無人駅の駅長

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彼岸花


 十代の頃印刷所兼出版社に勤務していた。外回りのしごとだった。「営業部営業第一課」といかめしい文字が刷られた名刺を持っていたが、営業課は上司二人とわたしのたった三人だけだった。当然ながら営業は一課だけで二課も三課もなかった。昔の商家ふうの言葉で言えば使いっ走りの丁稚、小僧さんだ。名刺の肩書なんて自称だし税金もかからないから何でも構わないと会社はかんがえたのだろう。おまけに印刷会社だ。好きなように名刺を印刷できる。

 出版といっても特殊な業務であって市販しない本ばかり作った。得意先はテレビ局、テレビ番組製作会社、映画スタジオ等だった。それらを毎日まわって納品したり受注したりが私の仕事だった。一般人が入れない場所ばかり訪問したのでそれなりに面白い仕事であった。しかしわたしはテレビがない家庭で育ち、芸能界に興味がなかったので格別に面白いとも感じなかった。未成年者でも採用してくれて給料が高い会社を新聞で捜したらその会社にあたったというだけであった。

 未成年で免許がなかったわたしはほとんどを電車で移動した。原付バイク免許はあったから世田谷区成城の東宝スタジオなどへはバイクで走った。数珠つなぎ状態で止まっている世田谷通りの渋滞の車列横を涼しい顔で抜いて走った。これは快かった。

 徒歩または自転車も使った。会社の自転車はずいぶん古いもので、しかも何十年も誰も乗らなかったのか、ペダルを踏むとギーコギーコと変な音がした。走行中に空中分解しそうなひどい自転車だった。とても芸能界の外面的華やかさと似合わなかった。正反対だった。日本テレビとフジテレビの二社は歩いて十分程度の近さだったので、いつしか私はその二社の担当のようになった。へんてこな自転車に本を積んでフジテレビに通っていた。

 同局は現在と所在地が違い、とても小さななビルだった。一五分ほどですべての部屋を回れるほど小さく感じた。当時の民法テレビ局はどこもフレンドリーで警戒は無に等しかった。殊に毎日通っている出入り業者のわたしはすっかり顔を憶えてもらっていた。

 まず外で警備員の方に挨拶する。つづいて受付のお姉さんにおはようございますという。そしてエレベーターに乗る。受付でのノート記入は原則としてなかった。三十年前のフジテレビの受付係は二人くらいしかいなかったようだ。しばしば受付カウンターが無人であった。係の方の休憩時間、あるいはちょっとトイレに行っているときは無人だったようだ。受付の人はたぶん二十五歳くらいだったのだろう。ずいぶん年上のお姉さんに見えたものだ。

 このころすでに携帯電話という物体はあった。たまに国電のなかで非常に大きな声で、あたかも誰かと会話するように独り言を言う人がいた。なんだろうと近くで観察したらそれは「無線機」であった。巨大で重そうな機械を肩にかけ受話器を耳に押し当てて話していた。まるで自動車電話を外して担いでいるようで、重労働そうに見えた。それが昭和末期の携帯電話。

 わたしが勤務した会社はそれを使用していなかった。代わりにポケットベルを渡された。外回りのときに着用しベルが鳴ったら会社へ電話せよと言われた。ベルトに付けさせられたとき、犬の首輪みたいでほんとうに嫌やな気持ちがした。

 ただそのころのポケットベルは、ビル影に入ると電波が届かない。地下鉄では完全に着信不能という、従業員にとってコンビニエントなものではあった。会社に応答しなくても、言い訳はいくらであったわけだ。わたしは小心者でやらなかったけど、先輩の一人に、地下鉄に乗っていたことにして、半日パチンコ店にいた勇ましい人がいた。地下鉄に半日も乗り続けるのは難しいことだとおもう。

 毎日の仕事は目が回るほど忙しかったからポケットベル鳴動は迷惑であった。鳴ったときは仕事の追加に決まっている。今どこにいる? それならついでにNHKに回ってくれ、そんな内容に決まっている。だからわたしもときにポケットベルを無視した。

 朝九時に出社する。朝は比較的暇である。そんなとき社長から「東京駅八重洲南へ行け」と指示されると嬉しかった。二時間位楽ができるから。当時の脚本家は手書き原稿であったから、原稿受け取りのしごとがあった。都内の先生の場合はお宅へ直接伺って原稿を預かった。大阪の先生は国鉄の夜行列車で原稿を送ってくれた。九州発東京行き夜汽車が午前零時台に大阪駅を出る。書き上げた原稿を列車の荷物室に預けてキタの飲み屋に繰り出す。大阪の脚本家にとって便利な列車だったというわけである。そして夜が明けて朝九時台に東京駅に到着する夜行列車から原稿を受け取るため、八重洲南口へわたしが行った。国鉄担当者へ受け取り申請してから実際に原稿が出てくるまで時間がかかった。その間わたしはただぼけーと街を眺めて待っていればよかった。通勤列車が着くたび溢れ出て八重洲ブックセンターの方向へ奔流する人の波をわたしは眺めていた。

 名前を忘れてしまったが、世田谷区内のある人気ある町のコンドミニアムに三〇歳代くらいの女性の脚本家が住んでいた。この先生のお宅へよく通った。わたしはこの先生が大好きだった。半日は楽ができたからだ。彼女は遅筆なたちだったのか、締切日当日になっても書き上がらず必死に書いていた。わたしが訪問するといつも、あと三時間待って、通りの向かい側の喫茶店で待ってて、出来上がったらお店に電話するから、と言った。

 わたしは指定された喫茶店の椅子に座りコーヒーを飲む。会社の費用で。そして公衆電話から会社に電話をかける。社長が出る。そのままそこで待て、何時間でも待て、と社長が言う。きみが待つことで暗黙の圧力をかけろ、ということだ。くだんの先輩の場合と違い、こうして会社命令によって何時間でも冷房が効いた喫茶店で楽ができる。ああなんていい先生なんだろう。あの先生は原稿受け取りのたびに何時間もわたしを休ませてくれのだ。

 半日待った末にようやく原稿をもらい、ふと多摩川べりを歩いたら彼岸花が咲いていた。その夏は暑かった。汗まみれになって東京じゅうを駆けた夏がようやく終わったとわたしはおもった。

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胡蝶


奇をてらっているようにおもわれるかもしれないが、現代は変化が停滞した時代である。時代の本質の変化が緩慢でなかなか動かない。

 激しく変化するように見えているものはじつはうわべだけである。その中の本質は変化しない。固着している。私が子供だった一九七〇年代も現在も時代と社会の本質的なことは変わっていない。ただより精妙に進化しただけである。

 それに対して二〇世紀後半、一九五〇年台からの二〇年間ほどは時代の本質が激しく変わった。ものが溢れ、生活様式が変わり、人々の価値観が動揺した。どれだけかわったか。

 私が子供だった前世紀の七〇年台から八〇年台にかけての頃、現在私たちが利用しているものの大半がすでに存在していた。コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、鉄筋コンクリートのビル、高速道路、新幹線、飛行機旅行。携帯電話だって有った。もっともものすごく高価だったから大企業のトップくらいしか使っていなかったが。

 これらのものは一九四〇年台以前には影も形もなかった。近代的交通機関は火と煙を吐く蒸気機関車だ。自動車を持っていたのは軍隊ぐらいだ。市井の人びとは井戸で水を汲み、かまどと七輪で調理し、薪でお風呂をたてていたのだ。冷房などあるはずもなく、うちわと風鈴と打ち水で涼を取った。冬の暖房はなんと火鉢だけで、木と紙で造った家に住んでいた。洋服はあまり着ていなかった。着物だった。

 私は親世代の子供時代の話を聞いて、まったく信じられなかったものだ。あまりに現実離れしていた。私にとっては昭和二〇年ころも大化の改新の時代もほぼ同じに思えた。

なんという変わり方かとおもう。たった二〇年か三〇年台でこうまで激しく変わってしまった。

 その煽りをくって私の世代は親世代、祖父母世代と話が合わなかった。絶望的に価値観が通じないので話ができなかったのだ。なにしろ上の世代の人たちは「江戸時代育ち」だ。提灯や行灯で暮らしていた時代の古い価値観を保持していた。聞く音楽だって向こうは浪曲だ。ポップスだのロックだのそんな音楽は親世代にとっては「騒音」でしかなかった。祖父母世代は私たちを宇宙人ように感じたのでないか。ともかく親世代の常識は私たちの非常識で、私たちの常識は親世代に通じなかった。

 だから「騒音」で育った私たちの世代が好むものごとはことごとく親世代に通じなかった。拒否された。親子で会話が成立しなかった。私たちの世代の耳にも、子供時分に一九六〇年台以前の日本歌謡曲が自然に聞こえてきた。親が聞いていたから聞こえた。だがそれらは私たちの琴線にまったく触れなかった。それらはたった二〇年ほどむかしの歌だったのだが、ひらひらと舞い飛ぶ異国のちょうちょのようにエキゾティックに聞こえた。私たちの世代の音楽と本質が違っていた。

 これにたいして、現代の青年が聞くポピュラー音楽の本質は私たちが一九八〇年頃に聞いていた曲と同じである。延長線上にある音楽である。本質の表面に浮かぶ流行のうたかたが変化しているだけだ。だから現代の親子は会話ができる。話が通じる。

 いまの若者中に昭和歌謡好きな人がいる。だがその人たちが好む昭和歌謡というのはせいぜいが松田聖子あたりまでだ。その前の時代の歌謡曲まで大好きと言う人はいないようだ。ディック・ミネいいねとか、ブルースは淡谷のり子に限るとか、若いときの美空ひばりがいいと言う青年にお目にかかったことがない。村田英雄の無法松の一生だとか、春日八郎の別れの一本杉とかを熱唱する若者はちょっと想像できない。

 一九七〇年あたりを境として音楽が決定的に変わったのだ。時代の思潮が変化し、その後は変化の延長線上で固まっているのだ。

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P2P と現金取引の類似性


 インターネット世界の情報のやり取りの方法の多くがサーバー・クライアント型と言われるものだ。ウェブサイトとか電子メールとかは大抵の場合、どこかのサーバ・コンピューターに所蔵されている。その世界に「公有地」は存在しないから、すべて「私有地」だから、サーバ・コンピューターは必ずどこかの誰か(または会社か政府)が所有している。

 ぼくたちがなにかのサイトを見たいと思ったら、URLを入力するだろう。または検索して提示された、URLをクリックするだろう。どちらも同じことだ。クリックすると、そのオーダー(命令)が世界中のコンピューターを経由して、目的のサイトを持っているサーバ・コンピューターに到達する。そこで、コンピュータ語でコンコンとノックして「ぼくは A というサイトを見たい。見せてくれ」と伝える。すると親切なサーバ・コンピューターが「あいよ」と扉をあけて、そのサイトをぼくたちのコンピュータに見せてくれるわけだ。インターネットの仕組みを大雑把に端折って説明するとこういうことになる。

 レストランに例えるとわかりやすいだろう。来店した客が、私は和食、妻にフランス料理、子どもたちはお子様ランチ、それにビールを一本など伝える(オーダー)する。しばらく待つと店の奥から注文どおりの料理が運ばれる(サーヴされる)。お客たちが世界中のクライエント(客という意味)コンピュータで、サーバ・コンピューターがお店の役割をするわけだ。

 それなのでサーバー・クライアント型の場合、サーバーを運営する会社(または個人)は自分にアクセスしてきたコンピュータの情報をすべて入手している。ちょうどレストランがお客のオーダーを記憶しているように。何月何日の何時何分何秒にどこの国のなんというコンピュータが何というサイトを閲覧したのか、ぜんぶサーバー・クライアント型記録している。

 サーバー・クライアント型においては情報の非対称が生じる。サーバ管理者が情報勝者となる。蒐めた情報をいろいろな用途に活用できるわけだ。良いことにも悪いことにも。

 ところで、インターネット世界がすべてサーバー・クライアント型かというとそうでなく、サーバを通過しないで直接に個人と個人が情報をやり取りするシステムもある。誤解しないでほしいのだが通常の電子メールとかラインとかはサーバー・クライアントシステムであって、全部の情報がサーバー運営会社を通過している。だから巨額の利益を生むのである。いまここで述べるのはそういった通常のメイルとかではない。純粋にサーバ不要な情報のやり取りである。

 そういうのを P2P と呼ぶ。 P はピアという英語の頭文字だ。パーソン(人)の頭文字と理解してもいいだろう。P からP へと直接に情報を伝達するので P2P という。直感的にわかりやすいサーバー・クライアント型と比較してちょっとわかりにくい。技術的にも難しい。すくなくとも現時点では難しい。一般人はなかなか使えない。でも P2P はだんだんと拡まっている。ビットコインなどの仮想通貨。ファイル交換ソフト、セキュアなチャットなどがこれだ。その世界にサーバーは存在しない。サーヴィスを提供する人と受け取る人という非対称関係が存在しないのである。サーバがないから、特定の人または会社に個人情報が集中蓄積する現象が起きない。

 突飛かもしれないが P2P は現実世界の現金取引と似ている。お店で、または友達とお金のやり取りをする。これにはコンピュータ世界のサーバに相当する組織が存在しない。紙幣や硬貨は、サーバーのような中央管理組織なしに個人間を自由に流通して経済を滑らかに動かしている。

 これに対して、クレジットカード、銀行、交通系IC カード、なんとかペイ を利用する買い物をサーバー・クライアント型に比喩できるだろう。いづれにもそのお金のやりとり体型を集中的に管理する中央統制型組織の会社が存在する。クレジットカード会社やなんとかペイの運営会社である。このシステムでは情報の顕著な非対称がうまれる。運営会社は顧客の情報のすべてを知っている。顧客はなんにも知らない。この非対称が運営会社へ巨額の利潤をもたらすのである。

 IT 系の経済雑誌の記事は現金取引を時代遅れだとか口を極めて散々に貶す。ふつうのひとびとに現金取引をやめさせたいからだろう。一人でも多くの人が現金取引からサーバー・クライアント型取引に移行してくれたら儲けが増えるのだから。ただし一般人は少々の便利さと引き換えに自由と独立を自ら捨てている事実を認識せずばなるまい。

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薬食


 興味深い経験をした。食品と健康についてのことで。

 必要だが人体に必須でない重要なアミノ酸を含む市販の健康食品について私はひらめいた。必須でない、とはそのアミノ酸は人体の中で作れるので、必ずしも食事から摂取する必要はないという意味である。その物質自体は人が生きていゆくために絶対必要だ。しかし仮に外からまったく摂取しなくても人体内部で生産できるのでなんとかなるという意味である。

 その物質とはグルタミン酸のことである。単純でありふれたアミノ酸である。多くの食品が含んでいる。例えば昆布の旨味成分とか納豆のネバネバ成分とかだ。

 グルタミン酸は興奮性神経伝達物質である。平たく言えばそれは脳神経の活動を活発にする。

 ただし何でも多く摂りすぎては害があるもので、グルタミン酸を過剰に摂取すると神経過敏になる。アメリカでむかし、東洋系以外のアメリカ人たちが中華料理を食べたあと、そこに含まれる大量のグルタミン酸のせいで泡を吹いて倒れたりした。中華料理シンドロームなどと言われた。興奮性神経伝達物資であるからドーパミンやノルエピネフリンと似た作用をするのだ。そこへいくと私たち東洋人の伝統的食事はグルタミン酸の含有量が多いので、私たちは幼少時からグルタミン酸に慣れていて、ほかの文化の人たちよりグルタミン酸の害に耐えられる。

 しかしそれにも限度がある。体内で生成するほかに、多くの食品と調味料と、食品添加物から、私たちはグルタミン酸を摂取している。ラーメンには大量に入っている。お店で加工食品の成分表シールを読むと「アミノ酸等」と書かれてある商品が多いだろう。それはたいがいグルタミン酸のことである。グルタミン酸を添加すると旨味が出て美味しいのである。グルタミン酸以外のアミノ酸も少々使っているから「アミノ酸等」と表示してある。これは合法である。

 このように私たちは必要以上にグルタミン酸を摂っている。そのうえに健康食品サプリメントからグルタミン酸を摂ったらどうなるだろう。平気な人は平気だろう。グルタミン酸は栄養素なのだから。代謝されて、例えば心を穏やかにさせる作用があるギャバという物質に変化する。不要なグルタミン酸は排泄される。だが世の中には体内に入れたグルタミン酸を上手に代謝できない人もいるのだ。その人がそれを知らずにグルタミン酸が大量に入っているサプリメントをのんだら体内にグルタミン酸がどんどん貯留してしまう。興奮性物質が貯まる。すると神経がたかぶってイライラして眠れなくなったり怒りっぽくなったりするはずだ。

 せんだって雑談の中で友人の医者にこのことを話した。かれは優秀な医師で、患者の話の聞き上手。さらに思考が柔軟である。医師に珍しいタイプだ。わたしはてっきりかれがこの話に肯定的反応をすると思った。

 ところが懐疑的反応だった。「たかがサプリメントでねえ? そんな作用をするかなあ。」と。かれとは価値観が合うつもりだった。

 憮然として私は帰宅した。でも数日して「ああそうか」「そういうことか」と気づいた。かれは六年間も西洋医学をしっかりと学んだ人だからなんだ。彼としたらあたりまえの反応なのだ。

 西洋医学の根底にはクリスト教がある。


 クリスト教は知恵ある人間と知恵なき生物(並びに無生物)を厳格に峻別する。絶対者にして創造主である神が自分に似せて人間を創り、人間にために人以外の生物と無生物を創造したとクリスト教は語る。人と人以外の間には質を異にする上下関係があるのである。その影響下に発達した西洋医学は知恵ある人間が製造した医薬品と、知恵なき生物である生薬等を峻別するのだ。当然のことながら、医薬品が上位で、自然物が下位である。こういう厳格な秩序を西洋医学は基礎としている。まじめに医学部で学んできたかれはその価値観を常識として身につけた。かれは本人も知らぬ間にクリスト教を身につけたと言ってもいいだろう。

 東洋流の薬食同源思想を身体化している私の思考法はかれとかなり違うわけだ。

 それに私は仏教徒である。佛教の縁起説、一切衆生悉有平等を身体に信知している。佛教に創造思想はなく創造主もいない。人も馬も虎も植物も魚も昆虫も、数え切れないほど多数の因と縁がこの一瞬たまたま集合して現れているだけ。一切の命は等しいと佛教はとらえる。

 ゆえに私は厚生労働省認可の西洋薬も、漢方薬も、薬草も、日々の食事内容も同列に視るのだ。どれも平等な命だからだ。わたしから視ればそれらに区別はない。体に影響を与える(であろう)物質は同一視点で効能や善悪を判断する。だから食品やサプリメントからグルタミン酸を過剰摂取した場合の悪影響についてかんがえたのだ。

 しかしこうした非クリスト教発想は西洋医学を真剣に学んだかれに通じにくかった。どちらが優れているとか劣っているとかではない。通じにくいということなのである

金井隆久
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