全か無か思考を越えて部分的救済を考える~キリスト教の救済について第2版

タイトル

全か無か思考を越えて部分的救済を考える

キリスト教の救済について 

2

仲里 淳

著作権情報

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聖書は日本聖書協会発行の口語訳聖書(1954年版)を引用に用いています。

   著作権保護期間は2005年で終了し、現在パブリックドメインにあります。

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引用例

4:4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 》(マタイによる福音書 44

 

 引用部分以外の著作権は 仲里 淳 に帰属します。



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目次

● 目次

1.初めに】 

2.バプテスマ(洗礼)】

3.神の国】

4.キリスト教徒への裁き】

5.キリスト教徒以外の人への裁き】

6.今回の解釈を適応すると復活の日にはこうなる】

7.祈り】


図1 種と神の国

図2 個々人に内在する聖霊の中に宿る内なる人、肉に宿る外なる人

図3 内なる人を含んだ内在する聖霊の救済

図4 完成した神の国とキリストの体



【1.初めに】 

 【1.初めに】 


1-1


 この本は私の悩みから生まれました。日本のキリスト教徒は人口比で1%であり、キリスト教の一般的な教義に従えば、最後の審判が今来たら99%の日本人は滅ぶことになってしまいます。私は洗礼を受けていますが教会に誘っても断られることが多いので今は誰かを誘おうとは思いません。聖書は行き渡り教会が身近にあっても関心を持たない人が多く、日頃交流を持っている方々、自分の先祖や家族、親戚、職場の方々が滅ぶと考えると、大変な苦悩です。憲法で信教の自由は保障されているしキリスト教の信仰は自発的なものでなくてはならないので、無理に勧めることはできません。


1-2


 「聖書がもたらされる以前の先祖たちも皆滅ぶのか?救済の機会もなく滅ぶのは理不尽である。」という意見を持ちキリスト教自体を受け入れない人々が多くいると聞きました。


1-3

 「極悪な犯罪人でも洗礼を受けていたら救済され、その被害者が神に絶望して洗礼を拒絶したら滅ぶというのはあまりにも不公平である。」という意見を持ち、キリスト教はつじつまがあわないと考える人もいます。


1-4

 イエスに興味を感じるが「洗礼を受けねば救われない」という教義自体に疑問を持ち洗礼を受けられない人もいます。今までの仏教や神道との宗教感覚の違いのためでしょう。

1-5


多くの説教者や指導者も日々、こうした質問を受けると思います。その返答を見聞きしても私にはやはり納得がいかず、「家族や、先祖、私と関わった人たちを救済してください。」と執拗に祈り考えました。


1-6


 そしてある考えが浮かびました。祈りの結果、この考えが与えられたのなら、神が採りうる選択肢の一つなのかも知れません。それで聖書を詳細に調べて考えを裏づけました。したがってここに書かれていることは個人的見解であり、解釈の可能性の1つであります。所属教団の教義には一致しておりません。しかし聖書から引用して構築された解釈なのですから、聖書の言葉が神の約束であるならば、神にこうしてくださいと祈り求めることが許されていると思います。その結論がこの本で書かれていることです。


1-7


 基本的に部分霊感説に基づいて話を展開しています。聖書は考古学的、科学的視点から書かれたわけではなく、あくまで信仰的真実を示していると考えます。従って信仰的な真実以外の部分には誤りがあっても、おかしくはないと考えます。


1-8


 聖書は譬(たとえ)が多用されており、基本的にイエスの言葉は譬(たとえ)で構成されていると考えます。


4:11そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。》

(マルコによる福音書 411


4:33イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。34譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

(マルコによる福音書 433-34


 ここにあるようにイエスはすべてを譬で語られたと明言されています。 したがって、イエスと使徒以外に神の国の奥義を授けられた人はいないのです。また使徒たちも肉の働きに苦しめられました。彼らも私たちと同じで未だ完全な聖化は受けていないのです。神の国の奥義が授けられても肉の働きが残っている以上完全な理解は不可能と考えます。また使徒や聖書記者もイエスの意志を継いですべてを譬で語ったでしょう。


1-9


 そうであるなら私たちが神の国の奥義を知ることなど可能なのでしょうか?イエス以外には完全な理解に達した人はいないでしょう。そのため聖書の解釈や現実への適用には多様性があり、誤謬が生じうるという前提で話を進めます。私の話も解釈の1つに過ぎず、誤りはあると思います。しかし信仰を確立する上で自分の見解を明確にすることが必要になったので思い切って書きました。

「このように考える人もいるのだな」とその程度に考えてください。


仲里 淳
作家:仲里 淳
全か無か思考を越えて部分的救済を考える~キリスト教の救済について第2版
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