父さんは、足の短いミラネーゼ

アメリカでの遭遇( 7 / 8 )

アメリカ西海岸

アメリカ西海岸

 

ルート101

 

僕は東海岸でルート001をフロリダで走ったことがあるが、西海岸で偶然ルート101を何回か走ったことがある。百番違いのルートナンバーだ。車を走らせているとアメリカ東海岸や中、南部と比べ西海岸はどんどん日本に近づいているのを実感させられる。ルート101を走っていると、東に比べて車の多さ、混雑度合い、運転の仕方や周りの風景がどんどん、東京っぽく変わってくる。

 

ああ、もう東京に近づいたんだなあって感じる。東の方で高速道路を走っていても、ゆったりとして、あまり緊張感あふれる運転にはならない。しかしカリフォルニアは違う。例えば車間間隔はもう本当に短い。後ろからどんどん詰めてくる。前の車との距離を確保するのは大変難しい。運転マナーがひどい奴がいっぱい出てくる。割り込み、急ブレーキ、ウインカーなしの車線変更、何でもありだ。道路の周りに立つ看板たちも量も多くなるし、けばけばしくなってくる。周りの家たちも高速に沿ってずっと立込んでくる。カリフォルニアでの運転は、東京での運転への自然な準備のかもしれないと思う。サンフランシスコ、サンノゼ、モントレー、カーメルなんかが僕が車で走ったところだが、西海岸の一番のメインだからかもしれない。

 

勿論、一番運転しにくいのは、サンフランシスコ市内には違いない。ケーブルカーが最優先で、信号も常識では考えられない変わり方をする。坂の途中に交差点の水平な踊り場みたいな場所があって、前後の急坂の見通しがあまり利かないところがある。最初に車を借りたのはダウンタウンだったから、高速に乗るまでは本当にひやひやだった。

 

サンフランシスコ

 

カリフォルニアというと、やっぱりサンフランシスコがすぐ頭に浮かんでくる。サンフランシスコには何度も行った。アメリカ東海岸、南部、北部への出張の時の行き帰りの途中泊に、もっぱらサンフランシスコを好んで選んだからだ。

 

前にも話したと思うけれど、ヨーロッパでの生活の体験、印象とそれによって影響されたぼくの価値観は、なかなかアメリカの世界を、そのまま楽しい素晴らしいものとして受け入れることを難しくした。アメリカと聞いても、あまり心が沸き立ってこないのだ。だからアメリカ出張の必要性が出てきたら、僕は積極的にできるだけ部下に譲ったものだ、部下には迷惑だったかもしれないが。そんなわけで、今だから言えるが、ヨーロッパへの出張はもちろんがんばってチャンスを必ず活かしたものだ。ひどい時なんかは、2週間のアメリカ出張に続いて、1週間日本にいて、すぐ3週間のヨーロッパ出張なんかを時差ぼけの連続にも負けずにやったものだ。

アメリカを、そんなに楽しみにしなかったのには訳がある。アメリカでは車が必需品。逆にいえば、人が安心してゆっくりと歩ける場所が少ないということになる。どこかのショッピング・モールの中なんかは別にして。だが、そんなアメリカの都会のなかで、このサンフランシスコは人が自分のペースで歩いてどこにでも行ける数少ない場所だ。人が歩いてどこにでも安心して行けるというのは、人とって生活の本当の基本だと思う、車に頼らずに。

 

もちろんニューヨークもダウンタウンは人が歩いて行動できるけど、でもどこか危険な感じがして、なんとなく安心感がない。いつのまにか、目的の場所に向かってどんどん歩いて行っていると言う感じになってしまう。ゆったりと自分のペースで歩き回れるという感じにはならない。そこにいくと、サンフランシスコではケーブルカーは気楽に使えるし、何処で降りても迷子になる心配はない。方向感覚も得やすいし、おっかない人にもあまり出っくわす感じはない。ほんとうは怖いところはあるのだろうが。サンフランシスコは、ホテルから歩いてどこにでも出かけられる気楽さがあって、とても良い。市内ももちろんだが、バートに乗ればオークランドも、バークレイやもっと東のラッファィエットもラクチンで歩いていける。

 

UCバークレイに一日遊びに出かけた。アメリカの大学のキャンパスの雰囲気を味わいたくて。このキャンパスのゆったりとした感じは、僕の知っている日本の大学にはない。慶応の三田にしても、本郷の東大のキャンパスにしても、やはりちょっとせせこましい感じだ。それにしてもアメリカ人の母校の大学に対する個人的貢献はすごいと感じる。ちょっと金ができると、図書館だとか、ホールだとか、タワーだとかを寄付して、大学の施設をどんどん立派なものにしていっているのだ。社会的な貢献をすることが、立派になることが出来た人の当然の行為だと、彼らが考えているのが良くわかる。

 

ゆったりと寝転んで、スタディアムの観客席でフットボールの練習を見ていたり、大学生協の売店を冷やかしたり、ゆっくりした時間を楽しんだ。バークレイのメイン・ストリートをぶらついて、安い食事に出会って満足、満足の一日。こんなことも車なしでのゆっくりした時間だ。

 

モントレーとカーメル

 

モントレー半島を訪ねることにしたのは、その近くのビッグサーにある、エサレンに滞在したことのある先輩に奨められたからだ。ルート101を3時間ばかり走ってサーリナスで高速を外れると、遠くに低い山の半島が見えてくる。

 

モントレーでは一方通行に本当に苦しめられた。町に入ると、行きたい所に行けずに、いつのまにか町の外に出てしまう。ダウンタウンのホテルを探して、かなり頭にきた。勿論海岸線を走っている分には全く快適なのだが。

太平洋に面した美しい海岸線だ。気分を変えてプラザホテルでランチを取る。優雅なサービスを受けながら、足元を洗う波の音を楽しみながら西海岸の空気を吸う。心がゆったりしてくる。

 

気がつくといろんなところに車をとめて、カメラを構えている自分に呆れてしまう。それほど、この太平洋に面した海岸線に沿って、ちっちゃな個性的な家がずっとずっと続いているのだ。むかし「いそしぎ」と言う映画で、太平洋に沈む夕日を無言で見ていたシーンがあったのを覚えているが、そんな映画に出てくる小さな家を髣髴とさせるかわいい家たちが、きれいに並んでいる。そんな家、小屋が色とりどりに僕のカメラを誘ってくる。

 

17マイル・ドライブに入ると、そこは本当に美しいグリーンの連続だ。ぺブルビーチやサイプレス等の有名なゴルフコースが美しい海岸線に現れてくる。本当にゴルフって贅沢なスポーツなんだな、と思ってしまう。すぐ側の岩場には、アザラシやラッコが、有名なジャイアント・ケルプの森に群がる魚たちをあてに、のんびり暮らしている。これはちょっと日本にはない世界だなと思う。でもそんな時に、ちょっと誰かが一緒だったらいいなと思う。そうしたらこんな感動を共有できるのになあと思ってしまう。そして一番つまらないのは、食事のときだ。一人だといい席は取れないし、いくら美味くても、あまりゆっくりできなくて、ほっとした食事にならないことが多い。海外ではどちらかと言うと、一人ぼっちで旅をしているのはちょっと変に見られるようだ。

 

カーメルは想像どおりのかわいい町だった。ここもゆったりと人が歩いて行動できる。雰囲気のある良い町だ。車を投げ出して、ゆっくり、気の向くままに店を冷やかしながら浜まで歩いていって、そして帰ってくる。カーメル・プラザで食事をしていたら、なんだか淋しくなってきて、もう2泊しようと思っていたのに、次の朝、がんばってルート101を飛ばしてサンフランシスコに帰ってきてしまった。エサレンの風景もみないで。

アメリカでの遭遇( 8 / 8 )

タホ湖

タホ湖

 

ミュリエル・ジェイムス博士のワークショップが開かれたのは、カルフォルニア州とネバダ州にまたがるタホ湖の夏だった。ミュリエルはその頃、毎年夏の間、このタホ湖でいくつかのワークショップを開いていた。一つのワークショップは基本的に週末を含んで一週間で構成されている。僕はそこで3週間過ごした。ミュリエルはTA(交流分析)の生みの親である、エリック・バーン博士の数少ない直弟子の一人で、世界的に知られた心理分析学者であり、TAの推進者だ。日本にも度々来て、講演やワークショップなどを開いている、明るい、人懐っこいおばあちゃん先生だ。

 

その夏のワークショップには、世界中から20人程が集まった。ミュリエルの指導を受けてTA(交流分析)をより深く体験するとか、今持っている問題から、精神的な健康を回復する目的とかで集まっていた。それは夕日に染まったタホ湖畔のバーベキュー・パーティ-で始まった。ミュリエルの最愛のご主人であるアーニィが準備してくれたバーベキューのためのいろんな食材と、火を作る道具達とビールが、私たちを浜で待っていた。そこに集まった人たちは人種はおろか、性、国籍、言葉、宗教、年齢、金持ちとか貧乏とか、職業、肌の色、などなどの属性のまったく違ういろんな人たちだった。僕の参加したワークショップには、アメリカ人、メキシコ人、スペイン人、ニュージーランド人、オーストラリア人、日本人、フランス人などが参加していて、本当に国際的なグループだった。夕日が落ちかかるタホの水辺が暗くなって、炎が明るさを増してその夜はふけていった。

 

ワークショップは、タホ湖の水辺にある林の中のコンドミニアムで行われた。すべの活動は、そんなコンドウでの疑似家族の縁組で始まる。ミュリエルがいろんなことを配慮して作る。全部で5家族が出来上がった。僕のところは5名の家族。日本からの肝っ玉母さん(有名な病院の女性の精神科医)、やんちゃな末っ子は若い日本人、分からず屋の長男はスペイン人、悩みの多いネブラスカのジュディ、そして僕。このグループで、最低1週間、24時間、4LDKのコンドウで、一緒に寝泊まりする、食事を作る、買い物に出掛ける、遊ぶ、話す。こんな環境だから必然的に仲良くなってしまうし、隠し切れずに裸の自分が出る。そしていつのまにか家庭に似た家族の役割ができてしまう。例えば僕はさしずめ親父役とか…

 

午前と午後の合わせて6時間は、ミュリエル指導のワークショップが一つのコンドウに全員が集まって開かれる。TAはグループ・ワークが基本。TAは自分自身を良く知る為に、自分のやった行動、発言を、他の人がどのように受けとったのかを、率直に、しかし、肯定的な表現でフィードバックしてもらう。人は自分の行動については、なかなか自分自身で正確に知ることはできないからだ。

 

集まった人達の中には、他人との関わりの中でうまく行動できなくて、悩んだり、自分を否定したり、逆に他人を否定して問題を起こしている人などがいる。一方、長い間セラピストとして他人を助けることに専念していて、逆に自分自身が疲れてしまったお医者さんもいた。もちろんTAを勉強するために集まった人もいる。ミュリエル研究者でTA研究者である早稲田のF教授も一緒だった。いろんなモーチベーションを持って集まった人たちだった。

 

基本的にTAは、人のパーソナリティイは3つの要素でできていると考える。1つは「親」からの要素。2つ目は「理性的な、理論的」要素。そして3つ目は、「子供」の要素だ。これらの三つの要素が時と条件によって変化して現れてくる。ストレスを受けたり、自己否定などを受けたりすると、歪んだ行動を現わす。そして対人関係を悪くする。

 

ミュリエルのスーパー・バイズのもとで、TAの理論の理解と、そのサンプルとして、参加者の具体的な行動を分析することで、自分自身を深く知ることができてくる。そうして、最終的に自分自身で自分の問題や行動を自律的に解決していく。僕の場合は、とにかく自立心が強くて、ほかの人に「頼らない、甘えない」が強く出てしまって、人との間に垣根を作ってしまう傾向があった。ミュリエルのグループ・ワークに参加して、他人にたいして率直になって、自分の弱みも含めて、自分をそのまま開示することができるようになった。また時には他人に甘えてもいいんだよ、との許しを得た。これで本当に、他人との間でリラックスした関係ができる。大変な発見だった。

 

フィールドでのワークもすばらしい体験だった。シェラネバダ山脈の山奥に入り込んで、自分の深いところに存在する、自分の気づかない感情や問題の存在を発見するワークだった。深い森の中に、皆が一人一人ばらばらになって散っていく。自分一人になって、他の人は妨げない。頭の中は何も考えないで、空白な心の状況を作り出す。他の人にはできるだけ会わないようにして、森の中で一人ぼっちになって、体と心を一時間以上空っぽにする。無意識の感覚にしておくのだ。風が林の中を通り過ぎていく。2000メーターを越す高い峰が、空を区切っている。小川を渡る。

 

自分の感覚が真っ白いキャンバスになるのを気長に待つ。そして十分に空っぽになったら、今度は急に自分の感覚を積極的に、意識的に外の世界に向ける。そして何が自分に飛び込んでくるのかを見定めるために、目を見開いて鋭敏になる。そんな感覚で歩いていると、あるものが僕の感覚に飛び込んでくる。「僕はここにいるよ!」って無言で叫んでいる。それこそが自分の心を大きく占めているものなのだ。それは大きな木の切り株で、森のちょっとした空き地の真中に存在していた。そして、それは僕が長い間、面倒をみていなかった飼い犬のアンナの姿だった。それは優しさだった。優しい気持ちを僕に起こさせてくれるのに十分だった。自分も十分に甘えられる優しい生き物だった。自分を開放して、弱さも、甘えもそのままにだせる自由な、そして自分をゆだねられる関係の象徴だった。純粋無垢なパートナーだった。「なんだ、僕は本当に優しいものを求めているのだ、飢えているのだ」と気がついた。

 

このフィールド・ワークの感想を僕とシェアし合った看護婦さんの場合、見つけたのは、日本のそれとは違って、とても巨大なアメリカの松ぼっくりだった。そして松ぼっくりを形作っている一つ一つの片の先をよく見てみると、そこには鋭い針が1本ずつ、生えていたのだ。彼女は看護婦としての自分の仕事をうまくやっていけなくなっていて、自信を失って、このワークショップに参加していた。なんとか自分の持っている問題の本質を見つけようとしていたのだ。彼女が発見したのは、自分の心の中に存在している他に対する「厳しさ、思いやり不足」の状態の自分を発見したのだ。ナースになった時、最初に持っていた優しさが何時の間にか荒んでいってしまって、患者さんに対して優しさを失ってしまっていた自分に気がついたのだ。女としてはイカツイ感じの彼女の厳しい感じの目に、その時涙が浮かんでいるのを見た。その日以後、ちょっと優しい顔を見せるようになっていた。

 

フィールド・ワークのなかで一番印象的だったのはプーリングだった。「人を信頼することができない人は、他人を当てしないから、他人の助けを決して受け入れられない」という、体験学習だった。プーリングはネバダ砂漠の中、カールトンシティの温泉プールで行われた。このワークは、基本的は人々が昔々母の子宮の羊水の中で、すべてから守られて、たゆたっていた幸せな感覚を追体験して、自分を完全に開放することができることを確認するのが目的だった。2人1組で、自分は上向きでプールにとにかく何もしないで浮く。もう一人が支えたり安心させたりして、浮いてもらう努力をする。2人の間に信頼感があって、力を抜いて任せきりになれれば、自然と浮く。しかし心理的に信頼感の持てない相手だと、体のどこかに力が入って、バランスを崩して沈んでしまう。僕の相手のスペイン人は何回やっても沈んでしまった。僕はイグナチオに「僕を信頼してくれないのは淋しいな」と言った。彼は無心になった、その瞬間、彼は静かにプールに一人で浮かんでいた。感激だった。それから2人はもっと仲良くなった。そして自由に振る舞えた。

 

自分に対しての自然体、本来的な自分を開示することができれば、自分も自由だし対人関係も円滑。そしてお互いに、率直でポジティブなフィードバックができれば、より良い友人になれる。このワークショップでそんな体験をすることができた。この体験は、その後の僕の生活にとって非常に根本的な影響を与える本物だった。その後の、僕の生活の仕方ががらりと変わったのだ。

地球を歩き続けて( 2 / 4 )

ブラッセル近郊、ラ・フルプ

ブラッセル近郊、ラ・フルプ

 

べルギーの首都ブラッセルの南、ラ・フルプという小さな村に、I社のヨーロッパ教育センターがある。古戦場のワーテルローの近く、森に囲まれた広いサイトだ。

周りにはないも無い。田園と森がどこまでも続くベルギーの田舎だ。

 

ここにお客様を対象としたマネジメント教育や、コンピューター技術者教育が行われる施設がある。何日も滞在していただくわけだから、ホテル顔負けの宿泊施設、レストラン、バー、体を動かすジムやプール、広い森の中の夜も使える散歩道やジョギングの小道、バレーやバスケットコートなどもそろっている。

 

もう一つすばらしい施設がある。それは二24時間オープンの図書館だ。もちろんコンピューターも使い放題。このサイトはお客様用の教育施設ではあるが、同時にI社の技術専門教育にも使われる。一番長いのは3ヵ月にわたるSEグループの合宿教育課程だろう。だから24時間勉強できて、しかもグループで検討会が開ける場所が必要なのだ。

 

幸せにも、僕は3回ほどここで専門教育を受けた事がある。僕の一番長い滞在はは3週間のコースだった。ここはブラッセル市内まで、車で30分弱の場所で、シャトルバスがブラッセルとの間にサービスされている。だからクラスが終わってから、夕方ブラッセル市内まで出かけることができる。最終バスはブラッセル中央駅の側から11時半発だから、けっこう夜のブラッセルも楽しむのは簡単だ。

 

グラン・プラスを中心とする旧市街は、とても居心地のいい場所だ。正面に向かって右側の建物、端っこの店はお気に入りの気持良いところ。軽く食事もできるが、ビールやアペリティ-フを飲みながら街を眺めていると、いつのまにかどんどん時間がたっていく。4月に行ったときなんかは、暖炉に火が燃えていてとても気持がいい。もちろん天気のいい日には、テラスに出て広場を眺めながらの時間となる。

 

ブラッセルと言えば、レースやチョコレートなんかが有名だ。しかし、ベルギーはあまり知られていないようだけれど、実は新鮮な海産物の豊かな国でもある。ちょっとグラン・プラスを離れて歩くと、そこには新鮮な魚介類のレストランがいっぱい並んでいる。牡蠣だとか、ちょっと下茹でした蟹、海老なんかも氷を敷いた大皿に乗って出てくる。しかも決して高くはない。店お勧めのバターベースのソースとか、マヨネーズソースもいいのだけれど、やはり僕にとってはレモンと塩が最高だ。冷たい白ワインと相性がよく、けっこうな量を食べている。夕方には各店が思い思いのデコレーションで客を招く。きれいで目移りする。

 

その道を有名な小便小僧の立つ路地の方へ歩いて行くと、すぐにムール貝で有名な店が現れる。ここでは大げさではなく、本当に洗面器ぐらいの大きさの鍋にいっぱい、ムール貝がワイン蒸になって香り高い大蒜ベースのソースに浸かって出てくる。そうなると、キリキリに冷えた白ワインの出番となる。一人で食べ切れるかなと心配する暇もなく、どんどん入っていって、いつのまにか鍋は空っぽになっている。付け合せの焼いた硬いパンも素晴らしい脇役だ。

 

ブラッセルにはたくさん、昔からのショッピングモールがある。全て屋根に囲まれた34階建ての空間が現れる。喧騒はなく、人々がゆっくりウインドウを眺めて、品定めしたり、買い物をしたり、ゆっくりとした時間がある。

 

2週間以上の滞在になると、なんとか宿題を早く片をつけて、週末によく出かけたものだ。ラ・フルプで知り合った若い友達たちと、ゲントやブルージュの町を訪ねたりした。でも彼らと濃い時間を過ごしたのは研修センターの中だった。一緒に飯を食ったり、課題で議論したり、はたまた一緒にビールを飲んだりだ。

 

ラ・フルプのレストランに隣接したバーでは、ウイスキーとかスピリッツのような強いお酒は置いていないが、ビールとかワインとかはサービスしていた。ここで僕の最大の発見はベルギー・ビールとの出会いだった。フランスにしても、イタリア、スペインにしても、これらラテンの国のビールは、ドイツやイギリスのビールと飲み比べてみると、どこか薄く、甘く、軽く感じて、僕はけっして手を出そうとはしなかった。

 

ところが、イギリスからきた友達に奨められて発見したのが「シーメイ」と言うベルギー・ビールだった。濃い色で、しかも香りが高い濃厚なビールだった。しかもそれを注ぐグラスは独特の形をしていて「シーメイ」の名前が入ったものだった。ビールは酸化や香りが飛ぶのを嫌って、縦長のずん胴のグラスで出されるのが普通だ。しかしこのグラスは、大きなシャンパングラスのような、口が大きく広がった美しい形をしたビアグラスだった。赤みを帯びた濃いビール色の液体を注ぐと、白い泡が広い口に厚く作られて、ビールを守ってくれる。ベルベットのような滑らかな濃い液体をするりするりと流し込む。素晴らしかった。

 

驚いたことにこのビールを造っているのは、修道院の尼さんたちだということだ。僕のビールについての概念を変えるものだった。こうして夜の更けるまで「シーメイ」の魅力に惹かれていた、僕と友達たちが記憶に立ち返ってくる。

 

実は日本に帰って「シーメイ」を探してみた。そして見つけた。ちゃんと赤と白とブルーがあった。僕の特別な時の、特別な人への贈り物として珍重させてもらっている、はるかなベルギーを懐かしみながら。
徳山てつんど
作家:徳山てつんど
父さんは、足の短いミラネーゼ
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