小さな詩集 強いさざなみ

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「健気なさわがに」

「健気なさわがに」 


窓から山並を見ていたら、蟹の姿が

その朱色が、突然起ち上がったよ。

大阿蘇の山を無意識に思い出していたらしい。

四十年を瞬時に駆け抜けて。


ぼくらは大観峰へと続く尾根にいた。

若人五人と老教授。風も眺めも、

もうたまらんって感じでフウッ!

木イチゴを露の中からむしりとって

むさぼり喰った、そんな僥倖もあった。

あの頃の日本の未来は良かった。

未来学なんてものもあった。

なにせ、ぼくらはどんどこ歩いた。


既に数時間、午後中阿蘇をさまよった。

そこらで育ったひとりの男が

情け容赦なく前進する。

何もない,歩くしかない、空と草だけ。

遥か遥か下方に

カルデラの畑が色とりどりに見える。

何てこった、あそこまで下って行くのだ。

今から!

一直線に下山するぞ! 彼が怒鳴った。

実はみなただの怠け者ぞろいで

ほとんど絶望感に襲われた。

ドドドと山肌をほとんど転がっていく。

森に迎え入れられる。

鳥の声はあるがもう雑音。

手はすぐに泥と汗と血で汚れた。

道じゃないんだ、獣道ですらない。

いつまで、あと何時間?

大岩をへめぐり、

清水がチョロリしているのをペシャと踏む。

半泣きだ。次の岩肌を滑り降りる。

コワイナ、口々に叫ぶ、先生? 

とりあえず必死の形相だ。


とりわけ大きな岩から辛くも降り立った時

そこに、蟹がいた。朱色があった。

緑と岩の自然の中に

不似合いな、目を射るその赤。

愛らしい形をして! 三センチくらい!

こんな狭い沢で、君は一人で何してるんだい

ぼくらは大変なんだけどね。

深紅の小さな沢蟹は

あわてた風もなく少し横に移動して

巨人たちの地響きを静かに感じていた。

命燃え立つ、炎のごとき生命体は

弱虫たちの脳に赤い点を灯した。

緑色の影なす天井、シダと苔と岩と清水。

ぼくらは一粒の驚きを得た。

とても愛しかった。息を吐き出して笑った。


たそがれて、やっと汽車の席に座った。

ぼくらが後にしてきた

小暗い山の重量があった。

サルビア色のひとひらの、可憐な形

山の飾りよ、よくお生き!


「竹の秋」

散文詩  竹の秋


世を空を被ひし桜白々と

  舞ひ散りてのち万緑に色染め変へて

小さき実を小鳥のために結びたる

  その時に竹の秋とぞ


惜しげなき枯れ笹の笹舟の

  尖がりて流るる風に乗り

  いづこへの旅ぞ

突き刺さるかにハタと墜つ

  ほとんど色は黄金に

  先端ありて落ちながら

  ついと漂う

風と重力の作用のまにまに明確に

  指向する先端

  描かるる鋭き斜線は無数にして

垂直の竹林よぎるその眺め

造化の技のいたずらめきて

  息をぞ呑まさる

その組織花びらよりも密なれば

  成す一直線

  斜めの角度は時々に様々にあれ


魂のげに美しき宝子ら

  憶うこの夕に

けふの最期の光の使者は

  竹たちの片側のみを輝かすなり


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東天
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