を買った時から、僕かどうかは分からないけど、シュナをお父さんとお母さんの家族として迎えられることが決まっていたようだ。

 

そんなわけで、環八・瀬田のシュナウだけしか犬と思っていない「ケンネル・エイト」に、お父さんとお母さんがシュナウの仔犬を探しにやって来たわけだ。僕はまだ生まれて一ヶ月くらいしかたっていなかったし、他に子犬がいなかったから、僕が育つのを待つってことになって、やっと生まれて3か月が過ぎた3月にお父さんとお母さんに引き取られた。そして、次の日に横浜から伊豆高原に引っ越してきた。

 

だから僕んちでは僕は一人っ子。何でもできる一人っ子だ。

 

 生まれて3か月だった僕が、その後どう育っていったかと言うことは、いろいろ「ひとりごと」してきたから、みんなにはわかってもらっていると思う。

 

 ちゃんとした大人になるまでには、いろいろありましたが…。

 

 ちゃんとした大人になった僕は、お父さんとお母さんの言葉はどんどんわかっていった。最初は、シット、ステイ、ゴハン、サンポ、OKNOとから始まって、分かる言葉がどんどん増えて行った。でも、僕は「お手」ができない。教えてもらわなかったからだ。外に出て他の人に、「お手」って言われるけれど、僕にはわからないからできない。僕の「お手」は、もっとちょうだいと言う意味だ。

 

瀬田の犬のお父さんやおばさんからは、犬語は教えてもらったけど、人間の言葉は、お父さんとお母さんが初めて僕に教えてくれたわけだから、教えてもらわないと全く分からないのは当たり前だ。

 

 「もっと食べよう」とか、「お散歩に行こう」とか、「出かけるぞとか」とか、「待っててね」とか、「寝よう」とか分かる言葉が増えて行った。「ガチャガチャ」っていうのはごみ出しだとも覚えた。ごみ出しに行くといいことが時にはあるとも覚えた。セブン・イレブンでアイスを買ってもらえることもあるのだ。

 

 でも難しい言葉は分からない。初めて聞く言葉や、一回ぐらいしか聞いたことのない言葉はまったく分からない。

 

 僕の話せる言葉は、他の人には「ワン」とか、「ワンワン」としか聞こえない言葉も、お父さんとお母さんには、僕がイエスと言っているのか、ノーって言っているのか分かってもらえた。もちろん、うれしい、いやだ、怒ってるぞ、危ないなと言う警告なんかの僕の言葉もわかってもらった。

 

 でも限界がある。犬の友達のアンナちゃんやリリーちゃん、セロちゃんとは、ちゃんと犬語で話せるのに、お父さんとお母さんには、ちゃんとは分かってもらえない。

 

 しょうがないから、あとは僕のボディー・ランゲッジ、態度であらわすっきゃない。僕たち犬のボディー・ランゲッジと言えば、まずはしっぽ。その振り方で、僕たちの感情が簡単にわかってしまうと言われている。

 

でもそれだけではない。行きたくない時は、足を踏ん張ってリードを曳かれても動かないとか、いやなことがあるとバリケンに入っちゃうとか、知らんぷりをするとか、寝たふりをするとか、背中を見せてノーと言ったり、いろいろできるようになった。

 

 こわかったら、目をそらすとか、よだれが出てきて気持ち悪いとか、そんなふうに会話ができるようになった。もちろんうれしくてしょうがない時は、おなかを出して、ひっくり返って足をバタバタさせたり…。

 

 一番強力な武器は、ちょうだいな光線だ。じっとお父さんかお母さんの目をみる。お父さんやお母さんがおいしい物を食べているとき、作っているとき、僕は、必ずそばに座って、低い僕の目線からじっと見上げる。もちろん、心の中では、ちょうだいなとか、食べたいんだぞと言っている。この光線は間違いなく通じる。ほかの人にだって通じる。

 

 一人っ子の僕は、お母さんには絶対の自信がある。甘えれば、大体のことはかなう。ちょっとお父さんは怖いことがあるけど、お母さんはやさしい。

 

 でも、僕だって家族のうちの一人だから役割がある。家や家の人を守るというのは、当たり前だけれど、お母さんやお父さんが、撫でてみたい、あったかくてやわらかなものに触ってみたいという期待があれば、僕はもちろん役に立つ。かなしそうなお母さんには、僕が隣に座っていてあげたりできる。

 

 三人で散歩の時なんか、僕と二人の時の調子でお父さんはどんどん先に行ってしまう。ビケのお母さんとの距離が離れていく。僕は、お父さんとお母さんの間を行ったり来たりして、お母さんが来るまで待ってあげてって、お父さんに頼む。お父さんも、だんだん分かってきて、僕が中間で立ち止まっているのを見ると、立ち止まったりスピードをゆるめたりできるようになった。お父さんが僕のステイの命令を理解したのだ。

 

 もっと大切で、大きな役割は、お父さんとお母さんの真ん中にいて、二人の接着剤になってあげることができたことだと思う。二人の間にいさかいの匂いがすると、僕は悲しくなるのが嫌だから、いつも三人、仲良しでいたいから、すぐに二人の間に割り込むことにしている。

 

 人間には、「子はカスガイ」って言葉があるようだけれど、僕んちでは、僕がカスガイの役割をしていると思う。それは一人っ子の僕しかできない役割だ。

 

 前にも言ったけれど、僕は犬と人間の違いが本当にわからない。犬語と人間の言葉の違いは大きいけれど、でもだいたいは話せるし、同じ仲間だと信じて疑ったことはないし。

 

 お父さんは時々、僕を抱き上げて鏡の前に立って、毛もくじゃらの僕の頭を突っつきながら、ほら、これがお前の姿なんだよと言う。確かにちょっと違うような形は見える。けれど、家族の中の一人の僕であることには何のかわりもない。同じ仲間だ。

 

 ぼくの存在が、お父さんお母さんにいい影響だけでなく、悪い影響も与えたようだとも思っている。それは、僕抜きで二人が直接話している時間が短いということだ。いつも僕を、真ん中において話している。話題が僕に関することがほとんどで、うんと多い。お父さんとお母さんとの直接の会話を、僕が奪っているのかもしれない。

 

 僕んちでは、僕のいない家は存在しない。僕は間違いなく、必要な家の構成員だ。本当に、ときどき、僕がいなくなったらどうなるんだろうと心配している僕です。

 

 僕がいつも考えていることが少しでもわかってもらえたら、うれしいワンです。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
親父から僕へ、そして君たちへ
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