悪霊に化身した男

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悪霊に化身した男

 

 

空間を長方形に切り取ったガラス窓から入ってくる、太ってぶよぶよの弱い太陽の光と、鼻腔≪びくう≫に忍び込んで、生乾きのワカメを連想させるようなツンと刺激する潮の香が、部屋を覆っていた。

夕闇が、音もなく忍び寄って来ていたのだ。

全身をなめ尽くすような視線が、山下 勉≪やました つとむ≫を無理やり目覚めさせた。

彼は、もう薄暗くなった窓に向かって、二階全体を揺るがすような大声で、一人言を吐いた。

「何だか、嫌悪感を押し付けてくるような、重くて憂鬱な気分だなぁ。しかも、長い間、誰かにジーッと見詰められているような気がする。まだ、夢を見ているのかなぁ? 俺は!」

 刻一刻と太陽の灰色っぽいオレンジ色が、彼の部屋全体を占領してくる。

「ああああああぁぁぁぁ、ふああああああああぁぁぁぁああああああぁぁぁぁ、ふあああ……」

勉は、(あご)が外れる程の大欠伸≪おおあくび≫をし、頭を何度も何度も左右に振り、奇怪な夢の記憶を追い払おうとした。だが、それは無駄な行為に終わった。悪夢の残さいが、彼の脳から去らなかったからだ。今度は、排気ガスが薄く汚した天井に向かって、家が壊れんばかりの大声で喚いた。

「馬鹿野郎―。卒論の大馬鹿! 馬にけられて死んじまえ! クソッタレ! アホタレ!」

 めちゃくちゃな言葉を並べ立てて、今までにたまりにたまったウップンを、ほんの少しだけ減少させた。

ここは二階でガラス窓を開けているので、いつの間にか天井だけでなく、畳まで排気ガスがその勢力を徐々に拡大させている。だから、勉はウップンばらしの代償に、排気ガスを大量に吸い込んでしまったのだ。急に喉がいがらっぽくなり、二、三回大きな咳をしたので、天井の隅で陣取っていた小さな蜘蛛を、またもや驚かせた。

今度は、天井に向かって思いっきり喚いた。

「また、書きかけの卒業論文の夢かよー。原稿が、まるで足が生えているように、いくら逃げても凄いスピードで、モタモタと逃げている俺を追いかけてくる。いい加減にして欲しいよ、ったく! でも、いくら大声でぼやいても、今までの経験からして、悪夢が、記憶から消えてなくならないのは、俺自身よく心得ているが……。コンチクショウ。バカタレ。気味の悪い夢が、肌にまだまとわりついているようだ。クソー、体から悪夢が抜けないぞー。昨晩も徹夜で『経済学方法論とその確率的合理性』という卒業論文に挑戦していたが、ペンは遅々として進まないし、おまけに金縛りにも苦しめられた。……ったく、俺は踏んだり蹴ったりの目にあわされた! 」

 普通の人間の肺活量では、こんなにも長いセリフを大声で喚く事なんて、とても不可能だ。

 そう――勉は、常人ではないのだ。恐らく、外見上では誰も区別なぞ出来ないだろうが……。

今度は、積もり積もったストレスを、窓と反対側に大声で吐き捨てる。そこは緑のモルタルの壁だ。

その時だった。このアパートに四年ほどしか住んでいないのに……モルタルにヒビが入っている箇所を見つけ、彼は、ほんの一瞬だけ思った。

「アホタレ大家に、文句を言ってやろう! 」

それ程に、勉は、細かな事に気がつく神経質タイプだ。

しかし、その時、筋骨隆々のたくましい、まだ三十歳代の大家の姿が脳裏に浮かんだ。腕力で戦っても勝ち目がないのを自覚していた彼は、自分の意気地なさを、心の中でうまく正当化したのだ。

(俺は、無駄な争いはしない主義だ! 誰よりも、平和を愛している人間だ! ここで、引き下がるのが、真の男だろう! うん、そうだ、そうに、違いない! ) 

 

金縛りには、閉眼型と開眼型の二種類があるが、勉は閉眼型である。だから、目を固く閉じているのに悪霊……などが見える。

彼はとても恐怖に敏感である。端的に言えば、極度の怖がりだ。重いストレスを、背負い込むと、幼い頃から、必ず金縛りに苦しんできたのだった。

 

昨晩、徹夜して論文を書いていた筈だったが、机上にはヨダレが作ったとおぼしき小さな池があった。つまり、短い時間だろうと思われるが、深淵な眠りの世界に落ちていたのだ。

机上には、参考にして卒論を書いていた九冊の繰り返し何度も何度も読んで、ボロボロになった本が開かれている。彼は、多量の雨で多くの河川から流入し満杯になったダムが決壊し、まるで洪水のように襲って来た悪夢に溺れていたのだ。

今回の悪夢は、これまで経験した事がない程の熾烈≪しれつ≫極まる恐怖を伴っていた。下着を絞ると、グッショリと氷のように冷たくなった汗が落ちた。バスタオルで、全身をていねいに拭き、風邪をひかないように慌てて下着まで変えた。

花が咲き乱れる初夏にはまだまだ遠く、今はやっと冬を脱した三月初旬だ。三寒四温の季節だから、寒い日もあれば暖かい日もあるのは、当然だろう。

昨夜か今朝かは定かでないが、勉がタップリと味わった悪夢は……。

 

勉は、二階の六畳間で寝ていた。

ガラス窓の方に、顔を向けていたのだろう。

窓外に、くすんだ着物姿をした若くて髪の長い半透明の女性が、彼に背を向けて浮かんでいて、まるで蚊が鳴いているような消え入りそうな声を、直接、彼の脳に入れてきたのだ。

「寒いから中に入れて下さいませ! 後生ですから、お願い致します! どうか……私を温かそうな貴方様のお部屋に……」

艶っぽさがあるのに、何となく虫唾≪むしず≫が走る、おぞましい嫌悪感を抱かせる、くぐもった低い声で、繰り返し訴えてくる。まるで喉を抑えつけられているような、何ともイヤーナ声だ。胃が跳ね上ったような不快感を、勉は覚えたばかりでなく、彼女の声を聞いた刹那、意識が凍りついてしまった。

しばらくして正常な意識を取り戻すと、彼はあれこれと考えた。

(夢は殆んど毎日見るが、今回は今まで見た事がない程の不快な夢だ。

夢では、視覚だけではなく、聴覚、嗅覚等が、何らかの刺激を感じるらしい。リアル過ぎるが、正真正銘の夢には違いないだろう。彼女は外にいるから寒いのだ。訴えが現実だとすると、外は相当に寒いようだ。やや、突然、冷たい空気が喉に流れ込んできたぞ。おかしい! 室内にいる俺の全身を、真冬のような冷気が覆うなんて……。まして、ここは二階だから、どんな方法で彼女は、窓の外に浮かんでいられるのだろうか? ハシゴかキャタツでも使わない限り、人間では窓外に留まっていられない。霊なら、そんなものは不要だが!)

そんな疑問の解答を模索している、まさにその時だ。

閉め切った窓から、まるでクジャクの羽根のように美しいストレートヘヤーを、腰まで垂らしている女性が、後ろ姿だけを部屋に入れてきた。すると突然、生ゴミに似た腐臭が、彼の周囲にネットリと漂ってきたのだ。口の中には、錆びた鉄の味が忍び込み、ぺ、ぺ、ぺ、ぺ……と何度もツバを吐き出したが、そのむせるような複雑で奇妙な味は、口の中に残ったままだ。

でも、Hな期待で、彼の心臓はバク、バク、バク、バク……して、今にも破裂しそうだった。女性に興味を持っている点では、世の男性に劣らない。

いや、むしろ、性欲では異常な部類の男性に属するだろう。不覚にも、彼はヨダレを大量にこぼした。

(きっと美人に違いない。何とか出来ないかなぁ)

ほんのわずかな時間だが、性欲に起因する様々な願望が、勉の頭の中を全て占領した。

 

一般的には、友達あるいは先輩に連れられて、芸妓屋、遊女屋が集まっている花街≪かがい、はなまち≫に行き、所謂≪いわゆる≫「筆おろし」をするものだが、大人になった勉には、誰一人としてそのような人はいなかったので、自ら何度も当時はまだ違法ではなかった明石にある赤線にかよったのだ。勿論、国鉄(今のJR)を利用して、神戸市兵庫区福原町にあった遊廓にも、何度か足を運んだ。

福原の遊廓は、明治元年に現在の神戸駅付近で開設したが、明治五年、鉄道敷設により現在地の旧湊川右岸の福原町に移転した。最盛期には、貸座敷が百六軒、娼妓九百三人いたが、神戸大空襲で焼失し、戦後、赤線に移行した。

ところが、千九百五十八年の売春防止法で、遊廓は廃止された。現在では、ソープランド等の性風俗店がひしめく歓楽街になっている。

 

さて、ここで話を巻き戻そう。

(でも、いくらなんでも相手が幽霊じゃなぁ。さすがの俺でも、やっぱりご遠慮願うよ!)

 そう思った途端、彼は、またしても全身が凍えるような寒気に襲われ、しばらくして、全身がブルブルと震え出し、最悪の気分に陥ったのだ。……強烈な吐き気すら催して畳にゲロ、ゲロ、ゲロ、ゲロ……と音を立てて吐いてしまった。

数十分後、やっと体調と理性を取り戻した勉は、普通の人間が体の半分を窓に通すなんて不可能な技だ、と思った。が、理性は次第に痺れたように働かなくなってきて、思考停止状態に陥ってしまったのだ。またしても、悪寒が背筋を走り、冷気が体中を襲う。同時に、猛烈な死臭で、更に一層の強い吐き気さえ込み上げてくる。腐った卵のような悪臭が、直接、彼女から勉めがけて漂ってきたからだ。鼻の中に、腐った液と体液が混ざり合ったような死臭が、無理やり入り込んでくる。腐敗した匂いを伴う臭さで、胃は冷たく縮み、鼻から脳へと痺れたような奇妙な感覚が伝わり、体中から冷たい汗が噴き出すのを、勉は感じた。

彼女は、周囲に負のオーラを漂わせていたのだ。

 

まさにその時だった。

彼女が、ガラス窓から全身を侵入させ、身の毛も逆立つ正面を勉に向けたのは! 

部屋中に、凄まじいまでの怨念と破壊と混沌が、その女性全体から漂っているのを、勉は敏感に察知した。何もない空間に浮かんでいるその姿を間近で見て、ギヤーという悲鳴を出したかったが、全身の筋肉を動かせなくされている為に、声すらも出せない状態だ。彼女は、とてもこの世のものとも思えぬような凄絶さに満ち溢れており、その顔には鬼相がうかがえる。

彼女の全身は糜爛≪びらん≫しいて、ミイラになる一歩手前だ。その証拠に、死亡して数週間経過したような血や膿≪うみ≫の匂いを、辺り一面に発散させているのだ。

その口元には、何とも表現出来ないような、ぞっと身震いさせる、薄暗い笑みを張り付けている。椿をモチーフにした、高級な結城紬≪ゆうきつむぎ≫の着物は、腐ってボロボロになっている。彼女の前髪は、殆んど抜け落ちていて、目は、腫れて真っ赤に爛≪ただ≫れている。

彼女は、あたかも、田宮伊右衛門≪たみやいえもん≫が士官するため、毒を盛らせた、「お岩さん」のようだ。――鶴屋南北≪つるやなんぼく≫の描いた「四谷怪談」で有名なお岩さん、そのものだ――

腐った肉片が、顔に所々にへばりついている。土のような色に変色した骨も、あちこち現れている。眼窩≪がんか≫からは、血走った両眼玉が飛び出し、既に腐っており、しかも、ヒビ割れて口まで垂れ下がっている。そのいまわしい両眼玉が、恨めしそうに勉を睨んでいる。鼻には、肉はなく二つの空洞があるだけだ。何か淡い肌色をしたコメ粒程の大きさをした虫が、盛んに出入りしている。何と、それらは、おびただしい数のウジ虫どもだ。両耳は本来の位置に辛うじてあるが、紫に変色していて所々欠けている。唇には、パープルの口紅をしているようだ。いや、違う。口も腐ってただれているから、そう見えただけだ。更に、唇からは、四つに別れた真っ赤な舌が、絶えずチロチロと素早く出入りしている。まるで蛇の舌のような動きだ。喉からは、不気味な声さえ聞こえる。

体中の産毛≪うぶげ≫が立って、再び悪寒が勉を襲った。

そして、黄色に変色した骨だけの両手で、頭を鷲掴≪わしづかみ≫にされ、吸血鬼のように尖った歯で、頭を何度も何度も齧≪かじ≫られた。彼女の口から、どす黒い血が溢れ出して、ポタリ、ポタリ、ポタリ、ポタリ……と音さえ立ている。

「痛い!痛い! もうこれ以上、お、お、俺を苦しめないでくれ! だ、誰か、誰か、誰か助けてー!」

 

ガリ、ガリ、ガリ、ガリ……と、齧られている硬質な音が、勉を目覚めさせたのだ。

夢から覚めた勉は、涙がほとばしり、思考は停止状態のままで、まだ、悪夢から完全には脱していない。未だに、悪夢の中を彷徨っているような気がするのだ。

勉は、まだ半分寝ぼけていた。

南風が強いからだろう、波の音を耳にした。住居から約三百メートルも南下すれば、もうそこは明石海峡だ。

潮の流れは、大洋の干満によって起こる。満ち潮の時は大阪湾に押し寄せ、明石海峡では播磨灘への西への流れになり、引き潮の時は東の大阪湾への流れとなる。幅が最狭部で三.六キロメートル、深度は約百メートルと狭いので、海峡に潮が押し寄せると、最速時速約十三キロメートル/アワーで凄まじく流れ、狭い出口から溢れ出た海流は、水深二十メートルのラインに沿って反転する渦を生じさせる。

勉が起居している二階からは、四、五キロメートル離れた淡路島を望め、空気が澄んでいれば、個々の家々まで明確に識別できる。他人に自慢出来る程、二階からの眺望は最高だ。

自転車で行ける近い距離の砂浜に、岩を組んで造られた小規模な突堤があり、毎年、初夏になると、近くにある釣り具店で、餌のゴカイを買ってキスを釣る。リール付の竿で軽く投げても、三本の九号針に一、二匹のキスが食いつく。もしも、幸運の女神がほほえんでくれたなら、三匹釣れるのだ。二十センチ級のキスの塩焼きは、最高に美味だ。

しかし、釣りは、勉の数ある趣味の一つに過ぎない。幼い頃から多くの趣味を持っている。

それらの中には、身の毛もよだつような恐ろしい【趣味】もある。

そのような【趣味】を持っている勉の存在自体が、他人には強烈な害悪だと言えよう。

 

勉は、団塊の世代に属する。

経済史として、団塊の世代をより深く掘り下げてみよう。

団塊の世代の就職時期は、中卒で昭和三十七年から四十年、高卒で昭和四十年から四十三年、大卒で昭和四十四年から四十六年となる。団塊の世代の中卒は、「金の卵」と呼ばれて、彼等が労働推進力となった時期は、高度経済成長期と重なるのだ。最も人数が多かった高卒就職者は、高度経済成長中期・末期と重なる。日本の高度成長期は、千九百六十年から千九百九十年であった。この時期は、団塊世代等による日本の労働力人口割合が、増える時期と重なっているのだ。

勉のIQは、群を抜いて高く、有名な中高一貫校では常にトップを独走し、日本で最難関の国立T大へ入学し、更に修士課程、博士課程へと進んだ。その後、フルブライト奨学試験に優秀な成績で合格し、アメリカに渡り勉学に励んだのだ。

フルブライト・プログラムは、アメリカ合衆国の学者、教育者、大学院生……などを対象とした国際交換プログラム、および奨学金制度(フルブライト奨学金)の総称だ。千九百四十六年に当時のアメリカ合衆国上院議員、J・ウィリアム・フルブライトによって「世界各国の相互理解を高める目的」に発案、設立された。

留学先は、アメリカ合衆国の私立大学で千六百三十六年に設置された、最古の高等教育機関であるハーバード大学で、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジ市に、本部を置く私立大学である。当然、世界の幅広い分野でリードしている。当時、アメリカ合衆国大統領を八人、ノーベル賞受賞者を百五十人以上も輩出している。世界大学ランキングでは、長年にわたり一位を独占している。

 勉は、常人にはない多様な知識を身につけているが、それらを「善」に使わずに「悪」にのみ活用して、自身の誇りにしているだけだ。勉は、徐々に超能力を身に付ける事にのみ、高等な知識を活用しているだけだった。

 

西明石から京都に単身で生活していた時期が、勉にはあった。

ここで、当時の社会を振り返ってみるのも、彼を理解する大きな手掛かりとなろう。

その時は、今日よりも明日がより豊かになる、と大方の人が信じていた時代だった。千九百六十年代、日本では高度経済成長期の真ただ中だった。現在程、家や高層マンションが林立していなかった時代だ。当時流行していたのは、カラーテレビ、ダッコちゃん、ツイスト、プラモデル、鉄腕アトム、リカちゃん人形……などだった。

千九百六十四年には、東京オリンピックが開催され、千九百六十六年にはビートルズが来日し、千九百六十九年にはウルトラマンシリーズが放送開始された。アポロ十一号が、人類初の月面着陸をして世界中の話題にもなった。米国を中心にヒッピーが生まれたのもこの年代だ。ヒッピーは、伝統・制度などの既成概念や価値観に縛られた社会生活を、否定することを信条とし、自然への回帰を提唱する人々の総称で、千九百六十年代後半に、主にアメリカの若者の間で生まれた。彼等は、基本的に自然と愛と平和と芸術と自由を愛していた。日本では、フーテンと呼ばれた期間もあった。だが、ファッションの観点から見ると、植物系の色とりどりの柄、頭のバンド……など、今でも人気がある。

昭和六十年代半ば、ビートルズから派生したイギリスでのグループサウンズのファッションで、 音楽面での衝撃と共に、ビートルズが着ていたモッズファッションは、日本のメンズファッションにも大きな影響を与えた。モッズと呼ばれたこのファッションの特徴は、長髪に船員帽、水玉や花柄など派手な柄で、ウエストを細くしたシャツ、股上の浅いスリムパンツ、幅広いネクタイ、ブーツ……などで、このようなスタイルは、日本では、グループサウンズファッションとして開花した。モッズファッションをアレンジしたミリタリー調のザ・スパイダーズ、フェミニン調なタイガース……などがある。

千九百六十年代には、「ホンコンシャツ」と命名した半袖ワイシャツが流行し、「VAN」ブランドが提案したアイビールックは、若者の間でブームとなって、「みゆき族」を生み出した。アメリカの八大学により結成されたフットボール連盟があり、そこに所属していた学生が着ていたファッションで、各校にはレンガ造りの校舎に生い茂る蔦(アイビー)が、シンボルとなっていた事から、アイビールックと呼ばれた。
 日本では、千九百六十年代後半から千九百七十年前半にかけ、裾広がりのベルボトムが大流行していた。また、パンタロンも流行っており、長いズボンやパンツ類を指すフランス語である「pan」は裾で「talon」は、ベルボトム型のパンツとして使われた。
 美空ひばりが、千九百六十七年にテレビの歌謡番組で、「真赤な太陽」を初めてミニスカート姿で歌った。それが話題となり、千九百六十年代後半ミニスカートが大流行となった。とは言え、当時多くの女性のミニスカートは、膝丈よりやや短い程度であった。

千九百六十四年頃から、銀座のみゆき通りや並木通りに大勢の若者がたむろし、みゆき通りに因んで「みゆき族」と名づけられた。ファッションの特徴と言うと、男性は、流行中のアイビールックを少し崩したスタイル、女性は、ロングスカート、バックに共布のリボンベルトを結び、二つに折ったハンカチーフを頭に被っていた。そして男女ともに、大きな紙袋か麻袋を鞄代わりに抱えていた。

千九百六十七年、新宿東口駅前広場に若者の集団が現れた。仕事もせず、特に何をするでもない彼等は、ユニセックス、汚れたTシャツにジーンズ、素足にサンダル、ショルダーバッグをして、モッズ以上の長髪に無精髭≪ぶしょうひげ≫だった。

 

話を、悪夢にうなされ目覚めた時に戻そう。

悪夢を見たせいだろうか? 急に忌まわしい出来事が、忘れていた記憶の奥底から飛び出してきた。それは……。

今日のようにまだ肌寒い時、勉が小学二年生の四月に起きた出来事いや事件、と言った方がより正確だろう。勉を含め、当時話題になった映画の「七人の侍」のように、固い絆で結ばれていた彼等の上に、まるで火の粉のように降りかかってきた事件だ。勉ばかりでなく仲間達も、警察の事情聴取を数時間も受けた事件だ。取調官に、何度も何度も同じような質問をされたのは、誰かが異なった回答をすれば、その矛盾を追求するのが、狙いだったのだろう。

それ以来、勉は多くの友人を失ってしまった。恐らく、この事件がその原因だと、大学四回生になった今でも深く後悔している。

その事件は、ある公園周辺から始まったのだ。

勉は、漫然と生きてきた友達への支配感を味わって、優越感に酔っていた。それが、彼の無上の幸福だった。

当時、リーダー的存在であった勉は、興奮気味に、友達に対してある提案を持ちかけた。

「夜の八時に、皆、家を出られるだろう? 僕にいいアイデアがあるんだ。【幽霊屋敷】の探検は、肝試しにもってこいだよ。……皆でやろうぜ! どうだい?」

清≪きよし≫、悟≪さとる≫、雄太≪ゆうた≫、信二郎≪しんじろう≫達、男の子は目を輝かせて賛成し、男の子に押し切られて、優子≪ゆうこ≫、好恵≪よしえ≫、妙子≪たえこ≫も賛同した。彼等は、「怖いもの見たさ」に対して、好奇心を抑えられない年頃でもあった。

勉は顔を紅潮させて、興奮気味に提案した。

「今週の土曜日の夜に探検しょうぜ! 一時間位だから、親に何とか言い訳を考えて集まろう。

あぁ、そうだ。良いアイデアを言うのを忘れていた。……友達の家で宿題をする、と言ったら皆の親は誰も反対しないだろう! どうだい!?」

 勉は、胸を張って、得意満面の笑みさえ顔に貼り付かせて、皆に告げた。半分以上、強制的だった。

「そんな幽霊屋敷があるなんて聞いたこともないよ。なぁ、皆知っているかい? ……知らないだろう。勉君、一体どこにあるのかなぁ?」 

肥満気味の雄太が聞いてきた。雄太は、仲間の中で縦にも横にも一番長い体をしていた。つまり、一番背が高くて太っていたのだ。勉は、まるで恋人に向かって優しくささやくように、仲間達に小声で言った。公園で遊んでいる他の子供達に、聞かせたくなかったからだ。

「国鉄西明石駅の北にある公園近くに、空き家がある! かなり大きな家だぜ。誰も知らないかい? 四年以上、誰も住んでないみたいだ。なんで、分かるって? あの家には、表札が出ていないからだよ! だから、無人の家ってわけ。その家を探検しょうぜ! ……皆、駅の南に住んでいるから、その公園で遊ばないだろう? でも、俺達の家族は、毎年桜が満開の頃を選んで、弁当を持って花見に行くんだ。だから、その家を知っている!」

 ガヤガヤと友達が相談をしているのを、自信に満ちた勉は、そば耳をたてて聞いていた。

結局、【幽霊屋敷】の探検に、全員が進んで賛意を表したのだった。

「一週間後の六時に、例の秘密基地に集まろうぜ!」

 皆に異論などなかった。

そして、探検ごっこをする約束の夜が訪れた。事前に打ち合わせしていた通り、仲間だけが知っている秘密の大きな木の下に、皆が懐中電灯を持って自転車で集まった。葉でカモフラージュした、九個のダンボールで苦労して作った基地周辺に集まったのだ。

(もちろん、秘密基地の設計、監督……などの全ては、リーダーである勉が担ったのだった)

勉が、もう夕闇が押し迫っている中、皆を先導して公園に着いた。

公園ではもうこの季節になると、既に桜は散っており、不気味な枝だけが夜空に向かって両手を上げているように見える。その夜は曇っていたから、月明かりもほんのわずかだけしかさしていない。公園には照明設備は一切なかったから、公園を自転車で通る時、とても薄暗いので勉以外の全員が気味悪がった。金属製の滑り台だけが、まるで深い霧に覆われているように、ボンヤリと銀色に輝いている。

小刻みにブル、ブル、ブル、ブル……と震える手に持った懐中電灯を、薄暗い前方に照らし、目をこらして恐る恐る公園を縦断した。自転車同士がぶつかる位に、一つの塊になって、ゆっくりと運転している。もしかしたら、公園にお化けがひそんでいるのではないか? そう思っているのだろうか? それ程までに怖がっていたのだ。勉以外の仲間達は……。

勉が言っていた家は、公園のすぐ近くあり、暗闇を背景にして黒いシルエットだけを見せていた。そのシルエットは、アルコールにつけた臓器のような灰色をしていた。いかにも、幽霊が住む屋敷のように見えたのだろう。あるいは、魔王が住んでいる城のようにも、彼等には見えたのだろう。 

勉は門のクサリを、用意周到に持参して来たクリッパーを使って、いとも簡単に切断し、恐怖で顔を引きつらせている皆を招き入れた。女の子達は、もう幽霊にでも遭遇したかのように、両腕を胴にきつく押し当てて、見ていても可哀そうな程、早くもブル、ブル、ブル、ブル……震えていた。勉達は、名の知れない雑草に占拠された荒れ放題の庭を通り、玄関まで辿り着いた。玄関で細かな打ち合わせをしている間、庭の伸び放題の草木は、絶えず鼻を刺激する悪臭を放っていた。勉強、腕力、容姿、実行力、度胸などが備わっているように見える勉は、誰もがリーダーであるのに、異論を差し挟まなかった。(今流で言えば、超、超イケメンだ!)

ところが、実際の勉は、度胸なんて微塵もない。それこそ超がつく程の怖がりなのに……「他人の人を見る目は、まるであてにならない」のは、真実だ。

 リーダー気取りで勉は、皆に注意事項と【幽霊屋敷】の内部を事細かく、周囲にある住宅に住む人に聞かれない為に、蚊の鳴くような小声で語った。

「静かにしていてくれよ! いいか、どんな事があっても、……大声を出さないと約束してくれよ! 僕が前もって調べたところ、この家は、三DKの二階建てで、一階には、台所と六畳の和室、押入れ、風呂場、トイレがある。でも、一階と二階にある和室の畳は、かなり腐っているから、充分に注意しょうぜ! 下手に足を踏み入れたりすると、怪我をするからな。和室の畳には、何の種類か分からないが、所々に草が生えている。ギシ、ギシ、ギシ、ギシ……とうるさく鳴る二階への狭い階段を上がれば、六畳と四畳半の和室と大きな押入れがある。原形を留めていない程、畳は腐って色も変わっている。足を踏み外して落ちないように、細心の注意を払って! 皆に言っておくのは……えーと、これ位かな。誰か質問はあるかい? どんな細かい事でも良いよ!」 

雄太の妹で、やはり肥満気味の妙子が手を上げた。

「オシッコは、どこでしたらええん?」

 手を上げるなんて、学校と混同している。妙子は、兄の雄太より一年下の小学一年生だ。

 心の中で面倒だなと思いながらも、勉は優しく答えた。

「家の中に、トイレはあるよ。多分、今でも使える筈だよ。どうしても怖かったら、兄貴の雄太に見張ってもらえば?」

「誰か他に質問はあるかい?」

「……」

探検の時間が短くなるので、勉は皆をせかす。

「もうあまり時間がないから、すぐに探検を始めようぜ!」 

先ず一階から探検を始めた。漆黒≪しっこく≫の中、複数の懐中電灯の明かりだけが頼りだ。

「ギィヤアァァァァァ、ギィヤアァァァァァ、ギィヤアァァァァァ、ギィヤアァァァァァ……」 

めっぽう怖がりの清のエコーで増幅された悲鳴が、風呂場で響いた。皆は、何事が起きたかと思い、風呂場に集まった。あちらこちらに張ったクモの巣と、天井にまでビッシリと、はびこっているカビだらけの風呂場。

勉は、かなり腹を立てて言った。

「そんな事位で大きな声を出すなよ! 約束したろう、静かにするって! 何度も言っているけれど、他の家の人に聞こえたらマズイからなぁ。シイー」 

勉は、赤い顔をして、口の前で人差し指を立てた。本気になって怒っていたのだ。

皆が持っている懐中電灯の明かりの複数の輪が、脱衣場に移った時だった。奇妙な霊に、勉が遭遇したのは……。カビがはびこって青黒くなっている浴槽に、素裸でいる女性を、勉は見てしまったのだ。まるで、湯が胸元にまであるかのように、目にも鮮やかな真っ赤なタオルを、はちきれんばかりの豊満な胸に当てている若そうな女性が、やはりカビだらけの壁の方を向いている。突然、その女性が勉の方に顔を向けた。その途端、ギャーと大声を出しそうになったが、必死で耐えた。ここで喚いたら、勉の沽券≪こけん≫にかかわるからだ。

女性は、この世のとも思えない妖艶な雰囲気を漂わせており、女性の肌は、まるで秋田美人のように白くて美しい。しかしながら、勉が今の今まで想像すら出来なかった程、その顔は奇妙であり、思わず大笑いしてしまう位に滑稽≪こっけい≫でもあった。

女性の顔は、福笑いで目隠ししてパーツを置いたように、本来あるべき所に、眉毛、目、鼻、口がなかったからだ。眉毛が本来あるべき所に鼻があり、目が本来あるべき所に口が、口が本来あるべき所に目がある。しかも、各パーツの大きさはバラバラだった。地獄の亡者だか化け物だか知らないが、大さのチグハグな目で、勉の脳味噌に直接優しく語りかけてきた。

「一緒に、お風呂に入りましょうネ! そんな所にいると風邪をひくわよ。早く、いらっしゃい!」

「い、い、い、いいです。せ、せ、せ、せっかくのお誘いですが、ご、ご、ご、ご遠慮します。さ、さ、さ、さようなら!」

 勉は、慌てて風呂場から逃げ出そうとしたのだが……。瞬く間に女性の髪が、生きているかのようにクネクネと伸びて、彼の足に絡みついてきたのだ。束になった髪が、太いロープのようになって、くるぶし辺りを締め付け出した。これでは、化け物のエジキになってしまうと思った勉は、幼い頃に祖母から教わった呪文を、無我夢中で何度も唱えると、呪文が威力を発揮したのだろうか、断末魔のような声を聞いたような気がした。すると、女性は元々いなかったように、そのおぞましい姿を消していたのだ。

勉の全身は、恐怖でカチカチに固まり、心臓がバク、バク、バク、バク……して、今にも口から飛び出しそうだった。

勉は慌てて風呂場から仲間のいる所に戻ったが、皆は、まるで時間が止まったかのように、微動すらしていない。一人、一人に声をかけても、皆は、石材を刻んで造った石像になってしまったかのように、その場で固まっていた。まるで、様々な服装のマネキンがバラバラなポーズで立っているようにも見える。

数十分が経過し、勉が、今まで味わっていた恐怖も、次第、次第に熔け出した。時を同じくして、幸いにも、仲間は平常の状態に戻ったのだ。仲間には、自分が味わった、いまわしい出来事を伝えなかった。と言うのも、誰も信じないだろうし、第一、皆を怖がらせるだけだ、と思ったからだ。そういう点では、彼も優しさを持ち合わせていたのだ。しかし、恐怖そのものが、彼の脳味噌の襞≪ひだ≫に今でも残存している。それが証拠に、勉の唇はまだ青かった。少し震え気味に、蚊が鳴くような小さな声で、皆に提案した。

「一階の探検は、これ位にして二階を見てみようぜ! さっきも、言ったように足元に気を付けて! 階段も部屋の中も!」

 本来ならもっと饒舌≪じょうぜつ≫なのに、今まで味わった恐怖で、そう言うのが精一杯だった。二階への階段は今にも壊れそうで、ギシ、ギシ、ギシ、ギシ……と、鈍い悲鳴を上げていた。

階段を上がると、早速、勉は、二階で鉄臭いような、塩辛いような独特な血の匂いと、腐臭≪ふしゅう≫の混じっている耐えがたい悪臭を感じた。まるで腐った魚が放つような猛烈な臭気が、勉の鼻を襲ったのだ。ふと振り返ると、またもや皆は時間が止まったように、微動すらしていない。小さな声で皆の名前を呼んだが、何の反応もない。どうやら、勉だけが奇怪な悪霊のトラップ(わな)に、はまってしまったようだ。勉は、異界に迷い込んだ気分に再び襲われた。今度は妖怪にでも遭遇するのだろうか? やはり、悪霊に肝を冷やされるのではないか? 彼がそう考えていた時だ。廊下の空間が、あたかも陽炎≪かげろう≫のように、ユラ、ユラ、ユラ、ユラ……している。再び、素手で胃をつかまれたような激甚≪げきじん≫な恐怖を、勉は感じた。懐中電灯は電池が切れたのだろう、暗闇が迫りくる。この時ばかりは、霊を感じ霊が見える自分を、心の底から呪ったのだった。

(多くの悪霊達が浮遊しているに違いない! 霊感があるのも良し悪しだ! コンチクショウ!)

 背中に多くの氷の棒を入れられたように、急に全身が震え出した。

すると、目の前に負の感情に全身支配された男が、突然現れた。首のわずかな肉だけで、顔が繋がっているその男から、猛烈な死の匂いが漂ってきた。当然この世に生きている人ではないと、理性が勉にささやく。殆ど何も見えない暗い空間なのに、男が着用している紺色の作業服が、鮮血で赤く染まっているのが見えるのだ。作業服を着ている男ばかりか、髪を足元まで伸ばした、真っ裸で奇怪なシワだらけの老女も、彼に迫ってくる。老女の顔の肉は、腐って爛れており、老女の全身の殆どがミイラ化している。無数のハエが群がって、老女の腐った肉の中まで入って、卵を産みつけているのだろう。一瞬のうちに、無数のウジ虫が老女の体を見えなくし、老女の形をした無数のウジ虫が、こちらに向かって迫ってくる。瞬く間に、勉の心は恐怖に凍って、今にも吐きそうになったが、そんな暇すらない。次々と、地獄の亡者が向かってくるからだ。学校の理科室にある、赤い筋肉をあらわにした人体標本のパレードさながらだ。

勉は震えながら確信した。

(ここは、悪霊どもや妖怪の通り道に違いない! いわゆる、霊道だ!) 

 今度は、下半身が千切れ、クネクネと動いている大腸と小腸を、ホコリっぽい廊下に引きずった上半身だけの男が、まるで飛んで来るかのように素早く、勉に向かってやってきた。男の口には、焦げ茶色に変色した血が、ベットリとまつわりついている。その男は、喉の奥から絞り出すような家を振動させる大声を出して、勉にペコペコ頭を下げて懇願≪こんがん≫してくるのだ。

「頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。頼む。……後生だから、お前の脳味噌をこのわしにくれ! わしを助けてくれ! 痛いだろうが、ほんの一瞬の辛抱だよ。何も怖がることはない! イーイヒヒヒ、ケケケケ、イーイヒヒヒ、ケケケケ、イーイヒヒヒ、ケケケケ……」

 今まで何度も怨霊に遭遇している勉もでさえも、こんな怨霊は初めてだったので、体全体がブル、ブル、ブル、ブル……と震えてしまい、思わず後ずさりしたてしまった。すると、ドンと背中に誰かが当たった。その弾みで、側面の壁にあちこちに衝突しながら、階段を転げ落ちたのだ。勉には、まるでマネキンが落下するような光景に見えた。だが、マネキンではなく雄太の妹、妙子だった。

勉は、思わず密かに呟いてしまった。

「ドジった! だが、今更、どうにもしょうがない。お遊びは、これで中止としよう。楽しみは腹八分目が、ちょうど良いかも知れないなぁ。……もう、これ位にしておこう!」

勉は、例の悪霊退散の呪文≪じゅもん≫を唱えた。すると、瞬時に悪霊達は姿を消した。

それと時を同じくして、今まで凍りついていた皆がモゾモゾと動き出した。まるでキツネにつままれたような、それでいて恐怖感を味わった顔をしていた。皆は悪夢を見ていたようだ。恐怖に襲われた夢を見ていたせいだろうか、全員が、一斉に階段に殺到し、我先に一階に下りて行った。一番先に清が、下の踊り場で雄太の妹、妙子を発見した。彼女は、体のあちこちから生臭い血を吹き出していたが、まだかすかに息をしていた。この時点では、妙子は心肺停止の状態ではなかったのに……。誰かが応急処置をしていれば、助かった命かも知れなかった。だが、小学二年生にそれを求めるのは、酷な注文だと言えよう。勉は、表面的に慌てた振りをして、近所にある家に入って救急車を呼んでもらった。ところが、皆は、ガタ、ガタ、ガタ、ガタ……と震えているだけしかできなかった。

勉は、皆を心の底で苦々しく思った。

(なんと情けない奴らばかりだ! 何もせずに、友達をほったらかしにしておくなんて!)

兄の雄太は、ぐったりしている妹に縋り付き、悲鳴混じりの大声でいつまでも泣いていた。

妙子は、近くの救急病院の集中治療室に搬送された。だが、約四十分後に【天使】の仲間入りをしてしまった。つまり、息を引き取ったのだ。文字通り、けがれのない【天使】のような顔で亡くなった。

一方、勉は般若≪はんにゃ≫のような怖い顔をして、この出来事を誰にも話さないように、皆に強い口調で命じたのだ。

「……決して、この事を誰にも言わないようにしてくれ。後々、厄介だからなぁ。頼むぜ!」

不審な死であるから、全員が、鑑識係、警察署員に何度も何度も、事細かく事情を聞かれたが、誰も真相を話さなかった。勉の思惑通り、事故死として処理された。勉は、悪魔以上の恐ろしい行為をしたのだ。親達は、誰かの家で宿題をしている、と信じ込んでいたから、警察は親達から有益な情報を得られなかった。 

妙子の父親が、神戸市中央区の勤め先より、救急病院に急いで駆けつけ、地下にある霊安室で変わり果てた娘と対面した。父親は、遺体になった娘に縋り付き、おえつしながら大粒の涙を流し続けたのだった。彼が嘆き悲しむ姿は、勉以外の友達と親達の涙を誘った。周囲には、息苦しいまでの重苦しい雰囲気が、のしかかっていたのだ。しかし、勉は平然として自分の犯した罪を、直ぐに忘れようとした。勿論、うわべだけ、皆のようにしゃくりあげ、大声を出して泣いていたが……。

(何とも素晴らしい名演技だ! 将来、立派な役者になれるかも知れないなぁ!)

 人を殺してしまった直後なのに、呑気な考えに没頭できる勉だった。まさに悪魔的思考の持ち主だ。だが、勉は、兄の雄太に対して、精神的に大きい鉛の塊のような重い責任を、背負ってしまった。コンチクショウ! ……勉は胸中で、そう呟いた。しかし、勉にとって、この日は、生涯忘れ得ない濃密な喜びに満ちた一夜ではあった。悪魔的思考回路が彼の全身に張り巡らされている、としか考えられない。

雄太の家族は、妙子が死んだので父親と彼だけになってしまったのだ。亡くなった幼い妙子が、主に食事の用意をしていた。いろんな料理の中でも、雄太は、妙子が丹精込めて作ったカレーが、大の好物だった。そこで、勉はあれこれと理由を作って殆ど毎晩、雄太を家に通わせた。近くのメッキ工場から盗んで来た毒性が強いヒ素を利用した。何故なら、農薬や木材防腐等で使用するヒ素の入ったカレーを、たっぷりと彼に食べさせる為だ。勿論、祖母の協力が欠かせなかった。勉の言う事に従順な祖母は、少しずつヒ素をカレーに混入させた。

少しずつヒ素が、雄太の体内に蓄積していったのだろう。学校帰り、まるで夢遊病者のように、フラフラしながら歩いていた雄太が、通学路に面した池に落ちて溺れているのを、多くの同級生が目撃していた。だから、目撃者等に対して警察の事情聴取も簡単であった。つまり、警察は、単なる事故死として処理したので、当然だが、司法解剖は行われなかった。

勉の思惑通りに、雄太はあの世に旅立った。誰一人、勉を疑わなかった。勿論、警察ですら……。勉は、完全犯罪に成功したのだ。

 

勉が、私立N高の二年生になったある夏の時だった。学校の前に、サクラ、ケヤキ、ブナ……などが生い茂る、よく整備された公園があった。その公園の中ある遊歩道を十分程歩くと、市立図書館があった。図書館は、壁面が茶色で威風堂々として、たたずんでいたのだ。学校の図書室では、目ぼしい本は全て読んでしまっていた。そこで、学校にはないハイレベルな本を求めて、初めてそこに行った日だった。司書の吉田さんと出会ったのは……。熱心に殆ど毎日通ったのは、二回り位歳が離れている四十代の吉田さんと仲良しになったせいだろう。吉田さんは、まるで牛乳瓶の底のような分厚いレンズをはめた眼鏡かけていた。実際、そんなに分厚いと重たいのだろう、何度も、何度もずり落ちる眼鏡を、人差し指で押し上げていた。初めて市立図書館に来たので、彼はウロウロしていた。その時、優しく声をかけてくれたのが、吉田さんである。現在に至るまで母や祖母以外、勉を可愛がってくれた唯一の人だろう。彼は、少し控えめな小さい声で恐る恐る尋ねた。

「西洋哲学を早く身に付けたいのですが、どんな本を読めば良いのですか?」そう吉田さんに相談すると、大粒の汗を体中から噴出させて、本棚を三十分程走り回ってくださった。ビール樽のように太った体を、重そうに左右に緩慢に振りながら……。リノリュームの床が、きしむ音さえ聞こえた。顔ばかりか、着ている洋服さえ汗染みに占領されていたのだ。吉田さんは、勉の目を見ながら優しい声で言った。「こんな本はどうかしら? でも、難しいかな? 貴男が希望するのはこんな本しかないのよ。ごめんなさいね!」数冊の本を選んで渡してくれた。「どうも、ありがとう!」にっこりとほほえんで、直ぐに閲覧室で夢中になって読みふけった。読めば読む程、西洋哲学の奥深さを知ったのだった。吉田さんが薦めてくださった、国内外の哲学者の作品を必死で読んだ。かなりの読書量であった。だから、寝る間も惜しんで、ていねいに、しかも、頭が麻痺しそうになる限界まで読んだ。大学院で学ぶレベルの書物さえ読破したのだ。哲学を勉強した濃密な時間は、無上の喜びを勉に与えたのだ。(鼻もちならない天才ぶった野郎だ!)

そのように皆から思われているのは、彼自身でも十二分に承知していた。

 

中国において、朱子学の祖であり、孔孟の教えを体系化した朱子(本名朱熹)が創作したといわれる次のような漢詩がある。(但し、この諺の出典は、彼の「偶成」という漢詩だとされていたが、彼の作ではないという説が、今では有力である)

 

 少年老い易く学なり難し

一寸の光陰軽んずべからず

未だ覚めず池塘春草の夢

階前の梧葉已に秋声

 

難解な言葉を下に解説する。

池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢:青春時代の楽しみ。若い時のはかない夢。

階前(かいぜん):階段の前、庭先

梧葉(ごよう):アオギリの葉。

類義語として【光陰矢の如し】がある。

 要するに、時間は直ぐに過ぎ去って行くのだと言う事だ。

【光陰矢の如し】とは、時が矢のように過ぎ去るという意味だ。高校の古典で習う。

勉に平穏な日々が続き、【光陰矢の如し】の諺通り、早いもので、今では大学四回生になっていた。しかし、その平穏さは、彼にとって、という意味である。多くの罪のない人々を殺し続けていたのだから……。

勉は、どんなレポートであっても、原稿用紙には、必ず、大学一回生から愛用し続けているモンブランの万年筆を使って書く。それが、彼の流儀であり、自分自身の性分にマッチしていると信じている。モンブラン万年筆は、アルプス最高峰モンブランのいただきを覆う雪をイメージした、白い星型のマーク(「ホワイトスター」)が付くことで有名である。代表的製品であるマイスターシュテュックのペン先には、モンブラン山の標高である「4810」が刻まれている。

ここ数カ月間、卒業論文と格闘をしているが、勉には、その事が重くのしかかっていた。案外、彼はストレスに弱い性格だ。だから、ストレス解消に、彼が勝手に恨んでいるにせよ、何も罪を犯していない人達を殺し続けている、とも言えよう。

(いっそ二階の窓から原稿用紙を投げ捨てたら、すっきりするに違いない。クソー、それも出来

ない小心な俺だ。大学進学を選択した責任は誰あろう、この俺だ。今更、卒業論文を放棄するのは、俺の現実逃避以外の何ものでもないか? ……まあ、ここらで、少し気分転換をしよう!) 

勉は、百八十四センチメートルの長身を気だるく動かし、押入れを開けて、多くの釣竿からリールを既にセットしてある一.八メートルの短竿を取り出し、重い足取りで一階に下りた。

 

一階には、いつものように、七十九歳になる祖母がまるでカエルのような姿勢で、今にも、その中に入って行き、文句を言いたそうな真剣さでテレビを観ている。TVには、衆議院予算委員会の国会中継が写し出されている。勉は一切政治関係に興味はなかったが、祖母は死ぬほど好きである。常日頃から、彼は、祖母にあれこれと政治談議を聞かされ、いい加減ウンザリしていた。だから、勉に、今の総理大臣を含む全閣僚を言え、と言うのは、勉に鳥のように空を自由自在に滑空せよ、と命ずるに等しい。勉は、肩のコリをほぐそうと、首を何度も回しながら祖母に告げた。

「前の田んぼで、カエルを釣ってくるから! イボカエルばかりだけどね。行ってくるよ。楽しみにしていて!」

「あぁー」

生返事が返って来る程、祖母は、衆議院予算委員会の質疑応答にのめりこんでいる。勉を目の中に入れても痛くない程に可愛がってくれるが、少し偏屈な祖母の邪魔をしないように、静かにドアを開け、ゲロ、ゲロ、ゲロ、ゲロ……とカエルがやかましく合唱している田へ、足早で向かった。家の前と言って良い位の近さに、小さな田んぼがある。日本で食用蛙と言えばヒキガエルだが、沼地で夜中でないと数多く捕獲できない。残念ながら、勉は、それ程までの熱意を持ち合わせていない。

一号の糸を巻いたリールを使い、モドリがある一号針に、丸くした綿をギジエサにする。次々と薄茶のイボガエルを釣り、腰にぶら下げた丈夫な厚めのビニール袋に入れる。半時間程で、二十匹以上釣れたのでアパート「桜荘」の南端の家に帰ってきた。

(敷地内にも周辺にも一本の桜の木さえないのに、「桜荘」と名づけた家主は、一体、何を考えてこんなネーミングにしたのだろう? いくら頭をひねっても、とても理解できないなぁー)

 頭の片隅で、そうボンヤリと考えた。だが、「桜荘」の成り立ちには、特別な興味も何もない。それよりも、イボガエルの方が大事だった。嬉しさに溢れた薄笑いを浮かべて、鮮度が落ちないように急いでアパートに帰った。そして、祖母と自分用に、早速、イボガエルの調理を始めたのだ。

「活け造りにしようかなぁ? おばあちゃん、それで良いだろう? それにしても美味しそうだなぁ! 頬がヒクヒクして、痙攣(けいれん)が止まらないよ! ワハハハハ、ワハハハハ、ワハハハハ、ワハハハハ……」

狭いキッチンで歌うように叫び、二十九万円もつぎ込んで買った、自慢の刺身包丁を取り出した。和食料理を専門に調理する板長が、使用する包丁を使うのだ。刃物の本場である堺の「水焼本焼」≪みずやきほんやき≫は、鋼のみを鍛え上げて作った包丁だ。鋼の塊を叩き、鍛えながら包丁の形にしてゆく伝統的な製法だ。一切妥協を許さず造り上げられた、数少ない本物の本焼包丁であり、熟練した職人が一本ずつ造っているから、とても高価である。しかも、銀色に輝く刃に自分の銘が彫られているのも、勉には誇らしく、自慢したくなるのも無理からぬ一品だ。

カエルの調理方法は、とても簡単で、かすかに震えているカエルを、鍋に入れて炊くだけだ。たまに恨めしそうなカエルの眼と出会うと、残酷にも、千枚通しで眼を突き刺して、

(見えない方が幸せだろう?)

と、いつも思っている。そんな時、良い行いをした善人になったような気分になる。

【価値観が、明らかにまともな人と異なっている! これを知れば、動物愛護団体等に属している方は卒倒するに違いない。まともな人ならば、誰でも似たような気分に襲われるだろう!】

ピクピクと不規則に動きまだ生きているカエルを、勉は大胆に調理する。本来の使い方は圧力鍋であるティファールを、単に煮込み用の鍋として使い、味付けはウスターソースと塩だけだ。出来上がれば、勉と祖母は、手当たり次第に銀製のフォークで口に運ぶ。鶏≪にわとり≫のササミに似た味を楽しむのだ。口から足が出てバタバタさせていても、そのまま無理やり口に押し込む。小さいカエルなので、軽いおやつにしかならないが、食後、勉と祖母は、しばらくの間、食の余韻と至福に浸るのだ。

その後、勉は足取りも軽やかに、再度卒論に挑戦するため、資料に埋もれた二階のデスクに戻った。

 

 勉、祖母と母の家族は、現代の日本人が口にしない「ゲテモノ」を嬉々として食べる。良く言えば「珍味」を好んで食べると言うべきか? 満腹でもそれらを想像するだけで、脳内にドーパミンが充満するのだ。(周囲の環境に適応して、学習しながら、生活するすべを会得していくが、ドーパミンは、学習の強化因子として働いている)

例えば――夜中、小学校で盗んでくるウサギ――昔の日本では、普通に食べていたし、フランスでは今でも食べている。暗闇が迫る頃、巣から飛び出し獲物を捕えるコウモリも、そのまま生で食べる。そして美食の行き着く先は【カニバリズム】だと、勉は思っている。人間が人間の肉を食べる、誠におぞましい行為だ。第二次大戦中、南方諸島での話らしいが、日本軍の一部には死んだ同僚達を食べた。勉は、まだ人肉を味わってはいない。が、それも時間の問題かも知れない。

数時間後、

「ただいま!」

元気な母、良子≪よしこ≫の声が二階にまで響く。母は四十四歳で誕生日が、祖母と同じ四月四日である。勉も四月四日に、この世に生を受けた。つまり、三人とも同じ誕生日である。

毎年その日になると、祖母、シングルマザーの良子、勉を含めても三人だけだが、それなりに盛大な「誕生会」を催す。それは、昔から山下家の恒例行事になっている。父がいないのも苦にならず……むしろ歓迎だと勉は思っている。それ程までに父を嫌っていた。でも、そんな父でも他界した後、心にポッカリと穴が空いたように感じた。勉にとって、父が自分の心に占める割合は、想像していたよりも大きかった証拠だ。彼が、小学四年生の夏の出来事だった。父は交通事故であの世に行ったまま、いまだに帰ってこない。つまり、死亡したのだ。

会社のライトバンで、阪神高速道路神戸線を走行している時、後続車に追突された。父は、軽くブレーキを踏んで停車し、ハザードランプを点灯し後続車の運転手の所へ行こうとした時だった。脇見運転の二十八キロリットルのガソリンを満載したトレーラー型タンクローリーが、後続車に追突した。父はライトバンと後続車の二トントラックに、挟まれたのだ。頭蓋骨は粉々になり、脳味噌が辺り一面に飛び散ったのだ。血にまみれた肉片が、道路のあちこちにへばりついた。充血し半分つぶれた両眼が、入道雲を見つめているかのようにアスファルトに付着した。父は、一瞬の苦しみさえ感じなかっただろう。後になって、それが父にとっての「唯一の救い」だ、と勉には思えた。

(専用のバケツで、バラバラの肉片や骨を収集した人には、心からの敬意を表したい!)

そう彼は思った。なぜならば、気弱な彼には、とうてい出来ない作業だからだ。想像するだけで、彼自身バラバラになりそうだった。意気地なんて、これポッチも持ち合わせていないのだ。

警察から父の死を知らされても、揺れに似ためまいを少し感じただけだった。父を気の毒だという感傷など、少しも持てなかった。と言うのも、頑固一徹の父を、勉は、心の底から嫌悪していたからだった。

父の実兄は、第二次大戦時に海軍に志願兵として入隊し、零戦≪ゼロセン≫のパイロットになった。零戦は、大戦初期には優れた航続距離、重武装、格闘性能を誇っていたのだ。それ故、当時の連合国パイロットから、「ゼロファイター」の名で恐れられていた。ところが、大戦中期以降、アメリカ陸海軍が対零戦戦法を確立させ、コルセアやヘルキャット……などの新鋭戦闘機を大量投入した。それが原因となって零戦は劣勢となったのだ。

終戦に近い千九百四十五年七月下旬、父の実兄は、特攻隊員に志願して片道燃料のオンボロ機で飛び立った。だが、駆逐艦の対空射撃で被弾した愛機が、海面に墜落したのだ。悲願だった敵艦船への体当たりを果たせなかった。しかし、「同期の桜」であった矢野中尉は、敵艦に見事に体当たりして、敵艦に甚大≪じんだい≫な被害を与える事ができた。

勉の父は、赤紙がくる年齢には達していなかったので、戦争には行っていない。しかし、兄を心から尊敬していて、海軍魂≪かいぐんだましい≫を金科玉条≪きんかぎょくじょう≫にしていた兄の精神を、勉の父は受け継ぐ決心をした。現在なら、虐待だと訴えられるようなスパルタ式教育を、勉は受けた。頬がはれ、歯から血が出る程、ゲンコツで叩かれただけでなく、赤くはれ上がる程、むき出しのお尻を、竹刀≪しない≫で力一杯叩かれもした。父の容赦のない厳格な躾に、常に恐れていた。勉は、ひ弱だったせいもあり、どうしても父を愛せなかったのだ。

母は、職場の同僚から、何度も何度も生命保険を勧められていて、事故の二年前に仕方なく加入していた。父が勤めていた会社、加害者の運送会社、毎月欠かさず保険料を支払っていた保険会社……などから、多くの金額が母名義の口座に振り込まれた。だから、盛大な「誕生会」を催せると、勉は勘違いをしていた。実際には、母が勉の将来に備えて、その全額を銀行に預金していたのだった。

勉の家では、母一人が家計を背負っている。母は、高校卒業以来、他の人々以上に血のにじむ努力し続けてきた。母が数々出して来た成果を、社長が認め、従業員数三百名足らずの中小企業ではあるが、現在では課長職を務めている。母は、部下を三十名程使って、次々に新しい企画を立案し実現にまでこぎつけている。だからこそ、世間一般の課長よりも、多くの給与を得ているのだ。

 

 勉の家では、家計消費支出に占める飲食費の割合であるエンゲル係数は、極めて低い。それには、勉が貢献しているのが大きな要因と言えよう。とは言うものの、敢えて、彼が意図しているのではないが……。

殺菌効果があり、細胞を活性化するイチョウのまな板を使い、エサを何度も繰り返し与えて、飼いならして捕まえた三匹の野良猫を、刃渡り三十八センチの良く研いだ牛刀で三等分する。本職が使用する最高級牛刀であり、カーボンバナジウタングステンが、その材質だ。そして、伊万里焼きの柿右衛門作≪かきえもんさく≫である高価な大皿に、まだ血が出ている猫の身を、見栄え良く盛るのだ。勿論、内蔵も骨も捨てずに大皿に添える。

三人が、それぞれマイナイフとマイフォークを持ち寄り、ガツガツと音を響かせて、いただくのだ。さすがに毛はのどに引っかかるので、毛玉にして伊万里焼のツボに吐き出す。

伊万里焼は、佐賀県有田町を中心とする、佐賀県および長崎県で生産された高級磁器である。

勉は、伊万里焼に魅せられ、今は亡き十四代 酒井田 柿右衛門≪さかいだ かきえもん≫氏にお会いした事があった。偶然、九州の観光名所が掲載された雑誌を、立ち読みして知ったのだ。有田を中心とする佐賀県および長崎県で生産された磁器であり、積み出し港が伊万里≪いまり≫であったことから、消費地では、「伊万里焼」と呼ばれるのだ。

勉は、ツボ等に朱色が施されているのが、すこぶる気に入り、製造所を見学してみたい誘惑に勝てなかった。そこで、直接電話をすると、五十歳代位の温厚そうな執事の方が、受話器をとられた。

「関西の国立K大の経済学部に、籍をおいています山下 勉と申します。経済学説史を専攻しております。国産磁器の製造が、有田で始まったのを知りました。誠にご無理を申しますが、製造現場を、見学させていただきたいのですが!」

「そのような理由であれば、先生と相談させていただきます。今は、展覧会を控えております。それが終了次第、ご返事を差し上げてもよろしいでしょうか?」

 勉は、大いに恐縮していたから、電話機に向かって何度も何度も頭を下げたのだった。

「いえ、こちらからまた連絡を差し上げます。あぁあの……誠にお手数をおかけ致しますが、展覧会のパンフレットを、お送り願えませんでしょうか? こちらから、往復封筒を送らせていただきますので」

「あぁ、いいですよ」

と、快い返事をいただいた。

電話を終えると、一気に全身汗まみれになったのは、すこぶる緊張していたせいだろう。

数ヵ月後、勉は、愛車であるブリティッシュレーシンググリーンのソブリン仕様のジャガーを運転して、主に高速道路を走って佐賀県に行き、十四代、酒井田 柿右衛門氏にお会いできた。

勉が通された部屋には、多くの作品が展示されていたが、残念ながら、その価値を判断出来る素養を積んではいなかった。神妙な態度で二十分程、話を聞かせていただいたが、殆ど彼の理解の範囲を超えていた。だから、残念ながら、何も彼の頭には残っていない。

事前に、もっともっと伊万里焼を勉強してから、お会いすべきだった、と後悔したが、後の祭りだった。

執事さんにお願いして、製造現場である木造二階建ての別棟を、案内していただいた。別棟の二階に上がると、入口にタイムカードが、ずらっと並んでいる。まるで、中小企業のようだった。あまりの現実感に、勉はがくぜんとした。もっと夢のある職場を、彼は想像していたからだ。そこでは、数十人が絵皿やツボ……などに、焼きあがった白っぽい陶器に、下絵を描いたり、絵付けをしている。そこで働いているのは、見た目には普通のオジサン、オバサンであり、背中を丸めて黙々と作業をしている。

一通り作業を見せていただいたが、勉は、あまり興味をそそられなかった。黙々として、同じ作業を繰り返すのは、彼の性分に合わないからでもある。ところが、作業場の下の一階には、廃棄された無数の茶碗やツボのかけらがあった。多分、失敗作だろう。打ち捨てられた茶碗やツボの上で、ユラユラと漂う多くの霊に、勉は圧倒され、恐怖心さえもいだいた。失敗した作品に込められた、従業員達の生霊≪いきりょう≫、死霊がたむろしていたのだ。それだけではなく、茶碗やツボ等、無機物の霊も混在している。その一角だけ、気味の悪いまだらな霧がかかっているようだった。霊達は、その場から動けないのだろう。まさに地縛霊だ。それらの霊を感じた勉は、急に悪寒に襲われ、しかも全身に冷たい脂汗も流れ出した。

そこで、不動尊をあがめる念仏を心静かに唱えた。

「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク……」 

少なくとも、勉の乱れた心に平静が訪れたが、それらの霊に打ち勝つ自信はない。

ここから立ち去る以外に身を守る方はないと思い、一刻でも早く逃げ出したかった。

柿右衛門さんのお姿を探したが、お見受けしなかったので、仕方なく、執事さんにていねいにご挨拶をして早々に帰った。要するに、勉は、あまりにも多くの霊を恐れて、尻尾を巻いて退散したのだった。

 

自宅に帰って来た勉は、ホーと安堵をついたのだ。

彼は、いつもの平穏な生活に戻った。

夜中であるにもかかわらず、大型の野良犬四頭を安価な牛肉でおびき寄せて、照明がない暗闇の中で約二時間も要して、やっと槍で仕留めた。草原の貴族と呼ばれるマサイ族が、狩りに使用する槍を模した、お粗末な自家製の槍を数本使った。

(マサイの人々から見れば、軽蔑に値する技量とお粗末な槍には違いないだろうが……。マサイ族は、一夫多妻制である。牛(財産)を多く持つ男は、何人も妻をめとる事が出来るが、牛を持っていない男は、結婚も恋愛も難しい。またマサイ族の文化では、成人男性は、猛獣退治や牛の放牧以外の労働をしないのだ。戦いのみが男性の仕事で、武器以外の道具を持ち運ぶ事すら恥としている)

さて、翌晩は犬が鍋料理の主役になった。暑い夏程、体中に汗をかく熱い料理は体に良い。いつも母の帰りは遅かったから、食事を用意するのは彼と祖母のつとめだった。

勉の家庭生活全般を貫く基礎理念は次のような考え方だ。

祇園精舎の鐘の声

 諸行無常の響きあり

 沙羅双樹の花の色

 盛者必衰の理をあらわす

 おごれる人も久しからず

 ただ春の夜の夢のごとし

 たけき者もついには滅びぬ

現代語に訳すと次のようになる。

「祇園精舎の鐘の音には、永遠に続くものは、何もないと言っているような響きがある。まんじゅしゃげの花の色は、栄えたものは、必ず滅びるという法則を表している。権力を持った者も、長くその権力を持ち続ける事はできない。それは、春の夜の夢のようだ。強い力を振るった者も、結局は滅びる。それは風の前にあるチリと同じである」

現在、地球は海に覆われ、しかも、自然も豊かであるが、巨大隕石の衝突、大陸移動に伴う火山活動や気候変動……などによって、人類絶滅の可能性を否定はできない。タカが鳥の頂点に立つように、今は、人類が全生命の最上位にある。いかなる命を奪っても、人間の細胞に栄養を供給するのは、正当化されるのだ。但し、感謝の念を忘れずに。人類はその栄華を、永遠に享受できない。いつかは分からないが、必ずや滅ぶだろう。

そのように、勉は確信している。

このような考えを、家庭生活の基礎理念にしている。勉の家では、夕食の前後に三人で唱和している。

「宇宙を統括される聖なる【美】よ、いただきます!」

「我々の銀河を創造された【ビッグ・バン】よ、ごちそうさま!」

――ビッグ・バンにより、この宇宙の初めに爆発し膨張して、今我々が知る宇宙になった。宇宙最初期の超高温度・超高密度の状態である――

この【祈り】を最初に口にするのは家長である。父が亡くなった翌日から、勉の役目になり、母と祖母がワンテンポ遅らせて唱和する。それは、いつからか、小川家のならわしになっていた。勉が、宇宙に興味を抱いたのは、父が死亡した翌日で、母が言った言葉がきっかけだった。

「お父さんは、夜空に輝く星になったのよ!」 

勉は、何かにつけて、心の底から父を嫌っていた。しかし、意識下に深く埋もれていた心では、父を愛していたようだ。日毎、父のいない寂しさが増してきたからだった。

父が亡くなったその晩に、早速、夜空を見上げた。でも、どの星が父だろうか? 小学四年生の勉には分らなかった。そんな単純な理由で、宇宙理論を勉強し出したのだった。宇宙工学、惑星科学、天文学、宇宙生物学……などである。それらを出来るだけ理解しょうと、学校の近くにある図書館に通い、何百冊もの本を読んで頭に叩き込むように努力した。宇宙物理学は、勿論の事、純粋数学、アインシュタインの特殊相対性理論、一般相対性理論、超弦理論≪ちょうげんりろん≫に至るまで幅広く研究した。

特に、勉は【ニュートリノ】に魅せられた。

特殊相対性理論に反し、光速より速い【ニュートリノ】の存在を信じている。

【ニュートリノ】の存在が実証されたなら……全く新しい物理学を、人類は生み出さねばならないだろう。

勉は物理学等に興味があった。ゆえに、理科系の学部を志望するのが自然だが、敢えて経済学部を選んだのには、理由がある。

彼は、こう考えたのだ。

(希望を叶えられるという仮定だが……。往復渡航費用、生活費、授業料……などを、全額支給してもらえるフルブライト奨学金を利用したい。勿論、試験のハードルは高いが、飛び越える自信はある。ニューヨーク州にあるコロンビア大学に入学し、量子力学を研究するのだ。この大学から、世界最多のノーベル賞学者が出ている。だが、家には金銭的余裕はない。もうこれ以上、母に家計の重荷を背負わせたくないから、俺は普通に大学を卒業し、賃金の高い一流会社のサラリーマンになり祖母や母を養うべきだ!)

この考えの底流には、資産家へのねたみがドロドロと濁った渦を巻いている。

当時の勉は、どこまでそれを自覚していたのだろうか?

 

勉は、社交的で朗らかな性格だ、と自分を評価している。だが、周囲の人達には敬遠されていた。家庭での食生活は、幼い頃から他人には話していないのに……。保育園で「まともな昼食」を喜んで人一倍食べた。言ってみれば、【食の両刀使い】だ。それは、今でも同じだ。

もっと根本的に、皆から嫌われる原因があった。それは、大きなアザだ。彼が生まれ落ちた瞬間から、顔にあって主張し続ける十円玉大のアザ。そのアザが、成人した今でも右頬に居座っているのだ。顔にあれば、普通のアザでさえコンプレックスを、人の心の奥に植え付けるものだ。

ところが、彼のアザは異常であり、見る者に恐怖心さえ抱かせる。朝起きる毎に、その位置を変えているのだから……。どす黒いアザが、目と口の間を移動しているのだ。ある朝には唇の真上に、またある朝には眉毛の横にある。しかも、毎朝移動しているアザには、二~三センチの毛が、数十本直立している。それを勉は、笑顔でごまかしている積りだ。しかし、他人にすれば、彼の表情には不気味さと底知れぬ悪意が、漂っているように見えるのだ。こればかりは、四六時中隠しきれない。常に、他人の前では、萎縮してしまうのを克服しょうとしているが、毎日続けることは非常に難しい。

そこまで継続する強い意志を持ち続ける事は、どんなに努力しても彼には無理だった。彼ならずともそんな芸当は、不可能に近いだろう! 

見苦しい黒いアザのせいでイジメにあったことはないが、心を許せる友達もいない。

小学二年生の時だけ大勢の友達ができた。そう――【幽霊屋敷】を探検したその年だけで、それ以外の時には、どうしても友達を作れない。今でも、その事を不思議に思っている。

 

勉には、明確に区別できる二人の人格が存在しているのだ。

それらの天と地ほど異なる人格が、彼の行動を支配するのだ。ある時は、人形≪ひとがた≫を使って、人を苦みのどん底に沈める。ひどい時には殺害も平気でし、まるで気にも留めない。またある時は、比類なき人情家にもなる。

これは、解離性同一性障害であり、自分が他人とは相当変った性格の持ち主だと、本人も自覚はしている。解離性同一性障害は、多重人格といわれている。しかしながら、一人に複数の人格が宿ったわけではない。まるで独立した人格のように見えるが、それはその人が持っている一部分だ。一般には、交代人格と呼ぶ。しかし、それぞれが、その人格の一部なのだという理解が、重要である。交代人格は、その人が生き伸びる為に、必要があるからこそ生まれてきたのだ。

全ての交代人格は、何らかの役割がある。その事を勉は良く理解しているし、自分の意志でどちらの人格にも簡単になれる。

そんな事をするのはとても無理だ、と精神科医は主張している。だが、勉には易しい事であるのは、ある種の不気味な超能力を身に付けているからだった。また、幼い頃より、勉のIQはずば抜けて高かった。が、IQの高さだけで、友達を作ることは出来ないのも当然だろう。まして、IQの高さだけで、世間をうまく渡って行くのは困難だ。そうだから、生涯にわたって、勉は孤独に押しつぶされそうな日々を送ってきたのだった。彼にとって、孤独は何よりも恐ろしい天罰だと言えるだろう。

 

「チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ……」

勉が大事に飼っている、かなりの数のネズミ達がうるさく鳴いている。ネズミ達の殺されそうだと訴えているような悲鳴が、突然、彼の耳に飛び込んできた。勉は、室内の空気を入れ替えようとして、窓を開けていた。ところが、窓を閉るのを忘れてしまって、一階で祖母と話し込んでいたのだ。彼は、慌てて二階へ上り、四匹の猫を見つけた。その猫達を殺害しようと思って、窓を閉め直ぐにドアも閉めた。だが、捕まえた猫は二匹だけで、残りの二匹は一階の勝手口から逃走したようだ。これまで、大事に、大事に育てて来たネズミの内の十四匹は、鮮血にまみれて死んでいた。大切な家族を亡くしたような気分が勉を襲い、大粒の涙を流し絶叫した。

「わああああああああぁぁぁぁわああああああああぁぁぁぁわああああああああぁぁぁぁ……」

勉は、声の続く限りの悲鳴をアパート中に響き渡らせた。

粘着シートを使い、つかまえた子供のオス・メス二匹ネズミを、精一杯愛情込めて世話をして増やしたのだ。だからこそ、勉にとっては、他人の想像を絶する悲しみだったのだ。祖母に、長い間、なぐさめられてやっと泣き止んだ。それ程に、彼の苦悩は、深い、深い漆黒に染まった闇に沈んでいたのだ。恐らく、常人の理解を遥かに超えた苦悩だ、と言えよう。

オス・メス二匹から始めたネズミの繁殖は、現在、四百匹以上に繁殖している。

オリの中には、チーズの女王カマンベールチーズ、水、硬式ボールを入れている。硬式ボールを入れている理由、それは――ネズミ達は、硬い物を齧≪かじ≫らないと、伸びた前歯が口をふさいでしまうので、食べ物を口に出来ずに餓死するからだ。

そんなに勉が、愛情込めて世話をしている訳は……。ネズミの食性を徹底的に調べて、可愛がって育てているのは、ネズミ達を更に太らせて、残虐にも【生きたまま食べる】為だったのだ。

気の弱い人ならば、想像するだけで気が狂いかねない残酷さだ。

 

 

 

勉は、自身の事を一般の人々とは全く異なって、ある意味様々な超能力を未来に向かって獲得出来る素質、否、先祖から連綿と受け継がれて来た優れたDNA配列を持つ、人類の歴史をも覆す事を可能に出来る【ミュータント】だと、信じて疑わないのだ。  

ところが、勉の潜在意識には、自分自身が死亡すれば、間違いなく地獄に落ちていくだろう、と、恐れの塊が存在している。それを忘れようとして、残虐な行為をし続けているのは否めないのだ。だからこそ、時々だが、まるで空気が薄くて気圧が低いチョモランマ(エベレスト)の頂きから滑落してしまったように、深い奈落の地獄へ落ちて苦しむ悪夢を見るのだ。その悪夢は、寸分違わずいつも同一である。レム睡眠とは、いわゆる浅い眠りの事でレムとは急速眼球運動の事であり、目がキョロキョロと動く急速眼球運動のある睡眠である。レム睡眠中は、体は休んでいるが、脳は覚醒の状態に近く、一般的に夢はこの時間に見ているのだ。勉が見る悪夢の内容は、かなり長い内容だ。勉には、長たらしい悪夢だと思えるが、実際に悪夢にうなされているのは、ほんの数秒程である。

 

勉も家にとじこもってばかりではない。

どちらかと言えばアウトドア派であり、新鮮な空気を胸一杯吸い込みたい、といつも思っている。気が向けば、あちこちに出かけている。春は山菜取り、夏は森林を探検しながら、木々が出すフィトンチッドを滝の水を浴びるように、全身に受けるのも大好きだ。

専攻している専門ゼミは、経済学説史である。当然、大学四年生になる彼は、毎週そのゼミには出席している。更に、彼は、毎週木曜日にある「数理経済学」の講義には、必ず出席している。数理経済学は、経済現象を数理モデルで数学的に解析し説明する分野であり、数学に近い学問である。学生が、およそ無味乾燥な講義だと思っている証拠に、受講する学生は極端に少ない。しかも、その講義は、最終の四時限目にあるので、誰からも敬遠されている。皆は、大学から早く帰って、自由な時間を、思う存分に享受≪きょうじゅ≫したいからだ。

 

勉は、毎朝コーヒーを必ず飲むのが、習慣になっている。

レギュラーコヒーのキリマンジャロを、母と祖母も含めた必要な量の豆を、粉にしてサイフォンで三杯分、自ら作るのだ。キリマンジャロは、タンザニアのキリマンジャロ山のふもとある町で、アルーシャやモシ近い高地にあるプランテーションで栽培されており、品種としてはアラビカ種だ。果実から加工生産した生豆は、緑灰色をした大粒で強い酸味と甘い香りがする。その少し酸味のある味に、三人とも魅了≪みりょう≫されている。カップとカップソーサーは、高級感に溢れるドイツ製の白いマイセンを使っている。

水曜日には、専攻しているゼミだけを受けるから、四回生の勉は、家族と一緒にのんびりと朝食をとれるのだ。今朝の献立は、コーヒーとトーストだ。マイセンの別のコーヒー茶碗には、黒絵の具と少し薄くしたコールタールが入っている。トーストには、自家製のウジ虫を集めて、すりつぶしたジャムを載せる。更に、その上に、十センチ程の腐液と体液が交じり合ったシマミミズを盛って食べるのだ。勉は、感激のあまり笑顔を異様な具合にひきつらせていた。それらは、彼の大好物だったから、トーストを四枚も平らげた。全体がしま模様のシマミミズの体長は、六センチから十八センチで、一般的には、釣りのエサに使用する。野池、流れのゆるやかな川等で使い、弾力性がある竿で真鮒≪まぶな≫を釣り、投げ釣り用の竿で鯉≪こい≫を釣る時のエサだ。

「こんなにシマミミズは、美味しかったかなぁ?」

勉がそう言ったのを耳にした母は、すかさず言った。

「それは、お前が大人になった証拠だよ。子供の頃は、まずそうに口に運んでいたからね。……良い兆候が現れたのだよ!」

「良い兆候だって? よく分からないけど。おふくろがそう言うだから、俺は信じるよ!」

勉は、半信半疑のようすで小さくうなずいた。幼少の頃から、喜怒哀楽をあまり感じられないから、自分を情緒欠乏という精神疾患ではないかと疑っていた。だから、自分が受け継いだ、特異な遺伝情報の数々を以前から知りたかった。そこで、良い機会だからと思い、母に尋ねてみる事にしたのだ。

「おふくろの両親の話は、全然聞かないけど。……何か俺に話たくない事情でもあるのかい? 言いたくなければ、無理に話さなくても良いよ」 

一瞬、困った表情が、母の顔に浮かび今にも泣きそうになった。母の泣きそうな顔を見て、勉はもらい泣きしそうになった。

 

母の提案で、二階にある勉の部屋に勉と母と祖母が集まったが、しばらくの間、沈黙と気まずい空気が、三人を包み込んだ。母は悲哀に満ちた顔をして、小声でゆっくりと言葉をつむいだ。

祖母は、一切口を挟まず、うなずきながら母の話に相槌≪あいづち≫を打っていた。祖母の菊≪きく≫にとっては、周知の事実なのだろう。

「もう、お前に私の両親の真相を教えても良い頃だ、と思っていたわ! お前に、物心がついた時から嘘をついてきたのは……お前が、かなりのショックを受けるだろうと、恐れていたからだよ。交通事故で、私の両親が亡くなったと言っていたでしょう。それは真っ赤な嘘なの。実際は、鴨居≪かもい≫に、二人そろってロープで首を吊っていたのよ。遺体の近くには、封筒に入った遺書が置かれていたわ。その内容を短く言うと……」 

その光景を思い出したのであろう、母の目には大粒の涙が溢れた。またしばらくの間、暗い沈黙が三人の上に落ちたのだ。

ようやく、母は重い口を開いた。

「私が、まだ高校一年生の時だったわ。墨汁を刷毛で塗ったような黒い雪雲が、空一面を覆っていた冬の出来事よ。最初に見つけたのは、お手伝いのマリコさんだった。慌てて救急車を手配したけれど、もう両親は帰らぬ人となってしまった。お抱え弁護士立会いのもとで、遺言書の封を切り内容を確認したわ。冒頭部分は、私と祖母に対する謝罪の言葉で、つづられていたの。それを再度見ると、再び涙が止まらなくなった。察するところ、どうも、二人は彼岸に足を踏み入れたらしいの。普通の人が経験しない【霊】の世界をさすらう事になったらしい。それまで、二人とも霊感すらなかったのに……。古本屋で虫食いだらけの古書を購入し、その書にあった呪術の言葉を声に出して詠んだ≪よんだ≫途端、異界に引きずり込まれたらしいわ。古文書にうとい父は、幸せが訪れるものだとばかり、勘違いしたらしいの。このままでは、一人娘の私にも災厄が降りかかると心配し、さんざん悩んだ挙句の果て、両親は心中を選んだのよ。地元の名士だった父名義の財産に、親戚がアリのように群がり、金品をだまし取られた私達の家は、あっけなく没落したわ。私と祖母の人生は、まるで坂道を転がるように、どん底に落ちて行ったの。……思い出すのも辛いから、この位で許して!」 

瞼≪まぶた≫を真っ赤に腫らせて、母は言い終えた。勉は、二人が味わった悲劇をなぐさめる言葉を、あれこれと探したけれど、適当な言葉は見つからなかった。だが、二人の顔を交互に見ながら、辛い思いを共有した事を確認した言葉を、口に出した。

「辛かっただろう、おふくろとおばあちゃんは。いやな出来事を思い出させて……ごめんな!」 

そう言うのが精一杯で、勉は、思わずもらい泣きをしたのだ。

勉は、いつまでも母が会社に出かけないのを、不審がって尋ねた。

「おふくろ! 会社に行く時間は、とっくに過ぎているけど……いいのかい?」 

母は、まだ涙声混じりで蚊の鳴くような小声で言った。

「今日は、営業部長に許可を得て有給にしたの。この半年間、殆どの休日も出勤し夜遅くまで、仕事に全身全霊を打ち込んできたわ。勿論、管理職だから残業代は発生しないけどね。おかげで大きなプロジェクトを無事達成できたの。『一週間ほど休んだらどうだい!』。そう、部長に、優しい言葉をかけられたわ。でも一日だけ休む事にしたの。勇気をふるって、お前に語る時が、遂に来たと思ったからよ。私の父方のお祖父さんの忌まわしい体験を!」 

母は、固い決意を込めた眼差しで言い放ち、暗く沈んだ瞳をして実父の父、康≪やすし≫の奇怪な行動について、にわかには、信じられないようなおぞましい話を語り出したのだ。日頃、冷静沈着な母が、自嘲≪じちょう≫じみた、少しヒステリックにさえなっているように、勉には思えた。

 

 

 

 

 

ここから――

 

 

 

「私の父方の里は、代々庄屋だったの。多くの小作人を使って、田を耕せてきたわ。姫路藩から名字、帯刀を許された由緒ある家系で、明治維新の後は多くの国会議員、学者……などを生み出してきたわ。だから、地元では名士だったの。でも、祖父の康は、越えてはならない彼岸に足を踏み入れてしまった。祖父の康には、幼い頃から霊が見えていたらしい。偏屈な彼は、霊と遊んでばかりいたらしい。そこまでは、なんの実害もなかったわ。

でも、旧制中学の二年生の四月頃から、急に顔つきと振る舞いが変わったらしいの。鬼よりも恐ろしい行動をし出した。祖父の康は、夜な夜な女中の部屋に忍び込んで、着物ごと彼女達を食べ出したらしいの。血飛沫≪ちしぶき≫は天井にまで達して、部屋中には、砕かれた血まみれの肉片が、壁や床にまき散らされていた。

当初、康の両親は、狼が襲って来たと思っていたので、力自慢の下男達に寝ずの番をさせた。最初の夜、突然、奇声を発しながら不審な人物が、どこからともなく闇夜に現れた。下男達は、全員がかりで、異常に強い力で暴れん回る男を、何とか捕まえるのに成功した。明かりで確認すると、その男は、なんと祖父の康だったで、下男達は驚愕≪きょうがく≫を隠せなかったの。

縄で身動き出来ないように縛られた康は、あろう事か、歯で縄をかみ千切り、座敷牢からでたのよ。しかし、またもや力自慢の下男達に取り押さえられた。

両親は、なぜそのような蛮行≪ばんこう≫をしでかしたのか、と聞こうとした。が、彼は、いきなり暴れ出して下男達を振り払って自由になり、鋭い良く磨いた銀色に輝く稲刈り用の鎌を、両親の喉に何度も何度も突き刺して、両親の首を皮一枚残して殺害し、更に、腹を裂いて腸を引きずり出して両足で踏みにじった。両親の首から噴き出した血飛沫≪ちしぶき≫で、辺り一面は、血の海になっていたわ。その一部始終を目撃していた、屈強な下男達でさえ、我先に屋敷から逃げ出したの。

祖父の康は明るい昼間には山の中に隠れ、夜になると、娘がいる民家に忍び込んで、抵抗する人々を無残に殺し、標的にしている若い娘を血祭りにして、次々と犠牲者を増やしていったわ。その数は、数十人にも上ったの。私の祖父には、血に飢えた悪霊が憑依≪ひょうい≫していたのだわ! いいえ、祖父は、悪魔その者になってしまったのよ! 生き延びた知り合いの人々の言うには、祖父の周りには負のエネルギーが、充満しているだけではなく、「悪のエネルギー」が渦を巻いて祖父をあやつっていたらしい。

しかし、四日後に、自ら鎌で腹をえぐって、喉まで切って死んだ。藻だらけの緑の沼に浮いていた、血みどろの康。彼を捜索していた巡査が発見したの。全ての精神活動が、悪霊に支配されていたのよ。これが、康お祖父さんの哀れで恐ろしい話なの。そのような血が、勉に流れていないか心配で、心配で!」 

母は、ガーゼのハンカチで目頭≪めがしら≫を押さえながら、言い終えた。横で聞いていた祖母も目を真っ赤に腫らしていた。

しかし、勉の見る夢の中で、既に、康は真相を語っていたのだ。

「僕が犯した幾多の罪――それは、悪霊に、僕の体と精神を、自在に操られていた事が、原因で

す。旧制中学の二年生の四月四日の夜中、二時頃でした。全身が、雷に打たれたような猛烈な痺

れに、襲われたのです。それ以来、僕の体と精神は、本来の僕のものではなくなったのです。

 肉体も精神も、悪霊に操られ出したのです。瞬く間に、ぼくの心は、悪霊に黒く塗り替えらの

です。だから、僕の意思では、悪魔のような行いを、どうしても抑えられなかったのです。

今でも、地獄すら行けずに浮幽霊になって、この世をさすらっています。罪の意識が鉛のように重くて、常に頭が割れそうに痛いのです。この苦しみからのがれる方法はないのです。

あぁ……苦しい、苦しい、……後生だから、誰か助けて欲しい! ですが、一つだけ方法はあるのです。それは――他人に憑依≪ひょうい≫すれば、僕はこの苦しみから逃れることが可能です。しかし、僕には、そんなむごたらしい事なぞ、とてもできません。だから、このまま浮幽霊として、この世をさすらっていなければならないのです!」 

しかしながら、勉は、その願いを叶えてやれなかったのだった。彼は、浮幽霊をあの世に送る能力も、修行もしていなかった。可哀そうだと同情は出来ても、彼には何の手だてもないのだ。

今でも、康は、勉の夢の中に現れて、同じような訴えを延々と続けているのだ。

 

ある朝の事だった。

なんの脈絡もなく急に祖母が言い出したように、勉には思えた。

だが、祖母にとって十分な理由があったのだ。

「そうじゃのう。美の精霊に両手を合わさなきゃ、とんでもない罰があたるぞ。イヒヒヒヒ、イヒヒヒヒヒヒヒ……」 

祖母は、総入れ歯をキッチンで洗いながら笑っているのに、いやにはっきりした言葉で言った。常人なら総入れ歯を外すと、その言葉は理解できない。祖母の口周辺にはシワが多く、笑うと口は異様に大きく感じ、勉は今やもう都市伝説になっている「口裂け女」を連想した。

「勉、今、わしを口裂け女だと思ったのではないかえ?」

「う、う、うん。おばあちゃんには、昔から俺の考えを読める超能力あったなぁ。おばあちゃんの悪口は言えないなあぁ!」

 優しそうな表情をして、祖母は言葉をつむいだ。

「まあ、そんなことぐらい許してやるよ。ある意味では当たっているからのう。確か、江戸時代じゃ。大雨の夜、わしは、ずぶぬれになりながら歩いていると、大黒屋長助の下人の権助≪ごんすけ≫が傘をさしてくれた。傘を持っていないのを気の毒に思ったのじゃ。相合傘≪あいあいがさ≫に、わしは一瞬、心をゆるませてしまったのじゃ。わしの口角が、思わずつり上がってしまった。不幸にも、権助は、わしの口が耳まで裂けているのを、ハッキリと見てしまったのだ。可哀そうに、権助は、その後精神に異常を来たして、一カ月も経たないうちに死んでしまったのじゃ。南無阿弥陀仏≪なんまんだぶ≫、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀……」

 だが、祖母が言っている事に、勉は矛盾を感じて祖母に尋ねた。

「でも、おばあちゃんは、明治生まれの筈だよねー。今の話は、江戸時代でしょう。時代が全く違うよ!」

 祖母は、口を尖らせて不機嫌そうに言った。

「でも、事実だから仕方ないわい!」

「もう、認知症になったのかよー。おばあちゃん、しっかりしてくれよ!」

「馬鹿だねえ、お前は。わしの前世に経験した話だよ。お前の期待に反して、わしはまだボケとらんわい!」

 勉、母と祖母の三人は、腹をよじらせ、畳を叩きながら大笑いをした。

「アハハハハ、アハハハハ、アハハハハ、アハハハハ、アハハハハ、アハハハハ……」

一家は、団欒≪だんらん≫の至福に酔っている。そんな些細な事が積もり積もって、勉、母、祖母の三人の目に見えない強い絆を、更に強めていくのだ。

「ところで、おばあちゃんの前世はどんな人だったの? 俺は、ホラー小説が大好きだけれど、口語調で話してよ。映画で観るような、時代がかったセリフで言われるのは、どうも苦手だなぁ。まるで、歌舞伎を鑑賞しているみたいだからだよ。お願い! 口語調で話してよ。頼むよ!」

 勉は、まるで、神様にお願い事をしているかのように、祖母の目を見ながら両手を合わせたのだ。

「全く、しょうがないのう。お前の望みに従うよ!」

「ありがとう。無理言って、ごめんな!」

祖母は、おもむろに、一つ可愛い咳払いをしてから、とても若くて張りのある声で語りだした。今年で七十九歳になるのに……。

「良子には、とっくの昔に話をしたのだがのう。えーと……お前には、まだ話していなかったかのう。参勤交代で、殿とともに江戸屋敷にいた時の事だよ。また、例の殿の残酷な気まぐれが、始まったのだ。

 当時は、江戸時代後期の天保八年であり、寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つ天保の大飢饉≪だいききん≫の真っただ中であった為、徳川幕府より付与されていた石高≪こくだか≫の三ぶんの一しか農民より年貢米を得られなかった。天保の大飢饉は、江戸時代後期の千八百三十三年(天保四年)に始まり、千八百三十五年から千八百三十七年にかけて、最大規模化した飢饉であった。

殿の領地が、米作に偏った政策を行っていたので、被害が甚大であったのだ。各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発していたからだった。その主たる原因は、洪水や冷害であり、その結果、各地で餓死者は多数出た。天保七年には、幕府直轄領である甲斐国で、一国規模の百姓一揆が起きた。天保騒動や、天保八年に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。特に大阪では、毎日約百五十から二百人を超える餓死者を出していた。

 当然、殿は、家臣達を飢えさせる訳にはいかない。そこで、今まで貯めて来た在庫を取り崩さざるを得なかったのだ。それらが起因して苛立ち、今後の見通しは真っ暗なので、とうてい未来に対して期待なぞ出来ないので、殿はかなりあせっていた。

 殿は、家来に命じ、貧しい農民達に大金を握らせて、幼い子供達を二十人買ってこさせた。

その頃、殿の領地にも、飢饉≪ききん≫が農家を襲っている真最中だった。食料が欠乏して、全国のいたる村で、おびただしい数の餓死者を出していた時期だった。くちべらしの為、次男以下の幼い子供達を、自らの手で殺害していた時代だ。農家の跡を継ぐ長男だけを、生かしていたのだ。

銘をすりつぶした「妖刀村正」の試し切りをするために……。

怒気と絶望に覆われて自暴自棄になっていた殿は、家来に命じて、屋敷内にある座敷牢に二十人の幼い子供達を、無理矢理に閉じ込めさせていた。

殿は、妖刀村正をうやうやしく持ち、座敷牢に単身入って行ったのだ。

そして、殿は、座敷牢の中でギヤー、ギヤー、ギヤー、ギヤー……と、悲鳴を上げて逃げ惑う子供達を、村正で手当たり次第に切りつけた。私は牢のすぐ側で見ていた。しかし、とうてい正視出来ず、胃がむかついてきて何度も何度も吐いてしまった。

だが、殿は、うっとりとした表情を浮かべて、ヨダレをたらしながら、喜びに満たされたようなゆがんだ笑顔さえしていたのだ。あちこちで噴き出す真っ赤な鮮血が、天井までをも染めていたのだ。血にまみれた畳の上で、首のない死にかけの子供が、全身をケイレンさせている。その子供の上を、腹を切られ腸を引きずった子が、フラフラ左右に動きヨタヨタした足取りで踏みつける。身の毛もよだつ、とてつもなく恐ろしい光景だった。その時初めて知った事がある。

そ、そ、それは――首を切断されても、しばらく、目と口をわずかに動かしていた事だ。

私は、その光景を見て、大粒の涙が出て止まらなかった。

いかな名刀であっても十人も切ると、刃がこぼれ、脂肪がベットリと刃に絡まっていたらしい。やむを得ず、殿は刀の先で、子供達の顔面や喉を突きだしたのだ。両目をえぐられ大量出血した子が、悲痛な大声を出して泣きながら右往左往している。結局、殿は子供達全員を、無残にも殺害したのだ。

座敷牢には二十人の子供達の死体と、どす黒い血の海が広がっていた。その光景は、まさに地獄絵図だった。

ゴボゴボと口から血を出し続けている子供。喉を突かれて、いまだに動き回って、寸前に死を迎えているのにもかかわらず、鮮血をあちこちにまき散らしている子供。死の饗宴が始まった最初の頃に、村正でけさがけされて、既に死亡している子供。腹を斬られ、体の内部にある臓物≪ぞうもつ≫を飛び出させ、血の海の中で死んでいる子供。スパッと首をはねられていたが、いまだに、胴体から鮮血を噴き出させている子供。両目をえぐられ、自分が出した血の中で暴れまわった痕跡があり、眼窩≪がんか≫をむき出しにして亡くなっている子供……など、悲惨な死に方をした子供達は、まるで、鮮血の海で溺れたかのような姿だった。

殿は悪魔その者だ。いや、邪悪な魔王のような存在だ、と言えるだろう。

私の全身の毛が逆立ち、激甚≪げきじん≫な恐怖心と殿への嫌悪感とで、震えは止まらなかったのだった。

殿の顔が醜く歪んで、般若≪はんにゃ≫のような恐ろしい顔になり、嫌悪感を辺りに振りまいて、ワハハハ、ワハハハ、ワハハハ、ワハハハ……と、長い間、笑っていたのだ。   

その後、家臣に命じ、屋敷内の庭を深く掘って子供達の遺体を埋めさせた。遺体をかぶせた土に、四寸位の桜の苗木を四本植えさせたのだ。勿論、家臣達には緘口令≪かんこうれい≫をしいた。

一部始終を見届け恐怖に震えていたが、何とか恐怖心を押さえて、私は、嫁いで初めて殿をいさめた。その時、嫌な予感が脳裏を走った。

その予感は的中したのだ。

殿は、いきなり小刀で私の口を切り裂き、屋敷内に昔からあった古井戸に放り込んだ。上部にフタをされたので、井戸の中は真っ暗な闇になった。その時、井戸の中の暗い一角に、コケに渡したクモの巣が見えた。ぼんやりと見えたのは、私の目が暗闇に慣れたからだろう。私は、井戸の壁面を爪で引っかいて、何度も何度も登ろうと試みた。爪が剥がれ、血だらけになっても登ろうとしたが、とうとう冷たい井戸の底に沈んでしまった。多分、私の力が尽きてしまって、絶命したのだろう。

何刻経た時だろうか? 肉体から、怨念でいっぱいに膨らんだ意識だけが、抜け出るのを感じた瞬間、私の体はまるで風船のように軽くなった。そう思った刹那、私は、フワ、フワ、フワ、フワ……と上昇し、何の苦もなく井戸のフタの間をすり抜けたのだ。

自分の座敷に向い、わずかに開いているふすまの間を通って座敷の中に入り、普段から使っていた裁縫箱から、タコ糸と太い針を持ち出した。その頃には、もう暗闇が屋敷を覆っていたのだった。私は、殿の寝屋≪ねや≫の天井近くに、フワ、フワと浮かんだ。安らかにイビキをかいている殿の寝顔を、見下げた。その瞬間、恨みと復讐心が、メラメラと音を立てて燃えてきた。私は、その時、既に、激しくて恐ろしい怨念を背負う死霊となっていたのだ。

私は、素早く殿の口を縫い合わせた。これで、外で寝ずの番をしている者にも、助けを呼べないだろう。激痛にみまわれた殿は、布団の上ばかりか畳の上でも暴れまわったが、行灯≪あんどん≫のロウソクの炎を、かすかに揺らしただけだった。

殿の眼は、キヨロ、キヨロ、キヨロ、キヨロ……と、宙を彷徨っていたのは、私の変わり果てた姿が見えていないからなのだろう。もともと、殿は、霊感なぞ少しも持ち合わせていない凡人だ。そこで、恐怖を味あわせてやろうと思って、私は、顔を殿に見せてやったのだ。大島紬≪おおしまつむぎ≫から冷たい井戸水をポタリ、ポタリと、したたらせ、どす黒い血を流している耳まで裂けた口も……。

すると、怨念極まる私の恐ろしい顔に耐え切れず、殿は、ガタ、ガタと全身を震え出させたのだ。その姿は、道化師以上に滑稽≪こっけい≫だった。暗い情熱に燃えていた私は、真黒なお歯黒を塗った歯で、殿の頭にかみ付いて、頭蓋骨を砕いて灰色の脳味噌を露わにしてやったのだ。そして、脳味噌を、ゆっくりとすすってやった。すると、まるでゼンマイを巻き過ぎて、こわれたカラクリ人形のように、殿は激しく痙攣≪けいれん≫し、充血した両眼は、不規則にグルグルと激しく回っていたのだ。次に、喉をかんでやると、バリ、バリ、バリ、バリ……と、大きな音をたてて骨が砕け、鮮血がいかにも噴水のようになって、天井にまで達した。

殿の「妖刀村正」の試し斬り――実際は、絶望に襲われ自暴自棄になっていた――によって、座敷牢の中で、無残に殺された農家の幼い子供達のように……。

水ではなくドス黒い血という違いはあったが、演者の体やセンスから、水を飛ばせる噴水術さながらだ。

私は、殿の寝間着を引きちぎり、いい食事ばかりを食べていた為に、たるんでしまった腹から内臓を素手で取り出し、そのけがらわしい内臓を布団の上にぶちまけた。更に、腸を引きずり出し、首にグルグル巻きにしてやったのだ。

殿と私との結婚は、敵対する勢力同士の和睦≪わぼく≫が目的で、無理やりにさせられた政略結婚だった。十六歳で嫁入りして以来、「おなごの喜び」を教えた――いまだに、かすかに愛着を感じている――殿の【一物】をかみちぎった。もう粘りついていた血が重く淀んでいる畳の上に、いったん、【一物】を転がしてやった。そして、殿の鼻をかみちぎり、そこに無理やり【一物】を押し込んだ。殿は、虫の息だったがまだ生きていたのだ。死ぬ間際には、雄の【一物】が

怒張する、と草双紙≪くさぞうし≫――江戸時代中頃から、江戸で出版された絵入り娯楽本――で読んでいたが、今まであれ程だとは想像すらできなかった。

更に、刃こぼれした「妖刀村正」をノコギリのように使って、殿の首をガリ、ガリ、ガリ、ガリ……と、音をたてて切った。すると、まるで貴族がけって遊ぶケマリのように、生首が畳の上に転がり落ち二~三回飛び跳ねて、まるで畳の上に生えたような殿の顔が、こちらを向いていた。頭と脳のない顔を力いっぱい踏むと、鼻や、アゴなどが砕ける、バキ、バキ、バキ、バキ……という音がした。女は、愛が深ければ深い程、裏切られた憎しみも深く、殺されれば、なお一層恨みも計り知れない位に深いのだ。

屋敷を後にした私は、四十四年間、江戸の町を彷徨い続けた。――俗に言う、浮幽霊になってしまった。浮かばれない霊になってしまう程、辛い事はなかった。その後、仏様のはからいであろうか、やっと地獄に落ちて行ったのだった」

祖母は、余程話し疲れたのだろう。フーと長い溜息をもらした。

(いや、話し疲れたのではない。忌まわしい前世の記憶をよみがえらせたのが、原因だろう!) 

 悲しくて忌まわしい前世だったが、復讐出来たのだからある意味では救われていた、とも言えるだろう。

祖母の目のまわりには、いつの間にかドス黒いクマができていた。しばらく、気まずい沈黙が三人の上に訪れた。十五分程、充血した眼を左右バラバラに回転させ続けた後、祖母の菊はまた語り始めた。

「当然ながら、お家とりつぶしの命が江戸幕府より下った。我が大名家は、お家断絶の憂き目に遭ったのだ。家臣は浪人になりチリジリに離散した。お家大事の武家の世界では最大の罰だよ。こうして、我が外様大名家は消滅してしまった。

春に里にやってくる稲(サ)の神が、憑依≪ひょうい≫する座(クラ)だから、サクラと呼ぶのだ。

四本の桜の苗は、その後も順調に成長を続けて立派な桜の樹木に育った。たが、それらの樹木は、どんな方法を使っても伐採できなかった。作業員が、桜の木に触れただけでも、はやり病等に罹患して尊い命を落とした。これらの桜の樹木は、皆から恐れられていたのだ。今でも【たたりの木】だと呼ばれ続けている。

その下には、多く子供達が埋葬されていたので、【たたりの木】は、肉体、特に脳味噌を養分として育ったのだ。今では大きく成長して、樹齢は軽く二百年を超えているだろう。昭和初期には、桜の樹木の真下に、神社が建立されて御神木として祭られた。なぜか、長寿のシンボルとなり、

「ありがたや、ありがたや、ありがたや、ありがたや……」

神主を初めとして、信徒達が口々に礼賛して拝んだ。だが、いつの間にか、その神社も存在しなくなった。

今では、四本の桜の木を避けて県道が通っており、伐採しようとする者に祟るから、誰も切り倒しはしない。まあ、勉が、それらの四本の桜の樹木を、目にする事はないと思うよ。お前が、東北地方を訪れん限りはのう!」 

祖母は、フーと長い溜息を何度もついた。疲労の色が、祖母の顔に浮かんでいる。

(長く話したので、かなり疲れたのだろう)

祖母に、勉は心配そうな表情を向けた。

 

「今日は休みだけど、今から会社に行くわね!」

と、言って母は元気よく出勤した。

勉は、祖母の話に全神経を集中させていたので、母の言葉も耳に入らなかった。彼は、全身の毛穴という毛穴から冷たい汗が出て、恐怖で青くなった唇をブルブルと震わせている。

少しの沈黙の後、彼は祖母に尋ねた。

「地獄の様子をぜひ聞きたいなあぁ。お願い、お願い、教えて!」

「学校を遅刻するのじゃないのかい?」

「大丈夫。大丈夫。まだまだたっぷりと時間はあるよ!」

祖母は、昔を思い出すような遠くを見つめる表情になった。

地獄にいる悪魔のような顔が、一瞬現れたが……。

「気がつくと、わしは美しい花々に囲まれていた」

「それは、極楽の光景じゃないの?」 

祖母は、額に一筋の深いシワを作って勉の言葉をさえぎった。

「人の話は最後まで聞くものだよ! お寺にある地獄の絵が、全てではないのじゃよ。お前は、わしの体験を知りたくないのかい?」

「ごめん。ごめん。へそを曲げないで続きを聞かせてよ!」

「しょうがないねー。……えーと、どこまで、話したかのう?」

「お花畑の最初だよ!」

「あぁ。そうそう。そうだった。……すみれ、ポリアンサス、ひまわり、シクラメン……など、咲く季節がバラバラの花々が咲いていた。それらの花が、見渡す限りの大地を覆っていたので、花の香りが混ざり合った悪臭にひどく悩まされた。悪臭が胃にまで入り込み、私は、何度も何度も吐いた。

何気なく空を見上げると、楕円形をした四つのルビー色の太陽があった。四つの太陽が、ジリジリと身をこがすのだ。地平線まで、見渡す限り誰もいないようだ。こんなにもわびしい孤独感を味わったのは、生まれて初めての経験だった。

その時、誰かの文章が脳裏をよぎった。

「人は、悪霊にとりつかれて死ぬのではない。誰にも理解されない孤独で、心が折れて死ぬのだ!」

 まさに、私が置かれている境遇を端的に表現している文句である。それ程までに、私にとって孤独は辛かったのだ。

私は、はるか遠方に茶色の葉を茂らせた樹木を見つけた。余りにも熱いので、日蔭のある樹木を目指して一刻も早く走って行こうとした。だが、両足は、鉛らしい重くて人の頭程もありそうな大きな玉に、クサリでつながれていたから、前のめりに倒れてしまった。しかし、何とか前に行こうとして、匍匐前進≪ほふくぜんしん≫して、少しずつ前に向かって進んだのだった。

ところが、顔中に花々がまとわり付いて来て、花と体から噴き出す汗に、体中が花にまみれたのだ。花々がまるで生きている獣のように、体中に喰らいついてきたので、前に進むのは非常に困難だった。

長い間進んで行くと、猛烈な暑さで徐々に頭が麻痺しかけてきた。更に、だるさが全身を覆ったのだ。そこで、四つの太陽の暑さに耐えながら、体を休める為に下を向いて動かずに少しだけ休憩をした。なぜ、下を向いていたのかと言えば、顔を、灼熱≪しゃくねつ≫の四つのルビー色の太陽に焼かれたくなかったからだ。暑い、暑い、暑い、暑い、暑い、暑い、暑い、暑い……。それしか頭に浮かんで来ない位に、猛烈に暑いのだ。次第に恐怖と不安に覆われて息苦しくなってきた。とは言え、少しだけだが、精神的に余裕が出て来たので、自分の体を見てみた。

すると、私は、白のハワイアンドレスのような服だけを身に付けていた。下着類はいっさい履いていない。私は女性なのに……。当然ながら、いつも、下着を身に付けているので、何か奇妙な気がしてならないのだ。このドレスにしても、私の趣味に合わない。

更に、白のハワイアンドレスには、まるで囚人服のように、黒いよこしま模様がプリントしてある。

靴下も靴も履いていなかったので、湿気で粘つく色鮮やかで様々な種類のヘビ達が、素足に絡みついてきたのだ。何度も何度もヘビ達にかまれて悲鳴を上げたが、その恐怖に満ちた大きくな悲鳴さえ、地平線すら見渡せない大地にグワンと一度だけ轟≪とどろき≫、私から遠ざかって行っただけだった。

勿論、誰も助けてくれないので、仕方なく、一人で無数に近いヘビどもに戦いを挑んだ。運よく転がっていた三十センチメートル位の棒きれで、思い切り突き刺したり叩いたりして殺した。数時間かけて、やっとヘビどもを全滅させたのだ。辺り一面には蛇の血液が飛び散り、鼻にツンとくる硫黄≪いおう≫に似た悪臭が、私を取り巻いた。幸いな事に、ヘビには毒がなかったので

かまれた痛さだけが残っただけだった。

自分の身を襲う悲運を呪って、私は大声で泣き喚いた。だが、かん高い私の悲鳴は、無人の荒れ地に吸い込まれただけだった。そう悟った途端に、四肢がブル、ブル、ブル、ブル……と震えて、長い間、魂の嘆きは止まらなかった。

まるで南極や北極に近い地方で起こる白夜≪びゃくや≫のように、楕円形をした四つのルビー色の太陽らしきものは、常に頭上にあって全然沈まないから、充分熟睡出来る夜が訪れる事はなかったのだ。毎日を、寝不足の状態で過ごさざるを得なかった。

多分、二日間位を要して、やっと樹木の下に辿り着き、その涼しい茶色い葉の樹の下で休む。

太陽らしきものから逃れて、日陰でほっと一息つけた。こんなにも日陰が有難いとは、今の今まで思いもしなかった。

 

そんな感傷に浸っている時だった。

無数の何かのサナギが、頭や背中等、全身に降り注いできたのだ。鋭利な刃物で斬られるように痛いのは、鋭利なクチバシで全身にかみついてきたからだ。

何度も転がりながら身を震わせて、何とか毛虫達をつぶして退治したので、毛虫の体液でハワイアンドレスは薄緑色に染まり体中がヌルヌルになった。風呂でも何でも良いから、毛虫の体液で汚れた体を洗い流したかった。でも、これは無理な注文だろうが……。そのうちに、四つのルビー色の太陽が、ドレスや体についていた毛虫の体液を干からびさせて、カラカラに乾かせてくれたおかげで、私は、必死になってそれらを取り除く事ができたのだ。

振り返ると、樹は枝だけになっていて、まるで大空に向かって幾つもの腕を伸ばしているようだった。葉だと単純に思い込んでいたのは、サナギの群れだったのだ。常識だと、サナギの時期の昆虫は、体を大きく作り変えている途中なので、殆ど身動きしない。せいぜいピクピク動く程度なのに、そのサナギの群れが、私を襲ってくるなんて……。

そのサナギの群れがいなくなった樹の姿が、余りにも異様で奇妙な形だったので、全身がまたもや激しくブルブル震えた。こんなにも暑い環境に、身を置いているのにもかかわらず、血も凍るような寒さを感じた。

ところが、寒さが通り過ぎ、ふたたび猛烈な暑さが戻ってきたのだった。長い間、灼熱の太陽にさらされていたから、私は、激しい渇きに襲われた。しかも、飢えをも感じたのだ。

一体、どういう事だろうか? 生きている時と同じ生理現象に苦しめられるなんて……。何だか不思議な気がした。

こんなにもおぞましい恐怖が、途切れないで永遠に続くような予感がするのだった。

 

そんな思いに浸っている時だった。

ほんの近い場所に、砂漠のオアシスのような清らかそうな水溜りを見つけた。

そこで、重い両足を引きずり、しかも長い時を費やして水溜りに到達し思いっきり口をつけて喉の渇きをうるおした。

「ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、……」

これ程までに、単なる水が美味しいとは、今の今まで思わなかった。今までは、水のある生活が当たり前だったのに……。山の空気が澄みきっていて、清らかな状態を言う清澄≪せいちょう≫と言う言葉を、この水溜りの形容に無理に使いたい位に澄んでいる。冷たそうな水溜りは、見るからに浅そうに思えるし、水が澄んでいるので底まではっきり見えた。

大量の汗とヘビの分泌物を洗い流す為に、水溜り入ってみると、まるで冷泉に浸かっているかのように、体から熱気が徐々に消えていくのを感じた。私は束の間の幸せに浸っていたのだ。

だが、急に両足に激痛を覚え、慌てて水溜りから這い上がると、一メートルを越えているだろうと思われる巨大なヒルが、お互い重なる程に密着して体に吸着している。イギリスの国営放送「BBC」が撮影した、体長一メートル超の巨大ヒルが、体長七十センチメートルの超巨大ミミズを丸呑みにする様子をとらえた映像があるのだから、当然、こんなにも巨大なヒルがいても不思議ではない。それらのヒルには、色鮮やかな黄色の縦スジ模様があり、力を込めてむしり取ると足から鮮血がにじみ出した。あまりの痛さに、大粒の涙が出て、ギャーと言う悲鳴がほとばしった。

しかし、有難い事に両足をつないでいた、重い鉛のクサリが消えてなくなっており、傷跡は少しも残っていない。小躍りして喜んだのは言うまでもない。重い鉛のクサリから解放された嬉しさに、あちらこちらを飛び跳ねながら走り回ったのだ。

だが、妙な影に気づき空を見上げると、真紅の巨大な鳥の群れが近の空を真っ赤にしていて、鋭い爪と牙を持っており、口や鼻から炎を出している。きっと、伝説のドラゴンに違いない、と思った。そんなのんきな事を考えている間に、急に巨大な鳥の群れが下降して来て、私の方に向かってきたのだ。

ふと後ろを振り返ると、私の気づかないうちに、右前方十メートル位の所には、大きな洞窟が出現していた。その洞窟は、ゴツゴツとした岩に全体が覆われている。

私は、猛ダッュで狭い洞窟の入り口を目指した。入口に入るか入らない所で、体に熱風を感じた。私は、慌てて洞窟に飛び込んだ。この洞窟は、私一人が入れるだけの狭い隙間しかなかった。ドラゴンの放った炎が当たったのだろう、着ていたハワイアンドレスがメラメラと燃え出した。焦げ臭いニオイが辺り一面に漂っている。

既に、炎は体中に燃え移っていたので、直ぐにドレスを脱ごうとしたが、体にまとわりついているので、なかなか思うようにいかない。化学繊維のようなドレスが縮んでまとわり付き、体中に大ヤケドを負ってしまったのだ。あまりの痛さに洞窟中を転げ回った。幸い深い洞窟だったから、ドラゴンが吹き出す炎は奥までは届かない。体の三分の二以上ものヤケドをして、見るも無残に焼けただれていた。もしも、生きていたのならば、大やけどを負った為に、一命を亡くしていただろう。

焼けこげた化学繊維のドレスを取ろうとすると、皮膚も一緒に剥がれて赤い筋肉が現れたのだ。転げ回らずにおられない激痛は、今まで経験した事がなかった程だ。

あまりの痛みで、私の意識は深い奈落の底に落ちて行った。

 

どの位の間、私は意識をなくしていたのだろうか?

意識を取り戻すと、直ぐに恐る恐る洞窟の外を覗えば、幸運にも、真紅の巨大な鳥の群れは空に一羽もいなかった。でも、しばらくは外の様子を覗っていたが、危険はなさそうなのを確認出来たので、洞窟の外に出て行って思いっきり背伸びをした。あいも変わらず、空には四つの太陽が頭上にあったが、にわかに大きな黒い雨雲が一つこちらに流れてきた。

(雨が降れば、涼しくなるわ! うれしいわ! 雨で体を洗えるかもしれない!)

 そう思っていると、雲がかなりの速度で私に向かって下降してきたのだ。

(雲が急速に下りてくるなんて、おかしいわ!)

 良く見ると、それらは、黒い雲のような大群になっているクロゴキブリだった。年中が繁殖期だから産卵数が多く、そのサイクルも非常に短いらしい。だから、大群になれたのだろ。明るい昼間はじっとして時間を過ごし、暗くなるとエサを探して活動を始める筈なのに、四つの太陽のもとでこんなにも活動するなんて、とても信じられない。しかもその体には、黒い艶があって体長十センチメートル程の大きさであり、生理的な嫌悪感で虫唾≪むしず≫が走った。

クロゴキブリの大群から逃げようとして、私は、全速力で反対方向に走った。すると、私の背丈の十倍以上もあるゴツゴツした岩の壁が、突如として現れたのだ。急に止まれなかったので、その壁に思いっきり体をぶつけてしまった。脳震盪≪のうしんとう≫をおこしそうな頭は、フラフラしているが、またしても何とか工夫して戦わざるを得ないのだ。

クロゴキブリの大群が、あっと言う間もなく体中を包み込んで、あちこちかみつかれて大きな悲鳴を上げ、またも転げ回ったが毛虫どものように、クロゴキブリは、そんなにやわくはなかった。体中、無数のクロゴキブリに覆われた。渾身≪こんしん≫の一撃を叩き込もうとして、薄目を開けて武器を捜すと、岩の壁から剥がれ落ちたらしい手頃なカケラを見つけた。

それを使って、体中に群がるクロゴキブリを叩いたけれども、その戦いにはキリがないようにさえ思えたのだ。大量のクロゴキブリを殺したが、体のあちこちから血が出ている。特に髪の毛に多くたかったから、脳震とうをおこしかねない程、頭を叩いた為に頭から血が吹き出し、顔中に生温かい血が流れて目にまで入って、視界をさえぎったのだ。両手で何度も何度も血を拭い、どうにか見えるようになった。

またもや、先程のドラゴンのように、突然、ゴキブリの大群は消えていた。しかし、ゴキブリの体液と血液が混ざり合い、異様なにおいが周囲に充満して、私は、何度もむせたのだった。

何時間、大量のクロゴキブリと一戦をまじえたのだろう? もう、私の体力は限界だった。だから、ほっと胸をなで下ろしたのは確かだ。

これという当てもなく、四つの太陽に身をこがしながら、唯、がむしゃらに歩いた。

大ヤケドをした直後であるにもかかわらず、私の足取りは軽く、あまりの嬉しさに周辺を走り回った。

しかし、それが予期せぬ罠だったのだ。この馬鹿げた出来事ばかりが、矢継ぎ早に起きるこの世界では、とうてい私の理解とあらかじめ起こる、まともではない事柄を予知出来るなんてとても不可能な事だ。私の持っている能力を、遥かに超えている世界に身を置いているのだ。

もしも、私に予知能力が備わっているのなら、良かったのに……。

 

今までとは違って、地面には美しい花々が咲き誇り、花弁が柔らかな風にかすかに揺れている。その地面に大きな砂溜り見つけ、私は砂に郷愁を感じて思わずピヨンと飛び乗った。すると、まるで底なし沼に落ちたように、全身が徐々に砂の深部にまで沈んでいくのだ。砂のない大地に上ろうとして体を動かすと、ますます沈んでいく。鼻や口にまとわり付いて来る砂を取り除き、呼吸をしようとして必死でもがいた。私は、あたかも地獄の底に落とされるような恐怖と不安で気が狂いそうになったのだ。緊張の為に唾を呑み込んでしまった。

その時、ぬるりとして冷たい液体が、左足に入ってきたのだ。あたかも、注射器で薬液を注入されているような感触だ。その途端に、左の足が激甚な痛みにみまわれ、またもや意識が暗い奈落の底に吸い込まれていったのだった。

一体どれくらいの間、私は気を失っていたのだろうか? 気がつくと、強烈な楕円形をした四つのルビー色をしている太陽の光が、降り注いでいるお花畑にいたのだ。立ち上がろうとした。だが、両足に鋭い痛みを感じて、その場に座り込んでしまった。ギザギザに食い千切られた両脚の付け根から、いまだに鮮血が噴き出しているのだ。アリクイらしい化け物にかじりつかれたのだ。本来、アリクイは細長い舌を持っていて、粘着力のある唾液を付けてエサを舌に粘着させて捕るのだから、歯なんて殆どない筈なのに……。

当然、立てない。またもや、出血多量で少しずつ意識が薄れていく。

その時だった。

馬の蹄≪ひずめ≫の音が次第に近づいてきたのは……。

それは――白骨化した馬に乗っていて、黒いボロボロのローブを身にまとっているミイラ化した【死に神】だった。右手には銀色に輝く鋭利で重そうな大鎌を持って、ジーと私を見下ろしている。低音の陰気な笑い声が、腐ってシワだらけの口から漏れ出た。その刹那、大鎌が私の体を切り裂いた。恐怖でうち震える余裕すらなかった。

そう――これが私にとっての【地獄】だったのだ。

私が、最も苦手とする極寒地獄の代表的なものに、「八大地獄」がある。

頞部陀≪あぶだ≫地獄

八寒地獄の第一、寒さで鳥肌が立ち、全身にはアバタができるのだ。

刺部陀≪にらぶた≫地獄

八寒地獄の第二、鳥肌がつぶれて、全身にアカギレができるのだ。

頞听陀≪あただ≫地獄

八寒地獄の第三、寒さによって「あたた」という悲鳴が出るのだ。

臛臛婆≪かかば≫地獄

八寒地獄の第四、寒さのあまり「ははば」という悲鳴が出るのだ。

虎々婆≪ここば≫地獄

八寒地獄の第五、「ふふば」という悲鳴が出るのだ。

嗢鉢羅(うばら)地獄

八寒地獄の第六、全身が凍傷のためにひび割れて、めくれ上がるのだ。

鉢特摩≪はどま≫地獄 P

八寒地獄の第七、ここに落ちた者は酷い寒さで、皮膚が裂けて血を流すのだ。

摩訶鉢特摩≪まかはどま≫地獄

八寒地獄の第八、八寒地獄で最も広大であり、ここに落ちた者は、厳しすぎる寒で体が折れ裂けて流血するのだ。

何百年、何千年、何万年、あるいはそれ以上の年数を、焦熱地獄、極寒地獄……などで苦しむ筈なのに、私の抱いていた深い怨念を、優しい閻魔≪えんま≫様が、きっと理解して下さったのだろ!? 幼い頃から仏教を教えられてきたし、私も、心から仏様を信仰していた。

ありがたや、ありがたや、ありがたや、ありがたや……。私のお話は、これでおしまいだよ」

勉は、優しく祖母の顔を見て手が赤くなる程、精一杯の拍手をしたのだ。

「パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ……」

勉にとっては、まさに感動的なホラー話だった。

祖母は、若くて艶のある声で語り終えた。前世で亡くなったのは、二十歳代だったから、祖母の憂いを含む若い声に、勉は納得した。

「おばあちゃん、思い出したくない話をしてくれてありがとう! でも、話上手だなあー」

 少し、はにかんだ顔をして祖母は言った。

「そんなにほめてくれて有難う。父が柔術(現在の柔道)の道場を四つ持っていたので、私の幼い頃には、乳母に四六時中面倒を見ていてもらったし、家には住み込みの女中さんも五人いたから、私が大きくなるまで一度も家事をした事はなかったよ。勿論、私が娘になる頃には、お嫁さんに行く為の花嫁修業をさせられた。料理、華道、茶道……などの教室に通ったのだよ!

 明治時代では、尋常高等小学校だけて充分な教育だった。この教育だけで、難しい漢字なんて読めなかったのだが、良く使用する漢字は読めたのだよ。但し、村で一,二を争う富豪の家に育ち、おまけに優秀な頭脳に恵まれていれば、旧制中学、高等学校、帝大――今で言う国立大学――に入学し、学士様になったものだよ。現在では、大学を卒業した人はおびただしい数に上るが、当時、極わずかだったのだよ!」

明治時代後期、政府の強い主導力で推進されていたのだ。初等教育は、尋常小学校六年を義務教育とし、教育勅語に基づく国定教科書制度で、国民の思想統制を進めた。

また、中等教育では男女別学であり、男子では中学校・実業学校の二元化し、女子では高等女学校を制度化した。更に、高等教育では、帝国大学で国家の指導的人材の育成を図った。明治政府は、明治時代後期、忠君愛国という教育観を日本全国で完成させ、富国強兵策を推し進めたのだ。

勿論、民間でも高等教育において人材育成を担った。そして、この時代に植民地だった台湾・朝鮮において、明治政府が他民族を皇国臣民化する教育を強制したのだ。

政府主導の教育は海外にまで及んだのだった。

 

明治に生まれたのにもかかわらず、おばあちゃんの才能には目を見張るものがある。

勉が、三日位かけて一日二時間から三時間程、Xの使い方を教え、更にY,Zを教えた結果、四年だけしか尋常高等小学校の教育を受けていないのに、XYZを使う三元連立方程式を軽々と解いたのには、勉は、うーん、と、うなるしかなかったのだ。また、大学受験では化学を選んでいた。最初に実用化された黒色火薬であり、ガン・パウダーの英名通り、銃砲に利用されて戦争の歴史に革命をもたらし、江戸時代には 焔硝≪えんしょう≫の語が良く使われていた火薬よりも、遥かに破壊力が強力なトリニトロトルエンと言う名前と、その化学式 C、示性式のCH「NO を、勉が一度だけ言うと、祖母は、名前と化学式を間違いなくオウム返ししたのだった。

祖母が並外れた暗記力の持ち主だと、改めて勉は感心したのだ。

胸を張って、祖母は言った。

「あたしゃ、尋常高等小学校しか出ていないし、四年生まで通っただけじゃ。でも、若い頃には小説家になろうと思っていたのじゃ。だから、国内外を問わず、多くの本を読んだものじゃ。

それに、勉、そんなに気を使わないでおくれ。それじゃ……まるで他人じゃよ。

みずくさいぞ。言っとくが、わしのテレパシーは、お前に『映像』を見せる超能力じゃ。それを言葉として受け取るのは、お前が未熟なのじゃ。超能力に関してはのう。わしの言いたいことを理解できるかい?」

 勉は、少しプライドを傷つけられた思いをしたが、言いたい言葉をのみこんだ。

「うん。様々な超能力を自由に使いこなせるように、これからも頑張るよ! おばあちゃんの言う事に異論はないよ!」

「良い心構えじゃ。……もうそろそろ、お前、大学に行く時間じゃないのかい?」

「あぁ。もうそろそろ出かける時間だ。今日は、TVで国会中継をしていないの?」

「残念ながら、ないのじゃ。その代わり、夕方にわしの尊敬する評論家が、出演しておる番組を観るわ」

「そりゃよかったね。じゃあ、行ってくるよ」

「お昼は食べないのかい?」

「あぁ。いまいち、食欲がわかないよ。お腹が空けば、大学の学食で食べるよ。ところで、晩ご飯は、何だい?」

「お前の好きな、生トラフグのぶつ切りと越前クラゲのソース煮だよ。もちろん、フグの内臓は捨てる。死なれては困るからのう……ハハハハ」

「楽しみだなぁ。じゃあー行ってくるよ。バイバイ」

 

 勉は、オンボロ自転車をギコギコとうるさい音を出してこぎ、国鉄(民営化前の国鉄で、現在のJ)西明石駅近くの駐輪場に着いた。

そして、駅の階段を一気に登り、いつものように南側にある大きな窓から淡路島を眺めた。それは、彼の癖になっていたのだ。空気が澄んでいれば、個々の家さえ肉眼で見えるのに、残念ながら、この日は霧に包まれたようになって、淡路島はボンヤリと霞んでいた。夏に近いこの季節に良くある事だった。勉は、まるで恋人に振られたかのような落胆の溜息を漏らした。

京都駅までの切符を買って改札を通り過ぎると、ちょうど快速電車の発車ブザーが鳴り始めたところだ。仕方なく、勉は、階段を九段跳びして、辛うじて快速電車に飛び乗れた。普通の人間では、とうてい不可能な階段の降り方だった。乗り損ねた女性が、ポカンと口を大きく開けて、とても不思議そうな表情をして、勉を見つめていた。

昼前だったから、快速電車はガラガラの状態で空席が目立っていた。

勉は、窓際の海の見える席に腰を下ろした。須磨≪すま≫の海岸を、何となく眺めるのが大好きだった。平安時代末期に起きた一ノ谷の戦いの舞台でもある。また、須磨海岸は古来より白砂青松の美しい砂浜を持つ海岸として有名だったし、平安時代末期に起きた一ノ谷の戦いの舞台でもある。

勉は、須磨の一つ手前の塩谷≪しおや≫駅を通過するまで、ヴェルサーチ製の黒皮ポーチから文庫本を取り出して、読み出した。江戸時代後期の歴史家、思想家、文人である頼 山陽≪らいさんよう≫が著した「頼山陽詩抄」だ。この詩抄は、簡明である為に広く読まれ、幕末・明治維新から昭和の戦前に至るまで、広く影響を与えたのだった。山陽は詩吟・剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩の作者としても有名であり、彼の死後に「頼山陽詩抄」が刊行されたのだ。勉が今読んでいる「山陽詩鈔」に収められている。

本に集中していると、突き刺さるような軽蔑した視線を強く感じたのだ。その視線は、斜め後方に座っている、若いサラリーマン風の男から発せられていた。その男をギュッときつく睨み、手帳にその男の特徴を簡単にメモした。なぜなら、その男の考えが、脳裏に明らかに浮かんだからである。

男は勉に対して、こう思っていたのだ。

(ふん。意味も良く分からないくせに恰好つけやがって。難しい本を読むふりだけを、してやがる。うぬぼれやのアホが!)

勉には、超能力でその男の考えが分かるのだ。彼は、いつもの手段を使って、本気でその男を殺す気になっていた。露骨な悪意がその男に宿っているのが、勉には明確に見えたからだ。

自分のアリバイ作りの為に、十二時間後に心筋梗塞で死ぬように呪いをかけたのだ。

 

約二時間後、京都駅に到着し駅の北側からバスに乗って、吊皮を持ち先程の本を読んでいるうちに、K大学経済学部がある吉田キャンパスに着いた。

三回生までは出町柳≪でまちやなぎ≫の下宿屋にいた。今は週に一度だけゼミに出席するだけだから、自宅から通っている。

経済学研究科(大学院)へは、もちろん進む予定で、勉学にも励んでいて来年の二月のテストにも受かる自信は充分ある。母が教育熱心であっただけではなく、勉は、幼い頃から名前の通り勉強が何よりも大好きであった。関西では有名なN中、N高を常にトップの成績を修めていたし、しかも、IQでは全校で常に一位だった。卒業時には【総代】の栄誉も賜≪たまわ≫ったのだった。

 あれは、まだ、K大学の二回生の蒸し暑い夏のできごとだった。下宿屋から最も近い銭湯が、改装で四日間休みなので、勉は、仕方なく下宿屋から離れた違う銭湯に行った時の事だった。

「ようこそ、おいでやす」

軽やかな鈴を転がしたような美しい声が、勉を包み込んだ。彼は、思わず一瞬固まってしまったのだ。と言うのも、番台には、妖艶で美しい京風の女性が座っていたからだ。陶器みたいな白い肌で、鳶色≪とびいろ≫の大きな瞳をした若い女性だった。

彼女のような美人の出会ったのは、初めての経験だ。一部の隙もない女性――勉が理想にしていた女性像だった。

しかしながら、まだ、まだ、ウブだった彼は、着替えしている間も、その女性が気になって仕方がなかった。彼は、顔を真っ赤にして、凄く恥ずかしい思いをしたのだ。

番台に座っているその美女は、次々入ってくる客に愛想よく応対していた。客が、暖簾≪のれん≫をくぐり、スリガラス入りの扉をガラガラといわせて入ってこない時は、常にうつむき加減にしていた。

あたかも、その美女の視線が自分一人に注がれているような気がして、勉の頬は紅潮しっぱなしだった。湯船から上がって、素早く衣類を着ている時も……。逃げるようにして下宿に帰ったのだ。

羞恥心に起因する怒気と絶望感が、今でも彼にまとわりついていた。だから、早速、自分の部屋で例の儀式をとり行ったのだ彼は、柱に強烈な念を送り、愛用している特製手打ち剪定≪せんてい≫バサミを器用に使い、和紙で平たい人形≪ひとがた≫を、幅四センチメートル、高さ九センチメートルに切り、いつも愛用しているので、手の油と汚れで黒く変色している千枚通しを

使って人形の右足を軽く刺した。この一回だけではない証左に、柱には深い穴だらけだった。

四日後、例の美人が主人と交代する時に落下して、右足を複雑骨折したらしい。主人が病院に運んで治療を受けたが、損傷した骨から細菌が侵入し、急性骨髄炎≪こつずいえん≫を発症した。やむなく、長期間ベッドで苦しんだらしい。

勉は、わざわざその銭湯に行き、さり気なく例の美人が入院したのを聞き込んだ。彼の顔には邪悪な笑みが貼り付いていた。勉の存在自体が、悪の塊なのだから平気でそのように、罪のない人々に害を与え続けているのだ。

勉は心の底で呟いた。

(エヘヘヘヘ、エヘヘヘヘ……。ざまーみろ。この俺様に、恥ずかしい思いをさせた報いだぞ!) 

勉が生活している二階北側の柱には、穴が無数にある。膨大な数の人間が犠牲になっている証しだった。いや、人ばかりとは限らないのだ。彼に向かってうるさく吠えた犬達、薄気味悪く思った突然変異で真っ白になったカラス……などの多くの生命に対して、自分が裁判長になった積りで「死刑宣告」を下した。当然だったが、勉が生まれながらにして持っている超能力を使い、

彼等は抹殺されたのだった。たとえ殺す対象を間違えたにせよ、彼には、もともと良心のカケラすらなかった。だから、彼は良心の呵責≪かしゃく≫にさいなまれて、苦しむ事なんてこれっぽっちもなかったのだ。

だが、勉は、〃負〃の気配が漂い、超自然的な方法で未来を知覚するという意味で、他の人がおこなった予言に対して、強烈な恐れを抱いていたのだ。哲学者のデカルトさえ「我思う、ゆえに我あり」を導く為に、悪魔の存在を前提に置いている。考える主体としての自己(精神)と、その存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は、哲学史上で有名な命題の一つだ。人が持っている「自然の光(理性)」で真理を探求する近代哲学であり、デカルトが「近代哲学の父」と言われる理由である。

千九百十七年、聖母が、ポルトガルの子供達の目の前に出現して、警告を人類に与えたと言われている。その中に次の言葉があったのだ。

「霊魂達を地獄に導く罪は『肉の罪』です!」 

このフレーズを固く信じている彼は、いまだに女性の肉体に指一本も触れていない。地獄に落ちるのが、恐ろしいからだった。とは言え、勉は、他人に害を与えるどころか、自分が気に入らない大勢の人々を殺戮≪さつりく≫し続けているのだから、地獄に落ちて行くのは必定≪ひつじょう≫だろう。もしも、二層ある天国のいずれかに行けるのなら、死亡した人は全員が天国に行けるだろうに……。そのような状況にあるのならば、閻魔さん、赤鬼、青鬼の職場はなくなって、地獄での失業率は百パーセントになってしまうだろう。誠にゆゆしくて解決策の見当たらない問題になってしまうのだ。

二層の天国があると主張するのは、深見 東州≪ふかみ とうしゅう≫氏である。国内外に十数社を経営し、実践派コンサルタントとしても活動。その活動分野は芸術活動、福祉活動、公益活動等多岐にわたっているのだ。彼は、ジュリアード音楽院より名誉人文学博士を授与される時、「現代のルネッサンスマン」と評された。

閻魔さん、赤鬼、青鬼と言う発想は、日本色が色濃く影響している。

それが証拠に、キリスト教やイスラム教では、審判の日に天国に行くのか、地獄へと落ちていくのかが決定されるのだ。だから、今は地獄には悪魔しかいないのだ。

 

キリスト教を例に挙げてみよう。ウェストミンスター信仰告白三十三章「最後の審判について」の二は、「神がこの日を定められた目的」を告白している。それは、「選民の永遠の救いにおいて、神のあわれみの栄光があらわされ、邪悪で不従順で捨てられた者の永遠の刑罰において、神の正義の栄光が表されるためである」 ウェストミンスターの全体の最後で、キリストは「すべての者に罪を犯すことを思いとどまらせるためにも、逆境にある信者の大いなる慰めのためにも」、最後の審判の日があることを、信じるように望まれている、と告白されており、ウェストミンスター信仰告白は、黙示録の「来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ」アーメンで結ばれているのだ。

 

勉は、アメリカ人に対して、何の恨みや偏見も持っていない。むしろ、音楽等では大いに敬愛している。ビリー・ボーン、パーシー・フェイス、カーペンターズ、フランク・ミルズ、ピンク・フロイド、エルビス・プレスリー、ビーチボーイズ、スコットマッケンジー、ニール・セダカ……など、数え上げればキリがない程である。

 しかしながら、アメリカの世界戦略には、勉は懐疑的な考えを持っているのも否めないのだ。アメリカ合衆国の政治的な統治形態としては、民主主義、自由主義、共和制、立法府である議会において二院制を採用している。行政は、大統領制であり、立法・行政・司法の三権分立制を明確にしている。経済制度としては、資本主義を採用している。各州に知事を置き統治させている連邦国家なのだ。

現在のアメリカ合衆国が独立を果たす前の千六百十九年頃では、イギリスの植民地だった。その頃から、黒人がアメリカに強制移住させられていたのだ。

しかし、この頃にアメリカに来て開拓しようとした白人は、先住民族であるネイティブ・アメリカンを、奴隷として使役しょうとしていた。ネイティブ・アメリカンの人達は、自分達のすみかを、追われており、しかも、迫害までをも受けていた。だから、奴隷になる事はなかった。

そこで考えたのが、同じ開拓の為に移民してきた白人の中でも、貧しい人達を使用人として使う事だった。彼等を年季契約奉公人と呼んでいた。

千七百年代の後半、現在のバージニア州やメリーランド州で、タバコの葉の栽培を行うようになった。この時、イギリス本国やアメリカのニューイングランドでは、奴隷商人達がタバコ畑の持ち主に、奴隷を購入するように持ちかけた。

また、イギリスでは、奴隷を「商品」として売り買い出来る法律をも作ったのだ。その時の白人達は、黒人が白人と同じ人間であるという考えを、持ってはいなかった。イギリス政府が、やっと奴隷貿易を正式に廃止したのは、千八百七年だった。

千七百七十六年、アメリカはイギリスから独立し、アメリカ合衆国という独立国になったのだ。その時でさえも、同じ国に住んでいた黒人が白人と同じ国民である、と言うのは少数意見だった。黒人奴隷の廃止を訴えた人々は、少しずつアメリカの北部より広がっていったが、千八百六十年から六十五年にかけての南北戦争が、終わるまでの約九十年間、憲法は奴隷制を認めていた。

この時に解放された黒人奴隷は、約四百万人もいたのだ。

 現在のアメリカ国民は、デモクラシーを是として、世界中に自分達の思想を無理に押し付けているだけだ。それは、「人類にとって必要十分条件である寛容さ」に欠けた行為であり、自分達の先祖が行って来た、種々の悪行を反省すべきである、と勉は考えているのだ。アメリカ人達、と言うかカソリック教に反発したプロテスタント達が、北アメリカに大挙して押し掛けた。

だが、その途中で、アフリカ大陸に住んでいた罪なき人々を誘拐し、奴隷船に乗せたのだ。

船の中で彼等を寿司詰にし、一日二回だけ甲板で新鮮な空気を吸わせるだけだった。自分達の奴隷として、生かさず、殺さず、の状態で使役したのだ。あまつさえ、北アメリカ東部に上陸したが、斧しか武器がない原住民のインディアン(先住民族であるネイティブ・アメリカン)を、西進の邪魔だとして、ピストルで殺し続けたのだった。映画で観るような騎兵隊まで組織して、殺戮を重ねながら幌馬車に乗って進んだのだ。その後、千八百六十九年には、最初の大陸横断鉄道(アメリカ合衆国の中西部と西海岸とを結ぶ鉄道)が開通し、西部開拓に大きく貢献したのだ。そのおかげで、アメリカ人達はロス近くまで、金、銀、オパール等を探し求める事が可能になった。

ユニオンパシフィック鉄道の経路は、大平原での建設を順調に進めて行った。だが、インディアンの領土では、問題が出てきたのだ。なぜならば、平原で生活をしていたインディアン達は、この頃、土地を没収され、強制移住により保留地にいたので、鉄道の路線がその保留地を横断したから、狩猟民族である彼等の狩り場を荒らされたからだった。インディアン達は「鉄の馬」の建設を、白人の侵略だと捉えていたのだ。更に、平原に住むインディアンの糧≪かて≫だったバッファローが、設備を壊すという理由で駆除された。

バッファローを徐々に殺されていたので、スー族等のインディアン部族は、建設労働者を攻撃した。この為、ユニオンパシフィック鉄道は狙撃手を配置したのだった。

一部の地域をフランスから買ったものの、幌馬車で西進して、開拓すれば自分達白人の土地にした行為は、スペインが、インカ帝国から略奪した財宝を、本国で高く売った行為と同じだ。

また、最終的に原住民を狭い土地に囲い込んだのは、江戸幕府、明治政府でさえ蝦夷地≪えぞち≫で平和に暮らしていたアイヌの人達に対して、行った悪行と同じである。

「世界の警察」とは、強者の論理だ。

「二十一世紀には、有色人種の時代が必ずやってくる」と、勉が、小学五年生に預言した通り、世界が変化しつつあるではないだろうか? 栄枯盛衰は、人々だけでに留まらず国にも当てはまるのだ。

 平家物語では、以下のように述べられている。

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず。

ただ春の夜の夢のごとし。

たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 遠くの異朝をとぶらえば、普の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。

 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。

上の文だけ現代語訳すれば、以下のようになる。

祇園精舎の鐘の音には、全てのものは常に変化し、同じところに留まる事はないという響きがある。沙羅双樹≪さらそうじゅ≫の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。思い上がって得意になっている人も、その栄華は長くは続かない。それはちょうど、(覚めやすいと言われている)春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も、最風の前にさらされて散っていく塵と同じである。

 遠く外国での出来事を例に見てみると、普の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山等の例があるが、これらの人は皆、もともと仕えていた主君や皇帝の政治にもそむき、栄華の楽しみを極め、他人からの諫言≪かんげん≫をも受け入れる事なく、天下が乱れている事に気づきもせず、民衆が嘆き苦しんでいる事を知らなかったので、その栄華も長くは続かずに、滅んでいった者達である。
 身近なところで、私達の国の出来事を例にとると、承平時代の平将門、天慶時代の藤原純友、康和時代の源義親、平治の藤原信頼などの例がある。これらの者は、思い上がって得意になっている心の勢い盛んなことも、皆それぞれに甚だしいものであった。際近で言えば、前太政大臣の平朝臣清盛公と申し上げた人の、思い上がった様子は、人から伝え聞いても、想像する事も言い表す事も出来ない程である。

地学的に表現すれば、今現在有力な説によれば、あれ程栄えてきた恐竜が、隕石衝突の結果滅び、胎盤で子孫を残して来たネズミもどきの我々人類が、食物連鎖の頂点に、今は君臨しているのだ。

恐竜が六千五百万年前に絶滅した原因は、隕石衝突によるという理論を、多くの専門家が認めている恐竜絶滅の有力説の一つではある。

隕石衝突で、空が塵や火山灰に覆われ気温が低下し、恐竜が環境の変化で絶滅したとの説だ。

だが、恐竜の絶滅に関しては、多くの仮説が存在するのだ。

最新の研究では、恐竜が絶滅したのは極端な環境変化が原因でなく、気温低下でオスばかりが生まれ、メスの数が極端に減った事が絶滅の直接の原因である、という説が発表されて話題を呼んでいるのだ。恐竜が絶滅した仮説として代表的なものに「大洪水説」がある。また、太陽から一光年から二光年離れて、暗い褐色矮星≪かっしょくわいせい≫または赤色矮星≪せきしょくわいせい≫があり、その星(ネメシス)が二千六百万年から二千七百万年毎に、オールトの雲(太陽系に取り巻いていると考えられる仮想的な天体群)を乱して、氷や岩石を発生させ、地球に衝突の被害を与えた可能性があると言う説もあるのだ。恐竜時代も終わりに近づいた時、強力な伝染病が世界のどこかで起こり、大陸同士に連絡路が出来た時、それがわたりによって、瞬く間に世界中に広がり、恐竜に大打撃を与えたとする説もある。

人類は、たかが、約五百万年前にチンパンジーと枝分かれした、哺乳類動物に過ぎないなのだ。

人類の進化は、アウストラロピテクスと呼ばれる猿人に始まる。その猿人も百五十万年目には、姿を消してしまった。アウストラロピテクスは、直立二足歩行をするようになった初めての生物であった。彼等はアフリカの南部、東部で暮らしていた。

アウストラロピテクスの後に登場したのはホモ・ハビリスであった。ホモ・ハビリスもアウストラロピテクスと同様、猿人の分類である。人類はアウストラロピテクスとホモ属、二つの種類の祖先から進化してきたと考えられている。ホモはヒトという意味である。ホモ属はアウストラロピテクスの中のアフリカヌスから二百万前から百五十万年前頃に進化した、と言われているが、まだはっきりとは分かっていない。

ホモ・ハビリスは東アフリカの各地で生活し、石器を使用していた。この名前、ホモ・ハビリスは器用なヒトという意味である。

百六十万年前から百五十万年前には、脳が大きくなり、歯が小型になったホモ・エレクトゥスが現われた。原人とも言われる。ホモ・エレクトゥスも、初めはそれまでのヒトの祖先と同じくアフリカの東部と南部だけで生活をしていたが、百万年前位からユーラシア大陸へと移動していった。中国の北京原人、インドネシアのジャワ島のジャワ原人等は、ホモ・エレクトゥスの分類である。技術の面でも、それ以前の者より遥かに発達し、様々な石器を初めとする、本格的な道具の製作が行われるようになった。また火を使用していた事も確認された。このように、ヒトの活動は次第に効率的で、複雑なものへと変化して行ったのである。

三十万年前から二十万年前に、ホモ・エレクトゥスはホモ・サピエンスへと進化した。旧人である。ホモ・サピエンスは知性あるヒトという意味で、彼等は当時の厳しい氷河期の中でも、効率よく食料を獲得する事ができた。また人類史上初めて死者に花を添える等して弔う習慣ができた。しかし、この頃の進化は、徐々に進んでいった為に、ホモ・エレクトゥスの最終期とホモ・サピエンスの初期との区別は、はっきりとはつけにくいのだ。

また、同じホモ・サピエンスの中でも進化が行われていった為、初期のホモ・サピエンスと現生人類は見かけが、かなり異なっている。そもそも、現生人類が初期のホモ・サピエンスからそのまま進化したものかについては、まだはっきりとは分かっていない。特にネアンデルタール人の事が問題となっている。

ネアンデルタール人は、十万前から三万五千年前頃、ヨーロッパや中東の各地で暮らしていた採集狩猟民である。彼等の体つきはずんぐりとしていて、身長は百六十センチメートル位、筋肉隆々で百キログラムを越えていたと言う。また顔も低頭で大きく、顎の先端が未発達等、現生人類の祖先とみなすには余りにも原始的だと言われている。その為に、アンデルタール人は人類の進化から枝分かれをし、絶滅していった種だという説がある。実際、ネアンデルタール人の姿は、約三万年前、現生人類の初期の人々であるクロマニヨン人と入れ替わるようにして、消えてしまった。ここから、旧人達はより高度な文明を持つ現生人類によって、滅ぼされたという説が言われているのである。しかし、ネアンデルタール人の知力こそ現生人類より下回ってはいたが、脳の大きさは体力とともに現生人類を上回っていたのである。ネアンデルタール人も他の初期ホ・サピエンスもホモ・エレクトゥスの子孫であり、現生人類の祖先という説もあるのだ。

現生人類の出現やネアンデルタール人の行き先については判然とは分かっていない。

 

今は、間氷期にあるだけであり、地球温暖化は、産業革命以来、何も人類がもたらした二酸化炭素の増加、フロンガスの増加に全て原因があるわけではない。

パンゲア大陸以来、バクテリアが進化してきた人類の、それこそ驕り≪おごり≫である。

パンゲア大陸は、赤道中心に三日月型に広がっていて、その内部の浅く広大な内海で、多くの海洋生物が繁殖し、内陸部は、海岸から遠い為に乾燥した砂漠が広がっていたのだ。殆ど全ての大地が、地続きで動植物の移動が促進された為、生物多様性は現在よりも乏しく均質だった。

精々、お釈迦様の手のひらで暴れまわる孫悟空、以下だと言えるのだ。

数億年後、人類が存在していた証拠は、多分見つからないだろう。

地球は、我々が考える程ヤワではない。しかし、その地球でさえ、後、約百億年も経過すれば、水素をヘリウムに変化させて核融合し、自ら恒星として、エネルギーを放出してきた結果、膨張した末期の太陽に、飲み込まれる運命にある。太陽にも寿命があるのだ。それでは、これからどれくらいの間、太陽は輝き続けるのだろうか。星(恒星、つまり自らのエネルギーによって光を放つ天体)の寿命は、その質量で決まっている。太陽程度の質量を持つ恒星の寿命は、理論的に百億年くらい。太陽の現在の年齢は約四十六億年だから、これからまだ五十億年以上は輝き続けると考えて良いだろう。

 現在の太陽は、人間にたとえると、働きざかりの中年といったところだろうか。人類が存在している近い将来に、太陽の寿命が尽きる心配はまずないのだ。

七十年代に最も成功したロックバンドとも言われている、ピンク・フロイドのアルバムに、「太って、ぶよぶよの太陽」という題名の曲があった。

 

勉は、予知能力に恵まれていて、ある日、気晴らしで、今から二千年後の世界を予知してみたのだ。

二十一世紀初頭、あれ程に優勢であった米国も国内消費需要を喚起出来ず、金融工学に振り回された挙句、上下両院が実施したミクロ・マクロ金融・経済政策の失敗で、世界恐慌の元凶となった。各種経済指標も好転せずデホルトに陥ったのだ。

加えて、アフガニスタン、イラク、イラン、北朝鮮等への侵攻によって、ベトナム戦争の過ちを繰り返す結果になった。従軍兵士達の帰国後のPTSD発症率も高かった。人間の兵士と戦闘用アンドロイド達の死亡も、四十九万以上にも達したのだった。自動車産業は言うに及ばず、シリコンバレーに集中した各IT企業も、インドに追い越され、今は廃墟と雑草が虚ろに太陽の光を浴びているだけだ。各州知事も地球規模の温暖化の影響で次々発生するハリケーン、トルネード、乾燥に起因する山火事対策に翻弄された。

なおかつ、リンカーン、ローズベルト、ケネディー、ヒクソン、ロバート、コーリントン大統領……などに代表される、強力なリーダーシップを持つ人材も以後現れないので、国全体が疲弊し、国連を余儀なく脱退し破綻国となった。先述したNASAも予算削減のため、宇宙計画はおろか、ロズウエル事件等で手にした、エリアD51で密かに進めたUFOの主に推進装置解明も打ち切られた。

優秀なアメリカの頭脳はインドに亡命し、それまで基軸通貨であった、ドルは、円、ユーロ,元、ポンドに対し、相対的に大きく為替相場が下落し、急成長を遂げたインドルピーに取って代われたのだ。つまり、今や世界通貨はルピーだ。

二十一世紀まで、いろんな意味で、世界中の国々に恐れられていて、経済成長率を誇っていた中国は、公害問題、農村部と都市部の格差の広がりに端を発した暴動、二十四人に一人の共産党役人達の不正行為により、国力は徐々に衰退していった。

また、一人っ子政策の為に、二十一世紀初頭には十三億人であった人口も徐々に減少し、それに比例して、十五~六十五歳の可能労働力は、国営企業を支えられなくなった。政府の打ち出した少子化対策転換も遅きに失して、現在の人口は五億人程度だ。世界の工場と呼ばれた栄光が、嘘のようになり、閉鎖に追い込まれる国営企業が増大した。更に、鉱物資源が豊富な北部の各自治州が、ツライラマ十七世の時代に、次々と独立国となった。

中国北方に位置し、チンギス・カンの四男トルイの子で、東アジアを支配していたフビライをはるかに凌ぐマクライ・ハーンが誕生した。彼により、核を始め近代兵器を有した【元】が復活し、兵士達は始皇帝が完成させた万里の壁をなんなく打ち破り、広大な中国を再びその傘下に治めた。

勉の好きな荘子――道教の始祖の一人とされる人物で、荘周(姓=荘、名=周)――を生み出した戦国時代。この時代は、小規模諸侯達が拮抗していた紀元前四百三年に、三つの国に分かれてから、紀元前二百二十一年に秦による統一がなされるまでだ。そんな戦国時代を彷彿≪ほうふつ≫とさせる戦闘が、各地で起たりもした。

(荘周の思想は、無為自然を基本として、人為を忌み嫌い価値や尺度が相対であると説き、日常生活における有用性などの意味や意義に対して批判的だ)

強力な意志と武力を持つ元の前に、一党独裁の中国共産党は解体された。つまり、中国六千年の繁栄はここに幕を下ろしたのだ。

東南アジアでは、インドに追いつく勢いで発展する人口十一億人に達したアセアンの発展も、目覚ましくなった。アセアンとは、Association of South―East Asian Nationsの略で、東南アジア諸国連合として、十ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化における地域協力機構で、二十二世紀初頭、人口は約六億八千万人と多くなった。現在では、目覚しい経済成長によって欧州連合 (EU)、北米自由貿易協定(NAFTA)等と肩を並べ始めている。

EU(欧州連合)は、ギリシャ、イタリア、スペインの国家破綻に始まり、ドイツ離反後、以前の加盟国は解体したのだ。再び、ヒトラーの悪夢を思い起こさせる【デチ党】が台頭して、隣国へ侵略戦争を仕掛けた結果、無残にも多くの民間人が虐殺された。一部の反対勢力は、第二次世界大戦中に地下組織を結成したように、アイザック・アシモフのロボット工学三原則の第一条――ロボットは、人間に危害を加えてはならぬ――を無視して、殺人ロボットを先頭に、重火器、神経ガス、ピンポイントで使用できる最新武器を駆使して、今なお戦っている。

ロシアも政治的に優れたミロシビッチ、コヲルスキー……などの大統領を輩出したのだが、エネルギーの世界的な変化――化石燃料の時代から自然エネルギー、海水から、水素を取り出す技術、太陽から来る電磁波を利用した膨大なエネルギーを利用する……など――が起こった。それらが原因となり、主に国営で開発、供給して来た石油と天然ガスは、何の意味も持たなくなり、あえなくロシアは、没落の道を辿らざるを得なかったのだ。

昔、ロシア領土であった国々も、そのほとんどが元の支配下にあり、ロシア帝国はここに解体された。その昔、アメリカと覇権≪はけん≫を争った面影さえも、今は昔の栄光になってしまったのだ。

中近東では、イスラム国家のオスポン帝国が、十四世紀と同じく難攻不落のコンスタンティノープルに首都を築いた。主としてジエット推進の双胴船を使い海上貿易で栄え、さらに版図を広げようとする野望に満ちたオスポン帝国が、ガチ党率いる軍と今でも戦闘状態にある。

グレイト・ブリテンとして、世界各地を植民地として支配し人々を搾取≪さくしゅ≫し続け、「英国人でなければ人にあらず」、とまで豪語した現代のエゲレス国も、北欧の国々を辛うじて傘下に治めている有様だ。白人は少数民族で、殆どが昔の移民の七世~八世である。しかも、彼、彼女達の、動物でたとえれば雑種化が進み、元の国籍すら曖昧≪あいまい≫となってしまったのだ。今でも政府は、これだと断言出来るような解決策がないスコットランド問題を抱えている。

地中海では、紀元前四世紀から五世紀にかけてシチリア島へ遠征を行い、セリヌス…などの都市を占領したハンニバル将軍の活躍で有名であった、新カルタゴが躍進している。

ハンニバル将軍の末裔が興した新カルタゴが、エジプトをも占領し南北交易により富裕層が厚く、一人当たりのGDPは世界で常に五位以内だ。二十一世紀に起きた「アラブの春」という運動も一過性に過ぎなかったのだ。民衆は、当時のアメリカが強引に押し付けようとした民主主義を受け入れなかった。と言うよりも、この地域では当時まだ民主主義なる考え方が、人民一人一人に根付いていなかったからだ。

約四百五十~五百万年前に、アフリカで人亜科が生まれ大きな脳を持つ霊長類の人類が誕生した。昔アフリカと呼ばれていた大陸では、議会は形式だけあるとは言え、帝国主義化した南アフリカがアパルトヘイトを復活させている。南アフリカは近代兵器を持たない他のアフリカ諸国を搾取することで、経済大国となってエジプトを除くアフリカ諸国――ボツワナ、ジンバブエ、ザンビヤ、マダガスカル、コンゴ、スーダン、ニジェール……などの国々を、植民地として統治している。

また、砂漠化が顕著に進んだサハラ砂漠に、二十五世紀初めの技術を遥かにしのぐ巨大なソーラーパネルを自動制御し、それで得た電力を西欧諸国に供給し、かつてアフリカ全土でオイルによってドルを得ていた以上に富を蓄積している。なおかつ、空気中に存在する水素と酸素を結合した潤沢な水を使って、サハラ砂漠以外の地域で米、小麦粉、サトウキビ、粟,稗、各種茶、コーヒー豆、りんご、みかん……などの作物を全世界に輸出して、膨大な貿易黒字国となり、GDPは世界で常に一位である。当然、世界一豊かな国だと言える。

昔、南アメリカと呼ばれていた広大な地域は、パルルーと呼ばれる国が、南アメリカ全土をほぼ等分に分割して二十九州とし、昔日のアメリカ合衆国のように州知事を配置して統治させている。中央政府は、レーニンの唱えたマルキシズムを原点としながらも、資本主義を容認していている。国体としては、共産主義を掲げ様々な矛盾を内包しながらも、ケベス大統領のもと二桁の経済成長を成し得ている。

白人政治犯の流刑地であったオーストラリアでは、先住民アボリジニー人が白人を一人残らず国土からを駆逐したのだ。アボリジニー人は、自然と共存した生活スタイルを再びその手に治め、狩猟、採取を生業≪なりわい≫とした地球に優しい生活をしている。勿論、インドの後ろ盾を得て……。

カナダでも、エスキモーの人々がフランスから独立し、主に犬橇≪いぬぞり≫を使ってアザラシ……などを狩る従来の生活スタイルを復活させている。

さていよいよ、世界に誇れるインドだが、人口では世界一の二十四億人となり、IT産業と工業生産、知的水準では他国の追随を許さぬ程に、大きく水を離している。

哲学、文学に代表される人文科学、人類学、考古学……などの社会科学。数学……などの形式科学。天文学、物理学……などの自然科学。建築学、工学……などの応用化学。それら全ての学問研究のメッカである。それ故、国内の至る所に、優れた研究者の集まる学園都市が存在している。「最先端の学問はインドで」と言うのが、今や常識である。世界の優秀な頭脳が集まる国にまで成長し、カースト制はとっくの昔に消滅し、素質と努力を正当に評価する国になっている。

地球から、数千憶光年離れた銀河の恒星を回る惑星に生息する知的生命体と交信出来る、突然変異種が続々と誕生して、チャクラを自在に操れる特殊なCPUとチップを前頭葉に埋め込んだスーパーミュータントとして、聖なるガンジス川に入って活躍している。

政府の手厚い庇護≪ひご≫のもと、彼等は更に能力を高めようと修行に励んでおり、「インドが生んだ千賢人だ!」として、世界中から尊敬を集めている。彼等が、宇宙より入手している地球に存在しない超高等知識は、各部門に細分化されている学者達に応用研究されて、各企業で実用化されている。この官民一体になった連携こそが、インドの優れた技術を支えているのだ。

日本は、二十一世紀にデフレスパイラルの圧力から、なかなか抜け出せなかったが、二十二世紀になると優秀な赤城首相が現れた。彼の号令で、天照≪あまてらす≫の神より連綿と続く天皇を、現人神≪あらひとがみ≫として尊啓奉った。王政復古にて人心を改め、旧来の全ての社会システムを大改革・変革した。主にインドの知識を活用し、低下した自国の知識レベルを向上させる為、全国に寺子屋制を復活させて、地方分県を廃止し道州制を導入した。

しかも、各道州長に大きな権限と義務を付与している。

米国の核の傘がなくなった二十三世紀には、非核三原則を撤廃し、約三千発に及ぶ水素核兵器を搭載している大陸間弾道弾を、主に元に向けて配備している。自衛隊組織を解体して徴兵制度に替えている。あれ程、少子化対策と叫んでいたのが嘘のように、出生率は三.四にまで上昇している。つまり、男女が結婚すれば、平均で三.四人の子供が生れるのだ。

狭い国土には二.五億人が暮らしており、勿論、移民も喜んで受け入れ、産業の空洞化に苦慮した時代とは様変わりしている。技術発展によって、日本の領海・排他的経済水域海底に、金、銀、銅、亜鉛、鉛、石油、コバルト、メタンハイドレート……などの豊富なエネルギー資源や鉱物資源が確認され、今では資源大国となっている。今までの資源輸入国が、輸出国に変わっている。更に、最先端技術を取り入れた様々な技術を輸出している。

「働かざる者、食うべからず」の言葉通り、昔ニートや引きこもりと言われていた人種は、誰一人としていなく、汗水たらして働くのが美徳である、と小さい頃から国民は信じて疑わない。一方、ワークシアリングが一般化して、企業で働く日が週二日から三日であり、休日はボランティアとして過ごすか、あるいは、可処分所得の大半を約七百三十ある遊園地で、子供と遊んでいるのだ。可処分所得の一部を贅沢品などの消費に充てている。この結果、消費支出の六割を占める家計支出が、そのボリームを増やすので企業が潤って、そこで働く従業員が消費を増加させることで、経済が好循環している。

高福祉高負担が原則であり、消費税は四十五パーセントではあるが、百歳以上の人には、余暇も充分楽しめ、生活には一切困らぬ程の年金制度・社会保障制度が充実している。

超ⅰPS細胞の高速培養、クローン革命、アンドロイド革新……などにより、現在の平均寿命は二百五十歳となり、更に、インドを中心に不老不死が研究されている。肉体の老化は、四十歳のままで停止するのだ。インテリ達にとっては、その精神は限りなく上を目指し、探究心は増すばかりである。だが、もうこの世に一切の執着も残らず死を選択すれば、総合病院を訪れると安楽死はできる。政治家、学者……など、まだまだこの世で活躍したい人々は、約四百五十歳まで生きることを可能にする研究も、同時に進んでいる。

蝦夷地≪えぞち≫では、北方四島を含めた地をアイヌの人達が自由に行き来して、漁狩といった昔の生活に回帰している。沖縄県であった地域も、米軍の基地跡も含めて琉球王国が統治して、琉球国民は自由闊達≪じゆうかったつ≫に、その生活を謳歌している。当然、日本国政府はそれらの新しい国々に援助の手は差し伸べてはいる。が、NGO、NPOに参加する人達の活躍も、決して見逃せない。寺子屋で十二年間学んだ後、高校、大学での一年間は、男女を問わず、NPO、NGOにて無給で働くのが常識となっている。大学進学率は十八パーセントであり、大半の国民は、寺子屋を出ると直に丁稚奉公をする。大学を出た者のみ、卒業後すぐに兵役を二年経験し、肉体、精神ともに成熟し、企業に就職するか、又は公務員等になって、先ずはトイレ掃除、床掃除など昔の徒弟制度を体験する。それから、会社員、公務員としての忠誠心と、終身雇用制度を上手くマッチさせて、企業等の更なる発展に貢献する事は、今や、常識となっているのだ。

 

ノストラダムブームを起こした千九百七十三年出版の「ノストラダムスの大予言」。その詩で「千九百九十九年人類滅亡」という予言が書かれていた。 

「一九九九年の七の月  天から恐怖の大王が降ってくる アンゴルモアの大王をよみがえらせ  

その前後の期間 マルスは幸福の名のもとに支配するだろう 」(予言集『諸世紀』より) 

千九百九十九年はとっくに過ぎた。だが、ノストラダムは『カバラ数秘術』の計算法を使用し

ていた為、二千十二年に世界の終焉≪しゅうえん≫がやってくるという説もあった。二千十二年が過ぎるまで、この予言を信じていた勉は、常に恐れていた。

また、イスラム教の教典として全ムスリムが認めて従うのは、コーランだ。その書物は、ムハンマドが最後の予言者として語った聖典である。コーランの地震の章で、恐ろしい終末が述べられている。

「きっと、きっとお前たちは、その目で地獄を見るぞ。もう一度言おうか、きっとお前達その目で、地獄をながめるぞ。その日こそ、お前達、遊びほうけてきた罪を問われるぞ」

マヤ文明においても、二千十二年に人類が終末を迎えるとの予言があった。勉は、これにも「ノストラダムスの大予言」と同じ反応をしていた。

ボンヤリと、もの思いにふけっている時に、予言の持つ恐怖が脳味噌に侵入してきた。恐怖を忘れるのに、多大の時間と苦悩を勉に強いた。どの予言を信じてよいのか、全くわからない。

ある意味では、自称研究者達の言いたい放題だとも思える。だが、勉が様々な予言に恐れを抱いている事実に変わりはない。

 

勉には、未来を現在に引き寄せる超能力が備わっているのだが、残念ながら、過去は再現出来ない。一か月を要し、未来を現在に実現させることに成功した。それが彼の若い時代にはないPCを日常にしたのだ。コンピューターを生み出した影の立役者は、誰あろう勉である。

勉は高校一年生の時、コンピューターでアルバイトをし、結果、莫大な利益を彼にもたらしたのだ。

甘ったるい声で母にねだった。

「母さん、高価だけどパソコンを買ってよ! 投資以上に稼ぐから。お願い、お願い。絶対、高

収入を約束するから……」

 不審な顔で、母は言った。

「学生のお前に、そんな事ができるのかい?」

 勉は、胸を張り自信たっぷりに言った。

「間違いないよ。母さん俺を信じてよ!」

母はそれ以上勉を追求しないで、欲しがっているパソコンを買った。T社のハードディスクドライブ : 五百GBのデスクトップパソコンだ。でも、彼はPCに関する知識は皆無だった。学習机の横に記していた「K大合格週間スケジュール」。その横にPC学習時間を追加した。三か月間で、上級までテキストを読みPCを使いながらマスターした。数学、世界史等の学習時間を少しずつ減らして……。もちろん、独学でCPのかなり難しい技まで習得した。

――今では、勉のおかげで飛躍的な計算能力を誇る量子コンピューターを研究中だ。――

 

莫大な利益を生み出した勉のやり方は、こうだ。

ハンドルネームを【魔法の使い手】という名にしてブログを立ち上げた。

その内容は――「あなたも、たった一日で金持ちの仲間入りを果たしませんか? 興味のある方は、下記のアドレスにメールをお送りください。但し、【四十万円を投資してもいい】と考える方に限定させていただきます。先着九十名様のみ受け付けます。……ですが、残りの枠は若干名です。お急ぎ下さい。このペースだと、あなたに、ご参加出来ない可能性もあります。その節は、なにとぞごようしゃ下さい。先ず、前に進む事が何事においても肝要、とだけ言っておきましょう!」 

【鴨】(顧客)からメールが入ってくると、先ずは彼の口座にその全額を振り込ませる。最初のメールで、顧客がなってみたい金持ちの勤め先と名前を聞き出して、確認のメールを返信する。

「明日の朝には、あなたは、その人に変身します。ただし、今までの記憶は完全に消えますが、それでも良いですね!」

この世に存在していたターゲットを抹殺する必要が生じる。そこで、例の如く、柱を使い人形≪ひとがた≫の心臓に千枚通しを突き刺して、心疾患――心筋梗塞……などで確実に死に至らしめる。まさに、悪魔的な殺し方だ。いや、彼の能力を活かした殺害方法だと言える。

彼にとっては、黒い炎が心の奥底に燃え上がる、歓喜に満たされた行為だ。

ハンドルネームを変えて違うブログを立上げ、それを利用して顧客を募≪つの≫る。

「このメールでお知らせする株を、直ぐに買ってください。必ず一週間後には元金の倍近くになります。間違いなく、あなたも資産家の仲間になりますよ。これで、あなたの人生が良くなることを心から願っています。今後も、メールであなたにお得な情報をお届けいたします。PC上ではございますが、あなたとの出会いに深く感謝しています!」……など。

当然、【裏サイト】のIPアドレスをたどれば、簡単に摘発されるが、彼には解決出来る方法がある。つまり、例の悪魔的な殺し方を大勢の人間に適用するだけだ。そんな行為に良心のかしゃくすら、暗闇に満ちた彼の脳にはない。

だが、稀にかしゃくが湧き上がる事態に遭遇する瞬間もある。そんな時は、二~三度グルグルと頭を回す。それだけで、そんな思いはどこかに吹き飛んでいった。

たとえ、大阪地方検察庁特別捜査部が、彼に目を付けても、例の儀式で数名の捜査員を殺害するだけだ。

「もっと、強気になろう! 悪魔になりきる覚悟を持たなくちゃ。これから先の俺はない。……それこそが、俺のレゾン・デートル (raison d‘être)【存在理由】だ!」

と、いつも自分自身を正当化しているのだ。

藤原竜也の優れた演技が素晴らしかった映画「デスノート」では、命を奪いたい相手の名前を書かなければ殺害できない。だが、勉の人形≪ひとがた≫には、特徴だけ記入すればいい。この点では、彼の殺害方法が数段優れている。たまに誤殺もあったが、彼はまるで気にしない。

彼は、いつも、うそぶいていた。

「俺には、この世で怖いものなぞないのだ! ざまーみろ。アハハハハ……」

 

 【光陰矢のごとし】というが、あっという間に四十四年の歳月が流れた。

勉は、すでに老人になっていた。

顔には、シワと老人特有の、みにくいあざに覆われている。勿論、体中もシワだらけになっている。まるで、骸骨に薄い皮膚がへばり付いているようだ。押し寄せる老化の波には、勉でも勝てなかったのだ。だが、勉は【悪魔】そのものになっていた。既に、祖母も母もこの世にいなかった。が、独身を貫き通した勉は、ますます超能力の腕を磨いていた。様々な超能力――超感覚的知覚*テレパシー、予知、透視、念力、念動力、サイコメトリー、発火能力である。

しかし、【不老不死】だけは、どうしても手に入れる事はできなかったのだ。

身に付けた超能力を使って、うなるほど金を蓄えていた。勉は未来を見通せるから、競馬、競輪、競艇等の賭けごとで得た金ばかりだ。あくせく額に汗を流して、働いて稼いだ金ではない。

今では、超優雅な生活をしている。執事、料理人、召使いなど三十人程が、勉一人の為に働いている。彼の住まいは、人もうらやむ超豪邸で、更に、至るところに別荘を所有している。九州で温泉付き別荘、他にも軽井沢、那須……などにも。彼でさえ、その数を明確に把握できない程だ。若い頃は、あらゆる遊びに興じていたので、金のにおいで近づいてくるアリは無数にいた。       だが、心を許せる心の友はできなかった。つまり、誰にも悩みを打ち明けられなかったのだ。

しかも、身寄りもない孤独な老人になっていた。当然、彼の屋敷に来る知り合いも、誰一人としていなかった。

そこで、勉は固く心に決めた。人生最後の決心だった。

(もう、この世には何の価値も見出せない。未練さえもなくなってしまった。自業自得だろうが。

若い頃に熟達したハンググライダーで地上に激突して命を断とう! ……うんそれがいい!)

そう決心した勉は、お抱え運転手に鳥取砂丘に行くよう命じたのだ。後部座席部分の構造を延長した豪華な装備ストレッチ・リムジンに乗った。当然、あらかじめ天気が良く風速三~一五メート

ルの日をPCで調べていた。目的地は、ハンググライダーに適した、とても素晴らしい天候だ。彼は、砂丘を思う存分心に焼き付けた。それ程、風紋の鳥取砂丘を愛していたのだった。

日本ハング・パラグライディング連盟発行のライセンスを携行していた。係員にそれを提示しなければ、大空を飛べなかったからである。

向かい風に逆らって、五メートル程度の助走で離陸できた。

(わしは、鳥になったのだ。苦悩のない空中の世界。この上なく素晴らしい気分だ。上昇気流を味方にして飛行を続ける。鳥取空港近くの国道九号線に落下するのだ。そこは、アスファルトの道だから、この高度から激突すれば……汚らわしくて住むにたえない世界とも、さよならだ!) 

勉は、空中からまずヘルメットを落としてみた。ヘルメットは、回転しながら落下し、小さくなったかと思うと、うまくアスファルトの道に落下した。それを確かめ、登山ナイフで自身を固定している全てを斬った。

彼は自由落下する時、青い空に、一瞬、どす黒いとてつもなく大きな口を見た。

「ヘヘヘヘ……オッホホホホ、オッホホホホ、オッホホホホ、オッホホホホ……」

耳をつんざく笑い声が、鼓膜を震わしたような気がした。

数秒後、もう既に九十九歳になっていた勉の意識は、暗い奈落の底に落ちていった。

 

 交通課員が、多くの赤いカラーコーンで並べて、国道九号線を走っていた車を遮断していた。

つまり、九号線はかなりの区間、封鎖されていたのだ。

数人が、国道の側溝でゲーゲー…吐いている。

死因を特定するため、警察本部の捜査一課員達がパトカーに分乗して到着し、彼等が最初に目にしたものは――割れた頭が胴体にめり込んで、いびつに足が空を向いている死体だった。

鮮血と内臓が辺り一面に飛び散っている。国道の上を直角に通る道路の壁に、まだ蠕動運動≪ぜんどううんどう≫をしている小腸と大腸がぶら下がって、糞尿≪ふんにょう≫だらけの腸が、強風にゆれているのだ。

しかも、死体を避けようとして、ハンドルを切り損ねた二十数台の車中から、悲鳴と呻き声が辺りの空気を振動させている。

「助けてー、助けてー、助けてー、助けてー……」

かすれた声があちこちの車から聞こえる。かなりの死傷者が出ているようだ。救急車、レスキュー隊員を乗せた緊急車両が多く集まり、作業で現場は騒然としている。

これといって事件、事故が少ない鳥取では、まさに大惨事だった。

 

地獄にも行けずに勉の魂は、この世を彷徨って、人に憑≪とりつ≫き祟≪たたる≫悪霊となってしまった。たとえ、戸締りを厳重にしょうと、彼の霊は侵入できるのだ。

今夜あたり、悪霊と化した勉が、あなたに【いたずら】をするかもしれない。

そうなれば、悪魔払いの儀式をして、勉の悪霊を追い払うしかない。悪霊を追い出す有能なエクソシストに頼む。あるいは、修験者や陰陽師によって加持祈祷≪かじきとう≫してもらう。あるいは、優秀な霊能力者に依頼し、除霊祈祷してもらう。そんな手段で、悪霊となった勉を追い出してもらうのだ。

とはいえ、果たしてそれらが成功するとは限らない。

勉の魂は、相当手ごわい悪霊に化身しているのだから……。

 

――完――   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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南 秀憲
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