トム、エリザベス、ミーシャの三匹はいわゆる猫である。普通の猫と違うのは、人間から使命を預かっている事である。最初の事件は、彼らの住んでいる神田村の村長からの秘密の依頼だった。
実は、鹿の問題である。一つには、畑の作物を食い荒らす鹿が殖えすぎて、この村でも鹿を殺そうという人間が増えつつあった。
村長は心根の優しい人だったので、心を悩ませていた。
それは丁度、トムが散歩に出掛けた時だった。村長が溜息をつきながら歩いているところに偶然出くわした。歩いては止まり、溜息をつく姿を見掛け、つい掟を破って声を掛けてしまったのだった。
「村長さん、大きな悩みを抱えておられるんですね」
村長は辺りを見回したが、足元に近寄ってくる大きな黒猫しか居ないので、頭を右手の平でトントンと叩いて、
「いかん、いかん。幻聴まで聞こえる。何とかしないと」
再び散歩を続けようと足を踏み出すと、目の前に先程の黒猫が通せんぼするように座っている。
思わず、
「そこ、どいてくれ、親分」
冗談交じりに頭を撫でようとしたその瞬間、
「頭を撫でられるのは好きじゃない。紳士的に」
ますます村長はがっくりきて、
「認知症か。頭が少し可笑しくなっているな、家で休まなければ」
と踵を返すと早足で家に戻り、ベットに潜り込んでしまった。が、少しも眠れないばかりか、目の前に現れた大きな黒猫の顔がチラチラしてまんじりともしなかった。
トムは村長に声を掛けた話をエリザベスとミーシャにすると、ミーシャが、(これは一番下の弟だが、小柄で素走っこく情報通だ)
「まずいぞ。我々の情報が知られると、皆殺しの危機に遭うぞ、トム兄」
するとエリザベスが、(これはトムの妹で心配性だが小知恵は利く)
「そうでもないわ。私達がいなくてはならない存在になれば良いと思うわ」
又々ミーシャが申すには、
「そりゃ、難しい。人間は猫を知能の低いペット位にしか考えてないからな。もし真実が分かれば、嫉妬に狂う者や様々な妨害に見回れるぞ」
トムは言いました。
「実はこの間、村の会議場の窓の下で盗み聞きしたんだが、鹿害が増えて困っているから大量に撃ち殺そうと、山岡という髭面の爺さんが大声で喚いていたんだ。その勢いに他の七人の村会議員達も、村長も何も言えずに固まっていたよ」
又々ミーシャが、
「そりゃまずい、そりゃ拙い。小さい生まれたての鹿は、母鹿を殺されたら生きてはゆけないから。それにこの村の人達は大人しい者が多いから、多分何も言えないだろう」
三人は民家の物置を拠点にしています。ここのお婆さんはご飯を持って来てくれますし、冬はフカフカ毛布とホッカイロを入れてくれるのです。週に一度は刺身を持って来てくれます。ただ、三人の秘密は知らないのですが・・・。知っていても知らなくても心優しいお婆さんには余り重大な問題ではなさそうですし、話し相手が出来ると寧ろ喜ぶでしょう。
エリザベスは、
「絶対私はお婆さんに知られたくないわ。だってそうなれば私が毎日お婆さんの相手にならなきゃいけないもの。何と言っても女同士だから」
と言い、
「今でも疲れ気味なのに余計酷い状態になりたくないわ」
と、真白な毛並みをブルッと震わせました。
お婆さんはエリザベスを特に気に入って良く撫でてくれます。そしてお喋りを一人でするのです。もしエリザベスが話し相手になると知ったら、それこそ喜んで放しそうにありません。それを考えると酷く億劫になるのです。
トムはきっぱりと二匹に申し渡しました。
「とに角鹿達の大量虐殺は避けなきゃいけないから、明日村長と膝詰めで良く話し合ってみなければ」
翌日村長は、昨日は何か悪い夢でも見た気分になっていましたので、忘れなければと思い散歩に出ました。歩き歩き、
〈今日は良い日和だ。頭もはっきりしている。まだまだ老いぼれる年じゃない〉
すると黒猫が現れたので、目の錯覚かと目を四、五回パチパチさせました。
黒猫は村長と一緒に散歩をしています。
〈ただの呑気な猫だ〉
思い直して気持の動揺を黒猫に悟らまいと知らんぷりして歩きました。人通りのない松林のベンチに腰を下ろすと、黒猫もひょいっとベンチに飛び乗り腰を下ろしました。思わず顔を見るとニヤリと笑った気がして、もう心此処に在らずで、ベンチからスクッと立ち上がり、村長にしては速く、速く駆けて行きました。家に帰りテーブルの前で胡坐をかき、渋い番茶を飲んで考え始めました。
〈家では呆けたとは言われてはいない。村の集会でもきちんと仕事は熟している。何故だ。何故こんな気持ちになる? そうだ!今度あの黒猫に会ったら厳しく言おう、付きまとうなと〉
そんな風に考えていると少し気持も落ち着き、煎餅をバリバリと三枚も食べていました。
翌日の朝、お日様が昇るとそちらに向かって村長は、「パンパン」と柏手を打ち、決心したのです。今日の散歩は足取りも力強く、目で辺りを見回して、いつもより早く松林のベンチに着いていました。しかし黒猫は現れません。トムはトムで今日はお休みの日です。お婆さんが昨夜沢山の刺身を差し入れしてくれたので、三匹ともお腹が一杯でぐっすり眠ってしまっていたのです。
お婆さんは、
「今日はお刺身が沢山あるよ。何しろ売り出し日で安かったから、いつもの三倍も買ってしまったよ。予算少々オーバーだよ」
とエリザベスを暫くの間撫でていました。
「あんた達が私と一緒に暮らしてくれたら、どんなにか嬉しいんだけどね。戸口を開けといても入って来ないんだから」
フーと息をつくと家に入ってゆきました。
三人は三人で、(ここからは三匹と言うのは気が引けるので、三人と言います)お婆さんは大好きなのですが、一緒に暮らすと仕事が出来ないのです。
エリザベスは、
「後七、八年してゆっくりしたくなったら、家の中でお婆さんと過ごすのも悪くないと思うわ」
と予定を立てています。
隣の家で外に繋がれているジョンは、三人が羨ましくて仕方がありません。
「俺なんかさあ、一日二回の散歩だって、やれ忙しいだのって一回にされるのも度々だ。毎日、毎日ドックフードばかりで。それだって最近何だか不味くなった気がするよ。家に入れてくれたら可愛い番犬になるんだがなあ」
とぼやいています。
ジョンは飼い主に撫でられたりチューされたり、散歩が大好きな犬なのです。
「まあ、でもな、この家の人達は優しいからな~。俺の兄弟は厳しい環境にあるらしい」
ジョンが何でそんな事を言うのかというと、カラスが教えてくれたのです。
隣村に貰われた弟は、最初のうちは可愛がられていたらしいのですが、可愛がってくれていたお爺さんが亡くなると皆知らんぷりで、一日一回ご飯を与えられ、夜になると少しだけ放されているのだそうです。その時に何か落ちていれば拾い食いしたりするので、最近お腹を壊してしまったのです。
泣きそうになるジョンを励まし、人間も犬も猫も人生色々だと、三人は話し合うのです。
村長さん、名前は小森静男と言うのですが、
〈まあ、気のせいか。ただ散歩中に付いて来た猫というだけの話だな〉
と、何となくホッとした気持でおりました。
ただ村議会も迫っているのでオチオチしてはいられません。
〈あの山岡虎夫のことだから、大声で私を脅すだろうな。どうもあのタイプは苦手だ。年だって私より三歳も上だし、十倍は力がありそうだ〉
気が重くなりますが、その日はどんどん近付いてきます。
散歩に出ました。村長さんの日課なのです。
ところが松林のベンチまで来ると、黒猫がベンチに座り待っています。村長さんは驚きましたが、その時は少々心にゆとりがあったので、隣に腰を掛けてトムを見ながらきっぱりと、はっきりと、こう言いました。
「付け回している訳ではないな。それなら気にしないが、そうでなければしっかり
と叱るぞ」
と睨みました。
トムは金色の目でしっかりと村長さんを見ると、
「村長さん、黙って僕の話を聞いて下さいよ。僕は村長と話が出来るんですよ。頭が可笑しくなったなんて思わなくて良いですよ。村長さんは他の人より優しい方だというのは僕には分かっています。だからこうしてここまで話しに来たのです」
村長さんは右手で右の耳をトントン、左手で左の耳をトントンとして、もう一度、目の前にいる黒猫を見ると、意を決して口を開きました。
「わしの何を知っているんだね? 黒猫君」
ついそんな行動を生まれて初めて取ってしまったのでした。
「村長さんが山岡さんのことで悩んでおられるのは承知していますよ。ここのところ何日も悩まれていましたからね」
益々村長は吃驚しましたが、ついつい引き込まれていきました。トムの目の光は信頼出来そうに思えたからです。
「悪いとは思いましたが、この間の村の会議をついつい窓の外で聞いてしまったのです」
「それについて一つ提案があるのですが」
「わしがこんなに考えても解決策が思い付かないのに、提案とは何かな、期待出来そうもないな、猫では」
「僕が鹿達と話し合ってきます。少し余裕を下さいませんか、必ず解決策を見付けますから」
「でもなあ、何と言おうかな、虎男になあ。小学校の頃から強かったからなあ」
〈しかし、わしは村長だ。村長選では虎男でなく、わしを皆支持してくれたんだ。そうだ、それならと〉
「黒猫君、その提案についてはいつ迄も待ってはおられんぞ。二、三日中にたのめるかな」
真顔でトムに聞きました。
「出来るだけ早く報告出来るよう弟や妹と一緒に、鹿達と良い解決策を纏めてきます」
「弟と妹もいるのか?」
聞かれて、
「いますよ。二人は頼りになりますから安心してください」
そう言って駆けて行きました。
村長さんは長い間ベンチでボーッとしていましたが、
「待ってみよう」
と独り言を言いつつ帰って行きました。
山岡虎男は村議会が待遠しくて仕方がありません。村長選で、あのひ弱な小森静男に大差で敗れ悔しくて仕方がありません。選挙活動が足りなかったのだと思っています。
〈あの小森は女連中に人気があるからな。今度は自分が強い所を示して、皆を服従させなければ〉
と考えているのです。
トムはエリザベスとミーシャに報告しました。反対意見を出す二人ではありません。基本的に決定権は隊長のトムにあるのです。
「鹿の足はとても強鞭で、蹴られたら私動けないわ」
エリザベスは少々臆病なのです。
ミーシャが、
「姉さん、泣きごと言うなよ。姉さんは大量虐殺が平気なのか。人間の村長さんですら悩んでいるのに」
慌ててエリザベスは、
「そういう意味じゃないわ。私だって出来るだけの努力はするつもりだし、出来ると思うわ」
「それじゃあ今から、鹿達に会ってくる」
と、トムは翌朝出掛けました。
山をゆっくり登ります。登って行くと鹿の群れが木の新芽を食べています。
「やあ、鹿さん、長老はどちらですか」
トムが尋ねると、小さい小鹿が母鹿の後に隠れます。
母鹿は金切り声で、
「生まれたばかりなんだから、もっと気を遣ってよ」
「ごめん、ごめん。ところで長老は?」
トムが再び聞きます。
「わしが長老だが、一体何の用だ?」
「大事なお話があるのです。貴方がたの存続に関わる大事ですよ」
トムの言葉に長老は、
「ただの脅しではなさそうだ。掻い摘んで話してくれ」
「今貴方がたは畑を荒らし、山も荒らして人間も困り果てています。鉄砲で大量に殺そうという案が有力になっているんです」
さすがの長老の顔もみるみる曇りました。
さっきの母鹿が、
「フゥゥー」
と叫び倒れました。
小鹿は大声で泣き喚きます。他の女鹿達は声をかけています。
「しっかり、気をしっかり持って」
母鹿はそろそろと立ち上がり小鹿をペロペロと舐めて涙を拭いてやっています。
長老はトムに、
「詳しい話を聞かせて欲しいんだが」
少しヨボヨボとした足取りでトムの目の前にやってきました。
「僕は村長さんからの依頼で話し合いにきたんです。僕にしたって貴方達が虐殺されるなんて最悪の結果は見たくありませんからね」
そこにいる鹿達を見回しトムは続けて言いました。
「そりゃあ、お腹一杯にしたい気持は分からなくもありません。でも解決策を見付けなければ、人間との共存共栄の道は・・・・・・」
長老はトムの話をじっと聞いていましたが、
「あんたは信頼出来そうだ。もう少し時間をくれないかな、全員を集めて意見を聞かなければ」
トムは長老を見て考えていました。
〈この長老は、もう長くはないだろうな。寿命は誰にだって訪れる。それは仕方がないにしても、力のある若い鹿達が何と言うかな。一日だけ待ってみよう〉
「長老、分かりました。明日の朝ここで待っていますから、それ迄に答えを出して下さい」
トムは山を駆け下りました。後ろを振り向くと一匹の鹿がトムを睨んでいます。そして前足を振り上げ、大きく「アウアー」と鳴き、まるでトムを威嚇しているように見えました。
それを見ると、
〈今夜は大荒れだな。長老も大変だ〉
と考えゆっくり家路に着きました。
ミーシャは待っていました。
トムが、
「エリザベスは?」
と尋ねると、ミーシャは怒った口振りで、
「あいつ何考えてるんだ、この大事な時に。フワフワ猫のマークに話し掛けられて良い気持になってお喋りしてるんだよ。全く自覚が足りないにも程がある」
そこにエリザベスが帰って来ました。
「あら、トム兄さん、鹿達はどうなったの、とても心配してたわ」
「よく言うよ!」
ミーシャはふくれっ面でエリザベスに向かって、
「そうは見えなかったな。僕はエリザベスが僕らの秘密をマークに話すんじゃないかと思うと心配で仕方なかったよ。エリザベス、節度を持たなきゃいけないよ」
エリザベスは前足でミーシャの方を一度「ピシャ」と叩きました。
「恥知らず。そこまで信頼出来なきゃ一緒にやっていけないわ。たとえ弟でもね」
ミーシャも負けずに言い返しました。
「デレデレしてたくせに何だよ。今は非常時だぞ。こんな非常時にあの態度は、そりゃ不愉快になるよ」
トムが諫めます。
「二人共、そこで止めてくれ。内輪揉めをしてる時じゃない。今長老と話をしてきたよ。明朝決議を聞きに行く。お前達二人も一緒に行くんだよ」
「二人は顔を見合わせ頷いて、
「こういう事態に皆一致団結は当たり前だ。今夜はゆっくり休んで体力を消耗しないようにしなければ。明日のためにね」
エリザベスはミーシャを見てこう言いました。
「いつだってミーシャは体力が有り余ってるから、その点だけは何の心配もないわ。寧ろ考え深さね、必要なのは」
ミーシャの顔が段々に赤くなります。
「女はこれだから嫌だ、すぐ訳もなく仕返しをするんだから。僕の助言を受け入れられずに拗ねるのも大概にしてくれ」
エリザベスは知らんぷりで毛繕いをしています。わざと無視をする構えなのでしょう。とも角翌朝には三人は揃って鹿の待つ山に向かって歩いて行きました。
村長さんは毎日毎日鹿の山の麓にやって来て山を見上げています。時々ライフル銃の、「パーン」という音の空耳までするようになっていました。向こうに黒猫を先頭に三人の猫が見えます。こちらに向かって歩いて来るようです。慌てて木の陰に隠れました。
トム達には村長さんがとっくに見えていましたが、ここは知らないふりをした方が良いと判断し、三人は気付かないふりで歩いて行きます。山を登り始めました。昨日の場所に来ると母鹿が待っています。
「さあ、案内しますよ。皆が待っていますから」
後を付いて行くと、大勢の鹿達が待っています。それぞれの表情に不安な様子が見て取れました。
「やあ、こんにちは、意見は纏りましたか?」
尋ねると、昨日の長老が進み出て来て、
「意見が多すぎて中々まとまらん。あんたが司会で進めてくれんか」
トムは速く解決せねばと少し大きな声で、
「皆さん、僕はこう考えます。平和的に解決する為には我慢が必要です。どうでしょう、人間の諺には腹八分目と言う言葉があります。貴方がたも腹七分目にしては。そうしたら畑の作物を荒らさずに済むでしょうから」
中ではかなり大きな男鹿がこう言いました。
「俺達はいつでも腹八分目だ。腹一杯は食べてないぞ。お前分かってないな。そんな奴につべこべ言われたくない、帰れ」
と、トムに申しました。
その時カラスの群れがやってきて、
「カアーカアー、そうだそうだ、トムの言う事なんかに惑わされるな。腹一杯が気持ち良いに決まってる。嫌だ嫌だ、我慢は嫌だ。人間どもに従うな、カアー」
勝手な叫び声をあげて困惑させます。
大抵の鹿達はオロオロしていてどうしたら良いか分かりません。
するとそこに母鹿三人が現れ、トムにこう聞きました。
「あのー人間達は見境なく殺戮すると言ってるのですか? 私達には小さい子供が居るから、この子達が孤児になったら小さい子供ですから生きて行けません」
トムは母鹿を見て、ここが説得時だと力を込めて話し出しました。
「その為にも我慢が大事ですよ。腹六分目で手を打ちましょう。そうすればこの山だけでやっていけるでしょう」
母鹿が少し困った様子で、
「それだと来年子供に恵まれないかもしれないわ。何といっても栄養不足じゃ」
トムは再び、
「毎年子供を生まなくてもいいんですよ。それは特別重大ではないし」
さっきの若い鹿が大声で、
「他人事だと思って、貴様ふざけてるのか」
と、トムに詰め寄ってきます。
長老が、
「ガンホー静かに。この黒猫さんはわしらの心配をしてくれてるんじゃ。もっと冷静になれ」
カラスは頭上で黙って聞いています。すると一斉に、
「ガンホー頑張れ、頑張れガンホー」
無責任に声援を送ります。
トムがカラスに向かって大きな声で申しました。
「関係者以外は立ち去って下さい。面白がっている連中に邪魔されたくない。速やかに立ち去って下さい」
又々カラスは、
「トムなんかに騙されるな。トムは人間の友達だ。カアアー」
エリザベスがカラスに言いました。
「黙らないと、その口ばし引っこ抜くわよ。あんた達がどんな悪さをしているか人間にしらせようかな。私何でも知ってるんだから」
カラスは一斉に黙り込みました。カラスも猫は苦手です。二人、三人ならまだしも、この村中の猫が襲ってきたら1大事です。
「パタパタ、パタパタ」と立ち去って行きます。カラスが去ったので森は静かになりました。
「さっきの続きですが、腹六分目で決着しましょう。そうすれば二年後には腹七分目に出来るでしょう」
ミーシャが言いました。
「皆大変だろうけど仕方ないよ。生き延びるのが一番だよ。我慢だって勇気がいるんだよ。戦って雄々しく死ぬだけが勇気じゃないよ」
すると長老が皆に向かって前足を右左、右左と鳴らしました。
「わしはこの猫さんの意見に従おうと思う。どうかな?」
ぐるっと全員を見ると、
「賛成の者は前足を鳴らしてくれ」
長老の言葉が終わると、彼方此方から前足を鳴らす音が聞こえてきました。
「これで決まりで良いな。ただここに居る母鹿は腹七分目にしよう。小鹿がおっぱいを飲んでいるうちはな」
トムはヒョイッと長老の背中に乗ると、
「良かったですよ。本当に良かった。平和が何よりですから」
そう言うと又地面にヒョイッと下りました。
ミーシャとエリザベスも顔を見合わせウインクしました。初仕事だったので二人共緊張していたのです。エリザベスは鹿に蹴られたら大変だとミーシャの後方に陣取っていたのです。
山を下りてゆくと、まだ村長さんは心配そうに山を見上ていましたので、そこでトムはわざと大きく足踏みしました。村長さんが再び隠れたのを見ると可笑しくて仕方がなかったのですが、三人で少し散歩でもして帰ろうと松林の中を歩いて行きました。すると山岡虎男が二人の男とベンチに座ってひそひそ話をしています。三人はそっとベンチの傍の木の上に登りました。音を立てずにそっと。ミーシャは元気が良いのでガリッと音を立てて山岡虎男に気づかれそうになり、慌てて木の葉に紛れ込みました。
〈気のせいか物音がしたようだが。まあ、あの阿呆な村長が気付くはずが・・・〉
そう思うと何となく安心し、ニヤッと笑いました。
ミーシャはエリザベスに睨まれて少し硬くなっています。三人は息を殺して山岡虎男と二人の男の話に耳を欹てました。
一人の若い男が、
「しかし山岡さん、あんたの一存では無理がありゃしませんか」
という言葉が聞こえてきます。
年配の男の顔はかなり皺が深く、山岡と同じ髭面である。
「村長に四の五の言わせないようにせんとな。あの男は小さいが妙にやり辛い。昔山岡があいつに横山さん所の大きな柿の木に実が生っているから取って来いと命令した時も、それに近所のうるさい婆さんの自転車の空気を抜いて来いと言った時も、あいつは従わなかった。拳骨食らわしたら泣きやがったが、結局
命令無視しやがって、腹立たしくて仕方がなかったな。それが今じゃ村長だ。この村も終わりだな。鹿がやり放題でも見て見ぬ振りとは、如何にもあいつらしい」
山岡虎男も大きく首を振りながら、
「全くだ。あいつの好きにさせていたらこの村も廃れるばかりだ」
そして明るい顔つきで膝をポンと叩き、
「何としてでも村議会で鹿退治案を通さないと」
それから二人の方を向いて、
「そうなれば鉄砲隊五人で頼むよ。一度に片付けたいからな」
大体こんな話でありました。
夕方トムはベンチで村長さんを待っていました。山岡虎男は疾っくに引き揚げていました。村長さんには孫が二人います。二人共小学生で上の兄は六年生、下の妹は二年生です。兄の勇気君はお祖父さんの様子が少し気になっていたのです。溜息をついたり、笑う顔にも元気がありません。思い切ってお爺さんに話し掛けてみました。
「お祖父ちゃん、心配事でもあるの、最近元気がないな」
すると村長さんは、
「何もないよ。何故そんな風に思ったんだ、勇気」
「何時も一緒に居るからわかるよ。家族だからね。お祖父ちゃん、僕にだけ話してみてよ」
村長さんは孫が可愛くて目の中に入れても
痛くない程です。とても賢い子なので、小さいながらも頼りにしている所があります。息子夫婦は共働きで、とても忙しくしているので、滅多に相談事は出来ないのです。それで思い切って勇気君に話してみました。
「ふーん、お祖父ちゃん、僕も黒猫に会ってもいいかなあ」
「うーん、何と言うかな。でもお前なら許してくれるだろう」
それで勇気君は学校が終わると、飛ぶように家に帰って来たのでした。今日は野球の練習も休みになりますが、仕方ないと思いました。何しろ一大事なので。
トムは村長さんが二人連れでやってくるので一寸用心はしましたが、背丈は村長さんと同じ位でもまだ子供なので、安心しました。
何より大人より子供の方が信頼は出来るのです。
「やあ、待たせたかな、黒猫君。これは孫の勇気だ。君の力になりたいと言うので連れて来たんだよ」
「まあ、いいでしょう。早速ですが、鹿達とよく話し合ってきましたよ」
「それで」
思わず村長さんは身を乗り出しました。勇気君も話の出来るトムに驚きましたが、そのトムをすっかり頼りにしている村長さんにも驚いていました。
「鹿達は腹一杯食べるのは止めると約束し、それに畑を荒らさないと約束してくれました。子供は毎年産めなくなりそうですが、止むを得ないと納得し、実行しますと、そういう話でした」
村長さんの顔がパッと明るくなりました。
「そうしてくれれば助かるよ。私達だって平和的に解決出来ればそれが一番だと考えているから」
勇気君が思い切ってトムに尋ねました。
「君はどうして人間の言葉で話せるの、どうしてそんなに利口なの」
トムは笑って、
「勇気君だって生まれた時は、お父さん、お母さんが何を話しているか分からなかっただろう? だけど知らず知らずに言葉を覚えて、話したり理解出来るようになったんだよ。僕らも人間と接する内に言葉を理解したり話せるようになったんだよ、でもね、話せる猫は少しだけさ。言葉は大抵犬も猫も理解出来てるんだよ」
勇気君は村長さんに似て心優しい男の子でしたが、体も大きく名前の通り勇気もありました。
「僕はね、今小学校六年生なんだよ。これからも宜しくね」
「こちらこそ。勇気君に手伝って貰うかもしれないけれど、その時は君の家の窓をコンコンと三度叩くよ。村長さん、構わないですか?」
村長さんは小さく頷いて、
「余り頻繁にならん様にな。三人だけの秘密だぞ、勇気、約束出来るか」
と勇気君に尋ねました。
息子夫婦に話すと面倒なことになると思いましたから。
「絶対に約束は守る」
力強く勇気君は答えました。
トムは村長さんを見て、
「少々気になる話があります」
と今度はベンチに横座りになり「山岡虎男が」
と先程の三人の会話を1部始終、一言一句漏らさずに伝えました。
村長さんは肩を落として、
「そうかあー」
と下を向きました。
「お祖父ちゃん大丈夫だよ。僕らが付いてる」
勇気君の声がします。立ち上がって、両手をお祖父さんである村長さんの肩に置いて元気づけようと励まします。
「そうですよ。我々も村長さんを信じてますから」
少し勇気が出た村長さんは、迫りくる村長議会の為の準備を始めました。山岡虎男も蜂蜜を舐めたり、鹿肉のステーキを食べて元気を付けていました。体中から力が漲ってきます。
勇気君は少々興奮していました。何だか少年探偵にでもなった気分がしています。妹のみっちゃん、本当は美智と言います。小さくとも中々鋭いのです。お兄ちゃんの様子がいつもと違う事に気付いていましたが、どうしてだろう、何かあったのかな、お兄ちゃん。
今日勇気君は野球を休んだので、家で腕立て伏せを余分にやりました。何と百回もやったのです。
村会議の日が愈々やってきました。村長さん以下七名は緊張した面持ちで席に着きました。議長で村長さんの隣に座っている丸山道夫が小さな声で、今日は特に小さな声になってしまったのですが、
「これより村議会を開催します」
丸山さんは村長さんを尊敬しているのです。
一歳違いですが、子供の頃虐められているのを度々助けて貰いました。丸山さんも山岡虎男は苦手なのです。山岡一派に無理やり入れられ、柿、栗泥棒やら、川の傍で立って夕日を見ているお爺さんを川に突き落とせと言われたり、大抵は失敗に終わり、そこの家の人に大目玉を貰ったり、川に落ち掛けたお爺さんからは大声で叱責されたり、そんな時村長さんが山岡に言ったのです。
「やっちゃんを巻き込むのは止めてくれ。可哀想だよ」
その時村長さんは山岡に殴られて大きなコブが出来たのですが、目に涙を溜めながら、
「平気、これでやっちゃんには手を出さないよ。いざとなれば、僕、校長先生に言うよと言っといたから」
安夫さんはこの時の恩を忘れていませんでしたが、やはり山岡は怖い存在ではあったのです。
「今日の議題は鹿問題です」
山岡がすかさず、
「鹿問題などと呑気な話をしている場合じゃないぞ。退治以外に方法はないんだからな」
ドスの利いた声を出し、他の議員を圧倒します。
村長さんは思い切って言いました。
「殺せば解決するというものでもない。平和的解決が一番だと思う」
山岡が大声で、
「村長がそんな態度だから鹿の悪さが増大するんだ。反省しろ」
すると丸山安夫が小さな声で、
「何でも平和的にが、大切だと思いますが」
すると山岡の目がギョロリと丸山を睨んだので、丸山さんは目を伏せました。
「とも角、もう数週間様子をみたらどうでしょうか。今作物が実っているので、ここで被害がなければ此の侭、鹿達を見守るというので良いのではないかと思いますが」
村長の言葉に吉野たえ子さんが、(この人は村で唯一の女性議員です)
「いいんじゃないですか。村長さんにもお考えがあると思いますし、この時期に鹿害がなければ良しですよ」
山岡は見る見る顔が赤くなり、
「馬鹿な連中だ。被害を黙ってみているつもりか。村長、そうなったら腹を切れ」
窓の外で聞いていたトム、エリザベス、ミーシャ、勇気君もドキドキして中の様子を伺っていました。得に勇気君はお祖父さんが「腹を切れ」と言われたので、泣きそうになったところでした。
トムが耳元で、
「止めろという事だよ、村長をさ」
それにしても何て野蛮な男でしょう。
勇気君は、「お祖父ちゃんを僕達で守るぞ」と心に誓いました。
トム達三人と共にです。何しろこれ以上の味方は居ない様に思えたからです。勇気君はポケットから飴玉の入った小さな袋を取り出してトムに差し出しました。
「これはほんの一寸したお礼。お祖父ちゃんを頼むよ。勿論僕も頑張らなきゃ」
トムは笑って飴玉を受け取り、ミーシャの首に付けました。
ミーシャは、
「格好悪いよ。それに飴玉なんか要らないよ、食べないもの」
すかさずエリザベスが言います。
「良く似合うわ。それは私からのお婆さんへの贈り物にするから」
とミーシャに言ったので、仕方なくミーシャも従いました。
家に帰るとお婆さんが待っていました。エリザベスはお婆さんに体を摺り寄せ、気付かれない様にミーシャの首から飴玉入りの袋を外して口に加え、お婆さんに差し出しました。
「何なの、エリザベス? まあ、私の好きな飴玉。お前は何て優しい猫なんだろうね。私は幸せ者だわ、こんなに優しく思いやりのある猫に出会って一生幸福だわ」
と涙を流しています。
「ニャオーン」
エリザベスも少し甘えて泣いています。
トムもミーシャも寝転んで横目で様子を見ています。ミーシャは時々エリザベスに向かって、「ニャ―ゴ」と大声を出しています。
お婆さんは、
「お前さんも女一人で辛かろうね、家で一緒に暮らそうよ。それがいい」
いつの間にかエリザベスは眠ったふりをしています。
「そうだっ」
お婆さんは家に大急ぎで入ったかと思うと小さな皿に何かを持ってきました。
「これは少ししかないが、お前さんだけなら十分だ。さあお食べ」
驚いたことに本鮪の赤身です。思わずミーシャは跳ね起きましたが、トムはミーシャの尻尾を抑えて、
「行くな、邪魔をするなよ」
とたしなめました。
エリザベスは本鮪の刺身を五切れも一人で食べました。ミーシャをチラッと見ると睨んでいます。慌てて知らんぷりをします。お婆さんの顔を見ながら食べます。お婆さんの心が躍ります。何と愛らしいのだろう。エリザベスはそろそろ一人になりたかったので、食べ終わると眠ったふりをしましたが本当にぐっすりと眠ってしまいました。トムとミーシャは定番のキャットフードを食べ、疲れもあってか、これも又ぐっすり眠りました。
山岡虎男は困っていました。何しろ鹿達が全く居ないのです。携帯電話を取り出すと、何処かに電話しています。何か話をしている様子ですが・・・「それはー」とか、「やりすぎると」とか、「俺も神田村の人間だから」とか、そんな言葉が途切れ途切れに聞こえてきました。
トム、エリザベス、ミーシャは交代で山岡を見張っていますが、もうすぐエリザベスと交代です。シャナリシャナリと気取った格好でエリザベスが現れました。
「油断なく見張っていろよ」
トムの言葉にエリザベスは、
「任せといて。私にとっては軽い仕事よ」
と答えます。
「軽くないよ。大事な仕事だ」
トムはエリザベスに言うと立ち去り、鹿山の麓にやってきました。
村長さんがいます。辺りを見回すと幸い誰もいないので村長さんに話し掛けました。
「村長さん、心配ないですよ。鹿の方は」
村長さんはトムを見ると、
「おお、トム君、鹿の方はとは、どういう意味だい?」
「村長さん、さっき山岡虎男が携帯から何処かに電話をしてたんですが、何か悪巧みかもしれませんよ。こちらの方が余程心配なんですよ」
「何かなあ、でも虎男だってこの村の人間なんだから悪さはしないだろう」
「山岡は、本当のところ鹿なんかどうでもいいんだと思うんです。目的は村長さんだと、僕にはそうとしか思えない」
「何の事だろう。さっぱりわからんが」
村長さんは良い人だけれど少々鈍い所があるなとトムは考えましたが、それは人間としてむしろ愛らしいかと考えなおし、
「村長さんに失敗させて、その地位から追い落とすのが目的としか考えられません。油断は禁物ですよ」
と前足で村長さんの靴をトントンと叩きました。
「何か虎男に悪い事でもしたのかなあ。思いつかないなあ」
思わず溜息がトムと村長さんの口から洩れました。
「村長さん、そうではないんですよ。実際は逆ですよ。村長さんは余りにも正直者ですし、その上この村から今迄数人しか出ていない国立大学出ですからね」
そうなのです。地元の国立大学を出た村長さんは大企業に勤め、定年退職後村長になったのです。しかも村ではとても信頼が厚いのです。山岡虎男は村長を何とか失脚させたいのです。
トムが再び村長に言います。
「村長さん、私の妹、弟が山岡を見張っていますが、麓のこの畑も夜になったら何が起こるか分かりませんから見張ります。もしも村長さん家の窓を三回叩いたら窓を開けて下さいよ。緊急出動になるかもしれませんから。携帯を必ず忘れずに」
「トム君、君達には感謝しかないよ。とも角何もないとは思うが油断は大敵だな」
と立ち去って行きました。
その日の夜は何も起きませんでした。次の日の夜も何も起きません。その次の夜は星もなく、月も出ない夜になります。真っ暗になるのです。
トムはエリザベス、ミーシャに、
「気を引き締めて掛かるんだよ」
と言いました。
「今日は何しろ悪さをするには絶好だよ。いいな」
エリザベスが、
「いつでも大丈夫よ。私は心がけが良いから」
ミーシャがそんなエリザベスに、
「心がけ、そうかなー、そんな風に見えないな―、エリザベス。僕は大丈夫、トム兄に従うよ」
エリザベスは横目でミーシャを見ながら前足で毛繕いをしています。エリザベスはとてもお洒落なのです。お婆さんの作ってくれた首輪をしています。絹の生地に中が柔らかい綿の入った素敵な首輪です。お婆さんが娘の頃に着た振袖を解いて作ってくれたのです。鈴も付いていたのですが、それは外して川へ捨ててしまいました。ペットでも無いのに歩く度にチリンチリンと鳴るのが嫌だったからです。お婆さんは幾つもエリザベスの為に首輪を作っています。今も新しいデザインを考えている最中です。
「私がお婆さんのお気に入りだからって、ミーシャも嫉妬深いわね」
「さあ、今日のスケジュールの打ち合わせをしよう」
三人は囁き声で長い間、何やら顔を寄せ合って話しました。
村長さんはトムに言われたことが気になっていましたので、考え込んでしまいました。
勇気君はお祖父さんが悩んでいる姿を見て尋ねました。
「お祖父ちゃん、僕に話して頂戴。何でも相談して欲しいな。何といっても、僕はここの長男のその又長男だよ」
そうだなあと思い、村長さんはトムに言われた話をしました。
すると勇気君が言うには、
「僕はトム君の話がお祖父ちゃんよりは理解出来るよ。きっと何につけ山岡さんはお祖父ちゃんに敵わないから悔しくて仕方がないんだよ。でもお祖父ちゃんは悪くない。僕はお祖父ちゃんを尊敬してるよ」
村長さんは勇気君の言葉に思わず泣いてしまいそうでしたが、グッと堪えて、
「うん。問題は穏やかに解決しなくては。会社でも勤続三十七年、何一つこれといった失敗もなくやってきたこの私だ。これくらいで挫ける訳にはいかん」
勇気君の言葉には相当の力がありました。
勇気君は少し考えていましたが、
「お祖父ちゃん、今夜は僕も手伝わなきゃ。きっと手伝わなきゃいけなくなるよ。お祖父ちゃんも今夜が勝負時だよ」
村長さんも、
「そうだな。ただお前を危ない目には合わせられん。トム君達とわしでなんとかせねば」
「お祖父ちゃん、過度な緊張は禁物だよ。疲れてしまうよ」
ますます村長さんは勇気君を誇らしく思い、
〈流石にわしの孫だ。これほど知恵のある子は滅多にいまい〉
「分かっている。心配するな」
と勇気君に言いました。
山岡虎男は焦っていました。このままでは村長に屈服せざるを得ません。かと言って村を裏切れば追い出されかねません。悩みも最高潮に達していました。携帯電話が「ピーピーピ」と鳴りました。急いで受話器に耳を当てます。まだ鳴っています。スイッチを押します。例のお友達です。
「分かった。頼む」
そんな声が聞こえてきました。
見張っていたミーシャはトムに連絡を入れ、再び見張りに戻ります。
トムは畑を八時過ぎから見張ることにしました。八時過ぎに畑に来ると、何と勇気君がいました。
「勇気君今頃どうしたんだ? 家の人が心配するよ」
勇気君が言いました。
「何か手伝いたいんだよ。今日だけだから、何でも言って下さい。トムさん」
トムは勇気君を見て考えていましたが、
「勇気君、じゃあ頼もうかな。今は家に帰って僕達三人のうち一人、もしかしたら君に助けを求めるかもしれない。そうしたら窓を三回叩くから、白いシーツと携帯電話を持ってきてくれるかな」
「なぜ白いシーツ?」
と勇気君が訝しそうに聞くと、
「計画はこうだよ」
と勇気君の背中にヒョイと乗り、耳元でヒソヒソ話をしました。
勇気君は顔を輝かせ、
「分かったよ、了解」
トムは勇気君の背からヒョイと飛び降り、
「さあ、もうすぐ決戦は近い。皆、しっかり頼むよ」
そこで勇気君も、
「確りと携帯を暗闇で操作できるように練習しなきゃ。じゃ、失礼」
家に戻って行きました。
勇気君の妹のみっちゃんはお兄ちゃんの部屋に行くとお兄ちゃんが居ません。外で物音がします。机の下に隠れました。何とお兄ちゃんが窓から帰ってきました。机の下から出ると、今度は勇気君が吃驚してみっちゃんを窘めます。
「僕の部屋でなにしてるんだ、美智。さあ、自分の部屋に行きなさいよ」
「お兄ちゃんこそおかしいわ。まるで泥棒みたいに窓から入ってくるなんて!」
みっちゃんはとても利口な女の子なので、お兄ちゃんにこういう風に聞きました。
「お兄ちゃん、私はお父さんにもお母さんにも黙っていることは出来る。だから打ち明けてもいいよ」
勇気君は答えます。
「内緒にしておいてよ。心配させたくないからね。今は美智にも話せないが、そのうちに話をするから」
みっちゃんはお兄ちゃんの決意がいつもより固いとみて、このまま黙っていようかとも思いましたが、もう一度だけ聞きました。
「お祖父ちゃんにも?」
勇気君は考えましたが、やはりトムとの打ち合わせにお祖父さんは必要ないと思ったので、
「そうだよ、頼むよ、約束だよ。美智」
と言い、
「さあ、もう寝ようかな」
と言ってベットに入ってしまいました。
仕方がないのでみっちゃんも自分の部屋に戻りましたが、どうしても気になって、眠ろうとしても中々眠れません。お兄ちゃんの部屋の前に立つと中からガサガサと音がしています。先程のお兄ちゃんの様子を見ても何も話してくれないだろうと部屋に戻りベットに入ると眠ってしまいました。
山岡虎男は頼むとは言ってみたものの、やはりこの村を裏切ることは出来ないと思い、彼にしては珍しく悩んでいましたが、友人の伊藤金一に連絡をとろうと携帯を取りました。がやはり、「いやいや、接角あいつが考えてくれたから」と携帯をポケットに戻したり、何度も何度も繰り返していました。けれど、ついに意を決してリダイヤルを押しましたが、圏外になっており連絡がつきません。そうこうしている内に夜中になってしまいました。
トムは今夜が勝負と考えていたので、エリザベスには山岡の見張りをさせ、トムとミーシャは十時から畑を見張っていました。多分彼らが現れるとしたら二時頃ではないかと、トムは考えていたのです。その時間には大抵の家は眠りこけていて、少し離れた畑など気に掛ける村人はいません。人家もずっと向こうにあるので少し位音をさせても気付かれる心配もありません。ミーシャには、トムが勇気君の家に連絡している間は彼らが何をしても手を出してはいけないと言ってあります。とても危険だからです。
十二時過ぎ、一時も過ぎて、二時になろうとした時です。「シー」と言う声が聞こえます。夜中でもトムとミーシャの目は良く見えるのです。例の山岡の友人が抜き足差し足やってきました。
「ミーシャ、よく見張ってろよ。勇気君呼んでくるから」
「任せといて、僕の目は兄ちゃんより良いくらいだから」
トムは走りました。時速六十キロ以上出ています。たちまち勇気君の部屋の窓の外に着き、
「トントン」
と窓を叩きました。
すぐに窓が開き、袋を外にポンと出し、窓を乗り越える勇気君がいました。待っていたようです。
少々興奮しています。顔はキリッと引き締まり体中からやる気が出ています。
「勇気君、さあ走るよ」
勇気君も足はとても速い方ですが、流石にトムには敵いません。すぐにトムは見えなくなりましたが、これ以上走れないと思うスピードで走りました。
畑に着くとミーシャが前足で手招きをしています。
「相談しているよ。若い方が手っ取り早くどんどんやろう」
とか言ってる。
髭面のは、
「バレるとまずい。鹿らしくないと」
とか言ってるよ。
トムが勇気君に向かって言いました。
「まあ、すぐに始まるよ、勇気君。準備はいいかい?」
「バッチリ、携帯カメラも、シーツも」
「一には一一〇番、二にカメラ、三にシーツ」
トムの言葉に
「うん、分かってるよ。順番を間違えない様に」
と自分に言い聞かせました。
間もなく「サクッサクッ」と土を踏む足音が聞こえ、アスパラを折る音が聞こえ始めました。すかさず勇気君が一一〇番します。名前を聞かれたようです。電話を切ると携帯カメラを構えパチリパチリ何枚も撮ります。少し遠いので大丈夫かなと呟きながら。殆どのアスパラを折って袋に入れています。足跡を消す道具も持っています。
「さあ、最後の仕上げだ。もうすぐパトカーが来るからその前に済まそう」
トムの声に勇気君は白いシーツを取り出しスッポリ被り大きく両手を上げます。ミーシャが喜んで、
「本物のお化けみたい」
とはしゃぎます。
「シーッ、ミーシャ」
トムは勇気君の背にヒョイと乗ると、
「さあ、僕が目になるからね、言う通りにしてくれ、勇気君」
「了解、準備完了」
勇気君も張り切っています。
「そのままゆっくり、ゆっくり前進、止まって。さあ僕が声を出すから、もし万が一向こうが襲って来たら逃げてくれ、余裕があったら写真を撮ってくれ」
「分かってるよ、万事」
勇気君は持前の賢さとその名の通り勇気があるので大丈夫そうです。ポケットには携帯カメラですぐに撮れるようになっています。
「泥棒は誰だあー」
トムは少々低いが恐ろし気に二人に向かって声を発しました。勇気君は白いシーツを被り両手を上げて近づきます。トムの姿は二人から見えません。
「今何か聞こえなかったかい?」
若い方が髭面に向かって言います。
「空耳だろう。真夜中に、こんな所に来る酔狂な奴はいない。余り怯えるな」
と答えています。
「グアァォー」
トムは再び恐ろし気な声を発します。
二人は振り向きました。若い方は尻もちをついています。目が飛び出しそうです。慌てふためいて髭面のズボンを掴んでいます。
「離せ、怯えるな。悪戯だ」
大声を出しこちらに向かってきます。手には鍬を持っています。
「勇気君、逃げろ」
トムが叫ぶや否や、白いシーツを電光石火の速さで頭から取ると、写真を「パチリ、パチリ」と後ずさりながら取りました。
「早く家に帰れ」
トムが言うと同時パトカーがやってきました。
髭面が鍬を振り上げた姿がパトカーのライトに映し出され、警官が三人パトカーから降りて来ました。勇気君はそろりそろりと気付かれないように家に戻りました。
二人は逮捕され、髭面は大声で、
「何だ何だ、俺達は散歩してただけだぞ」
と喚き、若い方は警官に助けられやっと立ち上がり、
「お化けが出た、お化けが」
まだ夢から覚めやらぬといった具合です。
警官が村長さんの家をノックしました。
村長さんは警官を見て驚き、
「何でしょうか?」
と言いますと、
「あなたの通報で畑荒らしが捕まりましたよ」
村長さんには何のことやら分かりません。その時パジャマ姿の勇気君が出てきました。
警官を見ると、
「お祖父ちゃん、さっき畑の見回り行った時連絡したでしょ。それに写真も撮ってあるよ」
と村長さんに携帯を手渡しました。
村長さんの携帯には髭面も若いのも、はっきり映っています。村長さんはやっと分かったようです。
「そうなんです。ほら、証拠物件もここに」
急に毅然とした態度を見せ、
「やあ、パトカーでご苦労ですな―然し私も一安心ですよ」
警官は
「しかし頭が下がりますよ。夜中まで見回りとは。体を壊さないで下さい。それで、明朝その携帯を持って署までご足労願えますか」
と言い、立ち去って行きました。
村長さんの家では息子夫婦も流石に起き出し村長さんを改めて見直していました。
「お父さん、普段のんびりしているけど大したもんだね。何となく見回りしたのか」
息子に聞かれ村長さんは、
「うん。お前達は忙しいから話さなかったが、鹿害はこのところ減って問題ないんだが、私の失脚を狙っている者がいるからな。何かやらかすんじゃないかと考えて、今夜は星も出ないし、悪い奴らには絶好の機会だと考えてな」
嫁の杉子さんは番茶を入れてくれます。息子は益々村長さんの鋭さに感服したといった面持ちで、
「まあ、怪我だけには注意してくださいよ、お父さん」
「ありがとう、注意するよ」
時計を見るともう六時になろうとしています。勇気君はベットでぐっすり眠っています。お嫁さんは朝食の支度をしています。今朝は村長さんに特別メニューを作ってあげることにしています。湯豆腐を付けてやるようです。
村長さんの奥さんは二年前にガンで亡くなっています。村長さんはふとこんな時、
〈りつ子だったらうんと褒めてくれるかな、それとも叱られるかな〉
とどうやら本当に自分が泥棒退治をした気持になっています。はっと我に返った村長さんは、
「そうだっ、勇気に聞いてみなくては」
と勇気君の部屋に入って行きました。勇気君は起きたところです。
「勇気、どういう事態か話しなさい。包み隠さずお祖父ちゃんにな」
勇気君も、もう隠す必要もないと思ったので、一部始終を話し、
「トム君を叱ったりしないでね、お祖父ちゃん。彼は僕の安全は考えてくれていたよ、常にね。それにトム君達が居なければお祖父ちゃんも失脚だったんだから、本当に彼は勇気と正義感があるよ」
確かに今までの経過を考えると、トムに感謝こそすれ責めることは何一つないのです。
村長さんは〈何かお礼をせんと〉と考え始めてました。
畑荒らしが捕まったらしいという話で静かな村は一時的にせよ賑やかになり、
「あの村長さんがね」「大したもんだ」とか、「国立大学を出てるでね」など、口々に褒め讃えます。村長さんも仕方なく、「ああ」とか、「まあ」とか、そんな返事をしているしかありません。
警察では若い方は直ぐに髭面に三万やるからと誘われて付いて来たと白状した。
髭面の方は山岡虎男から村長を何とかせにゃいかんと愚痴を聞いて、可哀想に思ったとか、山岡に頼まれたか無いのかは覚えていないとか、支離滅裂な自供をしている様です。
村長は警察でこう申しました。
「村の者の失態は私の責任でもあるし、山岡君には配慮して頂きたい」
警察官は、
「貴方は人格者ですね。分かりました」
山岡虎男は証拠不十分で直ぐに帰されました。
村長さんは三日後、例のベンチでトムを待っておりました。するとトムが現れてベンチにヒョイと乗り、
「村長さん、一件落着ですね」
その言葉に、
「君は良くやってくれた。君がいなければどうなっていたかと思うとぞっとする」
としんみり話します。
そしてトムの肩に右手を置き、
「何でもいい、お礼がしたいので何が良いかな。希望はあるかな」
「それではニつお願いがあります」
と何やら村長さんにお願いをしました。
村長さんはトムがとても優しい性格だと思いを新たにしました。
それから三日後のことでした。
エリザベスが、
「隣のジョン、外にいないよ。家の中から声が聞こえる。嬉しそうよ」
ミーシャも、
「うん。今迄聞いたこともないほどジョン、優しい声だよ。幸せそうだ」
実はトムがお願した一つは隣のジョンのことでした。
「この犬はとても良い犬だね、情緒も安定しているし、子供にも優しいから家の中で飼ってやったら、もっといいんじゃないかな」
村長さんは家族が家に居る頃を見計って散歩で通りかかったふりをし、トムとの約束を果たそうと様子を見ていたのです。
人格者の村長さんに言われたということはあっても、元々心の優しい家族だったので、
「村長さん、私達も迷っていたんですよ。今のお言葉で決心が着きました」
と、こういう具合だったのです。
ニつめは弟のポチのことです。
村長さんは村長会議でよく隣村の村長さんと話をします。そしてジョンの話をし、其の後、
「そうそう、そのジョンの弟が真田さんのお宅に居るそうですが、どうしていますか。噂では可愛がってくれたお爺さんは亡くなったと聞いていますが、お爺さんだってあの世で心配してるでしょうな。村長さんも時間のある時に寄ってみてくれませんか。飼い主もお祖父さんの話はとても喜ぶでしょうから」
隣村の村長さんも顔を輝かせ、
「それは美談ですなあ。私も近い内に行ってみましょう」
それで翌日隣村の村長さんは真田さん宅に出掛けて行きました。ポチが繋がれています。痩せています。お爺さんが亡くなって心労で痩せたのだと思い、
「こんにちは」
と声を掛けると息子の寛一さんが出てきました。
「やあ、村長さん、こんな所に散歩ですかね」
とニコニコしています。
嫁の美子さんもお茶と漬物を出してくれます。
村長さんは、隣村の村長さんから聞いた話を自分が知っていたように話をし、ポチの頭を撫でながら、
「可哀想に。犬でも可愛がってくれた人が亡くなるとこんなに窶れてしまうんだな」
と涙を流しました。
寛一さんと美子さんは黙って聞いています。
「まあ、この犬が立ち直ることが一番だから。今度の村会新聞に美談として載せよう。忠犬ポチということで」
村長さんが帰り、二人はポチを眺めました。随分痩せています。寛一さんは奥に行き、ハムを四、五枚持ってくるとポチの頭を撫で、
「ポチ、悪かったな。亡くなったお父さんを悲しませたくないからな。お前を大事にしなきゃな」
と切ない気持ちでハムを食べさせました。
ポチは何が起きたか全く分かりませんでしたが、いつにない優しさに触れたのと、ご馳走を貰って尻尾を久し振りに何度も振りました。ハムを食べた後寛一さんの顔をペロペロ舐めると、寛一さんの目から涙が零れました。お嫁さんの美子さんも涙ぐんでいます。
「よし、明日からはお父さんと同じに俺が散歩させるよ。こいつは家族だからな」
トムのニつの願いは聞き届けられたのです。
エリザベスとミーシャも喜んでくれました。三人共満ち足りた気持でしたし、何と言っても勇気君という仲間も出来たのですから。