父さんは、足の短いミラネーゼ

地球を歩き続けて( 4 / 4 )

香港

香港

 

6週間のクラス

 

香港には何回か行ったが、やはりコンサルタント教育の集中クラスが行われた述べ6週間が一番印象的だった。

 

最初のクラスは12月の4週間。香港の一番良い時期だと聞いた。湿度が低いのだ。香港は日本よりかなり南だし、海に面しているから湿度がとても高い。僕は湿度が苦手だから、一番湿度が低い12月が大助かりだった。雨の降らないし、風もさわやか。そうかと言って寒くはない。

 

実は、このクラスの続きのコースが次の年の4月に同じ所で行われたが、雨季、しかもどしゃ降りの梅雨みたいな日々がほとんど2週間続いた。もう僕は気分が落ち込んでしまって、毎日毎日ホテルの窓を流れ落ちる滝のような雨を恨めしく見ていた。これに比べれば、この最初のコースの12月は本当にすばらしい時季だった。

 

だから動き回れたのは最初の12月だった。その頃は香港が中国への返還直前で、まだまだヨーロッパのにおいが街に満ち溢れていた。イギリス系のデパートも元気だったし、街には英語が満ち溢れていた。泊まったホテルがJWマリオットだったから、まったくの香港島の中心にいたことになる。MTRと呼ばれる地下鉄が日常の足になった。

 

クラスは香港、中国、韓国、マレーシア、シンガポール、フィリピン、日本、そしてアメリカ人とオーストラリア人が混じって面白い仲間が集まった。毎日密度の濃いスクールが続く。入れ替わり立ち代り世界中から現職のコンサルタントが自分の得意とする領域について実技演習を基本に教えてくれる。中身が本当に濃い。部屋はマリオットの中にとられていているから、朝から晩まで、どうかすると真夜中までになる。

 

そんななかで楽しみだったのは、朝の10時と午後3時のお茶の時間だった。もちろん飲み物はコーヒー、中国茶、紅茶とファウンテン・タイプでマリオットの給仕人がサービスしてくれる。そして必ず中国的な菓子と、洋風なちょっとしたケーキが出される。それも何種類か。それに一緒に出される果物が切れることはない。みんなはちょっとした物をつまみながら、濃い科目の内容について語ったり、講師のことを評価したり、昨日行った店のことを話したり、とにかくコースから開放されて全くのリラックスタイムに変えてくれた。

 

もちろんその他に昼食も出るから、とにかく良く食べることになる。だから自分の体重コントロールが大変な課題になった。もちろん贅沢な悩みではあるのだが、終日コンサルタントの勉強だから、つい気分転換に食べることに集中してしまう。食べたいものがあり、自由に食べられる。しかし、ある時にはその誘惑を排除しなくてはならない。これは大きなストレスでもあった。僕ばかりではなく、太っちょのアメリカ人などは本当に驚くくらい甘いもの好きだから、その自分との戦いは相当激しいものだったろうと思う。

 

食べものの話になってしまったが、このコースでとにかく一番「目から鱗」だったのは物を見るその視点の定め方だった。I社に入社して20何年間、常に自分の視点はハード、ソフト、サービスを含めてのサービス提供者として、お客を自分の正面に座らせて見ている形、つまりお客さまを「相手」としてしか見てこなかった。それは、対する相手、時には対決するものとして、お客さまを見ていたことになる。テーブルを挟んで、こちらサイドには自分の会社だとか、自分の組織だとか、はたまたこちらの利益だとか、自分の都合などがあって、向こう側にはお客サイドの同じようなものが並んでいるといった対峙した形が存在していた。こうした構図がいつのまにか当たり前で、常識としていささかも疑うことすらなく自分のなかに存在していたのだ。

 

しかしこの視点は強く排除されることになった。コンサルタントの視点は、お客と同じサイドに並んで座って、お客と同じ問題、課題を持って、それ以外の世界を眺める、もしくは其の課題と対峙する、という構図だった。すなわち、お客様の目で、見方で、サイドで物を見、そしてお客様の判断を深め正していくものだった。

 

だから、例えばコンピューターシステムを評価するとしたら、自分の会社、I社の製品をも厳正な評価対象に含まれるのだ。この視点の転換は本当に驚きだった。これこそコンサルタントとして、決して外してはならない、もっとも大切な視点で、いかにしても守るべき最低の原則だった。現実、このコースで出会った30、40人ものコンサルタントたちは、それを当然のこととして身に付ける身に付けていた。僕の学んだ最大の、最高に大切なことは、この一点だった。そしてこの視点以外では物事の判断はしてならないということだった。僕に与えた影響は強烈だった。

 

ラマ島への遠足

 

香港島の周りにはいっぱい小さな島がある。その一つがラマ島だ。セントラルから小さなフェリーに乗れば30、40分で着いてしまう、香港島の南の島だ。クラスのみんなで一日、遠足に出かけたことがある。車の走る道がないので、みんな歩きの静かな島だ。南部のフェリーの港から、北部もう一つのフェリーの出る港町の間が2時間ぐらいでゆっくり歩けるハイキング・コースになっている。途中に、ちゃんとした島の頂の山もあって、そこからの南シナ海、香港島、中国大陸の山なんかも見渡せてとてものんびりとしたコースだ。北の港の近くには、浜に日本の「海の家」のようなレストランがたくさん並んでいる。そこは安くて新鮮な海鮮料理を食べさせてくれる店だ。

北の港についたら、もう帰りはフェリーに乗るだけだから、みんなで気軽になって魚料理を食って、酒を飲んだ。クラスでああでもない、こうでもないとギャギャやっているときに生まれたちょっとしたわだかまりなんか、こんなふうに皆で一緒に酒を飲んで語っているとすっと融けていく。

 

シンガポールとかマレーシアとかフィリピンの人たちは23人ずつくらいで、クラスではちょっと淋しそうだったけれど、こんな遠足で、他の国の人たちとも仲良くなって本当のグループができていった。それにしても大きなイセエビの焼き物は、白ワインととてもいいマッチングだった。いろんな種類の魚介を堪能した。帰り、夕暮れのフェリーの甲板にみんなが集まって、いつか、みんなで歌える歌をみんなで歌っていた。けっこう、みんなが知っている歌があったのには驚いた。セントラルの夜景は波にゆれていた。

 

トンネルと列車

 

比較的軽い宿題の出たある週末、ふと思いついて中国との国境の深圳に行ってみることにした。MTRで九竜サイドのカオルーン・トンまで行って、そこから九広鉄道にのって40分ぐらいで香港サイドの最後の駅、羅湖に着いてしまう。途中はニューテリトリィと呼ばれる地域で、新しい香港がどんどん北に発展しているのが良くわかる。新しい高層アパートがドンドン建っている。その量は半端じゃない。すごいエネルギーを感じてしまう。深圳には簡単に入れると思っていたが、チャンとビザが必要で、一時間ぐらい待てばそこで日数限定のビザが出ると言う。ちょっと待つのはかったるくて、そこからまた香港に戻ることにした。途中の大きな新興住宅地の真ん中にあるファンリン駅に降りて周りをみてまわった。なんだか日本の新しいベッドタウンそのままで、若い人たちが高層アパートに、モダンな生活をはじめているのが感じられた。住みやすそうな現代的な団地風景だ。

 

帰りの電車でとんでもないことが起こった。僕たちが香港行きの電車をファンリンで待っていた時、そのホームを長い長い貨物列車が香港の九龍にむかってすごいスピードで通過していった。その瞬間、土埃のような粉っぽい埃がわっと舞い上がった。同時に強烈な臭い匂いがホームいっぱいにあふれた。良く見るとみんな有蓋貨車だけれど、ほとんどが単なる金網とか柵とかの側壁に囲まれた動物の運搬用の貨車だった。その貨車なかには豚、鶏、牛、ダックだとか色んな動物が詰め込まれていた。もちろん皆生きているまんまだ。そしてそれらの貨車からは、彼らの排泄物が垂れ流しになっている。しぶきとか固形物も飛んできそうな感じだ。まいった。電車を待っていたほかの乗客も顔をしかめて、でもどこか笑いがこぼれて、ウンザリした感じで通過を見守った。長い時間だった。

 

羅湖始発の僕たちの電車が来てやっと乗り込んだ。電車はかなりのスピードで九龍に向かって走っていく。田園風景が続く。皆どこかほっとした感じでゆったりと電車の振動に身を任せていた。と、突然僕たちの悲劇が始まった。電車がちょっと暗闇に入ったなと思ったら強烈な臭気が僕達の客車を満たした。あの耐えがたい匂いだった。僕たちの電車は九龍に入るため、45分間もの間長いトンネルの中に入ったのだ。そして、僕達の直前を、あの家禽列車がトンネルの中にたっぷりとその強烈な臭気と埃とを振り撤き、残して疾走しているのだ。もう逃げることはできない。耐えるしかない。窓は閉まっていてもちゃんと猛烈な匂いは入り込んでくる。本当に長いトンネルだった。

 

後で香港のクラスメートに聞いてみると、香港は全ての食料を中国本土に頼っていて、食肉という食肉は生きたまま、ああして毎日毎日運ばれてくるのだそうだ。その大切な食料列車に運悪くお付き合いしたというわけだ。でもあの長い貨車たちに乗っていた生き物たちが、ひとつ残らず香港の胃袋のなかに納まってしまうというのは一つの感嘆でもあった。僕は夕闇のせまる、まだ残り香がかすかにするカオルーン・トン駅で早々と地下鉄に乗り換えた。悪い残り香が染み付いてはいないだろうかと気遣いながら。

 

ぼけーっとマカオ

 

缶詰教育で煮詰まってくると、みんないろいろな方法で自分を解放することになる。何しろ、実際のコンサルタントが、本当のケースで出遭った問題を題材に、自分達でコンサルタントのやるプロセスを実行する。勿論チューターがついてだ。時には2、3日で150ページもある、ペンギンブックを読んでしまうなんて宿題が出る。読むことが目的ではなく、そこに書いてある方法とか、考え方を理解して、出された宿題を解くというようなケースが何回かあった。まいってしまう。いくらがんばっても1ページ5分としても、150ページを理解するには12時間もかかってしまう。ネイティブの連中にはかなわない。しかし香港の人やシンガポール、マレーシア、フィリッピンの連中にとって英語はそんなに苦ではないのだ。苦労していたのは韓国人と僕たち日本人だ。韓国の連中に言わせると、教育については、日本の悪いところをそのまま韓国は取り入れてしまったとか。受験勉強中心で、英語は読み、書き、文法中心で話せない。読むのだってそんな長文は苦手だとか。僕と同じ。

 

そんな日々が一段落した時、一日マカオに一人で出かけた。ジェットフォイルに乗って香港から一時間。南シナ海を珠江の河口を横切っていく。河口に近づくと水の色が黒っぽく変わってくる。そしてどこか生臭いにおいが湧き上がってくる。波しぶきの間に中国民衆の生活の息吹が感じられる。

 

マカオはきれいな町と、とてつもなく汚い町の混在だ。フェリー乗り場から島を一周するバスに乗ってみた。めちゃめちゃに汚い中国風の町並みが続く西側、きれいな南側とはっきり分かれている。一周してから、あらためて港から歩き始めた。島の中央部にポルトガル領時代のモニュメントがたくさん残っている。島の最高峰の砦や砲台を見て、下ったり上ったりの道が続く。とにかくゆっくりだが良く歩いた。

 

疲れ果てて、2時過ぎに島の南の端に近い所に偶然見つけた、ポウサダ・リッツという、こぢんまりとしたホテルのテラスに座っていた。疲れて座り込んだというのがあたりかもしれない。しかしいい眺めだった。前は南シナ海。ちょっと先にマカオとタイパ島を結ぶ、海上に架かる長い橋が見える。僕は冷菜とシャブリをとって、ゆっくりと時間を過ごした。動きたくなかった。中国人とポルトガル人のミックスと思われる美しいウエイトレスはよく訓練されていて、必要以上には干渉しなかった。僕の後ろの方では、団体客らしいざわめきがあったが、僕の周りは静寂だった。一本では飲み足りなくて、グラスでワインを何杯か追加した。明るい光はゆっくり夕闇に近づいていった。素晴らしい一日だった。

 

雨のスタンレー

 

残念ながら雨季の最中だった4月コースの香港にはあまりいい思い出はない。

土砂降りの雨が、ホテルの窓をつたって豪快に流れて落ちていく。出かけるとすれば雨の降らないショッピング・モールということになる。ホテルのすぐ側に新しいモールがあって、パシフィック・プレースといった。何でも揃っていて、それはそれなりに楽しい。ちょっとセントラルまで足を伸ばしてもいい。

 

休みの日にセントラルに出ると、雨の日でも若い女の子たちが何百人もたむろしているのに出くわした。みんなちょっと白っぽい服を着て、4、5人でいつまでの親しそうに話している。最初はびっくりした。何をやっているのだろうかと不思議だった。天気の日は、公園の芝生に敷物をしいて座り込んで食事をしたり、本を読んだりしているのだ。後で分かったことは、彼女たちはフィリピン出身のお手伝いさんたちで、休日には同郷の仲間たちと会って、自分たちの自由な時間を楽しんでいるんだそうだ。香港はやっぱり国際都市だなって感心してしまう。

 

そんな4月のちょっとした雨の合間にスタンレーに出かけた。香港の友人からちょっと変わった雰囲気のところだと聞いていた。セントラルからバスに乗って、香港島を斜めに横断していく。競馬場をのぼり、そして下っていく。バスを降りるともうそこからは歩きだ。メインの通りは細くて色んな店が連なっている。そんな通りを外れると、目の前は南シナ海だ。ちっちゃなレストランやカフェがあって、やすくて美味いものを食わせてくれる。薄ぼんやりした雨間の海岸を眺めながら、ぼんやりするのもいい気分だ。海風はけっこう湿気を含んでいて、寒く感じた。僕は、テラスから部屋のなかに席を替えてもらった。

 

スタンレーは、もともとイギリス人たちが香港から離れて、別荘のような小屋を持ったところだと聞いた。たしかにサムサッチョイやセントラルとか、ワンチャイの雰囲気とは全く違った空気がある。そう、あの喧騒がないのだ。静かな入り江と岬の町だ。お買い得の買い物は路地に続くマーケットだ。色んなものを売っている。僕は、その頃流行りだした、ウォッシャブル・シルクのシャツを何枚か買い込んだ。コースは終わりに近づいていた。日本へのお土産だった。もうこんなところに二度と来ることはないなと思った。帰りのバスの時間をみて、僕は登り始めた。

あとがき( 1 / 1 )

あとがき

あとがき

 

文芸社編集部の人に、「あとがき」を書くのは読者への親切だと教えられました。

 

確かにここまで読んできていただいて、後は筆者紹介で「おしまい」ではちょっと失礼だと思います。そこで、なぜ僕がこの文章を書き始めたのかについて話してみたいと思います。

 

その始まりは、遠い昔、縁あってIBMに入り、そしてイタリア、ミラノの街に住むことになった幸運と、このミラノが、その後僕の心の中で第2の故郷になっていったことにあると思います。

 

若かった僕が、ミラノで生活し、仕事をし、人に出会い、喜び、憤慨し、びっくりし、困り、助けられ、新しい発見をし、友達を作り、住み着いていったことに始まりはあると思うのです。さらに、その後も他のヨーロッパとか、アメリカや、オーストラリア等に滞在し、そこで現地の人たちといっしょに働き、時間を共有することによって、さらに素晴らしい体験と感動を発見しつづけることができました。

 

こうした間に僕の記憶に残ってふくらんできた感覚は、そこを単に通り過ぎるだけの通行人、もしくは旅人の視点とは違った、そこに住む人達の生活を、そばから感動しながら、見ている自分の視点によるものだと気がついたのです。

 

そして、こうした国、その土地の人々、生活、仕事への取り組みかた、物の考え方などに対して、僕が感動を含めて、自然に溜め込んできたものだと思ったのです。

 

そして、それを他の人たちに伝えたかったのです。とりわけ、これから可能性がいっぱいの若い人たちに対して話たかったのです。

 

勿論、僕自身にとっての意味は、一人旅の基本的な問題からの開放です。一人旅では、何かに遭遇し、感動しても、それをすぐそこで、他の人に伝えられない、他の人と共有できないという、大変なもどかしさがあります。こんな風につもり積もったもどかしさを、僕はこのエッセイたちに託したのだともいえます。

 

もう一つ最近発見したことがありました。巣立っていった僕の息子と娘に、僕が外国で感じたこと、見たことなど、いろいろなことをいっぱい、いっぱい話してきたつもりだったのですが、実はそれはやはり「つもり」で、本当はまったく話していないことに気がついたのです。

今となっては、僕の頭の中に残る記憶を紙の上にダンプして、彼らが読める形にしてあげるしかないのです。

 

今年の秋、楽しみにしていた中部イタリアの田舎を一ヶ月ほど、ゆっくり歩いてきました。日本の明治維新の頃にやっと統一されたイタリアですが、最後の最後まで統一に反対していたのが、このウンブリアとかトスカーナ地方です。そこには、独立都市国家、コミューネだった誇り高い町や村が、そのながい歴史を誇り、独自の伝統の香りを今もその日常生活に色濃く残していました。一つ一つが輝きながら…。

 

その帰りにミラノで、僕は昔住んでいたアパートを33年ぶりに訪ねてみました。そのアパートは僕の記憶とおりに、昔のまんまのたたずまいで、手入れも十分されてちゃんとそこに存在していました。ミラネーゼの生活の仕方は、やはり今も変わることなく生き続けていました。

 

僕のエッセイ、お読みいただいてありがとうございました。

 

2002年11月、秋

 

電子版のあとがき

 

 2002年に発行された、紙の本が完売になりました。出版社は重版の意図はないようで、このままでは客観的な「物」としては存在しなくなります。残念なので、電子版で残すことを決めました。どうぞ、よろしくお願いします。

著者プロフィール( 1 / 1 )

著者プロフィール


著者プロフィール

 

徳山てつんど(德山徹人)

          

1942年1月1日 東京、谷中生まれ

1961年 大阪市立大学中退

1966年 法政大学卒業

1966年 日本IBM入社

 

  システム・アナリスト、ソフト開発担当、コンサルタントとして働く

  この間、ミラノ駐在員、アメリカとの共同プロジェクト参画を経験

      海外でのマネジメント研修、コンサルタント研修を受ける

 

1996年 日本IBM退社

 

1997年 パーソナリティ・カウンセリングおよびコンサルティングの

   ペルコム・スタディオ(Per/Com Studio)開設

 

EMailtetsundojp@yahoo.co.jp

HP: http://tetsundojp.wix.com/world-of-tetsundo

 

著書

 

Book1:「父さんは、足の短いミラネーゼ」 http://forkn.jp/book/1912/

Book2:「大学時代を思ってみれば…」    http://forkn.jp/book/1983/

Book3:「親父から僕へ、そして君たちへ」 http://forkn.jp/book/2064/

Book4:「女性たちの足跡」          http://forkn.jp/book/2586/

Book5:M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その1」                                   

                         http://forkn.jp/book/4291

Book6:M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その2」

                                                          http://forkn.jp/book/4496

Book7:「ミラノ 里帰り」                        

                         http://forkn.jp/book/7278

 

              

         

 


                                                                                                                                                                    

 単行本の紹介「父さんは足の短いミラネーゼ」

 

2003215日 初版発行 文芸社 

ISBN4-8355-5108-7 C0095

 

 

イラストレーター  丸山 薫

デザイナー     片岡 美喜子

 

 

 

 

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
父さんは、足の短いミラネーゼ
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