「行こうか」相方が。
キスリングを確かめる様に、何度か、リュックの肩紐を、揺すり上げる。整備された登山道はない、山道は、先人が切り拓いた、そま道だ。それを、辿る行軍である。
足場は、思った以上に悪そうな、山越えの行軍である。一昨日、北海道の旧国鉄、中標津駅前で、二人で野営。翌日、羅臼町入りし、宿舎に入った。
知床半島、羅臼岳を縦断し、反対側の岩尾別へ下りる。そこで本隊と合流し、知床五湖を巡る行軍である。
本隊は、斜里町から岩尾別へ向かい、ユースホステルで、山越えする二人を待つことになっている。
半時間ほどで、山道入り口に到着。幅員は、狭い。先人の足跡を頼りに、登攀を開始。雑木林で覆われ、靄がかかり、視界は10数メートル先が見える程度。
あちこちに、脇道がある。殆どが、獣道だ。これに迷い込むと、命にかかわる。登りは、良いが、下りは、獣道には細心の注意を払わなければならない。先人が切り拓いた山道か獣道か、を見分けながら、だ。
相方は、独特の歩を崩さない。息遣いも、安定している。彼の登山靴には、鉄が打ち込まれており、時折、山道にむき出した岩を噛む音がする。入山し、2時間ほどか、視界が、なかなか開けない。道が急に、立ち上がってきた。
相方も、それに気づいて。
「休もうか~」相方の手が、リュックに伸びてきた。相方が、脇道で、清水を見つけたらしく、リュックにぶら提げていた、アルミコップを外していたのだ。
「うん、ちょっと、この道はきつそうや」声をかえす。交互に、冷たい岩清水を飲む。タバコを取り出し、一服する。腕組しながら、二人で、見えない、山頂へ、煙を吐く。吸い終え。
「行くで~」立ち上がってきた山道へ、向かった。小刻みに、小休止を繰り返す。岩肌が続く、山道。両手両足を使いながら、ゆっくり登攀。先人が削った、痕跡の残る、岩を踏み台にする。赤や青、紫、白等の、小さな花を足元に見ながら。
「○○、あれっ!、見て見ぃー」指差す、方向に、転げ落ちそうになっている、巨岩と白い塊が見えた。万年雪の雪渓だ。人影も。相方を振り返った。
「八合目や、一気に行こう」表情を、緩めて言った。
八合目は、胸突き八丁だ。一番きつく、ガタイが鳴きそうになる。
「一気に」の声で、それを、吹き飛ばし、忘れさせてくれる。相方の気合で、色が変わった、急崖を、這いつくばって登攀。下を見ると、いつの間にか、数メートルの間隔を開けて、相方が。落石、滑落に備え、間隔を開けていたのだ。滑落したら、彼は、躊躇なく、反応するだろう。
転げそうな、巨岩にたどり着いた。万年雪の、雪渓にいた数人のパーティに、大声で。
「こんにちわー」と、挨拶。
「こんにちはー、こんにちはー、お疲れさんでーす」数人から、挨拶が返って来た。静寂の中、声が透き通る。
「山岳部やな~」小声で、耳打ち。
「そうやな~」相方が、頷く。彼等の装備を見て、すぐに分った。巨岩の真下には、厚さ1メートルほどの万年雪の雪渓だ。黒ずんだ所や、純白の箇所、岩が飛び出し、氷雪のようになっている所。自然の計らいは、人智を超える。
「○○、昼食にしょうか~」登攀開始から6時間余り。頂上は、眼の前だ。緩やかな雪渓の上から、オホーツク海を眺められ、昼食を摂ることに。濃紺の海原が、眼下に果てなく、広がる。二度とは、観れないのだ。
「そうや!、おう、それかせっ!」相方が、下ろした、リュックに吊り下げた、アルミカップを。万年雪を、掘り下げて、カップに詰め込んで。
「○○、板チョコ入れてくれや」差し出してきた。
「オーケー」板チョコを、ナイフで、鰹ブシを削る要領で、削り、雪の詰まった、カップへ入れる。
「できたでー、ほい」手渡した。
「おまえな~、もうちょっと、薄~うに削れや、ゴツゴツやん」顔は、笑ってる。箸で、掻き混ぜながら、ほうばる。
「噛み応えあって、うまいやろ~」笑顔で、応じる。
「ま~な」苦笑に変わった。登攀中に、気づいた、取り止めのない、話をしていると、登山部の連中が、列になって。
「お先にー」と、こっちに向かって、手を振っている。
「は~い、気をつけてー」立ち上がって、二人して、大きく振り返えした。
カメラを持ち、雪渓上から、何枚か写真を撮っていた、相方が。
「バシャッー、ばしゃー」雪渓で、顔を洗い出した(アライ熊、みたいなやつやな~)。
「○○、やってみ~」二人して、雪の中へ、顔を突っ込む。巨岩の隙間から、巻き込むようにして、そよ、と、微風が顔をかすめる。汗が引き、ほてっていた身体が、冷めていく。
「サッパリしたな~、よ~し、だらだら、行くか!」声をかけた。
「ふふ~ん、だらだらか、よっしゃー」手早く、身支度。巨岩を、慎重に回り込み、頂上へ。緩んだ山道は、茶色から、深い緑に変わった。頂きへの一面は、ハイマツだ。緑の中に、点々と、赤や紫、白、黄色の小花が覗く。半時間ほどで、羅臼岳山頂へ出た。
「しーぃ、ちょっと待て!」キスリングを捕まれた。振り向くと。
「あそこ、、、」腰を下ろして、相方が、指をさす。ハイマツの間に、雀が、違った、良く見ると、リスだ。
「あっ!、、、」ゆっくり、腰を落とした。ハイマツの間を、止まっては、動き、を繰り返している。時折、こちらを見ている(おまえら、誰や、ってな様子見か)。相方のカメラのシャッターオンにも、動じない。逆に、少しづつ、近づいて来た。
「おい、、、こっちきよるで~」1メートルくらいか、で止まり。こちらの、顔を、覚えようとするかのように、チョンと立ち上がり、キョトキョト、見比べている。納得したのか、踵を返して、ハイマツの海へ飛び込んで行った。
「おまえの顔、みとったど」相方が、笑顔で言う。
「あほいえ、おまえや~」顔を、見合わせ。
「そう言うことにしとこか~、ふふっ、、、」二人で、笑った。ハイマツに覆われた、山頂を横切り、下山を開始した。
「風向き変わったんちゃうか~」微風だが、かすかに、風が下から、上がってきている。
「そやな、よし、お前、先行せ~」下りは、相方を先に行かせた。登りとは、景色が全く異なった。下りは、取り付きから、雑木林だ。雲間を突き破って、歩を進める。人が滑った痕跡が幾つもあった。相方は、これを、見極めるのが上手い。彼の踏みしめた、足跡を確実に辿れば、何の心配もない。
「おい!、ポンチョ出せ」相方に、声をかけた。雲間を抜けると、小雨の場合が良くあるのだ。杣道は、直角に近く幾重にも折れ曲がっている。時間をかけているわりには、たいして、距離を稼いでいない。要するに、下っていないのだ。
「降ってきたな~」下から、小雨が吹き上げてくる。やがて、横殴りに。黄色いポンチョが、濡れて、顔に張り付く。
「あかん、小休止や」相方に声をかけ、雨をやり過ごすことに。真っ暗になってきた。雲間に入ったのだ。下山開始から、休まず、4時間近くが経った。キスリングが、堪えはじめた。両肩や足腰に、重みが。山道のカーブは緩んできている。麓が近いことは、経験で分る。と、薄暗い、樹海に、何かが光った。
「鹿やー!」相方も、気づいて。
「おう、かなり、でっかいな~」鹿の目が、こちらを見たのだ。闇が下から、迫ってきている。もう、半時間もすれば、日が落ちるのだ。小降りになった。相方を、促す。闇がどんどん、追いかけてくる。
「部隊旗やー」相方が。真下に、ランプの灯りが見え、オレンジに斜め十字の白線が入った、旗が浮かび上がっている(当時、岩尾別は、電気がなかった)。
「よーし、イチ、ハチ、マル、ロク(午後18時06分)、山越え行軍終了」腕時計を見て。
「ピーッ!、ピーッ!」相方が、合図の笛を吹いた。数個のランプに照らされた、旗の灯り付近に、数人が集まってきた。本隊の連中が笛の音で。古い木造の建屋の輪郭が。旧開拓農家の家を、そのまま使用している、岩尾別ユースホステルだ。そこから、飛び出してきたのだ。部隊旗を前にして、一列に並び始めた。
「お疲れさまでーす!」横一列の全員が、二人に敬礼。午後6時17分だった。羅臼から、16時間余りの山越え、行軍が終了した。