算命学余話 #G87

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算命学余話 #G87 (page 1)

 霊長類学者の山極寿一氏は、ゴリラの生態観察を極めた結果、「ゴリラは平和を好む動物であること」が判ったそうです。しかし百年程前に西洋人が初めて野生のゴリラに遭遇した時、ゴリラがドラミング(胸を太鼓のように連打する行為)するのを見て、勝手に「我々を威嚇している。奴らは好戦的で凶暴だ」という印象を受け、その印象を西洋に持ち帰って広めたために、「ゴリラは好戦的で危険な生物である」という評価がその後ずっと続くことになりました。ゴリラが他のオスと闘う時だけに使う大きな牙を備えていることも、これに拍車をかけたようです。
 更にこの評価を助長したのが映画『キングコング』で、この映画を観た人間の脳裏には、ゴリラ状の生き物は暴力的だという図式が刷り込まれ、「ゴリラは悪だから見たら即座に殺して良い」という価値基準が西洋人の世に定着したのです。そのため、野生のゴリラは人間による殺戮で生息数を著しく減らす憂き目に遭い、現在は絶滅危惧種となっています。

 しかし実際のドラミングは、遠くにいる仲間にこちらの意図を伝える言語の一種であり、大きな音を連続して立てることに意義があるのであって、目の前にいる相手を威嚇するための行為ではありませんでした。このことはゴリラを観察している研究者ならすぐに判ります。
 よく知りもしない素人や、ただ臆病なだけで知恵の足りない人間が、勝手な思い込みで相手を悪だと決めつけ迫害してきた人類の歴史の、これはほんの一例です。人類はゴリラのみならず、同じ人類の別の集団や種族に対してもこういうことをやる傾向があります。いや、もっと厳密に言うなら、全人類がそうなのではなく、西洋人がそうなのではないかと、私は常々疑っています。(山極先生はそうは言っておりませんが。)

 もう一つ類似の件を挙げましょう。ゴリラはアフリカの生物ですが、今度はピラニアです。ピラニアは南米のアマゾン川に棲息する「狂暴な」魚です。誤って人間が川に落ちたらたちまち数百匹のピラニアに食いつかれて、あっという間に骨にされてしまう、というのがピラニア像の定番です。
 しかし淡水魚の専門家は、ピラニアは大層「臆病で寂しがり屋」な魚なのだと言います。実験によれば、ピラニアは普段群れで暮らしているため、群れから切り離して単体にすると途端に元気を失い、不安なのでしょう、岩場の隅っこに隠れるように身を潜め、他の魚に気付かれないようじっとして過ごすことが判りました。その顔色は「青ざめて」いて、明らかにストレスを感じている。そして群れに帰してやると、元気に泳ぎ出す。実際のピラニアは狂暴どころか、寂しがり屋でビビリな魚だったのです。

 ではなぜ私たちはピラニアを、エサを見れば飛び掛かって来る獰猛な危険生物だと勘違いしていたのでしょう。原因はまたしても西洋人です。まだピラニアを見たことのない西洋人がアマゾンに踏み入った時、土地の首長が彼らを歓待するためにピラニア・ショーを思いついた。それは捕獲したピラニアの群れを生け簀に閉じ込めて何日もエサをやらず、飢えたところで死んだ牛を投げ込んで瞬時に食わせるというものでした。ショーのためのセットが常備されていたのだから、原住民にとっては定番のエンタメだったのでしょうが(悪趣味だなあ)、そんな事情は知らない西洋人はこの光景に仰天し、ピラニアを問答無用の危険生物だと記憶して西洋社会に広めたというのが真相のようです。かわいそうに、ピラニアだって飢えていなければ獲物に殺到したりしなかっただろうに、人間のやる事ときたら。生け簀に囚われている時点で、既に弱さを露呈していることが判らないのでしょうか。
 アマゾンの首長の歓待手法にも問題はありますが、騙された西洋人もよほど短絡的だし、僅かな情報だけで相手を悪者扱いする思考パターンが顕著です。ゴリラの時と同じです。彼らは一神教徒ですから、自分の属する世界が善であるなら、それ以外の世界は悪である、という思考パターンから逃れられない。だからこういう識別の仕方に飛びつき、それを同じ思考パターンの母国に持ち帰って広めてしまう。

 こういう言い方をすると、「いや西洋人でなくとも、日本人だって例えばテレビの情報を真に受けて、僅かな情報を全ての情報だと取り違えて思い込んだり、それが世間のステレオタイプとして定着したりするじゃないか」と反論されるかもしれません。その通りです。しかしこの日本人の習性は、本当に日本人本来の行動・思考パターンだったのでしょうか。そうではなくて、西洋文明を一気に導入した明治維新後に形成された、ごく歴史の浅い、西洋人を真似て出来上がった人工的な、借り物の価値基準ではないのか、というのが私の疑念です。尤も、これは私のオリジナルの意見ではなく、別の学者が提唱している説です。

 今回の余話は、「西洋文明に支配される現代社会は果たして健全か」といったテーマを算命学の視点から掘り下げてみます。どうして現代人は昔より窮屈を感じて生きているのでしょう。近代以前の人類は、もっとのびのび暮らしていた気がするのはなぜでしょう。それとも自然の一部である人類は、留まることなく変遷していく時代ごとの、窮屈さや不便さを一律に感じて生きる生き物である、ということなのでしょうか。

 少し長くなりますが、もう一つ例を挙げます。癌細胞についてです。
 癌細胞というものは健康な人の身体の中に毎日五千個程度生じているそうです。それでも人が普通に暮らせるのは、その五千個がバラバラに分散していて悪さをする威力がないからと、癌細胞が生まれるそばから火消しに遭って悪さをするヒマもないからだそうです。癌細胞が病気として認識されるには、ある程度の大きさの塊にまで成長しなければ発見もされないし、自覚症状にさえ至らない。つまり五千個の癌細胞は脅威にはならないということです。
 世に騒がれる各種発癌性物質は、こうして日々生まれる癌細胞の増殖やその生き残りを後押しするものではあるけれども、発癌性物質を体内に入れない努力を怠らなかったところで、癌細胞が体内で自動的に生まれることを止めることはできないのです。そうなると、癌予防の手立てとしては、「癌細胞が生まれたそばから火消しに遭う」という体内に元々備わった仕組みを、支援する日常習慣が最も有効です。具体的には食事、運動、睡眠、日光浴という、お決まりの健康法に落ち着きます。薬だのワクチンだのは、的外れです。
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