算命学余話 #G41

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算命学余話 #G41 (page 1)

 日本は「本音と建前」の文化だと昔どこかで読んだけれども、海外を歩き現地人と交流すれば、どの国も多かれ少なかれ「本音と建前」で日常ができ上っていることが判ります。その乖離の幅は、私の印象では、歴史の古い国や伝統を重んじる民族ほど開いています。日本における「本音と建前」の差を奇異に感じて指摘したのは、歴史の浅い、西欧でも「単純」と評される米国人であって、米国より長い歴史を持つ多くの国々の住民にとっては「本音と建前」がある方がスタンダードなのではないかと、私は体感的に感じています。

 ところでこんな歴史的事件があります。戊辰戦争の頃、米国よりは歴史のあるフランスの水兵が堺で狼藉をし、当地の警備を担当していた土佐藩士らと衝突、結果フランス側に11人の死者が出ました(堺事件)。フランスは「野蛮なアジア人」による自国民殺害に激怒し、日本側の責任者つまり犯人を調べ上げて処刑するよう日本に要求。不平等条約の時代ですし、戊辰戦争で人手を割けない事情もあって、日本側は要求を呑み土佐藩士20人の切腹を命じます。武士としての体面を保てる死に方なので20人は上意に逆らいませんでしたが、正しい行いをしたのに罰せられることには勿論不満でした。「本音」では、先に狼藉を働いたフランス人が悪いと思っていたのです。そこで20人は結束し、せめて日本の武士の勇ましい死に方をフランス人に見せつけることで抗議の意を示すことにしました。自分たちは「建前」で死ぬのだということをはっきりさせたかったのです。
 一人目は検分役のフランス人らを睨みつけながら腹を切り、内臓を鷲づかみにして引きちぎり、フランス人目掛けて投げつけて果てました。血みどろの内臓を浴びたフランス人が茫然自失する中、二人目の武士が腹に刀を突き立てますが、介錯人がややフライングぎみに刀を振り下ろした勢いで首が5mほども飛んだので、フランス人は再び仰天。こんな調子で血まみれの自決フルコースを眺めるうちに、さすがのフランス人も気分が悪くなり、被害者数と同じ11人まで切腹したところで、処刑は打ち止め、残りの9名は赦免となりました。12人目の藩士は「フランス人の意向など関係ない、自分は殿様の命に従って死ぬまでだ」と切腹を続行しようとしたので、周囲が止めるのに苦労した、という話が伝わっています。この事件から、日本のサムライのハラキリは「クレイジー」な蛮習として世界に広まったのでした。

 そうですね、この事件における「本音と建前」の差は、外国人を驚かすに十分な開きがあったと、私も思います。しかし注目したいのは、現在の感覚からすれば、狼藉者を成敗した警察官を処刑するという理不尽や不正義を通そうとするフランス人に、その過ちに気付かせるため処刑場をスプラッター劇場に変え、少なくとも犠牲者数を五分五分にまで持っていった武士らの意地です。フランス人らが気分が悪くなったのは、スプラッター映像に免疫がなかったからではありません。自分たちの主張する正義が実は間違っているということを、こんな激しい調子で抗議されて、事実上その非を認めざるを得なかったからです。
 フランス革命でギロチン処刑に沸いた民族が、小娘のように流血を怖がるわけがありません。本当の正義が彼らの側にあったのなら、加害者たる武士たちがどういう死に方をしようと「天罰」として直視できたはずです。それができなかったのは、この処刑自体が間違っていると気付いたからです。恐らくフランス人たちも「本音」ではもう3人目くらいで終わりにしたかったのを、体面を保つため、つまり「建前」上、同数の11人が死ぬまで痩せ我慢していたのではないでしょうか。
 歴史資料として、「これ以上続けると自決した藩士らが英雄視されてしまうのを避けたかったので途中でやめさせた」と心中を吐露するフランス人当事者の手記が残っているそうですが、行き過ぎた自己正当化が逆に自分の名誉を下げることに気付いたのは、遅まきながら賢明だったと言えるでしょう。算命学で云うところの「官」の陰転作用というわけです。

 五行説では木火土金水の順に気が流れて行きますので、官(金性)の流れる先には印(水性)があります。官は行動と名誉、印は知恵や知性、理性です。つまり正しい官とは、正しい正義を行うことによって得られる名誉であり、その名誉の先には聡明さ、賢明さがあるということです。逆に官が間違っている場合、正当性のない独りよがりの正義を振りかざすことになるので、その名誉は失墜し、自動的に知性が曇って愚かな行為となって結実する。
 従って正義を行う時は、その正義が本当に正しいものなのか、その先に聡明さが待っている種類のものなのかを、注意深く吟味する必要があるのです。卑近な例では、昨今のコロナ禍で独りよがりな正義を振りかざして周囲に眉をひそめさせていた輩が、結局のところ社会に愚かな行為を広め、そのことで社会全体が不幸・不便になったという教訓があります。正しい行為(官)や正義(官)は知性(印)と結び付き、誤った行為(官)や正義(官)は知性を遠ざけて愚行と結び付く、という好例ですが、これを教訓として未来に活かせるかどうかが、その人なり集団なりが本物の知性を備えているかどうかを量る物差しとなるでしょう。

 今回の算命学余話は、こうした五行及び五徳を考えます。五行の順に気が流れるという思想を「気流論」と云いますが、気流とは結局何を目指してぐるぐる回っているものなのでしょうか。そして気流がないとどうなるのでしょうか。そういった思想上の話になります。『算命学余話#R58』にも関連記事があるので、ご参考下さい。

 導入として、最近読んだ本の話をします。石井光太著『神の棄てた裸体 イスラームの夜を歩く』という数年前に出されたドキュメンタリーには、一般に女性の地位が低いと認識されているイスラム圏の国々が、建前上は売春を禁じていながら実際には厳然たる売春業をはびこらせている事実が描かれています。日本とて法律で売春は禁じているにも拘わらず、売春業は隠れて行なわれています。しかしイスラム圏と大きく違うのは、その本音と建前の差です。
 イスラム圏では昔から姦淫する女性は大いなる恥さらしと見做され、それが喩え強姦事件であっても許されず、女性は家族からも社会からも追放され、泣く泣く売春宿の世話になるというのがお決まりです。日本の歴史では貧困を理由に娘を遊郭に売るという行為が社会的に容認され、そうした身の上の女性を憐れむことはあっても家族や社会全体がこれに石を投げることはなく、年季が明ければ帰宅も結婚もできたのとは大違いです。日本の遊郭は、女たちの将来の社会復帰と経営上の利点を考慮して、感染症対策も講じていました。これは彼らなりの生きる知恵です。
 しかしイスラム圏の売春宿にはこうした知恵も思いやりもなく、女たちは救済の道を一切絶たれている。光明の差さない生き地獄というわけです。算命学で云うところの「死んだ方がマシ」な人生です。そしてこの本で気付かされたのは、こうした売春宿には「窓がない」ことです。世間に憚りのある業種であることと貧乏を理由に、窓のない部屋で営業が行なわれている。読んでいるだけでも息が詰まりますし、不衛生の極みです。

 以前、私が滞在したキルギスの学校の教室の窓がまともに開閉できない話をブログでしました。同様に市民の足である乗合バスも窓がなく、空調もないので、長時間乗っていると気分が悪くなる経験を何度もしました。正直、「なんて愚かな人たちだろう。新鮮な空気を入れようとすればできるものを、何もしないで悪環境に慣れ親しんでいる」と思ったものです。旅先では、窓のない部屋を客室として提供している安宿さえ普通にありました。キルギスは山岳国で、街を離れれば戸外の空気はきれいだから、尚更愚かに思えました。
 私が空気の汚れに敏感な体質であることを差し引いても、算命学の思想ではこうした窒息環境は自然に反しているとして嫌います。それが気流論に繋がっています。
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