無人駅の駅長

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学而


 遺伝学の分野で有名なメンデルの法則。

 発見者は中央ヨーロッパの無名のキリスト教修道士メンデルである。ただしメンデル没後にメンデルの業績どころかその存在さえ知らなかったと推測されるフランスの生物学者がメンデルとほぼ同様の実験をし、同じ法則を発見した。彼の他にもメンデルを知らないメンデルの法則発見者がいたらしい。

 メンデル修道士は学会で無名の人だった。そもそも学者でなかった。かれは発見した法則を論文にまとめ学会へ提出したものの黙殺されてしまった。彼の論文はなにかの書類の下敷きにされて、学会が体裁よくよく仕舞いなくした格好だった。

 メンデルは家が貧しかったため教会の修道士になったそうで、信仰心は薄かったらしい。かれは日がな一日修道院の庭でえんどう豆を育てては交雑実験に夢中になっていた。外界から隔絶された修道院内で人に知られないまま生きて実験していた。学会に無名だったのも仕方ない。

 メンデル没後に独力でメンデルの法則を発見した生物学者は悔しかったに違いない。

 だが自分の研究や着眼点が実は昔の学者がすでにやっていたものと同じだったということは研究の世界ではとてもよくあることなのだ。すこしも珍しくない。膨大な量の研究の積み重ねがあるし、人の発想は極端には違わないものである。よく言われることなのだが、もしもアインシュタインが相対性理論を二〇世紀初頭に発表しなかったとしても、おそらく別の学者がそれを発見していたはずである。一七世紀にアイザック・ニュートンが存在しなくても別の人が万有引力の法則を発見しただろう。

 私自身「これは絶対に独創に違いない」と確信できるアイディアがひらめいて、念の為国会図書館で過去の研究成果を調べたら、ほぼ同様の研究論文がみつかり、がっかりした経験が複数回あった。

 子供の時から地図が好きだったから、中学二年生ころに、地図と地球儀を眺めていて、アフリカ西海岸の海岸線のラインと、南米大陸東海岸のラインの形が偶然と思えないほどそっくりであることに私は気づいた。両方を密着させると形が合う。もしかしたらはるかな大昔にはこの両大陸はぴったりくっついていたのではないか。漠然と思った。ヴェーゲナーの大陸移動説を知ったのがその数年後、たしか一七歳頃だった。

「我おもう、故に我あり。」の哲学テーゼを私は一五歳のときに独力で発見した。ルネ・デカルトなる男が四百年も前におなじことを言っていたことを知って、ひどく失望させられたのはその翌年一六歳のときであった。

 私はメンデル以上に学会に無名であるから、研究成果を提出したところで、トイレットペーパーの下敷きにされて消えるだろう。残念ながらそれが現実である。

「人知らずしてうらまず、また君子ならずや。」

 そんな心境にはとうていなれそうもない。

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秋刀魚の味


 ぼくは世の中の絶対的少数派左利きだ。あらゆることが右利きに便利なように作られている。ぼくの側から言わせてもらえば社会のなにからなにまであらゆることがぼくに不便なように作られているのだ。右利きの人は気づかないだろう。しかしながら、こんなものまでか、と唖然とするほど些末なことまで世の中は左利きを苦しめるようにできているのだ。毎日朝から晩まで使いづらい道具と右利き人間が発想したアイディアや社会制度になんとか苦労して順応する暮らしなのである。

お店の店員とかに左利きの人がいるとすぐピンと分かる。仲間意識を感じる。

 そのようなわけで左利きはいつのまにか右手もかなり使えるようになってしまうのだ。悲しいことに。ぼくは左右どちらの手でも字を書くことができる。ただし左手の書字はかなり下手だ。小学生時分「右手で字を書け」を執拗に矯正されたので、成人までずっと右手で字を書いた祟りである。箸もまた左右どちらも使える。普段の生活では左手に箸を持って食べている。結婚式等フォーマルな場所では右手を使う。左利き嫌いの人からの批判攻撃をあらかじめかわすためだ。平日のお昼休みの食事では、やむを得ず右手で箸を使うこともある。事情はこうである。何人か並んで食べる型式の食堂の場合、全員が右利きなら肘が当たらない。狭い食堂でもたぶん問題ないだろう。でもそこに左利きが一人入り込むと、ぼくの左手の肘と、左となりに座っている人の右肘がときどき衝突してしまう。気まずい事態を避けるため、空いていればぼくは最も左の席を選ぶ。そこなら肘が誰ともぶつからない。しかし昼時に好きな席を選べるチャンスなんかまず無いのだ。そこで妥協して右手で箸を使う。ぼくとしては左手じゃないとなんだか食べた気がしないのだが。

 むかし河原でバーベキューをやった。ぼくは好意的に誘われた。歓迎された。なぜならぼくは肉が嫌いで食べなかったからライバルにならないのだ。そのうえに下戸のためビールも飲まない。もっぱらナスとピーマンばかり食べていた、鈴虫じゃないが。食べるものも飲むものもなく、あまり面白くなかった。そこでそんなときはぼくの唯一の隠し芸である両手箸をやった。左右両方の手に箸を持って同時に使うのである。これは焼き魚を食するときだけは便利である。右手の箸で魚を抑え、左手の箸で骨をとるのだ。これをやってみせた時の全員の(左利きの人を除くが)驚嘆ぶりにぼくはかえって驚いてしまった。ぼくにとってはなんでもない芸当である。そして左利きに生まれたものの悲しい芸なのだが。

 話がすこしく変わるかもしれないがぼくは生まれつき数学の言葉がわからない。中学の時の数学のテストの成績が〇点だった。数学の本が黒白のただのインクのしみに見えてしまって、どうしても意味ある言葉として見えないのだ。現在もそうだ。でも数学が面白そうだなとはおもう。数学の言葉がわかったらきっと面白いだろうとおもう。そこで大人向けの「やさしい数学再入門」といった本を手にとったことが何回もあるのだが、どれもぼくにとっては難しすぎる。高校の数学の先生に質問したこともあった。その先生はできるかぎりわかりやすく説明してくれたのだが、遺憾なことにぼくにはちんぷんかんぷんであった。なんの道でもそうだが、熟達者は初心者がなぜわからないのかがわからない。子供向けのやさしい算数の本も読んでみた。猫ちゃんとクマさんとブタさんの絵がでてて、「りんご三個とみかん二個を足すと五なのだ、ぶー。」などとブタさんが言う本だ。ぼくの数学レベルには合っているのだが、さすがにやる気が失せた。

 このように壊滅的に数学の勉強ができなかったし、ぼくの生まれた家は一文無しだったから、中学二年の段階で高校へ進学しないことが決まっていた。勉強する必要がなかったので三年になった春から働きに出て学校にあまり行かなかった。学校に行って働かないと腹が減るが、行かずに働けばご飯を食べられたから。

 数学の生成器は〇点で下から一番だったが国語のテストは常に上から一位だった。学校に行かなくなっても国語だけは学年トップの点数だった。中学時代から現在に足るまでぼくの一番の趣味は読書である。若い時は一日に数冊読んでいた。今は二日で一冊くらいなペース。生涯で何万冊も読んだだろう。本のせいで視力を弱らせてしまったが後悔していない。本を媒介として古今東西の偉大な先人達と遇うことができた。

 ぼくのもっとも好きなことは学問だ。研究と考察と著述、それが何より楽しい。

 ぼくは学問の世界に入ってそこで生きたかった。大人になってから通信教育で大学を卒業し、学位を得た。そこでなんとかその世界に入りたいと努力した。けれどもどれほど自分の情熱をアピールしてみても、業績を提示してみても、冷たく門前払いされただけであった。どの大学も研究機関もぼくの応募に対し、あんたはお門違いだと言わんばかりの慇懃無礼な拒絶の短い返事を寄越すか、無視するかのどちらかであった。かれらの価値観では通信制大学などというのは学校の範疇に入らないものらしく、ぼくは中卒とみなされたようだった。彼らはぼくを冷嘲した。

 そうやって黙殺されつづけてぼくは老いてしまった。アカデミックな世界に行ける希望がないことを今は理解している。せめてぼくが(大金持ちでなくていいから)高校に行けるくらいのフツーの家に生まれていたら、今のようなひどい貧乏暮らしをしなくて済んでいただろう。なんどもなんども悔しさに暮れるのだ。学校に行きたかった。ぼくにとってはなんでもない芸当である。そして左利きに生まれたものの悲しい芸である。

 政府と政府を構成している上層階層の人びとは「競争」を強調する。だが貧民はそもそも競争なんかさせてもらえないのだ。すくなくともぼくの場合はそうだった。

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雪あかり


 ヘリコプター・ペアレント、という言葉のニュースを聞いた。アメリカ合衆国のニュースだ。幼児ならいざ知らず、二十歳前後、ひどい場合は成人したいい大人のわが子をヘリコプターのように守りつづける親のことをそう呼ぶのだそうだ。そういう親はヘリがホバリングするように子供を保護し、子の人生の行く手の障害を取り除いてやるのだという。要するに子をだめにする超過保護親のこと。アメリカ人は奇抜な術語をつくり販売するのが好きだ。

 ニュース解説者は過保護だと非常に強く批判していた。でも聞いていたおれはうらやましかった。なぜならおれは親からなんにもしてもらえなかったからだ。そんな親が自分に居たら、と羨ましかった。私の親は子を守る力がなかった。なにしろおれが片手の人差し指一本でつついても倒れてしまうほど病弱な人だった。幼児の時のおれは知らない家と施設をたらい回しになった。餌と寝床を与えられただけだった。それ以外のなにも与えられなかった。物質的なものも、精神的なことも。親はいたけれどいないと同然だった。

 中学生の時は実の親と暮らした。そこに連れて行かれたのは冬の終わり、二月一三日の夜だった。寂しい駅を降り、寂しい道を歩いた。遠くの道路を走る自動車の寒いヘッドライトたちがおれの胸を刺した。一文無しのすっからかんなので、それから落語のなめくじ長屋のような小屋に暮らした。人が住む家とかろうじて言えるかどうか。家というより小屋だ。トイレはあったが、低地のため雨のたび雨水が流れ込み汚物があふれるので使えなかった。近くの家のトイレを借りたり、近くにあった中学校のを勝手に使ったりした。夜の学校のトイレはまさに真っ暗。気味が悪かった。鋭く澄んだ冬空に冴える星々の白い光ばかりが滲む両眼に映った。

 風呂がなかったので空き地に勝手に作った。風呂の周りに廃材の柱を建て塩化ビニールの側板を打ち付けた。屋根もつけた。しかし風が吹き、あっけなく吹き飛ばされた。以後は露天風呂状態であった。夏はともかく冬は寒風吹きすさぶ露天で裸になるのと同じ。よく凍えなかったものだ。

 家にはテレビさえわたしには無縁のことであった。なかった。家の内外の境界があいまいで夏には虫と蛇が自由に出入りしていた。タンスの上から太い蛇が落ちてきてびっくりした。そのころこの国は世界最強の経済大国だと浮かれていた。おれには無縁のことだった。

 中学に入っておれは野球がやりたかった。おれは左投げで制球がよく、そのころは足が速かったし、身体が小さく長打力はなかったものの、野手の隙間を抜くヒッティングが上手だった。左打ちだった。だが野球用具はあまりにも高価だった。正規の教科である体育授業用のスポーツウェアさえ買えなかったのだから、野球用具なんか買えるわけがなかった。バットもスパイクもグラブも。おれは野球を断念した。拾ったボールをひとり壁に向かってただ投げていた。

 同級生がすごいオーディオセットで音楽を聞かせてくれた。カセットに録ってもらって家の中古ラジカセで聞き直した。ラジオも聞いた。テレビがないものだから時間は有り余っており、本をたくさん読んだ。ところが天井に吊った電灯がたいそう暗かったためひどい近眼になってしまった。学校が終わってからよく町の小さな本屋に行った。やさしそうな爺さんとこわそうな婆さんがやっている古く埃っぽい店だった。本を買う金がないのでそこで読んでしまった。当時の文庫本は薄い本だと二百円以下だったかとおもう。それでも食べ物を買えない家の中学生にとっては大金なのだ。夏目漱石の小説に読みふけって、店じまい時間までそこにいる。読み終えたところにしおりを挟み小屋へ買える。翌日また行って前日のしおりのページから読むのである。兎小屋のように狭い書店だったから店主の爺さん婆さんはぜんぶお見通しだっただろう。だが一度も注意されたことがなかった。目印の栞を抜かれたこともなかった。一冊も買えなかったのに、何も言わずに読ませてくれた。みすぼらしい格好の子供を憐れんでくれたのだろうか。

 そんな俺にも好きな少女がいた。晩秋の放課後の教室で、斜めに射した黄金色の夕陽がその子の前髪を揺らし、ひろいおでこを照らし輝かせたとき、おれは恋に落ちた。同級生だった。きれいな声をした子だった。五月に行った修学旅行でその子の笑顔ばかりがおれの頭を占領した。若葉を透けてきらめく陽光も、寺も、佛像も目に入らなかった。女の子同士の仲良しグループの子の話によると、向こうもおれに行為を寄せてくれているらしく、おれの家を見に来たことが会ったあったらしい。それを知っておれは恐慌した。凍りついた。

 自分の中、心の奥底に強烈な劣等感が牢固として根を下ろしてしまっていたからだ。自分はフツーの人と違う、最低のさらにその下。身分が違う。そういう感じだった。その女の子の家は歩いて一五分だった。ある晩そっと行ってみた。二階建ての白い家だった。小さな庭があった。人間が住む家だ。楽しそうな明るい笑い声が聞こえた。カーテンの向こう、家族の団欒が暖かな明かりの影絵となってうっすら写った。

 両思いだったらしい少女と二人きりで話すチャンスがあったのに、その時のおれは劣等感のため口がカラカラに乾き舌が口の中に張りつき、一言も声を出せなかった。

 春のなごり雪が降った弥生初旬の未明、おれは早起きした。外を見たら雪あかりだった。夜明け前だというのに白く明るかった。静寂だった。おれの恋はおわった。その朝学校で高校合格を先生に報告している彼女の姿を見かけたのが最後だった。その後の消息は知らない。かねがないおれは高校に進まなかった。おれの初恋はおわった。

 その日の午後、次の街へ引っ越すため小屋を出た。白く静謐な世界を見てくれた雪はすっかり泥に汚れて路傍に積まれていた。塵埃と喧騒のまちをおれは去った。十五の心が濁った空の町に吸われた。

 大人になっても植えついた劣等意識が抜けなかった。いまも抜けない。

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如月の光のなかで


 黄色な地下鉄の旧い電車が轟々と音をたてて走る。レールの継ぎ目を渡るときの振動と工場のような激しい機械音。闇が前部の車両からやってくる。

 さっきは二台前の車両が真っ暗になっていた。今は隣りの車だ。次は僕の車両が停電する。電車内の一瞬の暗闇の移動をいつも楽しみにしていた。

 中学三年生の二月。僕は家族と上野公園へやってきた。

 三月は花咲く季節だ。二月は光の春だ。

 上野の山への登り口の急な階段。杖にすがる母の肩をささえて上がった。

 動物園を見、安い食堂を見つけご飯を食べた。精一杯の贅沢だった。

 バッタ物を売る店で、母が水色のネクタイを職する僕に買ってくれた。安物でかっこ悪いデザインをしていた。

 早春の陽光が翳り山を降りた時、悲しげな微笑を痩せて眼窩がくぼんだ顔いっぱいにうかべて母が俺を見た。こんなに貧乏で何もしてやれない親でごめんねと言っているかのようだった。

 それがともかくも元気といえる体調の母と会った最後であった。

金井隆久
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