全か無か思考を越えて部分的救済を考える~キリスト教の救済について第2版

【4.キリスト教徒への裁き】

 【4.キリスト教徒への裁き】


4-1

 裁きの日にキリスト教徒に何がおこるのでしょうか?


4-2


3:20しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。3:21彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

(ピリピ人への手紙 320-21


 イエスの再臨の時にキリスト教徒の体は栄光の体に変えられるようです。

4-3


15:42死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、15:43卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、15:44肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

(コリント人への第一の手紙 1542-44


 栄光の体とは霊の体であるとわかります。


4-4


22:30復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。》

(マタイによる福音書 2230


 霊の体とは神の御使い、つまり天使のような体であるとわかります。


4:24神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 》

(ヨハネによる福音書 424


 神もまた霊です。神が霊の体を持つかはわかりませんが復活のイエスは霊の体を持っていました。


4-5


20:14そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。

(ヨハネによる福音書 2014


21:4夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。

(ヨハネによる福音書 214


 霊の体の容貌は以前の体とは少し違うようです。でも知り合いなら霊の体になっていてもその人であると何とか確認できるようです。ひょっとすると霊の体とは、心の目で見るものなのかもしれません。霊の体は霊で出来ていて物質ではないのです。だから肉体の目では見えないかもしれないのです。


4-6


4:7しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

(コリント人への第一の手紙 47

   

 この宝とは神が分け与えた聖霊のことだと考えます。土の器とは卑しい体です。


4-7


5:1わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。5:2そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。5:3それを着たなら、裸のままではいないことになろう。5:4この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。

(コリント人への第二の手紙 51-4


 天にある永遠の家とは霊の体(=イエスの栄光の体)でしょう。地上の幕屋とは土の器(=卑しいからだ)のようです。では苦しみもだえているのはだれでしょうか?


4-8


4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

(コリント人への第二の手紙 416


 文脈から考えると内なる人が苦しみもだえているようです。 では外なる人とはなんでしょうか?内なる人と外なる人は対象的な位置づけです。外なる人とは卑しい体のことでしょうか?

4-9


7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。7:21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。7:22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、7:23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。7:24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。7:25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

(ローマ人への手紙 719-25


 内なる人は善を欲する意識であり、神の律法を喜びます。ここにもう1つの意識が描かれてます。それは悪の意識で罪の律法を喜びます。このもう1つの意識は肉体に潜んでいるのですから、肉体そのものではありません。これはなんでしょうか?内なる人に対象的な存在のようです。私はこのもう1つの意識が外なる人であると思います。しかし外なる人は肉とほぼ同義です。肉体と外なる人を分けることはできません。外なる人は肉体の中に自然に形成され、未分化のまま存在しているのです。キリスト教徒は内なる人と外なる人という2つの意識を持っている。これは本当でしょうか?


4-10


5:19肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、5:20偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、5:21ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、5:23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

(ガラテヤ人への手紙 519-24


 ここに2つの意識が描かれています。「肉の働き」と「御霊の実」です。「肉の働き」は外なる人に対応し、「御霊の実」は内なる人に対応します。外なる人は肉体に住み、この二つはほとんど同じで区別できません。内なる人は一人ひとりに分け与えられた聖霊の中に住みます。そしてこの聖霊は一人ひとりのキリスト教徒の心の中に宿っています。

4-11


3:3イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。3:4ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。3:5イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。3:6肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。

(ヨハネによる福音書 33-6


 肉から生まれるものとは外なる人、反対に霊から生まれるものとは内なる人だと私は考えます。外なる人は滅ぼされ、内なる人は神の国に入ることが出来ます。


4-12


15:49すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。

15:50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。15:51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。

(コリント人への第一の手紙 1549-51


 キリスト教徒も裁きの日には無傷ではありません。各々が二つに切り分けられるのです。2つの部分の1つは内なる人です。御霊の実と共にあります。これらは一人ひとりに分け与えられた聖霊に包まれており、各々の聖霊は集合して1つの神の霊に戻ります。もう1つの部分は外なる人です。肉の働きと共にあります。これらは神の国を継ぐことが出来ません。そして十字架につけられます。


 そして裁きの日が来ると、内なる人は肉体を脱ぎ捨てて、霊の体を着ます。


4-13

 この章のまとめです。以下は私の仮説です。

(1)イエスが再臨すると、キリスト教徒の体は栄光の体に変えられる。

(2)霊の体は栄光の体と同じ意味である。そしてそれは天使のような体である。


(3)内なる人は御霊の実とともにあり、この霊の体を着る。


(4)外なる人とは人を肉の働きに向かわせる意識のことで、肉体の中にあり、罪の律法に従う。

(5)一人ひとりに分け与えられた聖霊と内なる人は神によって救済され回収される。

(6)外なる人、肉体、肉の働きは十字架につけられ、ゲヘナに投げ入れられる。

【5.キリスト教徒以外の人への裁き】

 【5.キリスト教徒以外の人への裁き】


5-1

 キリスト教徒ではない人は裁きの日にどうなるのでしょうか?


5-2


13:37イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。38畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。39それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。41人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、42炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。43そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。 》

(マタイによる福音書 1337-43


13:47また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。48それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。49世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、50そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

(マタイによる福音書 1347-50


 この二つの部分を見ると裁きのときには「つまづきとなるもの」と「不法を行うもの」、「悪人」を、炉の中に投げ込むとありますが、キリスト教徒以外の人がそうなるとは書いていません。


 「つまづきとなるもの」と「不法を行うもの」、「悪人」 これらはキリスト教徒以外の人すべてに当てはまるでしょうか?


5-3

25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 ≫

(マタイによる福音書 2531-33


 裁きの日には世の中の羊のような人々が山羊のような人々から選り分けられます。

 

 しかしそれだけではありません。4章で書いたように、一人ひとりの中の良い部分が悪い部分から選り分けられます。ここで内なる人を「義人」、外なる人を「悪人」としてみましょう。羊と山羊、良い種と毒麦で対比される2つの性質は一人ひとりすべての人の中に混在していることになります。

5-4

 私は二つの裁きがあると仮説を立てます。最初の裁きは人類が2つのグループに分けられることです。良いほうのグループは心の中に聖霊が宿っている人たちで構成されていて、神に救済されるチャンスがあります。悪いほうのグループは聖霊が宿っていない人たちで構成されていて、かれらは「つまづきとなるもの」と「不法を行うもの」、「悪人」 の集団です。このグループはゲヘナに投げ込まれます。

 2番目の裁きは内なる人と聖霊が分離して、外なる人と肉体から離れることです。この裁きは一人ひとりの肉体で起こります。その後、内なる人は栄光の霊の体を着て完成された神の国に入ります。肉体と外なる人はゲヘナに投げ込まれます。

 

 私はこの2つの裁きの過程を「Dual Judgment(二重の裁き)」と名づけたいと思います。


5-5

3:10斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。3:11わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。3:12また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

(マタイによる福音書 310-12


 この「Dual Judgment(二重の裁き)」は神が実際に取り得る選択肢なのでしょうか?ここに2つの裁きが書かれています。 最初の裁きは「良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」です。2番目の裁きは「麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てる」です。

 前者は人類が2つのグループに選り分けられることです。後者は内なる人が肉から分離される事です。なぜなら麦と殻は脱穀のまえには1つの存在でした。麦と殻は別々の人間の事ではなくて、ひとりの人の2つの部分のことです。

 私が「Dual Judgment(二重の裁き)」の根拠としているのはこの引用部分なのです。


5-6


5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、5:23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 》

(ガラテヤ人への手紙 522-23


 キリスト教徒以外の人が良い実を結ぶことはないのでしょうか?キリスト教徒でなくても、これらの良い性質をもった人々は多いです。この良い性質が御霊の実ならば、キリスト教徒でなくてもこうした良い性質をもった人は最初の裁きを生き延びられるのではないでしょうか?


5-7


3:20なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

3:21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。3:22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。3:23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、3:24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。3:25神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、3:26それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。3:27すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。3:28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。3:29それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。3:30まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。

(ローマ人への手紙 320-30


 キリスト教の教義では良い行いは救いの十分条件ではありません。2章で救いのためにはイエスへの信仰が必要であると書きました。上記28節でも律法の行いではなく、信仰によって義とされると書いてあります。


 洗礼を受けることや、信仰告白が義務だからと要求されたら、それもまた信仰に基づくものではなく「律法」に基づく「良い行い」ではないでしょうか?宣誓はただの表面上の物にすぎません。心に信仰を持っていることこそが中身なのです。

 

 「御霊の実」は行動として観察されます。しかし行動は表面上のものです。中身はどうなのでしょうか?この良い行動は中にある何からくるのでしょうか?「御霊の実」を持つがキリスト教徒でない人はイエスへの信仰を持っていると言えるのでしょうか?


5-8

2章で救いの十分条件を述べました。


 イエスへの信仰とは

(1)イエスは主である」という告白と神への賛美

(2)イエスを信じること。

(3)主の名(イエス)を呼び求めること

 この3つのいずれかを意味します。


 しかし上記の条件は聖霊が降っていることの証拠に過ぎません。もし誰かの内に聖霊が宿っているなら、救いの十分条件を満たすということをもう一度確認しておきます。 さて「御霊の実」を持つがキリスト教徒でない人は、この救いの条件を満たすのでしょうか?


5-9

8:8ところが、神は彼らを責めて言われた、

「主は言われる、見よ、
わたしがイスラエルの家およびユダの家と、
新しい契約を結ぶ日が来る。
8:9
それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、
わたしも彼らをかえりみなかったからであると、
主が言われる。
8:10
わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつけよう。
こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。
8:11
彼らは、それぞれ、その同胞に、
また、それぞれ、その兄弟に、
主を知れ、と言って教えることはなくなる。
なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、
彼らはことごとく、
わたしを知るようになるからである。

(ヘブル人への手紙 88-11


 キリスト教的な文脈からすると新しい契約の律法とは、ユダヤ人の律法ではなくイエスの言葉です。ここに重要なことが書かれています。新しい契約では(神とイエスを信じるものの間に結ばれる契約)では、神が直接、律法を彼の民の心に書き込むのです。そして神の民は神に関する知識を教えあう必要もなくなります。いままで誰かにキリスト教について教えられたことがない人でも、神に選ばれイエスの言葉が心に刻まれている人がいてもおかしくありません。


5-10


1:3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、1:4みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、1:5わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

(エペソ人への手紙 13-5


 この記述に従えば天地の造られる前に神がキリスト教徒となるように選んだ人々の心に、あらかじめイエスの言葉、つまり、信仰の種は入れられるようです。そして信仰の種が心に入れられた人でも、その種の存在を自覚できない事があるのです。例えば、まだ信仰の種が十分育ってなくて信仰を告白するに至らない人などです。

 

 神によってあらかじめ選ばれた人たちでも、イエスの言葉が心に刻まれていることに未だ気づいていない。つまり、信仰が潜在意識に押し込まれている人たちがいるでしょう。信仰を持っているけれど、それを自覚できない。そんな人を知りませんか?


5-11


9:1さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、9:2ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。9:3ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。9:4彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。9:5そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。・・・・・・


9:17そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。9:18するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、9:19また食事をとって元気を取りもどした。

サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、

(使徒行伝 91-5,17-19


 サウロ、つまりパウロこそがそのような人です。 パウロは偉大な使徒になるように定められていました。しかし彼はこのときイエスへの信仰を自覚していなかったのです。パウロは天地の造られる前に選ばれていました。だからイエスを信ずる人を迫害するときにもイエスの言葉は既に心の中に書き込まれていたはずです。キリスト教徒ではないが潜在意識の中に信仰を持っている人は結構いるのではないかと思います。このパウロのように。


5-12


65:6見よ、この事はわが前にしるされた、
「わたしは黙っていないで報い返す。
そうだ、わたしは彼らのふところに、
65:7
彼らの不義と、彼らの先祖たちの不義とを
共に報い返す。
彼らが山の上で香をたき、
丘の上でわたしをそしったゆえ、
わたしは彼らのさきのわざを量って、
そのふところに返す」と主は言われる。

65:8主はこう言われる、
「人がぶどうのふさの中に、
ぶどうのしるのあるのを見るならば、
『それを破るな、その中に祝福があるから』と言う。
そのようにわたしは、わがしもべらのために行って、
ことごとくは滅ぼさない。

(イザヤ書65:6-8


 復活のイエスに会う前にパウロが死んでいたら、パウロは完全に滅ぼされるでしょうか?私はそうは思いません。神は滅ぼさないと思います。義でない人は罰を受けるべきですが、もしその人の中に「ぶどうのしる」が見つかれば神はその人を滅ぼしません。パウロは聖徒を迫害しましたが、救われました。

 ダビデはウリヤを裏切って死なせ、姦淫の罪を犯しました。しかし彼はゲヘナの住民になったでしょうか?モーセはエジプト人を殺しました。(出エジプト記2:12) のちに神から与えられた十戒には「殺すな」と記されてます。そして神をないがしろにしたことがあります。(民数記20:24)しかしモーセは先祖の列に加わりました。別の言い方をすると救済されたのです。

 こうした例を見ていると、たとえ欠陥があっても「ぶどうのしる」があれば救済されることがわかります。「ぶどうのしる」は信仰のことではありません。引用した聖書の言葉は、神に反抗し、偶像礼拝をしていた民に与えられた神の御言葉です。「ぶどうのしる」は神の僕として選ばれることなのです。選ばれた人は滅ぼされないのです。もっとも罰は受けますが。そしてイザヤ書のこの箇所はイエスに反抗したユダヤ人の救済を神が約束したことをも示します。


 パウロの場合は「ぶどうのしる」は異邦人伝道のために神によって選ばれた事のようです。復活のイエスに会う前にパウロが死んだら、パウロは救済されたか?私の答えは、「異邦人伝道をする前にパウロが死ぬようなこと、そもそも神がそのようなことが起こるのを許すはずがない」です。


 同様に神によって天地創造の前から選ばれていた人たちは、その選びのゆえに救われるのではないかと考えるのです。もっとも彼らにどのような働きが委ねられているかは私にはわからないのですが。


5-13


 信仰が潜在意識の中にあるということは罪でしょうか?かつて天地創造の前に神によってキリスト教徒になるように選ばれてイエスの言葉が心に書かれ潜在的なキリスト教徒であるけれども、その人がそのことを忘れてしまい、キリスト教徒になっていない場合はどうですか?これは罪でしょうか?記憶喪失は罪ではなく病気ではないでしょうか?そしてイエスは彼の民の病気をすべて治すのではなかったのですか?潜在的な神への信仰をもった記憶喪失の人を神が滅ぼされるでしょうか?洗礼を受けたキリスト教徒が認知症になり、キリスト教徒であることを忘れてしまったら、神はこの認知症のキリスト教徒を滅ぼしますか?


 もし、あるキリスト教徒でない人が、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制という性質をもっていたら、彼らは御霊の実を持っているのです。どうしてキリスト教徒でもないのに御霊の実を持っているのですか?私はこう考えます。彼らのうちにもやはり聖霊が宿っているのです。彼らも天地創造の前に神により聖霊のバプテスマを受けたのです。しかし彼らは、例えていうと、記憶喪失や認知症の状態なのです。単に信仰を持っていることを忘れているのです。神は彼らを癒すべきではないですか?なにか彼らを滅ぼす理由がありますか?


5-14


3:5わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。3:6この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。3:7これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。

(テトスへの手紙 35-7


 イエスは神の言葉です(ヨハネによる福音書11)、もしイエスの言葉が心にあれば、イエスの言葉を通して神は聖霊を私たちに注ぎます。5-9で述べたように神の律法は神によって直接心に書かれ得るのです。そのような人は水のバプテスマを受けなくても聖霊が注がれるのです。聖霊が注がれ内なる人が育ち御霊の実が熟します。誰かの心の深みから出た行動が、御霊の実に一致しているなら、その人のうちには聖霊が宿っているでしょう。すべての良いものは神から来るのです(ヤコブの手紙 17)それとも肉が御霊の実を結んだのですか?もちろん肉が御霊の実を結ぶことはありません。


5-15


8:26御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。8:27そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

(ローマ人への手紙 826-27


 私が思うに、聖霊が宿っているがキリスト教徒でない人は、かなりな数になります。彼らが祈り方を知らず、信仰も潜在意識の中にあるにもかかわらず、彼らに代わり内に宿る聖霊が霊の命を救済するようにとりなしの祈りをします。

 

 続いて内なる人が形成され信仰が起こり、神の名を呼び求めます。聖霊が内に宿っていたら、これらの過程は無意識の内にも起こります。霊に関することは聖霊がすべて教えるからです。内なる人も自分の意識の一部なのだから、内なる人が主の名を呼び求め、聖霊がとりなしをしたら、その人には自覚できないけれど信仰がその人の内にあるのと同じことです。こうして私が2章で書いた救いの条件は満たされます。


私はこれをPartial Salvation(部分的救済)」を名付けたいと思います。


 だから私は御霊の実をもっていたらキリスト教徒でなくても裁きの日に救済されると考えます。しかしそれは完全な救済でなく、彼らは日常生活の記憶のほとんどを失うでしょう。神に関連付けされないものはすべて十字架につけられるからです。一生の間信仰の自覚がなかったら、その人の日常生活の記憶はすべて、肉の働きに関連付けられていることになります。肉は十字架につけられるので、その記憶もほとんどが十字架につけられ失われるのです。ちなみに洗礼を受けたキリスト教徒が認知症になり信仰を忘れた場合は、その忘れている期間の記憶だけが失われ、それ以外の期間の記憶は残ると考えられます。


5-16

 この章のまとめです。以下は私の仮説です。


(1)私は2つの裁きがあるという仮説を立て、「Dual Judgment(二重の裁き)」と名付ける。 (マタイによる福音書 310-12 2つの裁きが書かれている。最初の裁きは「良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」で、2番目の裁きは「麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てる」である。


(2)最初の裁きは人類が2つのグループに選り分けられることを意味する。良いほうのグループは救済のチャンスがあり、悪いほうのグループはゲヘナに投げ捨てられる。


(3)2番目の裁きは内なる人と聖霊が分離して、外なる人と肉体から離れることである。これは一人ひとりの肉体のなかで起こる。


(4)洗礼を受けたキリスト教徒は最初の裁きを受けないが、2番目の裁きは受ける。


(5)愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制 という良い性質を持たない非キリスト教徒は滅ぼされる。


(6) 愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制 という良い性質を持つ非キリスト教徒は最初の裁きを生き延び、キリスト教徒と共に2番目の裁きを受ける。彼らの内なる人と一人ひとりに分け与えられた聖霊は救われ、栄光の霊の体を着る。


(7)良い性質を持つ非キリスト教徒で神への信仰の自覚がない場合は、人生のほとんどの記憶を失う。人生の記憶が肉に関連付けられ、肉と共に記憶が十字架に付けられるためである。


(8)良い性質を持つ非キリスト教徒で神への信仰の自覚がある場合は、信仰の程度に応じてキリスト教徒と同様に裁かれる。

【6.今回の解釈を適応すると復活の日にはこうなる】

 【6.今回の解釈を適応すると復活の日にはこうなる】


6-1

 キリスト教徒と御霊の実をもつ非キリスト教徒はともに2番目の裁きを受けるけれど、なにか違いがあるでしょうか?

6-2


5:23どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。5:24あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。

(テサロニケ人への第一の手紙 523-24


 たとえキリスト教徒でも2番目の裁きは受け、外なる人と肉の働きが滅ぼされ、肉に関連付けられた記憶も失うと述べました。 しかし実はキリスト教徒には特権が与えられています。最初の裁きを確実に避けられるのです。キリスト教徒は神の目に責められることがない者とされるのです。肉の働きがまだ残っていても許されるのです。キリスト教徒の魂は決して滅ぼされません。

6-3


66:10神よ、あなたはわれらを試み、
しろがねを練るように、われらを練られた。 》

(詩篇66:10)


旧約の時代にはこの特権はなく、神は信仰を何度も試しました。 旧約の民と同様に御霊の実をもつ非キリスト教徒は神に何度も試されます。(潜在意識に)信仰がまだ残っているかどうかを神が確かめるのです。彼らが神の道からはずれ悪くなっていくなら聖霊は彼らから離れるでしょう。聖霊が離れたら彼らは滅ぼされることになります。彼らは信仰を告白していないので、救済が保証されていないのです。

6-4

 

4:12というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。4:13そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。 ≫(ヘブル人への手紙 412-13


 洗礼を受けた者が極悪な犯罪を起こしたとしても、救済されるでしょうか?答えは、「その人は救済される」です。この人は内なる人と御霊の実が小さく、外なる人と肉の働きがかなり大きいと推測されます。だからこの人は救済されても、魂と記憶の大部分を失うことになるでしょう。そして「天の国でもっとも小さいもの」になるでしょう。


 犯罪や災害の被害者が神を疑い、神を呪って死んだとしたらどうなるでしょうか?その表面的な行動ではなく、どの程度の信仰が残っているか確かめられ、残っている内なる人と聖霊が救済されるでしょう。神に見落としはありません。


6-5

 イスラム教徒とユダヤ教徒は救済されるでしょうか?イスラム教徒とユダヤ教徒はキリスト教徒と同じ神を信じています。そして彼らの生活のほとんどは神に関連付けられています。イスラム教徒はイエスを預言者の一人と考えています。言い換えるとイスラム教徒はイエスの言葉が神から来たと考えているのです。


 ユダヤ教徒の場合はもっと複雑で、イエスの言葉は神から来たものではないと考える人もいます。

しかし彼らも同じ神を崇拝しています。彼らはイエスをメシアだとは信じず、彼らの本当のメシアを長いこと待ち続けています。

 キリスト教徒は「イエスを単なる預言者のひとりに過ぎないと考えたり、偽預言者とみなすのはイエスを冒涜している!」と考えるかもしれません。キリスト教の教義から考えると、イエスをそのように扱うのは確かに罪です。でも次の引用をみてください。


6-6


3:28よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。3:29しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。

(マルコによる福音書328-29


12:10また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。

(ルカによる福音書12:10


 聖霊を冒涜しない限り、イエスを冒涜する事も含めすべての罪は赦されるのです。またユダヤ教徒やイスラム教徒が神の霊を冒涜することはありえません。私はイスラム教徒やユダヤ教徒の魂も救済され得ると思います。でもあくまでも個人的な意見です。この件について考え、自分自身で答えを見つけてください。


6-7


 神の民の間に分裂があるのはサタンの狡猾な技の結果であると私は考えています。神は出来るだけ多くの人を救済したいのです。しかしユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が互いに争えば、サタンは神の意思を妨害できます。紛争は御霊の実を腐らせるからです。


6-8


 何が衝突の原因でしょうか?外なる人が原因です。内なる人は神に従いますが外なる人は意識の中にあるカビのような部分であり、良い性質を腐食するのです。あなたのパンが、カビているのを見たらどう感じますか?パンの上で3種類のカビが互いに戦争していたら、神は喜ぶでしょうか?そのカビたパンはゲヘナに投げ捨てられるのではないですか?神の民が争えばサタンが喜ぶだけです。


【7.祈り】

 【7.祈り】


 天の父なる神様、

この解釈は一般には受け入れられていません、

しかし聖書の引用から構築された解釈なのですから、これもあなたの選択肢の一つだと思います。聖書の言葉はあなたが私たちに与えた約束なのですから、これに信頼します。


私は洗礼を受けました。

 だからあなたを父を呼び、イエスキリストの御名によって祈ることが許されています


私はすべての人のために祈ります。


イエスキリストはすべての人の身代金として自身を献げました。そしてあなたはすべての人が救われることを望んでいます。(テモテへの手紙第一の手紙2:3-6

すべての人はすでに贖われました。だからすべての人を救ってください。

キリスト教徒でなくても、御霊の実のような良い性質をもった人がいます。

愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制 (ガラテヤ人への手紙5:22-23

  すべての良いものはあなたの光から来ます。(ヤコブの手紙117

あなたがそれを与えたのではないですか?

  天地創造の前に彼らを神の民として選んだのではないでしょうか?(エペソ人への手紙1:3-5

  彼らの心にあなたが神の律法を書き込んだなら、彼らはあなたの民ではないですか?

                                   (ヘブル人への手紙810-11

 あなたは真の割礼は霊によるもので文字によるものではないと言いました。

                                    (ローマ人への手紙2:28-29

聖霊によって内面になされる洗礼が真の洗礼ではないでしょうか?それとも外側の肉になされるものが洗礼でしょうか?


御霊の実をもつすべての人を救済してください。

  たとえ彼らがあなたによる選びを覚えていなかったとしてもです。

  御霊の実が聖霊が降っている証拠です。


あなたは「行って、すべての民に洗礼を施せ」を命じました。(マタイによる福音書2819

   世界中に福音が伝わったら世界の終わりがくるでしょう。(マタイによる福音書2414

もう残り時間は少ないかもしれません。

 すべての人が洗礼を受けられたら良いですが、時間は限られています。

  アブラハムは神の御使いと交渉しました。(創世記18章)

  「この町に義人が50人いても、町全体を滅ばされるのですか?」

  私もまた交渉しようと思います。

「この人に義の部分が50%あってもこの人全体を滅ばされるのですか?」

  「もしかすると50%に5%足りないかもしれません・・・」と。


  あなたはかつて言いました。

  「からし種一粒の信仰があれば山も動く」(マタイによる福音書17:20

  もし、からし種ほどの信仰でも見出せるなら、その人を救ってください。

  たとえその人が信仰の自覚がなくても。


  あなたの約束を思い出してください。

  神よ、イエスキリストの御名によって、すべての人の救済を求めて祈ります。




以降に図1~図4あり

仲里 淳
作家:仲里 淳
全か無か思考を越えて部分的救済を考える~キリスト教の救済について第2版
5
  • 50円
  • 購入

7 / 14

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • 購入
  • 設定

    文字サイズ

    フォント