無人駅の駅長

無人駅の駅長( 3 / 43 )

無人駅の駅長

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 初冬の寒い夜。仕事を終えた私は田舎の小さな無人駅に着いた。

 すぐに乗れれば良いが、と思いつつ時間表を見上げると、あいにく数分前に出たばかり。30分ほど待たなければならなかった。駅前は雨戸を閉めた元煙草屋兼雑貨店が一軒あるのみ。古く痛んだ駅舎の木の壁のスプレー書きの落書きの文字が薄れ消えかけていた。

 そこに中に人間はいなかったが、茶トラの猫が一匹ちょこんと長椅子の上に座っていた。ぽつんと次の電車を待つしかないから、私は猫の横に座った。すると猫が

「ニャー」

と挨拶してから私の膝の上に乗ってきて(礼儀正しい猫だ)、丸くなってすやすやと眠ってしまった。

 ひとと猫、天地に二人きり。

 体を動かせないので尻が痛くなったが、おかげで半時間を暖かく過ごせた。

 別れ際に、

「きみが駅長なのか?」

と尋ねたら、

「みゃ」

と彼は応えた。

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空蝉


 人の一生とは育った環境に左右されるものらしい。現代社会に生まれれば自動的に現代人になるものではないらしい。

 テレビがない家で育ったので今でもテレビが苦手だ。テレビ番組はニュースのようにお固いのも、バラエティも、総じて暴力的で刺激が強すぎる。テレビを見るとぐったりする。心身ともに疲労する。だから現在もテレビ受像機を持っていない。無い方が快適なのだ。街のお店に入ったときテレビが流されていたら、神経が苦痛なのですぐ出てしまう。

 電話機がない家で育ったので今でも電話が苦手だ。電話を受けたりかけたりする練習をしないで大人になってしまったせいだ。電話をするという行為が「非日常」の行為なのだ。そのせいで緊張する。

 家族がいない環境で育ったせいで今だに家族とか家庭ということがわからない。

 母親が病身で生まれた時からよその家を転々として育った。親戚の家や、親の友達の家や、親戚の親戚の家とかだ。どの家もまったく知らない人ばかりの家だった。そしてここからは想像だが、幼児を預かった家々は世間の義理で仕方なく預かったのでこの「お荷物」を約束した日数だけ預かり、次の家にさっさと回した。

 こうして自分の養育者が誰なのかわからぬまま大きくなった。時たま親の家にいることもあった。そこにいる人が親というものだということを理屈では理解できた。しかしいつも通り、知らない家のおじさんおばさんに見えた。自分にとっての親または養育者のイメージとは、ある日なんの前触れもなく、すうっと消えてしまう人のことだ。

 映画を見る。映画の中で家族が死ぬ。配偶者が死ぬ。生き残った家族役の役者さんが悲しみのあまり泣く。嗚咽する。この感情が分からない。こういうシーンになると途端にしらけてしまう。悲しいものなのかしら? 家族を喪失するって。

 家庭を経験せずに育つと家族の感情というものがわからない。

 家庭を知らずに育つと自分の居場所がわからない。どこに居ても、職場にいても自宅にいてさえも、自分はここにいていいのだろうか。自分はいてはいけない存在なのだ。そう思ってしまう。何事につけても人はOKな人で自分はNGな人だとつい思ってしまう。世の中に百パーセントOKな人や、百パーセントNGな人など昼はずがないと理屈ではわかっているつもりなのだけれども、この感情をどうすることもできない。

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『西方指南抄』と『嘆異抄』


 親鸞はその最晩年八十歳代後半を費やして、師法然の言行録「西方指南抄」を書写した。この書物は法然伝記の最古のもののひとつだ。この書物が親鸞によって編集されたのか、それとも誰かが編集したものを親鸞が書き写したものか、わからない。それは親鸞なる人物が同時代の記録に乏しい人物であるだけでなく、浄土宗と浄土真宗教団の確執も関わる。浄土宗は親鸞の存在を無視したがる。法然の弟子たちの一人に親鸞がいたと名前を出す程度で、親鸞を黙殺する。それに対して浄土真宗側も「西方指南抄」を大変軽視する。それはこの本の内容が親鸞の自著の内容と齟齬するため、教学的説明が困難だからである。実際に読んでみると「顕浄土真実教行証文類」などにみえる親鸞の主張と小さくない隔たりがあるのである。そのため真宗の学僧たちは「西方指南抄」の扱いに苦慮してしまう。

 それはそうとして、九〇歳近くなり目も耳が不自由になった親鸞が人生最後の精魂をふりしぼって書写したこの本である。犯罪人扱いされる師法然の言行をなんとしてでも後世に伝えておきたかったのだろう。そんな意味で「西方指南抄」は「嘆異抄」と立ち位置が似ている。死が近い事を悟った老境の著者が書き残した本である。

 この二書はそれぞれ著者名(編者名)不明なことが共通する。「西方指南抄」について親鸞は自分が写したと記すのみである。自分が編集したとも、他の誰々が編集したとも書かない。「嘆異抄」が著者不明であることは有名である。

 そのことについて私はこの二書が「お経」である故だろうと思う。

 お経に著者名はない。数千あるお経はすべて「私はこのようにブッダから聞いた」という出だしで始まる。お経はブッダ自身が筆を持って書いた本でないのだ。すべてブッダの説法を聞いて感激した誰かが、私はこのように聞いた、と感動を伴ってこしらえたのである。それだから「仏説なになに経」という外見の体裁がなくても、その人に仏道を伝えてくれた方の言行録はお経だと言えないだろうか。

 仏道を伝えてくださったありがい方は如からこの私のためにわざわざやってきてくださった方である。もしもあの方に遇うことがなかったならば、私は生涯虚しく過ごし、虚しく死んでいったことだろう。なんと遇信のありがたいことか。師の恩のなんとありがたいことであろうか。そう思うものである。師はこの私にとって如から来てくださったのだから私にとって「如来」である。如から来てくださった方の言行録はお経である。

 ここで私は「西方指南抄」と「嘆異抄」の二書に署名が無いゆえんを思う。親鸞と、一般に嘆異抄の著者とされる唯円はお経に著者名がないことを熟知していたに違いないからである。

金井隆久
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