科学と相反するものに宗教がありますが、それでは、科学と宗教にはどのような違いがあるのでしょうか? 科学は、現実の世界を表すもので、宗教は心の世界を表すものだと考えたとしても、心理学や精神病理学などは、心の世界を解明する科学です。宗教も心について解明している面もあるでしょう。ならば、科学と宗教は、共有する一面があるということになります。
当然、小説家は、科学者とは呼ばれません。では、小説家は、科学者ではないのでしょうか? 確かに、小説家は、架空の世界を創造するわけですから、科学者とは言えないでしょう。でも、架空の創造の世界においても、現実と無関係というわけではありません。架空の世界においても、現実に近づいていく内容であれば、科学的と言えるのではないでしょうか。
私たちは、言語や記号を用いて、現実に近づく思考をしたり、現実から遠ざかる思考をしたりと、交流電流の波形のような思考をしているのです。現実に近づく思考を科学と呼び、現実から遠ざかる思考を宗教と呼んでもいいのではないでしょうか。私たちの思考は、科学的であったり、宗教的であったりするのです。
常識
私たちは、常識を利用して生活しています。この常識は、科学からの情報と宗教からの情報からなっています。ということは、私たちの知識と行動は、科学的であると同時に宗教的なのです。だから、役に立つ常識だからと言って、真実だとは言えません。例えば、太陽は動いてはいませんが、実務的には、太陽は東から西に動いていると考えて生活しても問題はありません。でも、現実は、地球が動いているのです。
そこで、太陽の例を使って政府について考えてみたいと思います。太陽が動いていると考えて、生活に問題がないということで、政府が、太陽は動いているという常識を広めたとします。この場合、一般庶民の私たちは、別に生活に困らないわけだから、政府に苦情を呈さないでしょう。でも、地球が動いているという事実を知っている科学者たちは、政府に反論するでしょう。
科学者たちの意見が政府に取り上げられるならば、常識は変更されるでしょう。でも、政府が、科学者の意見を取り上げず、あくまでも、太陽が動いていると主張したならばどうでしょう。さらに、政府に反抗する科学たちを取り締まったならば、どうなるのでしょうか。常識は、発展せず、いつまでも非科学的常識がまかり通ることになります。
今、太陽の例で考えてみましたが、次は、コロナワクチンの例で考えてみましょう。一般庶民の常識では、コロナワクチンは、予防効果があり、健康に良いものとなっています。政府も、この常識を主張しています。ところが、コロナワクチンは、有毒で体に良くないものだと主張する科学者たちがいます。また、彼らの意見が正しいものだったとしましょう。
政府の意見と科学者の意見が対立するわけですが、政府が、科学者の意見を取り入れるならば、常識は科学的となるでしょう。でも、政府が、科学者の意見を十分に検証せずに、頭から否定し、さらに、政府に対して反抗的意見を持つ科学者たちを取り締まったならどうなるでしょうか? 一般庶民は、彼らは嘘を言った科学者だと思うに違いありません。そして、相変わらず非科学的常識が常識としてまかり通ることになります。
この非科学的常識が、実務上、役に立つものであれば、問題にしなくともいいのですが、科学者が言うように、それが有害であったならばどうなるのでしょうか。有害なコロナワクチンが普及すればするほど人々は病気なるということなのです。政府によって、常識が作られていくのが現状です。我々は、安易に、政府が作る常識を信じていいものでしょうか?
たとえ、我々は、政府が作り上げた常識であっても、安易に盲信せず、科学者の意見を尊重すべきでしょう。一般庶民は、科学者ほどの知識はありません。だから、科学者が言っていることが本当なのかはわかりません。でも、科学者の意見も踏まえたうえで、信じ込んでいる常識を再構築すべきではないでしょうか。
今、まさに、我々は、政府が作り上げた常識を疑う時期に来ているといえないでしょうか。一般庶民は、政府、医療、メディア、などを盲信しています。この盲信が、生命の救済に役立てばいいのですが、死を招く可能性もあります。あくまでも、常識は、科学的でもあり、宗教的でもある。また、有益的でもあり、不利益的でもある。これらのことを心すべきでしょう。