全か無か思考を越えて部分的救済を考える~キリスト教の救済について第2版

目次

● 目次

1.初めに】 

2.バプテスマ(洗礼)】

3.神の国】

4.キリスト教徒への裁き】

5.キリスト教徒以外の人への裁き】

6.今回の解釈を適応すると復活の日にはこうなる】

7.祈り】


図1 種と神の国

図2 個々人に内在する聖霊の中に宿る内なる人、肉に宿る外なる人

図3 内なる人を含んだ内在する聖霊の救済

図4 完成した神の国とキリストの体



【1.初めに】 

 【1.初めに】 


1-1


 この本は私の悩みから生まれました。日本のキリスト教徒は人口比で1%であり、キリスト教の一般的な教義に従えば、最後の審判が今来たら99%の日本人は滅ぶことになってしまいます。私は洗礼を受けていますが教会に誘っても断られることが多いので今は誰かを誘おうとは思いません。聖書は行き渡り教会が身近にあっても関心を持たない人が多く、日頃交流を持っている方々、自分の先祖や家族、親戚、職場の方々が滅ぶと考えると、大変な苦悩です。憲法で信教の自由は保障されているしキリスト教の信仰は自発的なものでなくてはならないので、無理に勧めることはできません。


1-2


 「聖書がもたらされる以前の先祖たちも皆滅ぶのか?救済の機会もなく滅ぶのは理不尽である。」という意見を持ちキリスト教自体を受け入れない人々が多くいると聞きました。


1-3

 「極悪な犯罪人でも洗礼を受けていたら救済され、その被害者が神に絶望して洗礼を拒絶したら滅ぶというのはあまりにも不公平である。」という意見を持ち、キリスト教はつじつまがあわないと考える人もいます。


1-4

 イエスに興味を感じるが「洗礼を受けねば救われない」という教義自体に疑問を持ち洗礼を受けられない人もいます。今までの仏教や神道との宗教感覚の違いのためでしょう。

1-5


多くの説教者や指導者も日々、こうした質問を受けると思います。その返答を見聞きしても私にはやはり納得がいかず、「家族や、先祖、私と関わった人たちを救済してください。」と執拗に祈り考えました。


1-6


 そしてある考えが浮かびました。祈りの結果、この考えが与えられたのなら、神が採りうる選択肢の一つなのかも知れません。それで聖書を詳細に調べて考えを裏づけました。したがってここに書かれていることは個人的見解であり、解釈の可能性の1つであります。所属教団の教義には一致しておりません。しかし聖書から引用して構築された解釈なのですから、聖書の言葉が神の約束であるならば、神にこうしてくださいと祈り求めることが許されていると思います。その結論がこの本で書かれていることです。


1-7


 基本的に部分霊感説に基づいて話を展開しています。聖書は考古学的、科学的視点から書かれたわけではなく、あくまで信仰的真実を示していると考えます。従って信仰的な真実以外の部分には誤りがあっても、おかしくはないと考えます。


1-8


 聖書は譬(たとえ)が多用されており、基本的にイエスの言葉は譬(たとえ)で構成されていると考えます。


4:11そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。》

(マルコによる福音書 411


4:33イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。34譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

(マルコによる福音書 433-34


 ここにあるようにイエスはすべてを譬で語られたと明言されています。 したがって、イエスと使徒以外に神の国の奥義を授けられた人はいないのです。また使徒たちも肉の働きに苦しめられました。彼らも私たちと同じで未だ完全な聖化は受けていないのです。神の国の奥義が授けられても肉の働きが残っている以上完全な理解は不可能と考えます。また使徒や聖書記者もイエスの意志を継いですべてを譬で語ったでしょう。


1-9


 そうであるなら私たちが神の国の奥義を知ることなど可能なのでしょうか?イエス以外には完全な理解に達した人はいないでしょう。そのため聖書の解釈や現実への適用には多様性があり、誤謬が生じうるという前提で話を進めます。私の話も解釈の1つに過ぎず、誤りはあると思います。しかし信仰を確立する上で自分の見解を明確にすることが必要になったので思い切って書きました。

「このように考える人もいるのだな」とその程度に考えてください。


【2.バプテスマ(洗礼)】

 【2.バプテスマ(洗礼)】


2-1


 水のバプテスマは救いに必要でしょうか?


2-2


3:11わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。

(マタイによる福音書 311


19:1アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、2彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。3「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。4そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。5人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。6そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。

(使徒行伝1916


 バプテスマのヨハネが授けていたのは水のバプテスマであり、イエスのバプテスマとは異なります。イエスは聖霊のバプテスマを授けます。これは2つの引用から明らかです。 上記の引用1節のある弟子たちとはアポロの弟子たちでしょう。

 

2-3


18:24さて、アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人が、エペソにきた。18:25この人は主の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった。18:26彼は会堂で大胆に語り始めた。それをプリスキラとアクラとが聞いて、彼を招きいれ、さらに詳しく神の道を解き聞かせた。 》

(使徒行伝 18:24-26)


 アポロはイエスへの信仰を持っていましたがイエスのバプテスマについては十分な知識を持っていませんでした。それで弟子たちはイエスの教えに関する十分な知識を得られなかったのでしょう。弟子たちには聖霊が降っていませんでした。上記の引用(使徒19:1-6)ではイエスの名による水のバプテスマにより聖霊が降りましたが他に何か聖霊が降るきっかけになる方法はないでしょうか?


 実はヨハネのバプテスマで聖霊が降った話が聖書にあるのです。


2-4


3:13そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。14ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。15しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。17また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

(マタイによる福音書 313-17

 

 イエスは霊的な悔い改めのための水のバプテスマは受ける必要はなかったにも関わらず、バプテスマのヨハネの水のバプテスマを受けました。このときイエスはヨハネのバプテスマしか受けていないのに聖霊がくだったのです。イエスの名による水のバプテスマ以外でも聖霊が降ることがあるのです! このイエスと先ほどのアポロの弟子はどちらもヨハネのバプテスマを受けました。違いは神の道に関する知識の正確さだけです。ヨハネの水のバプテスマが聖霊が降るきっかけになるのでしょうか?イエスの名による水のバプテスマ以外の何かが救いをもたらすことがあるのでしょうか?

 

 もしかするとイエスがヨハネから水のバプテスマを受けたのは聖霊のバプテスマの象徴として水のバプテスマを人々に見せたかったからかもしれません。聖霊は普通の人の目に見えないからです。つまり視覚教材として水のバプテスマを用いたのであり、これは救いの本質ではないのです。それだけではなく、さらにいうと、イエスの名による水のバプテスマも聖霊が降ることを象徴した儀式に過ぎないかもしれないのです。なぜなら、ヨハネによるとイエスは水ではなく、聖霊と火で洗礼を授けるといっているからです。


2-5

 

4:1イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、4:2(しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)

(ヨハネによる福音書 42


 イエスが誰かに水のバプテスマを授けたという記載はなく、バプテスマを授けていたのはイエスでなく弟子たちであるという記述はあります。また先ほど述べたようにイエスは水でなく聖霊でバプテスマを授けると書いてあります。ヨハネによる福音書 135をみると、少なくとも使徒アンデレはバプテスマのヨハネの弟子であったことがわかります。ヨハネ教団の残滓で初期の弟子達が他の人々の弟子入りの証として水のバプテスマを授けていた可能性もあります。



2-6


28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、

(マタイによる福音書 28:19 )


 これは復活のイエスの命令です。しかしこれでは水のバプテスマが救いに必要かどうかあいまいです。文脈を考えると聖霊のバプテスマを授けよという意味かもしれません。また弟子としてバプテスマを施せというなら、バプテスマがかれらの教団に加わる通過儀礼に過ぎないような書き方です。


2-7

 イエス・キリストの名によるバプテスマを受ける前に聖霊が降った記載があります。


10:44ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。45割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。46それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、47「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。48こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。 》

(使徒行伝 1044-48


 パウロたちは何によって聖霊が降ったことがわかったかというと、異邦人が異言を語り、神を賛美するという証拠があったからです。その後ペテロは異邦人にイエスキリストの名による水のバプテスマを授けました。しかしここでは水のバプテスマはただの認証に過ぎないのです。聖霊が降るきっかけにはなっていないのです。私は聖霊が降るのとイエスの聖霊のバプテスマは同じ意味であると考えます。この引用からわかることはイエスの言葉を聴くことが聖霊が降るきっかけになるということです。


2-8


 もうひとつ重要な事がここからわかります。聖霊は目に見えない事です。マタイによる福音書 3:16ではイエスは鳩のような聖霊をみました。 使徒行伝 23では激しい風のような音と炎のような舌として、弟子たちに聖霊が知覚されています。


2:2突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。2:3また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。2:4すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

(使徒行伝 22-4


 聖霊は見えるのか見えないのか、この矛盾を解決するひとつの方法は、鳩や炎のような舌として見えたのは、心の目で見たと考えることです。 肉の目で霊がみえるでしょうか? 霊のことは霊によって解釈されるのではないしょうか?



2-9


2:13この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。》

(コリント人への第一の手紙 2:13)


 肉の目で同じものをみて、一人は鳩にみえ、他の人には火のように分かれた舌と違った結果になるでしょうか。聖霊を肉の目で目撃したなら同じ形が報告されるのではないでしょうか?使徒たちは霊の事は聖霊が教えると考えていたようです。内なる聖霊が彼らに霊に関することを教え、彼らはそれを報告しただけではないかと思います。


2-10


 使徒行伝 1044-46以外にも聖霊のバプテスマを受けた証拠について記載があります。

 

12:3そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

(コリント人への第一の手紙 123


 つまり、異言を語ったり、神を賛美したり、「イエスは主である」と宣言できることが聖霊を受けた証拠とみなすことができます。私には異言とは何なのか定義できません。そのため、この後は賛美と信仰告白について検討します。

2-11


10:9すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。11聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。12ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。13なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

(ローマ人への手紙 109-13


 救いに必要なのは「イエスを主である」と信仰告白できること、または「イエスを信ずること」、または「主の御名を呼び求めること」です。聖霊が内に宿っていなければイエスを信じたり、イエスの名を呼び求めることが出来ないと見なされているのでしょう。

2-12


4:18さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。4:19イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。4:20すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。4:21そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、4:22すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。》

(マタイによる福音書 4:18-22 )

 初期の4人の弟子はイエスに招かれました。しかしイエスが彼らに水のバプテスマを授けたという記載はありません。イエスの招きそのものがイエスのバプテスマなのだと私は考えます。なぜならイエスの言葉は霊そのものだからです。


2-13


6:63人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。 》

(ヨハネによる福音書 6:63 )


15:3あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。》

(ヨハネによる福音書 15:3 )


 イエスの言葉自体が私たちをきよめるのです。神は霊であり、またイエスは神の言葉です。イエスの言葉もまた神の霊つまり聖霊なのです。


2-14

  この章のまとめ 以下はあくまでも私の仮説です。

(1)イエスのバプテスマが救いには必要である。


(2)イエスは聖霊のバプテスマを授ける。水のバプテスマではない。


(3)水のバプテスマは聖霊のバプテスマの象徴なのかもしれない。あるいは聖霊が降ったことを認証するために人の手で行うものかもしれない。


(4)イエスの名による水のバプテスマを受ける前に聖霊が降ることがある。


(5)異言は聖霊が降ったことを示す証拠のひとつだが、他の意識変容状態と区別するのが困難である。(催眠状態やヒステリーや精神疾患との区別が難しい。)


(6)明確に見分けられる聖霊が降った証拠は「イエスは主である」という信仰告白と神を賛美することである。


(7)「イエスを信じること」と「主の名を呼び求める」ことも救いの条件を満たしている。


(8) イエスの言葉を聞くことが聖霊の降るきっかけになる。イエスの言葉自体が霊であるからこれを受け入れることが聖霊を受けることになる。


(9)聖霊が降ることはイエスのバプテスマそのものである。これが救いの本質である。


(10)現代の教会で受ける水のバプテスマは救いの原因ではなく、救いの結果受けるものかもしれない。

【3.神の国】

 【3.神の国】


3-1


 では救われた人はどうなるのでしょうか?


3-2


19:23それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。24また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。25弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。26イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。》

(マタイによる福音書 1923-26


 ここを読むと救われるとは神の国に入ることであるとわかります。神の国は別の言い方をすると天国のことです。


3-3 

 ではイエスの考える神の国とはどんな性質を持つでしょうか?


4:26また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。27夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。29実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。》

(マルコによる福音書 426-29

 

 神の国は種にたとえられています。播かれると人の力によらずに成長し実を結びます。神の国の種とはなんでしょうか?種はどこにまかれるのでしょうか?答えの前に他の譬もみてみます。

  

3-4


4:30また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。31れは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、32まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

(マルコによる福音書 430-32


 神の国がからし種にたとえられています。どんな野菜よりも大きくなります。 神の国の種もまかれるとどんな国よりも大きくなります。 鳥が宿るとはどういうことでしょうか?

3-5 


6:26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。》

(マタイによる福音書 626

 

 イエスが鳥という言葉で表現したものはいくつかあります。1つは神に養われるものです。それは自然に気ままに生きています。自然の人もそうです。彼らは神に養われています。神の国は彼らが中に宿れるほどになります。



3-6


13:4まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 》

(マタイによる福音書 134


13:19だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。

(マタイによる福音書 1319


 鳥のもう1つの意味はなんでしょう? もうひとつは御言葉を心から奪いとる悪いものです。 

 ここで重要な話が出ました。種は人の心に播かれるというのです。そして種でたとえられたものは御国の言だというのです。


3-7


13:24 また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。

(マタイによる福音書 1324


13:37イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。

(マタイによる福音書 1337


  神の国と種はどのような関係があるのでしょう?心にまかれたイエスの言葉もまた、一人ひとりにとって神の国なのでしょう。神の国の種であるイエスの言葉は成長し、大きな王国になります。そして実がなります。しかし、ここでは神の国はイエスそのものであると書かれています。


3-8


6:19あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。

(コリント人への第一の手紙 619


12:12からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。12:13なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

(コリント人への第一の手紙 1212-13


 イエスの言葉が聖霊そのものであり、これが心の中で成長し、個々人の神の国になります。

この個々人に内在する聖霊がキリストの体の部分なのです。だから、その集合体であるキリストもまた神の国なのです。こうしてイエスが神の国でありイエスの言葉も神の国であるという矛盾が解消されます。

3-9


15:50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

(コリント人への第一の手紙 1550


 救いとは神の国に入ることですが、一方で神の国は人の心の中にあるのです。どうやって入るのでしょうか?また私たちの肉体は神の国の中には入れません。なぜなら肉は十字架につけられ、御国を受け継ぐことはできないからです。私が考えるには、私たちの内なる人が心の中の神の国にまず入るのです。


3-10

4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

(コリント人への第二の手紙 4:16


7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。7:21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。7:22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、7:23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。7:24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。7:25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

(ローマ人への手紙 719-25


 内なる人とはなんでしょうか?内なる人はイエスの言葉を聞いた一人ひとりの心の中に出来てくる意識の一種です。内なる人と対象的なもう1つの意識についても書いてあるのですが(ローマ7:23)、これについては後ほど述べます。


3-11


6:15あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない

(コリント人への第一の手紙 615


12:27あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である

(コリント人への第一の手紙 1227


 イエスの言葉が私たちに根付き、キリストの霊が私たちを支配するとき、内なる人という意識が生じ、私たちの体もまたキリストの体となるのです。

3-12

16:11わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。12そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。》

(マタイによる福音書 1611-12


 パン種の譬をみてみます。ここを読むとパン種とは教え、つまり、宗教思想であることがわかります。


3-13


13:33またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。》

(マタイによる福音書 1333

 

 そして神の国はパン種に似ているのですから、神の国とは教え、つまり、宗教思想の一種であり、人の心の中にまぜると全体をふくれあがらせるものなのです。ここでも神の国は心の中にあることがわかります。神の国は心の中に入ると膨れ上がります、これはまかれた種の譬に矛盾しません。

神の国とはイエスの言葉が核となって形成される宗教思想ともいえるのです。


3-14


17:20神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。21また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。 》

(ルカによる福音書 1721) 


 「神の国は見えない、そして私たちの中にある。」、人々の中に共にいるイエスが神の国なのだという解釈もききました。神の国は見えないと明言されてますが人々はイエスを見ることができるので、ここでは私は神の国は心の中にあると解釈します。もっともイエス自体が神の国なので、どちらでも同じことですが(3-7を見てください)。Vulgateではintra vos、ギリシア語のἐντὸς(エントス)は内側にという意味であなたがたという集団の中とも、あなた方一人ひとりの心のなかとも訳せます。

 

 イエスに宿る神の力そのものが神の国という意味かもしれません。力が働いた結果は見えますが力そのものは見ることが出来ないからです。ここでいう神の国が私たちのなかの内なる人であるか、イエスに宿る力であるか?どちらにしても、それは人の肉体の中にあり、また見えないのです。そして、いずれにしてもイエスまたは個々人に宿る聖霊が神の国の正体です。


3-15


12:28しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。 》

(マタイによる福音書 1228


 聖霊の働きがあることが神の国の到来を意味するようです。イエスの力の源は神の霊ですから神の国と聖霊は同じものなのではないでしょうか?私たちのうちにある聖霊もまた神の国の一部分なのです。


3-16


10:17したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 》

(ローマ人への手紙 1017


 2章でイエスの言葉を聞くことが聖霊が降るきっかけになると書きました。信仰は神の言葉を聞くことからはじまります。たとえ信仰告白していなくても、信仰を持っていれば、それは聖霊が降っている証拠なのです。



3-17


3:16あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。

(コリント人への第二の手紙 316


 聖霊は意志があり、人の目に見えず、私たちの肉体あるいは心の中に宿っているのです。


3-18


6:63人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

(ヨハネによる福音書 663


 ここをみるとイエスの言葉が聖霊そのものであり、永遠の命であるとわかります。聖霊が降るとはイエスの言葉が心に播かれて成長することなのです。それが永遠の命なのです。ここでいう命とは肉体の命ではなく、霊の命です。肉体の命は肉と共に十字架につけられるからです。


3-19

10:38また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。10:39自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。》

(マタイによる福音書 1038-39


 前者の自分の命は肉体の命です。これに執着してイエスをないがしろにすると霊の命を失うとイエスは述べています。後者のイエスのために失うのは肉体の命で、その結果得るのは霊の命です。そうおもいませんか?私はそう解釈します。


3-20


3:3あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。3:4わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

(コロサイ人への手紙 33-4


 3-8では私たちは最後はキリストの体の部分となると書きました。ここでは私たちの命は神の中に隠されるとあります。私はこの命とはパウロがいう内なる人のことであると考えます。この内なる人を他の言葉でいうと魂です。三位一体により聖霊は神に等しいのですから、この内なる人(=霊の命=魂)は一人ひとりの中に宿る聖霊の中に包まれていると思います。


3-21


4:12それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、4:13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

(エペソ人への手紙 412-13


 内なる人は私たちに宿る聖霊の中で生まれ、成長し、一人ひとりに与えられた聖霊とほぼ等しくなるまで成長します。この内なる人はキリストの体の一部分なのです。


3-22

4:19ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。

(ガラテヤ人への手紙 419


3:16どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、3:17また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、 》(エペソ人への手紙 316-17


 神が霊を注ぐことで内なる人は成長し、私たちの内に宿る小さなキリストになります。また内なる人はキリストの体の一部分でもあります。一人ひとりの中に宿る聖霊も成長していきます。注がれる神の霊とは言い換えれば聖霊なのですから。

3-23


4:16すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、4:17それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

(テサロニケ人への第一の手紙 416-17


 私たちの霊の命(内なる人=魂)は私たちの内に宿る聖霊の中に隠されています。そして裁きの日に私たち一人ひとりに分け与えられた聖霊は集まり一人のキリストとなります。私たちの魂は集合してひとつになった聖霊のうちに住み、そこでお互いに出会うことになります。これが完成された神の国です。

3-24


この章のまとめです。以下はあくまでも仮説です。


(1)救いとは神の国に入ることである。


(2)イエスの言葉が神の国の種である。

(3)種は一人ひとりの心の中にまかれ、育ち、御霊の実がなる。


(4)この種を育てるために神の霊が一人ひとりの心の中に注がれる。


(5)神の霊の注ぎを受けるので一人ひとりに分け与えられた聖霊もまた育つ。


(6)内なる人は一人ひとりに分け与えられた聖霊の中に形成される。


(7)内なる人とは神に従う意志を持っていて、あたかも小さなキリストのような私たちの意識である。


(8)内なる人は成長すると一人ひとりに分け与えられた聖霊に匹敵する大きさになる。


(9)内なる人とは私たちに与えられる霊の命で別の言葉で言うと魂である。


(10)霊の命は肉体の命とは異なる。なぜなら肉体の命は十字架につけられるから。


(11) 一人ひとりに分け与えられた聖霊(内なる人を含む)は裁きの日に集合し、1つになる。


(12)この1つになった聖霊が完成された神の国である。そしてそれはまた、キリストの体でもある。


(13)裁きの日の後は完成された神の国の中に私たちの内なる人(=霊の命、魂)は住む。

仲里 淳
作家:仲里 淳
全か無か思考を越えて部分的救済を考える~キリスト教の救済について第2版
5
  • 50円
  • 購入

3 / 14

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • 購入
  • 設定

    文字サイズ

    フォント