無人駅の駅長

無人駅の駅長( 25 / 43 )

無人駅の駅長

東へ西へ


 うまれつき地理に強い。初めての土地でも東西南北の方角がだいたいわかる。星月がない夜ですら直感的にわかる。幼児の時からそうだった。

 その代わり小学校三年生になっても右左がわからなかった。右も左もわからない、という表現があるが本当に右も左もわからない子だった。東西南北は絶対基準であるから幼児でもわかりやすかったのだ。誰にとっても、だれがどちらを向いても東は東である。しかるに左右という相対基準はわかりにくかった。私の「右」が私と向かい合う人にとっては「左」。私がくるっと回れ右するとそれまで「右」だった方向があっという間に「左」に変わってしまう。実に理解し難かった。

 だが三年生のとき地下鉄車内でふとわかったのだ。そのときなぜか右手に腕時計をしていた。私がどの方向を向いても時計をしている手の方向が右なのだ。同じように他人にとってもその人がどこをむこうともその人の右の手の方向が右なのだ。一〇歳間近にして私はようやく右と左を理解できた。

 ところで方向感覚が鋭いとは裏を返せば地理環境の変化に弱いということである。かつて新潟県に住んだときこのことを身にしみて知った。私は太平洋側育ちである。山と太陽は相い対するのが当たり前の世界で育った。そこでは山が北側に存在し、太陽は南側の空に浮かぶ。川はあたかも太陽を慕うかのように、北から南へ流れる。それが私にとって当たり前の世界であった。しかし越後の国では基本的に山と太陽が同じ方角に存在する。自分より南に山があり、太陽が山越しに登り沈むのである。そして川が太陽の方から流れ出て太陽方向から離れるように流れ下る。まさにあべこべの世界で、数ヶ月住んだものの最後まで慣れることができなかった。

 おなじ理由で私は城下町の地理に弱い。あれは男の兵隊の地理感覚を狂わすよう町割りしてあるのだろう。街区全体を真北よりややずらして設計し、細かい道路をやたらにくねくね曲がらせる。城下町を歩くと、何度も体を曲がらされて方向感覚がわからなくなる。

 私はあたかも鳥になったかのように空高い視点から地理を把握するのだ。そして例えば目的地が北東方角だから、あっちへ行けば良い、と判断して進む。しかし城下町の狭い道路は私の身体を何度も何度も曲がらせる。やがて私は方向感覚を失い、どちらへ行けば良いかわからなく、途方に暮れる。

 むかし交際していた女性が極端な方向音痴であった。彼女を観察して、私と根本的に違う地理把握をしていることがわかった。結論を言うと彼女は徹底的に具体的事物を基準に世界を把握していた。何という名前のお店がある交差点を左の手の方へ曲がる、という具合だ。「左」という抽象観念は彼女の中になく、左の手の方向へ曲がる、とあくまで具体的事物を記憶して判断していた。彼女は城下町に強かった。そもそも方向音痴なので方角を狂わされることがないのだ。いつも道案内役の私が城下町では案内してもらった。また地理環境の変化にも強かった。けれどもこの方法にも欠点があった。よく知っている土地しか一人で行けないことと、目印にしている店舗が閉店し建物ごと消えたりしたら彼女は困るのであった。

 私は道路付近の具体的事物を見ない。目には入っているが意識に上がらないのである。その代わり脳だけが空中にひらひらと舞い上がり、あたりをヴァーチャルに俯瞰して地理を把握する。私がとくに強いのは京都と札幌と古代条里制の名残がある各地の碁盤の目状の小都市である。北へ二本上がり東へ一本入る、というふうに論理的に明解だからだ。

 かように方向感覚に強いのだが、具体的なモノが意識内に存在しないため、城下町で迷うように、いったん方向感覚を喪失するとどうしうようもなくなるのである。

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ひねもす


 しばらく前のことだが中国人労働者と一緒に働いたときの休憩時間に「あなたの名前はとても良い。大金持ちの名前だ」とたいそう褒められた。それまで自分で気づいたことがまったくなかったのだが、かんがえてみると、姓が「金が湧く井」戸であって、名は隆だかと久しく、だ。なるほど金の井戸が隆々とし久しければ大金持ちだろう。そのときは、「そんな偉い人がどうしてこんなに給料が安い仕事をしているんだい?」と私が返答して大笑いになった。わが苗字は金が湧くのでなくて、カネが吸い込まれるほうの井戸なのだろう。

 笑い話はそれとして、わたしの名は祖父と曽祖父の名から一字とって繋げただけの安直なものだ。苗字は当然ながら先祖代々である。私の世代とその上の世代には「たか」とか「たかし」名が多い。私の恩師のお名前もそうだった。また「隆」を使う名前の人も比較的に多い。二世代年上の人だが作詞家の松本隆とか。

 そういうところからとらえると私の名前は平凡である。平凡な名を漢字の本家本元の人が虚心坦懐に見るときっと大富豪になるラッキーな文字ということらしかった。

 わたしは中国語会話ができない。習ったこともない。しかし読み書きはかなりわかる。生来漢字好きで子供自分から漢籍に親しんだことと、成人後に仏典を読み込んだからである。黴が生えた大昔の言葉のようにおもわれがちだが仏典に頻出する言葉が意外と現代中国語でも使われることがあるのだ。言葉はよく変わると同時になかなか変化しないものでもある。

 ところで中国語を正式に学習した経験がない私が外国語である中国語を読み書きできることは考えてみると驚天動地のことだろう。漢字文化圏以外の世界中の人がこの事実を理解しないに違いない。

 民族と文化を超えた共通言語としてはほかにアラビア語とラテン語がある。だが学習せずにいつのまにかラテン語ができるようになった人はおるまい。漢字文化の驚くべきところは、会話ができなくても文章語がわかる点である。ふつうは逆だ。どの言語においても会話はできるが読み書きはできない人がいっぱいいる。そのほうが言語の常識なのである。

 かようにすぐれた文化だとおもうのだが、いつしか漢字文化圏は縮小してしまった。朝鮮半島の国々とベトナムが離脱していまや日中二カ国だけである。もっともその両国で面積人口とも世界のかなりおおきな位置を占めるが、このごろは筆談をする機会もめっきり減った。日本人はいうまでもないが、中国人自身も古典中国語教養が薄くなったようだ。それに外見がほとんど同じ私たち東アジア人が英語で話すことが増えてしまった。道を尋ねられるのも英語だったりする。

 この夏あまりに暑かったから外へ出るのがためらわれて、地下鉄日比谷駅構内で休んでいたら若い男性が近づいてきた。日本人だろうとおもった。しかし彼は英語で日比谷線のホームへの行き方を質問した。教えたら礼儀正しく英語で挨拶して彼は去った。秋になって麻布の大きなお寺の境内にあるトイレを借用した。用を済ませて出たところで、三〇歳くらいな女性に「その奥はトイレですか?どちらの方向がトイレですか?」と英語で訊かれた。私は単簡に「イエス、ライト」と応えた。

 この人はトイレに入る前に境内で見かけた人だ。その時は日本人か中国人かなと感じていた。すこしくさびしい気持ちもした。秋のはじめの暑い日だった。

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冬扇


 人が自分と会うとぎこちなくなったり緊張しているふうだったりあわてたり、ともかく自分以外の人と会っている違う様子に接するこことは子ども自分からの常であり慣れているつもりではあるが、どんなにたくさん経験しても、その度にひとの目に自分がモンスターとして映じているらしいことを思い知らされ孤愁がいっそう深くなる。

 ときに自分を、皮も肉もなく骨で直接に世間と接しているかのように感じる。刺激が鋭敏すぎて痛い。世の中のいわゆる「ノーマル」な人たち(世間の多数派のひとたち)の野の獣のような猛々しいまでの鈍感さと図太さがうらやましい。厚かましい強欲さがうらやましい。

 会った瞬間とまでは言わないが、会ってから遅くとも数分以内にその人の好悪の感情がわかってしまう。しかもこちらの存在によって相手の中に嫌いという感情が起こったと解釈してしまうのだ。周りの人を不快な気分にしてしまったと。責任を感じて胸が苦しい。一言も言葉を交わさなくともわかる。感じる。感じてしまう。それで人と会うことが怖い。

 孤児育ちのせいで他人の感情の動きに敏感なのかと思ってきた。孤児とは自分の存在が許されているか不安なものだ。自己肯定感に確信を持てない。どうしてももてない。人を愛すると人から嫌われる。嫌われるとは幼い孤児にとって「死」を意味する。

 肉親でない養育者の「愛」は醒め安く、いったん冷えたら元に戻ることはない。浮世の義理もしくは仕事で幼児のやっかいな世話をしてやっているだけなのだからその子が自分に向けがちな個人的好意は迷惑なだけ。義務または給料と引き換えに養育する人たちは幼児の愛着を無視するか拒否する。子どもたちは養育者を愛してはいけないのだ自分は愛されないし人を愛することを禁じられる人間なのだと学習する。養育者への愛着心を内面に抑圧し表面では無関心を装えば嫌われずに済むと学んでしまう。愛されることもない代わりに。

 こうして孤児育ちは感情を表面に現さない無表情な外見を身につけた大人になってしまう。その内面は愛を渇望しているのに。人を愛さなければ人から嫌われることはない、しかしパーソナルな好意感情をある特定の人に伝えたらその人はくるりと背を向け去ってしまう。その思い込みが心身を離れることは決してない。死ぬまでない。川端康成はいつも取りつく島もないような表情をしていて編集者を困惑させた。その痩身とともに鳥を思わせる表情であった。孤児育ちの哀しみが川端にそういう性格を作った。

 それでこうなのかと思っていた。だがもしかしたらそれはちがうのかもしれない。生まれつき、先天的に、言葉抜きに感じる能力を持っているのかもしれない。

 内面にとても豊穣な世界があるひとは、世間の浮薄な歓楽に興味を示さないものである。夜の街での飲み歩きも、コムピューターゲイムも、なにもかも内面世界の豊かさと比較にならない色褪せたつまらないものである。そういう人はその内面の悦びを増すことがなによりも楽しい。それは例えば本を読むことであったり、本を書くことであったり、絵や音楽をみることであったり、詩うことであったり、街や山を歩くことである。

 山を歩く。森の木樹が踊っている。川の水が喜びのあまり跳ねている。風を感じる。空を感じる。すべてがクリアだ。鳥たちと歌い、馬と話す。犬と遊び、猫に遊んでもらう。雲たちに語りかけ、星たちのかそけきささやきを聞く。刈られる草たちの痛みを感じる。それらがみな内面の豊穣世界をより豊かにしてくれる愉しい愉しい行為なのだ。

大地のうた

 人は大地の塵に似ていると思う

 風が吹き塵が踊る

 それらは休息なしで誕まれ

 やがて死にゆく

 人生は短い

 それは花が咲く春の夜の夢のようだ

 それは枯葉舞う秋の夕べの悲しみのようだ

 ゆえに生あるものは素晴らしい

 地球は永久に「塵」たちの生の舞台でありつづけるだろう

 世界は美しく生きることは楽しい


 だが困ったことに豊かな内面世界は生きてゆくためのお金を産んではくれない。むしろ現実生活のあしかせになる。

 事物から距離をとって遠くから眺めてみる思考法。それは混沌としたカオス状態の世界から規則性を発見する能力に富んでいる。意識的の努力して発見するのでなくしぜんに見えてしまうからである。うまれつきの能力なのである。この天才的能力を反対側から見れば、「森を見て木を見ない」ことであり、人間集団から自分自身を離脱させる癖がうまれつきあるために、常なる孤立傾向を生じる。全体を大つかみできる代わりに個々の事物と人物が見えない。いわゆる「浮世離れした人間」「夢見る人」になりがちだ。このタイプの人であった故ジョン・レノンは、ぼくを夢見る人と言ってもいいよ、でもぼくはひとりぼっちじゃないんだ。」と歌っていた。彼は寂しがりだった。

 創意工夫と独学に適いており、人から教わることができない。自分のやり方を通そうとする。じっさい教わるより、自分なりにこしらえた方法でするほうがえてして能率がいいのだ。しかしそれを社会と会社は許可してくれない。宮仕えは牢獄労働に等しいのだ。

 太宰の『人間失格』ではないが、苦悩の塊を十個ほども背負っていて、その一つでも隣人が背負ったらその人の命取りになるのではなかろうかとおもうことさえある。

 ゆえにどんな仕事も長続きせず、ゆえに貧乏つづきである。家が欲しいとかクルマと宝石が欲しいとか海外旅行と美食がしたいとか、名誉と名声と威信と権力が欲しいとか、人並みの欲望があればつらい「苦行」に耐えることも可能かもしれない。

 あいにく欲しいものがないのである。家もクルマもいらない。なにも欲しいと思わない。人を踏みつける権力は最も要らないものだ。それよりずっと裕かで寛やかな世界をしっているからだ。政府と産業界が休むことなく人びとの欲望を煽りたてる。あれはこうした人物にとっては強迫以外の何でもない。拷問に近い。

 食事さえ面倒なやっかい事とおもう。腹が減って辛いから仕方なく食べるだけである。こんな肉体が付着しているから、食べさせたり排泄させたりさまざまなケアをしてやらなければならない。なんてめんどうな物があるのだろう、体さえなければごはんを食べなくても済むのに。何遍嘆いたことか。

 世の中には需要供給の経済法則がぜんぜんあてはまらない人物も実在するのである。それは社会の多数者でないけれども極端な少数者でもない。各人の欲望伸長が市場という「見えざる手」の自動調節機能を経て最善の世界をもたらすと説く俗耳に入りやすい「自称経済学」のまやかしを人は認識しなければいけない。もしそれをしなかったら人類は滅亡するだろう。地球環境を破滅させて滅びるであろう。

 拙著『ドンキホーテたち』の主題がこれである。『モダンタイムズ』『教育と称するもの』『抑制装置としての宗教』もこのテーマをめぐる本である。

 世間というのは生き馬の眼を抜く世界ともいうが、了解不可能な暗黙の約束事で成り立っているものらしい。世の中とは天才の集まりなのだろうか。

 六法全書のように明らかなルールであれば理解できる。文字化されない暗黙のルールがわからない。ところが世の中のいわゆる「ノーマル」な人たちというのは、暗黙のルールならばそれはわかりきった常識だからわかるが、六法全書などという「非常識なもの」はわからないし大嫌いなのだそうだ。信じがたいことなのだが、世の中の自分を健康だと胸り、自分たちと違う人を異常だと決める人びとはその内面に豊かな世界をもっていないらしい。それではいったい何がたのしくて生きているのだろう?

 宇宙船からたったひとりぽつんと未知の惑星に降ろされた人のように自分を感じる。

 その惑星の生物の外見は地球人と同じで言葉も同じだ。言葉の上っ面の意味は分かる。だがその星の社会でのほんとうのルールがわからない。永遠にわからない。それでも生まれてしまったからには、命尽きるまで懸命に人を観察してはそのものまねをせざるを得ない。内面の豊かさを押し殺して演技せざるを得ない。それが地球という名のこの星で生きのびるための唯一の方法だから。

 自分はどこか違う。人と違う。そんな本能的な違和感を抱えつつ。

 冬の扇、 役たたず、要らないもの

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淡雪

 自宅のインターネット接続環境を撤去した。いまのわが家に光回線もワイファイもない。そのまえにスマートフォンをインターネットに接続できないよう改造しておいた。電話をかけることと受けることしかできないようにしておいた。だからぼくの電話機は外見はスマートフォンだが実体はフィーチャーフォンである。

 そのうえで今回接続設備を撤去したから完全にインターネットなしの家になった。

 からだが軽くなった。こころが前より自由になった。

 ぼくは長いことコンピューターとインターネットを使わない生活をつづけていた。それが数年前に使う暮らしに変更したのは書き溜めてあった原稿を出版したいからだった。そうしてインターネットに浸かる生活を数年暮らしたら視力が危険な水準まで低下した。ぼくは視力を弱くした。この連載エッセイに誤字脱字が少なからずあるのはそのせいである。スクリーンとキーボードと原稿がぼんやりとしてしかみえなくなったのだ。いまや出版作業は一旦終了した。所期の目的を達成したのだからインターネットを離れようと決めた。視力を完全に喪失することが怖かったのだ。

 インターネットを使い始めてから視力の他に変化がたくさんあった。

 腰と股関節を中心に体全体が痛くなった。これはおそらく必要のないブラウジングを日に何時間もつづけたためだ。視力が弱いぼくは前かがみの不健康な姿勢を長時間とった。それで自分の上半身体重を支える腰と股関節に負担をかけすぎたのだ。インターネット接続設備を撤去した今春の淡雪のように身体の痛みが消えた。

 インターネットを使っていた頃ぼくは金使いが荒くなっていた。いまから考えればなぜあんな物を欲しがったのだろうと訝しむものを買っていた。

 インターネットを使い始めてからぼくは独善的な性格になり、しらずしらず他者を裁く人になっていた。じぶんはいつもすべて正しく他人は邪悪で狂っていると思いこんでいた。

 インターネットを使い始めてからぼくは怒りっぽくなった。よくいらいらしていた。不安感が増えていた。いつのまにかインターネットを使うのではなく、インターネットに使われていた。自分を失っていた。

 インターネットをやめたらこういう自分の姿がみえるようになった。インターネットは軽い麻薬のようだとぼくは思った。耽溺させる魅力と依存性をもっている。辞めておこりっぽさとイライラと不安が減った。やめてよかったとおもっている。

 ただしぼくはインターネット使用を止める意思はない。それは素晴らしい技術だ。たぶん死ぬまで使うだろう。

インターネットに使われることをやめたかったのである。殊にインターネット企業に使嗾されたくなかったのである。

もしぼくに強い意志力があれば、ネット接続環境を保持したままそれをすることができただろう。だが残念ながらぼくは意志が弱い人間。ネットに簡単に接続できるかぎり、インターネット企業の餌食に成ってしまうだろう。かれらに使われて自分を喪失する暮らしを抜けられないだろう。

 そこで接続設備をぜんぶ捨てた。

 家にネットがなければ喫茶店などに移動して接続するしか無い。それは面倒だし制約もあるから、ときどきしかネット接続しないだろう。短時間しか画面を見つめることもないだろうから視力をこれ以上衰えさせることもあるまい。そう考えた。現在のところそのとおりになっている。コンピューターをワープロ専用機として使用し、書き溜めた原稿を喫茶店のワイファイにつないだラップトップでネット上に公開するのだ。

 かなり多くの人が気づいているようにスマートフォンやインターネットには麻薬に似た依存性がある。止めるとしばらく離脱症状に苦しめられるのだ。ぼくもときどきインターネット環境を再導入したい欲望に駆られる。春のなごり雪が降るように。だがあらかじめ想像したほどその欲求は強くない。インターネットがなくなってさっぱりしたすがすがしさのほうがずっと大きい。この爽やかさを手放したくないからインターネットとスマートフォンをふたたび使う気持ちにはなれない。

金井隆久
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