蒼い瞳に映っつた美しき伊豆

④松岡前農林水産大臣の自殺

 この事件は、松岡農林水産大臣が、事務所で光熱費を架空請求し、それを端に国会で不正の追及を行われ、追求から逃れようとした松岡農林水産大臣が、ついに「自殺」に及んでしまったと言う事件であった。

 

 上記した、アメリカ9.11同時多発テロ、秋葉原連続通り魔殺人事件と決定的に異なる点は、マスメデイアが、9.11同時多発テロ、秋葉原連続通り魔殺人事件で、被害者擁護に徹底して回っていた点と異なり、松岡農林水産大臣の件では、マスメデイアが、松岡大臣の脱税の追及を徹底した際に、松岡前農林水産大臣が、自殺してしまったという、「死」に至るまでの経緯の違いである。

 

 国民心情には、これこそ、因果応報で自業自得な必然の死そう映ったのではないだろうか?

 

 しかし、こうもとらえられるのではないか?ということである。それは、「仮にもGNP世界2位の一国の閣僚たるものが、500万、600万程度の金で地位や名誉を失い。自殺に及んでしまった。と言うことである。」

 

 「一口に500万、600万というが、庶民からすれば、巨額の資金だ。」横領に至った経緯からも死は免れない。こう主張する方もやはり多いだろう。

 

 しかし、先に、リクルート、ロッキード事件で世を騒がせた、故田中角栄元内閣総理大臣、中曽根康弘元内閣総理大臣は、良か否かはさておき罪を認め一時職を辞された。彼らの行為により、政治に悪印象は、植え付けられたものの、松岡大臣のように、彼らが、自分の行いを責め「自殺」などに及んでいたら、日本の今日的な発展などなかったのではないかとも思えるからだ。

 

 また、確証は出来ないものの、農林水産大臣であり、その道のエキスパートであった彼の自殺などなければ、2008年今日の食糧危機問題などに、日本が、直面することなどなかったように思えるからだ。

 

 そうして、人の命に値段はつけられないというものの、9.11同時多発テロや、秋葉原連続通り魔殺人事件に遭遇することなく善良な子女であった彼らが生き延びられていたとして、一国の閣僚のポストに立つ人間に育てたか。疑問がよぎる。「善良と醜悪」その違いも明白なのにだ。

 

 こうして、怒りに満ちたまなざしでは、見ながらも、人々の死は、「必然だ。」と述べる私を憎むものも少なからず、いるだろう。但し、このような凶悪犯罪が起きず、被害者達が、そのまま生きていたなら、そこはかとなく広いこの世の中であった「輝く命」そのことにすら我々は、気づかずに過ごしていたかもしれない。

 

 また、凶悪な犯罪者の陰に潜む苦悩に我々は、気づかなかったのかもしれない。

 

 そしてまた、世に生きる誰もが気づかされた貴重な命があったと言う事実。それは、まさにそれが、「惜しまれる命」であったからのように思う。

 

 そして、ここまで述べてきた、「惜しまれる命」ということを背景に今、生きるということを問い直したいと思う。

 

 ひとえに、生きるといってもその作業は単調だ。仕事のある者は、労働をし、学業のある者は、学業に従事し、食事の形で栄養を摂取し、疲れを癒すために睡眠をとる。この世に生きるものならば、どんな人間であれ、回避することの出来ない営み。

 

 これもまた、生きるということの一形式だからでであろう。但し、この日常生活での労働は、分業と職業選択の自由が進み、現代では、そのスタイルも多用だ。

 

 以前、私も派遣労働者として働いたことがあったとは、前述したが、そのときのエピソードをここでは、まず、語ってみる事にする。

 

 

第二章 派遣社員時代

 

 東京六大学法政大学第二経済学部経済学科を卒業した私ではあったが、バブル経済崩壊以降、今日まで続く就職難のため派遣社員となることを余儀なくされた一時期があった。

 

 そして私は、2007年07月E社の派遣社員として日本を代表する大手家電メーカーM社に派遣された。

 

 3Kと呼ばれ、重労働である工場では、外国人労働者が、働かされているという話は、聴かされていた物の、海外旅行に出かけたことがあるわけでない。外国人と接する機会に恵まれていた訳ではない私にとって、工場という文系大卒者にとって不慣れな環境以上に、異国人との遭遇は、新鮮であった。

 

 M社は、日系ブラジル人や北欧系、フィリピン、中国などが、出身地の外国人の多い職場であった。勿論、外見は、全くの「外国人」 日本語を話せるものも数名いたが、自国が英語圏ではなく日本語どころか、英語の話せないものも多数いた。「日本語も英語も話せず会話の手段もまったくなしで、団体旅行をするわけでもない、仕事をするために異国から来られるものだろうか?」と当初は、自分の目を疑った。

 

 しかし、現実にそうした人々が、目の前に多くいるのである。

 

 幾ら、生活の為とはいえ、そこまでできるバイタリテイと職務におけるポテンシャルの高さには、目を見張るものが、あったといえたが、更に驚くべきだったのは、一部の日本語を話せるレベルの者についてであった。

 

 ブラジル人に当たっては、訛りのない流暢な日本語を話し、母国語である、ポルトガル語のほか、英語も話せた。自国では、教員免許状を取得している者もおり、工場の一派遣労働者レベルにあるとは、思えなかった。

①シモナ

 

 当初、私に仕事を教えてくれたのは、ブルガリアから来た大学生であった。シモナと言う彼女も日本語に非常に流暢であった。心身を壊すような過酷な二交代制の重労働の中、「私もキリシタンではないが、今日も食事が取れることを神に感謝している。一杯のぶどう酒と、三切れのパンが、千人の飢えを癒したと言う、神の奇跡を信じてみたい自分も私の中にいるのだ。」などと日本語圏に住むものでないものにとって決して簡単ではない会話を交わしていたことを昨日のことのように思い出す。

 

 私の派遣社員という生活は、短かったが、派遣業は、秋葉原連続通り魔殺人事件などを引き起こした一因だといえた。しかし、私には、そこにいかなければ、会えなかったであろう、未知の世界や人々との遭遇、体験、そして、人間が、生きていく上で不可欠な、仕事に伴う痛みを教えてくれた場でも有ると言えた。

 

 当時は、寝入り、目を覚ますと十時間以上にも渡る心身に激しい痛みを伴う仕事をし、「いつ、この生活は、終わるのだろうか?」それだけを考えて生きていた。私は、職を辞し、その激しい痛みを伴う生活からは、離れたが、私でない多くの誰かが、今も、その激しい、想像を絶する痛みと闘っていることは、解っているつもりだ。

 

 生きると言うことは、先ほども述べたよう、「仕事をする。食事を取る。睡眠をとる。」と言う。単調な生活を繰り返す事が、ベースとなっている。しかし、その単調な生活を繰り返すためには、激しい痛みが伴うことも避け得ない現実であった。

 

 しかし、生きることには、そのほかにも喜びや、楽しみ、感動し涙すること、悲しみや、驚きなど、書きつくせないほどの感情が、伴うであろう。

②ミリアン

 

 E社にて派遣社員をしていた際、シモナ以外にもミリアンというブラジル人女性と話せる機会があった。

 

 ミリアンは、十代で海を渡り日本へと出稼ぎに来ていた。日本に滞在して5年になるそうだったが、それでも日本語は、うまくは話せなかった。そんなミリアンの趣味は、たまの休暇を利用した旅行だった。

 

 同じ職場で、一緒に働くことも多かった私は、積極的に彼女に話しかけていた。「ミリアン、淋しくないか?」とたずねると、「ミリアン、淋しくない。」と孤独で過酷な作業労働下でも元気いっぱいで、茶目っ気たっぷりな女性だった。次第に仲が良くなった私に写真を見せることがあり、写真を見た私が、「なんだよミリアン彼氏いっぱいだな。」とからかうと、「チガウ。」とむくれて見せたりもした。「国籍は、違えど同じ人間だな。辛いことも多いだろうに・・・。」と、私は、思っていたが、そんな、ミリアンの一番のお気に入りだったという旅行先が、西伊豆だった。「伊豆ねえ?静岡か?」普段、旅行などしない私だったが、ミリアンの話に、聞き入っていた。「楽しかったのだね。」と聴くと「とっても楽しかった。日本で一番綺麗だったの。」と言っていた。ミリアンのそのときの目の輝きは、今でも忘れられない。

 

 生きることに伴い生ずる痛み。それを忘れさせてくれるのは、喜びだと言える。派遣社員時代の私にとっての喜びは、ミリアンの輝きに満ちたまなざしであり、シモナの人間像であった。交通手段が、発展し、国境を越えた人の行き来も活発になった。だから、街や電車の中で異国人を目にすることも珍しくなくなった。東京に住んでいた折、泣きながら歩く異国の少女にハンカチを差し出せなかった事があり、今でも忘れられない思い出として胸に刻まれているが、それから十年、様々な経験と思い出の元に私はある。次の十年は、ミリアンが、「日本で一番綺麗だった。」と言った。西伊豆を自分の目で見てみることや、何物かを介在すること無しに知らない世界を体験することが、私の人生に必要なように感じる。

 

 私自身が、体験した挫折や苦悩、喜びや悲しみそして、これからも体験する全ての出来事が、偶然などではない必然的な出来事なのであろうから。

TOMOKAZU
作家:TOMOKAZU
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