親父から僕へ、そして君たちへ

最後の墓参り( 1 / 1 )

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米子空港に着いたときは雨だった。

 

山陰の空は暗く、大粒の雨が斜めにロビーのガラスに透けて見える。米子空港が「鬼太郎空港」と名づけられているのにはびっくりした。「水木しげる」にあやかって、一人でも多くの客を呼びたいのだろう。

 

2泊3日で、僕の家系の発祥の地、鳥取と岡山の県境にある僕の苗字と同じ名前の村を8年ぶりに訪ねた。ここには、親父がくたばる前に自分で求めた永代の墓地がある。

 

親父の、その親父の代に、故郷のこの村を離れて東京に出てきたと聞いている。 親父からすれば、自分の心のふるさとでもあったのだろう。

 

1945年3月10日の東京大空襲で谷中のアトリエが焼け、着の身着のまま、遠い親戚を頼って疎開した村でもあるからだ。

 

親父の墓は、親父の残したデザインとおりに僕が20年前に建てたものだ。親父の遺品を整理していて、親父がいつも座って絵をかいていたすぐそばに残っていたスケッチブックをパラパラめくっていたら、「徳山家累代之霊位」と書かれた墓石のデザインの紙が出てきた。

 

それには、石の形、石材は緑色の天然石、掘るべき碑文、植栽まで描かれていた。これを発見した時、もうこれは親父の希望とおりの墓を作るしかないと腹をくくった。

 

僕は心臓の病気のこともあり、祖母、父、姉の入ったこの墓にはもう長い間訪れていない。くたばるまでには一度と、医者と相談して、やっと許しが出てやってきたわけだ。

 

翌日は、晴れた。

 

親父の好きだったリンドウの花、姉の好きだった真紅のばら、僕の好きなトルコ桔梗の白い花を足して小さな花束を作り米子道を走った。そして、800年も続く菩提寺の住職に簡単なお経を唱えてもらい、墓に参ってきた。住職の読経に合わせて僕も般若心行を口ずさみ、なんだか、やっと宿題を終えたような気持がした。寺には、もうこれが墓参りできる最後かもしれないと知らせてあった。

 

この村に行ったら、必ず立ち寄る家がある。600年も同じところに住み続ける、村の名前の由来のご本家だ。僕の家は分家のようだ。86歳のおばあちゃん一人。近くに息子さんが住み、21代目の当主になったようだ。

 

この村は山奥なのに、昔は湖だったらしく、のびやかな田んぼが広がり、明るい光のさす豊かな田舎だ。

 

僕の苗字と同じ德山神社の秋祭りと偶然ぶつかった。どこにしまわれていたのかわからないけど、小ぶりの神輿も飾られて明るい風。

 

なくなったご主人は、僕たちが訪れるといつもおいしい玉露を入れて迎えてくれていた。今は、猫とおばあちゃん一人。

 

ご本家への土産は、虎屋の重たい羊羹に決まっている。おばあちゃんは、楽しみにしていてくれたようで、特産の蒜山ヨーグルトをたくさん買って僕たちを待っていてくれた。86歳のおばあちゃんの唯一の悩みは、徳山家22代目を孫が継いでくれて、この地に住んでくれるかどうかということだった。二人の男のお孫さんがいるにはいるが、都会で会社に務めたり、大学院に残ったりで、故郷の家系をその村で継いでくれるかは分からないという。

 

蔦に丸の家紋のある蔵をもう2度とみることはないと思いながら、かわいい、話好きなおばあちゃんに元気でねと言って別れてきた。

 

その翌日、天気は快晴。

飛行機の時間まで、大山と蒜山の周りに車を走らせてみた。

 

米子から見る大山と、米子道のある南西側からみた大山は全く山容が違う。米子からは富士山のような優しい姿。南西からは、崩落を繰り返す沢が、屹立する頂上まで達する荒々しい姿だ。

 

緑色に染まった日本海に向けて、雄大なスロープを下りて米子空港に着いた。

 

やっと、くたばるまでにやっておきたいおおきな宿題の一つが終わった。

 

    <写真は南西斜面の二沢から見た荒々しい大山のすがたです>

 

 

家族としての犬( 1 / 1 )

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僕の犬との出会いは、「ぺロという名の僕の犬」にその歴史がある。

 

 実質は一人っ子のように育ってきた経過からすれば、犬は僕にとっては、友達であり、兄弟であり、生活のパートナーであり、そして子供でもある。時には、カミさんとおっつかっつの存在ともいえる。(内緒)

 

 なぜ犬を自分で飼おうと考え、子犬を見つけてきたかには、ある偶然の光景が浮かび出てくる。それは僕が結婚して最初の子供、長男を育て始めた頃だ。横浜の、その頃は希望に満ち溢れていたモダンな公団住宅の8階に住んでいた頃だ。まだ、自分の家は持てていなかった。

 

 ある日、団地の商店街に足を踏みいれようとした時、そこに一匹の雑種の子犬がフェンスにリードで縛られている。お母さんが買い物中で、その犬は一人でお母さんが消えて行った方向を凝視しながら、待っているように見えた。僕は根っからの犬好きだから、なでてあげていた。

 

 そこに、小さな(3~4才)くらいの子供を連れた若いお母さんが通りかかった。その小さな子は、僕のなでていた子犬を見つけて、興味を持ったのか、なでようと僕の側に座って子犬に手を出そうとした。

すると、その子のお母さんが、「ダメ!犬に近づいちゃダメ!怖いのよ!」と叫んで、子供の手を邪険に引っ張って、犬から子供を引き剥がして行ってしまった。かなしい光景に見えた。その子のお母さんは犬の優しさを知らないで、子供にそういう教育をしているんだと思った。

 

 これを見た僕は、うん、これは決して僕んちでは起してはならないことだなと思った。そして、動物を愛することができる子供に育ってほしい、そんな家庭を築きたいと強く自分の深い意識を感じたのが始まりだ。早く、団地から出て、一軒家に越して犬を飼いたい、子供たちに飼ってあげたい、僕も遊びたい、みんなで走り回りたいと思うようになった。

 

 それから3年後、戸塚で犬が飼える環境が出来上がった。やって来たのは、その頃、日本には3000頭くらいしか入っていなかった、ミニチュアシュナウザーの雌、アンナだった。

 

 この仔は頭が良くて、でも自立心があって、子供たちのいい仲間になってくれた。僕にとっても、懐かしい匂いのする温かな動物だった。

 

 この仔は19歳まで生きて、子供たちの成長を見届け、家庭の中のすべての出来事を知り、僕とカミさんの絶え間ないいさかいを間に入ってやめさせようとし、時には僕の家出の仲間になってくれたりした。アンナを一緒に連れて家出し、富士山に近いラブホテルで何度か二人っきりで過ごしたこともある。僕にとっても、子供と同じくらい大切な仲間だった。

 

 彼女は死んだときのことは、「シュナウザー三代記」に書いてある通りだから、そちらを読んでいただきたい。

 

 ここで、書いておきたいことは、犬は決して人を見限らない、見捨てない、ずっとずっと、飼い主の全てをわかっていてくれるということだ。

 

 その後も、ミニチュア・シュナウザーとの縁は切れず(新しい犬種を飼うっていう選択肢がなくなっていた)、3匹にわたって、通して40年近く、シュナウザーと付き合うことになった。

 

 僕は、シュナウザーがマイナーな犬種でいてくれることを願っている。でないと、金儲け目的のブリーダーの標的になって、過剰生産の犬になって殺処分に回るシュナウがいっぱい出てくると思うからだ。そんなことは許されないと思っている。

「ぺろ」という名の僕の犬( 1 / 1 )

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 僕が最初に犬にもったイメージは「怖い」だった。

 幼稚園のころ、近くのお菓子屋さんに大きな犬(本当は僕がちっちゃかったから、そう見えたのかも…)がいて、ある夕方、僕はその犬に追っかけられて家に逃げ帰った。噛まれたわけでもないけど、とにかく怖かったのだ。僕の後ろに迫る、フゥフゥという犬の鼻息と、ぺたぺたという足音は忘れられない。

 

 そのあとの犬の記憶というと、小学校5年のころ、学校の裏山にいた野良犬のことだ。クラスで可愛がっていたけど、痩せててかわいそうだったから家につれて帰った。ところが、おやじにすごい勢いでどなられた、すぐに元のところに戻してこいって。でも、その犬を抱いたとき、犬のにおいを始めて近くで嗅いで、毛並みの柔らかさや温かさに触れて、僕の犬への恐怖はきれいに消えていった。

 僕は唇を噛みしめながら、しかたなく、その野良を学校の裏山にそっともどした、ゴメンネっていいながら。

 

 たしかにその頃、僕んちは犬が飼えるような状態ではなかった。東京の家が昭和20年3月の大空襲で焼け、おやじ、おふくろ、姉2人、おばあちゃん、そして僕の6人が、親父の遠戚を頼って岡山の山の中に疎開していたのだから。毎日、毎日の食物を手に入れるのが本当に大変だった。僕は毎朝、町のお豆腐屋さん迄、タダのおからを貰いに行っていたのを思い出す。

 

 おやじは油絵描き。山の中の田舎で、油絵描きがめしを食っていけるはずがない。

 

 そのうち、おふくろが下の姉を連れて実家へ去り、上の姉は高等女学校を卒業するとすぐ、代用教員として巣立って行った。だから僕はおばあちゃんと、時々。帰ってくるおやじの3人暮らしだったが、実質は一人ぼっちだった。

 

 その頃、おやじがアトリエとして借りていたのは、元農家。土蔵、母屋、そして、庭を取り巻くように風呂と便所、納屋、大きな竹がしなって水桶をくみ上げる仕掛けのついた井戸がL字型に並んでいた。前は畑。周りは、ずっと田んぼの広い空間が続いていた。庭には大きな柿の木と、夏には楽しみの甘い実をつけるグミとユスラウメの木があった。

 

 おやじはその家の一番広い部屋の畳やふすまを取っ払い、板の間のアトリエにして大きな、でも、ちっとも売れない油絵を描いていた。

 

 納屋には、やはり横浜から疎開した貧しい一家がいた。おかあさんと女の子、二人だった。この人たちには、食べ物で本当にお世話になった。その家のおかあさんが、町の製麺工場に勤めていて、毎日、でき損ないのうどんをたくさん貰って帰っていたからだ。僕んちは、そのおすそ分けを貰って、だいたい同じものを食べてた。

 

 そんなある日、もう中学に入っていたと思うけど、学校の帰り、家の近くで茶褐色の中型の犬に出会った。おいでというと僕についてきた。僕には近くに友達はいなくて、一人ぼっちの午後だったからうれしくなって、家までついてきた犬を撫で、そして抱いた。オスのその犬は、ぺろりと僕のほっぺたをなめた。じゃあ「ぺろ」だって名前は決まった。でも古い首輪がついていたから、どこかの飼い犬かもしれないとは思った。

 

 おやじはぺろと僕が遊んでいるだけで、飼うんじゃないとわかると文句は言わなかった。僕には飼い犬ができたのと同じで、二人でよく遊んだ。ガウガウと格闘なんかしていると、犬ってなんていい匂いするんだろう、って思った。

 

ぺろは頭が良くて僕の言うことは、なんでもよくわかっていたと思う。綱もつけずに僕たちは近くの山や川原に遊びに行った。ぺろは水の中まで泳いでついて来た。もうぺろは僕の犬だった。

 

 でもぺろは、不思議な犬だった。

 僕んちでは、うどんの切れ端くらいしか餌が与えられないのに、午後にやってきて僕とよく遊んだ。そして夜は、僕んちの広い濡れ縁の雨風の当たらない隅っこに丸まって、朝まで眠むっていた。ところが朝、気が付くとぺろはもうどこかに出かけていて、濡れ縁にはいなかった。それは毎日のことで、どこに行くのかわからなかった。

 

 そんな二人の生活が冬を越して、一年以上も続いた。もう二人は何をしていても、じゃれあっている兄弟で、ぺろが夜を過ごす濡れ縁は、ぺろの形に木肌が磨かれて、ピカピカになっていた。もう本当に僕の犬だった。遊びに来た友達にだって、僕の犬だよって自慢していた。母のいない、おやじも時々しかいない、おばあちゃんとの毎日は淋しいものだった。ぺろはいつも僕にくっついていてくれた。何かあって、僕がしょげていると、ぺろは僕のそばに座り、じっと僕に体を寄せて僕と同じ方向を見ていた。ぺろは、まっすぐに、僕のこころを読んでいたのだと思う。僕は安心してぺろと話せた。僕の左腕は、今もぺろの温かな温もりを覚えている。

 

 そんなぺろと僕は、とても危険な目に会ったことがある。それは僕が原因で起きたことで、僕が悪かったのだが…。

 

 ある日、僕とぺろは近くの国鉄の線路の中に入って歩いていた。どこか危険だっていう気持ちはあったのだと思うけど、遊びに夢中になっていつか二人は線路を全速力で駆けていた。と、あるカーブを曲がった。と、僕たちに向かってすごいスピードで走ってくる蒸気機関車に出っくわしたのだ。僕は、ぺろ、逃げろっていって、右側の山の斜面に飛んだ。ぺろも飛んだ。真っ黒な塊のC11がポッポーと警笛を鳴らし、火花を飛ばしてギッギギーとブレーキをかけながら、目の前を走りすぎた。僕たちが土手に飛び込むのと、機関車がそこに走りこんできたのは、ほんの一瞬の差だった。

 

 僕とぺろは山の斜面で抱き合って震えていた。怖かった。列車は僕たちのいる場所をかなり通り過ぎて、やっと停まった。窓から大勢の人たちが身を乗り出して、僕たちのことを見ていた。ハッと気が付くと、最後尾の車掌室から車掌さんが飛び降りてきて、怒鳴りながら僕たちのほうに走ってきた。これはマズイぞと僕たちは、全速力で列車と逆方向に走った。とにかく逃げた。ぺろの足はもっと速かった。僕は置いていかれそうになった。ぺろもマズイと思ったにちがいない。

 

 僕たちは逃げ切れたから、学校に言いつけられることもなく、その件はそれで済んだ。でも、あれは本当に危険だった。そんなことを一緒にやってると、ぺろは本当の仲間のような気がしてきた。もう犬と人間の関係ではないのだ。怖かったねって、ぺろと話した。

 

 そんな感じで、ぺろと僕の日々が続いていた。だいたい毎日ぺろは僕んちにきて、朝になると、どこかへ行っていた。 

 

 ところが、ある日からプッツリ、ぺろは僕んちに遊びに来なくなった。僕は心配になった。怪我でもしたんじゃないか、事故にでもあったんじゃないかと、悪いことばかり想像してしまう。近くを探してみたけれど、見付からなかった。幾夜も、濡れ縁に帰ってきてるんじゃないかとのぞいてみた。でもぺろは帰ってこなかった。僕は兄弟をなくして淋しかった。

 

 そんなある日、2キロほど離れた中学校からの帰り道、町の商店街を歩いていると、ちょっとはなれたところを、おばあさんが犬の散歩をしているのが見えた。ハッとした。その茶褐色の毛並みはぺろに似ていた。僕はおあばさんに向かって駆け出していた。僕がぺろって呼んだら、その犬は大きく尻尾を振った。近づくと、それはまちがいなくぺろだった。あぁ、やっとぺろにあえたんだって、僕はぺろの首を抱きしめた。ぺろのふさふさした尻尾が、僕の頬を打った。ぺろのにおいがした。

 

 おばあさんに聞くと、ぺろは飼い犬で、本当の名前はクロだった。クロは放し飼いにされていて、昼ごろになると一人でどこかに遊びに行って、夜も帰ってこないことがよくあったって、おばあさんは話していた。ぺろは、その町の古くからのお酒屋さんの犬だったのだ。だから、首輪をつけていたのだ。僕は、僕んちのぺろの話しをした。おばあさんは、笑いながら、そうって聞いていた。でも最近は綱をつけているんですよ、心配だからって言った。

 

 1キロ以上離れた僕んちまで、ぺろはほとんど毎日、交通量の多い道を通っていたんだとわかると、とてもいじらしくなった。ぺろはどんな思いで通っていたのか、僕にはわからない。でも、僕にはとても大切な友達、仲間、兄弟だった。その後、学校の帰りに時々、その酒屋さんに寄って、クロという名のぺろと会っていた。

 

 その時、僕は大きくなったら、絶対に自分の犬を飼うんだって心に決めた。ぺろと出会って生まれた僕の夢だった。

 

 僕はまもなくおばあちゃんをなくし、そして、その町をはなれた。ぺろとはそれっきりになった。

 

 僕が自分の犬を飼い始めたのは、それから約20年も後、横浜にやっと家を建てたときだった。僕の子供達にも、犬との生活の楽しさ、犬のやさしさを体験してほしいと思ったからだ。

 

 それからずっと、我が家から犬は絶えたことがない。          

おやじから僕へ、そして君たちへ( 1 / 1 )

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 (僕から、僕の子供たちへの手紙です) 

 

                                                                   

君たちのおじいちゃん、つまり僕の親父は、僕の知っているかぎりは貧乏画家だった。

 

若い頃は、けっこう若手の画家として認められ、絵も売れたこともあったようだけど。パリに行く予定が、友だちと渡仏祝いに銀座に繰り出して、渡航費用を飲んじまったとか聞いた。結果、モンマルトルの丘には立てなかった。

 

 僕の彼からの離別は突然始まった。

 

 中学2年のある日、学校から帰ってくると親父がぼくにぽろっと言った、「高校から先は、もう責任もてないな…」って。

 

 家の生活は大変だったと思う。

 

戦争で東京・谷中のアトリエを全焼し、仕事もなく、遠い親戚を頼って岡山の山奥に疎開していた一家だったから。

 

その頃、歳のうんと離れた上の姉はもう独立していた。下の姉も実母と一緒に土佐の母の実家にいて、僕とは別れて暮らしていた。僕をかわいがってくれていた父の母、つまりおばあちゃんもちょうどその頃亡くなっていた。結果、僕は親父と二人きりだった。いや、実は、親父は友人の奥さんと、僕と同じ家に住み始めていた。

 

 「高校から先は、もう責任もてないな…」って聞いた瞬間、正直、親父の言葉の意味は良く分からなかった。でも、時間が経つと、その意味はじわっと伝わってきた。

 

その時だった、僕が勉強というものを始めたのは。中学の先生に相談したら高校の入学前に試験を受けて、日本育英会の「特別奨学生」になると高校入学時からりっぱな奨学金がもらえるという。勉強した。そして高校に入れた。

 

 もっとびっくりすることが起きた。親父は大きな古い農家を借りてアトリエにして住んでいたが、高校1年生のある日、帰ってみると家が閉まっている。隣の人に聞くと、「ご夫婦で荷物をまとめて出かけられた」という。

 

実母とはもう離婚していて、親父には「新しい母」がいた。この母と僕の間には、いさかいが絶えなかった。結果、僕は一人取り残されていた、昨日までの生活のあとかたをそのまま残した家に…。

 

 後で分かったのだけど、親父は僕の住みかと食べ物を知人宅に頼んでいた。それが全てだった。でかい油絵や額縁を含めて、僕は一人でその知人宅までリヤカーを借りて引っ越した。暑い夏の始まりの日だった。

 

 これが、あまりにも早い、高校1年の時の僕の突然の独り立ちだった。それ以来、自分の事は全部自分でやるということになった。大学も、幸い学費をほとんどタダにしてもらって卒業した。

 

 きっとその頃のシッポが、オンちゃんが中学生のとき、「高校は留年を含めて4年、大学は浪人を含めて国公立で6年、合計10年間は面倒みるけど…」とぼくに言わせたのだと思う。きつい事、言っているよなぁ、本当に。

 

 オンちゃんがなんだか、なんでもかんでも、「自分で、自分で」ってその頃から行動し始めたのではないかと思う。まったく親父から僕が受けたのと同じことを、僕が君に対してやっていたのだから…。

 

 大学の卒業後、就職して数年の間、僕は「すべて自分で、自分で…」でやっていけたんだけれど、チョット早くえらくなり過ぎたら、たちまち破たんが訪れた。課長さんの人事考課といえば、普通、上の人たちがやるんだけど、僕の会社では同時に下の人たちも課長を評価するんだ、無記名で。

 

 課長になって、最初の1年で仕事は滞り、課の空気はパサパサになった。僕はたちまち行き詰まった。なにしろ課の8割の人が、二度と僕とは一緒に仕事をしたくないと評価したのだから。

 

 それが親父との関係で、知らず、知らず培った「何でもかでも、自分の責任で、自分でやる」という生き方の破綻だった。独立心が旺盛で、人に頼らない、人に任せられない性格だったからだ。

 

確かにひとりだと、何でもうまくやれた。それは傲慢のゆえでは無かったと思う。一匹狼的だといえば分ってもらえるかもしれない。

 

 その後、僕は君達の知っているとおり、酒酔い運転で自損事故を起こし、課長職を失った。そして、いわゆるペナルティー・ボックスに3年間入った、部長付きという肩書きで。

 

 その頃、社外でO先生に出会ったのは幸運だった。「やっぱり、一人だけで出きる仕事なんか、社会には決してないんだ」と発見したのは35歳を過ぎてからだった。

 

 僕は少しずつ変わっていった。その先生のコーチングにしたがって、人との関係を行動しなおし始めた。彼は、僕の性格のいびつさや、人との接し方の未熟さをワークショップで具体的に教えてくれた。それが親父からもらったシッポを切り離すとっかかりだった。

 

少しずつ、僕の周りの風景が変わって行った。僕が、課長職に戻った新しい課では、部下による課長評価で、8割がこれからも僕と一緒に仕事をしたいと評価した。ちょうど、評価が逆転したわけだ。

 

 僕の世界の空気が変わっていって、確か親父と酒を飲めるようになったのはその頃からだったと思う。親父が許せるようになったのだ。

 

 親父の葬式の朝、東京には初雪が降った。その朝、オンちゃん、君はセンター試験とかち合って告別式には出られなかったね、君の好きなおじいちゃんだったけど…。

 

 考えてみると、君たち、とくにオンちゃんは、高校の頃から弓道クラブや同級生の間で、「仕切る」のが得意だったのを良く覚えている。もう、その頃から、君は僕との決別を始めていたのかもしれないね。

 

 ちっちゃい頃、親父とほとんど一緒に遊んだ記憶の無かった僕は、オンちゃんとはいっぱい思い出を作りたかった。オンちゃんがちっちゃい頃、車のプラモデルをいっぱい一緒に作ったし、9ミリゲージも一緒に作った。厚手のベニヤ板を買ってきて、底にキャスターを付けて、オンちゃんのベッドの下に入れられるようなジオラマを二人で作ったりもした。

 

その頃はやりのプラモデルは、僕が週末家に帰るとき、必ず二台くらいは買って帰って、全部で数えると、400台は越えていたね。

 

 あとで読んだんだけど、作家の森瑶子は「愛された経験のない自分にとって、愛のある生活を夢見ても、いかんせん、それは矢張りまねごとに過ぎないのかもしれない。本当に愛されたことがなければ、真似するサンプルさえい知らない」と書いている。

 

 僕もやはり、真似事でしかなかったのかもしれないとも思う。もうその頃は、僕は君たちのお袋とはどうにもならない状況になっていて、僕は、自分で建てた家を出て、一人、ちっぽけなぼろアパートを借りて別居していたから。

 

でも、僕と過ごした君の部屋のプラモデルや、9ミリゲージから物作りの楽しさを知ったのならうれしいことだ。

 

二浪までして、その頃ダサイと言われた「機械工学科」を君は国立大学で終えた。そして、ソフトで一流だったぼくの会社への合格を振り切って、物作りの道を自分で選んだ。すごいと思ったね。

 

 チビも、女の子なのに高校の頃からどこか、みんなを仕切っていた。同じような事を二人ともやるものだと思った。それはそれでとても大切なことだと思っている。

 

 チビは素直に育って、幸いやさしい人に出会って、そのまんま受けとめて貰い円くなった。委ねている姿が良く見える。すごく自然体だ。いいお母さんになるね。心配はない。

 

 オンちゃんは昔のぼくみたいに、ちょっとガンバッて会社の世界をやっているようにみえる。今は一人で、何でもうまくやっているようだけれど、そろそろ僕の経験した最初のつまずきに出合う時期に違いないと思う、つまり人に頼れるかどうかだ。

 

 オンちゃんの、好きなことをあくまで大切にすること、行動することなんかすばらしい資質だ。

 

これらは、結果として親父から僕がもらって、君達につないだものだと思う。

 

 でも、僕が50歳のとき自分自身について大発見したことがあるのを知っているかい。君たちにしっかり話した記憶はない。

 

 アメリカのタホ湖で、ミュリエルおばあちゃん博士の開いた心理学ワークショップでのことだ。インチキではないよ。アカデミックな、論理的な裏づけのある3週間のワークショップでの出来事だ。

 

 僕はそのとき、自分のなかに「すごい寂しがり屋」が潜んでいるのを発見したんだ。

 

「幼い自分自身の後ろ姿を、目を閉じて思い出してごらんなさい」と言われたときのことだ。そこには、ガランとした映画館の椅子にポツンと一人ぼっちで座っている僕がいた。

 

これが、おばあちゃん先生の手で引き出されちまった「ちっちゃな子供の心」だった。僕は生まれて始めてみんなの前で、ボロボロボロボロ、オイオイオイオイ泣いた。涙があふれてきて止めようもなかった。

 

 それが糸口で、「人に本当に甘えてもいいのだ、甘えは受け入れてもらえるのだ、許されるのだ」とミュリエルと、その時の仲間達におそわった。

 

50年間、知らず知らずのうちに溜め込んできた悲しさ、寂しさが一度に湧きあがってきた。涙が流れ出た後は、いつか心が穏やかになっていった。それから、僕は自然体でいられるようになった感じがする。

 

 オンちゃんも早めに、「人に頼るってことは、他の人に受け入れてもらえる」って信じて、行動してみてはどうだろう。もちろん見境もなく、誰にでも…とはいかないかもしれないが。チャンスは君のすぐ側にいっぱい転がっているよ、特にさびしい時に。

 

もっとらくちんに生きるためにね…。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
親父から僕へ、そして君たちへ
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