生命科学があきらかにした知識によると、細胞は絶えず死に、絶えず新生している。
僕らは数十兆個の細胞から成りたっている。垢は古い皮膚細胞の死骸である。個体の死までの五十年なり、一百年なりを、おなじ細胞が働き続ける。そうみると、僕らが生きるということは、たえず死に、一瞬の休息なく、生死を繰り返しているということである。
僕らは、休むことなく、たえず生まれている。さらに、分子レベルで考えると、また様子がかわってくる。僕らの体の各細胞は、酸素分子だとか窒素分子・炭素分子などで構成されている。計算によると、約三カ月ですべて新しい分子に入れ代わるという話である。これには神経細胞などの例外はない。つまり、赤ん坊の時の私を構成していた分子は、たった一個さえ今の私にはない。ということは「私」を純粋に物質としてみれば、恒常性も同一性もないことになる。
私どもの腸内にはたくさんの大腸菌が棲みついている。一部を除いて僕らの生体に悪さをしない。それどころか、もしも大腸菌等がいなくなれば、僕らは死んでしまう。その他の菌も無数にいる。
バクテリアは胃にもいる。口腔内にもいる。皮膚にもいる。どこにでもいる。そのほかウィルスが入りこんだ細胞もあれば、ウイルスが入ったバクテリアが腸にいるという複雑関係もある。いずれも基本的に健康に害をしない。
ところで、免疫の考えからするとバクテリアと「私」を区別できるのだろうか?
通常私たちは「善玉菌」にしろ「悪玉菌」にしろ『私』に寄棲する別の生物と考えちだが、実際はその境界はあいまいで、互恵共存に近いのではないか。少なくとも免疫系はバクテリアなどを異物と認識していないか、非自己ではあるけれどもトレランスしてるか、いづれかである。
免疫とは自己と非自己を峻別する働きである。非自己の物質を有害とみなして排除する。けれども非自己であっても必要なもの、食物や、母体にとっての胎児などを免疫は寛やかに認容する。
別の先生の研究によると、私どもの個体の細胞数より、皮膚や身体内部に棲み着いてい細菌数のほうが多いという。「私」を主としバクテリアを「從」とできるか?
算数上ではそう云えない。もしかしたら「私」が大腸菌に寄棲しているのかもしれない。バクテリアに「私」が寄棲しているのか? あるいは僕がバクテリアなのか?
現代天文学のビッグバン理論は聖書の記述とよく似ている。アリストテレスの「不動の神」の思想とも似ている。ギリシアの哲人によると、事物は動きである.。いま運動する物体αを措定する。運動以外に、αに動きを与えたβなる「なにか」があるはずだ。それをかぎなく遡れば、みずからは動くことなく、事物に動きを与えた「神」がある。これは時間因果論である。ただしヘブライの創造神と違い「神」は最初の一突きをくれるだけ。その後自然法則に則って運動する。最初の一突き以前は無である。なにもない。存在は動きである。
量子論ともよく似ている。ビッグバン理論を学者から聞くと
「じゃあその前は?」
と尋ねたくなる。でもそれは愚問だそうだ。
「宇宙の果ての向こうはどうなってるいの?」
と尋ねたくなる。宇宙の始まり以前は「無」なのだそうだ。
それは擱くとして、物理学の説く物質生成の理論はヘンにインド世界の輪廻説と似ているところがあるアビダルマクシャ論」の宇宙説など壮大で聞いてて面白い。
宇宙生成後しばらくの間、この世は光だけの世界だった。それがいつの時か、原子ができ、第一世代の星が出現した。この星々はみな軽い水素原子で出来ている、星の中心部の融合反応によって水素からヘリウムが出来、ヘリウムから炭素が出来、炭素から酸素ができる。重い星の中心部ではこの反応がさらに進んで、鉄が出来たところで止まる。やがてそれら星々は超新星爆発を起こして、多量の中性子を周囲の宇宙空間にまき散らし、それが星の中心部の鉄などと化合して、核融合反応だけでは作られない鉄より重いウランまでのすべての重元素をつくる。その元素が星間雲を汚染し,その中から第二第三世代の星々が誕まれる。
古い星々は重い元素を残して死んでいき、新しい星が生まれる。そうして宇宙生成後五十億年位したところで私たちの太陽系が生まれ、生物が誕生したという。そんな話だ。
僕らの体は炭素や酸素その他多数の元素から出来ている。それらはすべて遙かな太古に星々の生まれかわりの中でできたものなのだ。だから私が死亡すれば私の体は元来の元素に戻って、やがて数十億年後、太陽が死滅する時に宇宙空間に放出され、想像もつかないような遠い未来には、見知らぬ星の生物の体を構成するかも知れない。不可思議である。
人間の思議の及ばぬ世界である。インド人の考えとなんと似ていることか。
死とはそういうものかもしれない。何十億あるか分からぬ中の一個ずつの卵子と精子がたまたま結合して私のからだができた。そうして私が死ねばまた元素に戻っていく。それだけのこと。精神は死なないと考える人がいるが、そんなことはない。志賀直哉の晩年に『ナイルの水の一滴』という一文がある。
「人間が出来て何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き死んでいった。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。」
私の死後、体を構成していた元素は、気の遠くなるような長い時間をかけて、やがて何かに転生するだろう。しかし、いま私の身体を構成している物質が、もう一度同じメンバーとして全部集まり、私という一個の固有の人物として再生されることはない。過去にも無かったはずである。
『荘子』に「荘周之夢」の寓話がある。荘周が夢に胡蝶となり、ヒラヒラと舞い飛び、栩栩然としてうれしかった。しかし俄然として目覚めると、荘周は荘周でしかない。長い長い年月で見れば、荘周が夢を見て胡蝶となったか、胡蝶が夢を見て荘周になっているのか。それはわからない。
漱石の『吾輩は猫であろ』では猫が夢みる。
「ある日の午後,吾輩は例の如く縁側へ出て午睡をして虎になった夢を見ていた。主人に鶏肉を持って来いと云うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。迷亭が来たから、迷亭に雁が食いたい、雁鍋へ行って誂えて来いと云うと、蕪の香の物と、塩煎餅と一所に召し上がりますと雁の味が致しますと例の如く茶羅ッ鉾を云うから、大きな口をあいて、うーと唸って嚇かしてやったら、迷亭は蒼くなって山下の雁鍋は廃業致しましたが如何取り計らいましょうかと云った。それなら牛肉で勘弁するから早く西川へ行ってロースを一斤取って来い、早くせんと貴様から食い殺すぞと云ったら、迷亭は尻を端折って駆け出した。吾輩は急に体が大きくなったので、縁側一杯に寝そべって、迷亭の帰るのを待ち受けていると、忽ち家中に響く大きな声がして折角の牛も食わぬ間に夢がさめて吾に帰った。すると今まで恐る恐る吾輩の前に平伏していたと思いの外の主人が、いきなり後架から飛び出して来て、吾輩の横腹をいやと云う程蹴たから、吾輩は虎から急に猫と収縮したのだから、何となく極まりが悪くもあり、可笑しくもあったが、」
(新潮文庫版二七三頁)
吾輩氏の夢に猫が虎となる哉。虎の夢に猫となる哉。豈誰か能く知らむ。
流行が素早く変化する現代。年齢が十才違うと話が通じにくい。十代のときの共通経験がずれるのだ。
話自体は通じるけれど、肌があう感じがない。「周波数」がずれる。隔靴掻痒の感。
たった十歳上の人と話しても、なにかがずれる。むこうもおなじもどかしさを感じているはず。
たった十歳若い人と話しても、ときに話がわからない。表面上の意味はわかっても、彼が言おうとしているニュアンスがこちらに伝わらない。
わたしより一世代若い人はポケベル世代。かれらが高校生の時ポケットベルが大流行して、それで連絡を取り合った。その次が携帯電話世代。ふたつ折りケータイが眩しく見えた世代。そそしてスマートフォン世代が続く。
わたしが十代のとき、そのどれもなかった。電話は重厚なダイヤルを回すもの。持ち歩く電話なんか想像もしなかった。だからたった十歳若い人たちのポケベル懐旧談がわからない。かれらもケータイ世代がわからないそうだ。ましてやスマートフォン世代の人たちとは話ができないくらいわからない。彼らだけが共有している(らしい)その感覚がわからない。
商業的流行だけではない。
わたしが中学生の時、男子は家庭科を習わなかった。しかし十歳若い友人は習ったそうだ。コンピューター教育も受けたそうだ。わたしのときはそんなものはなかった。だいたい世の中にパソコンが普及していなかったのだ。パースナル・コンピューターという物体はあった。アップル・コンピューター発売はわたしの小学生時代だったから。だが値段が高すぎて、一般人はもとより企業だってパソコンなど導入していなかった。先端的企業がようやくワープロ専用機を使い始めた時代だ。学校で情報教育なんか教えるわけがなかった。だからわたしのパソコン技術はぜんぶ我流。当事の年上の人たちはワープロやパソコンを恐怖していたから、誰も教えてくれなかった。
いまの若い人はタイピングの指の動きからして無駄なく、美しい。わたしのタイピングはまったくの我流で、ひどいものである。誤字脱字だらけに打っている。左利きなのに右利き用キーボードにむりやり合わせたからか、無駄だらけのひどいタイピングが身についてしまった。
わたしは黒く大きなアナログレコード盤で音楽を聴いたもっとも若い世代だ。あの野暮ったらしい感じ。三〇センチの広さがあるから可能だった表紙ジャケット芸術。盤を取り出した時のわくわくする匂い。針を落としたスクラッチ音から始まる音楽。レコード盤の傷つきやすさと壊れやすさ。この懐かしい経験をたった一〇歳だけ若い友人に語れない。「レコードですか」「見たことはあります」「親が持ってました」なんて言われてしまう。
世代は言葉だって違う。
使う語彙が違う。抑揚が違う。アクセントの付け方が違う。イントネーションが違う。若い世代(と年上世代)と話をすると、これが実にストレスだ。いらいらする。ラジオを聞いていても何歳くらいの人かわかるものである。離れた世代の人の話はその内容以前に、言葉使いにいらだつ。同世代の人の声はすぐわかる。ラジオだから顔も名前もわからないのだが数分間聞いていれば同世代だとわかる。使う語彙と話し方でわかる。同世代の人の話はほっとする。聞いていてたのしい。それは海の波の音に身を浸すような安心感だ。
八〇年代にラジオから流れていたヒット曲の半数くらいが松本隆作詞だった。かっこいいと思っていた。その詞の世界は時代の尖端、二十一世紀の未来世界みたいに眩しかった。けれどもいま聴いてみると、古めかしい言葉や言い回しの多さに気づく。二世代上の人のこ言葉だ。やや違和感がある。ましてや今の一〇代の子たちが聞けば化石時代の音楽なの?と思うかもしれない。ちょうど幼かったわたしたちが昭和二〇年代の流行歌を感覚的に受けつけられなかったように。
同世代の人とは、自分を中心に上下三歳くらいまでだろうか。
ずっと昔、九〇年代に同棲したひとはわたしより二歳若かった。学んでいた通信制学校の同級生だった。彼女とは違和感を感じなかった。三歳以上離れると、若いときの共有経験がずれてしまって、なんとなく波長があいにくいのかもしれない。
こまった時代に生まれたものだ。
私は故郷を複数もっている。千葉県をのぞく関東のすべての都県と静岡県伊豆で育ったからだ。
小学校低学年の夏休み、東京下町の誰だかわからぬ人の家に預けられた。小さかったから正確な地名を記憶していない。ただ、大人に連れられて乗った地下鉄の電車が地上を走りおおきな河を渡ったところの駅で降りた。地下鉄なのに外を走ってる、と不審に思ったことを記憶している。おそらくその大きな河は荒川放水路で、私は江戸川区葛西あたりに預けられたのだろう。
狭い家だった。水道の水が薬品臭かった。七〇年代の下町の水は汚くて浄化するため大量の薬品を使っていたからだろう。江戸川も隅田川も現在よりよほど汚かった。
子供だけで河へ行ってはいけないと言い聞かされたが、他に行くところがなかった私は河の高い擁壁のところへ行った。
それから月日が流れ八〇年代になり一七歳の私は大川べりの墨田区本所でアパート暮らしをした。両国国技館の裏のほうだった。部屋の窓の前は首都高速六号線でその向こうの向こう側が蔵前と柳橋だ。都心ではなく郊外でもない中途半端な立地で、日常品を商うお店が少なかった。
景気が良い時代だったから仕事はいくらでもあった。ただし中学校卒業で一八歳未満の私を面接してくれる会社は少なくて転職が困難だった。そこで高卒資格をとるために通信制高校へいこうかと考えた。現在の事情は知らないが、三〇年前の当時、台東区の上野高校と新宿区山吹の二つの都立高校が通信制を開設していた。両方を見学してみた。場所は上野が便利だった。本所から歩いても通える近さだ。でもなんとなく山吹のほうがハイカラな感じがしてそちらにしようかと漠然と思った。けれども仕事が忙しく、朝九時から夜九時まで働く状況で、疲れてしまって通信制高校のことをいつのまにか忘れてしまった。
その後世田谷区へ越した。ハイセンスな山の手に住んでみたかったから。
下北沢のちょいと先の小田急沿線だった。
住んでみて生活に便利な町ではあった。活気があり、店がたくさんあり、不便だった本所とは大違い。でもなんとなく違和感を覚えた。なんかちがうと感じた。住みやすいのに住んでいておもしろくなかった。この違和感は何なんだろうと我ながら不審だった。
今はその理由がわかる。河がなかったからだ。東京の西部近郊には江戸川や隅田川に相当する河がない。ぜんたいに乾いていて砂っぽい。潤いに欠ける。渋谷新宿池袋より西方の住宅地はどこもそうだ。冬は砂埃を上げる乾燥した季節風ばかりが強く吹く。一言で表現すると田舎っぽいのだ。
私は水が好きだ。住むならば河がある街がいい。
飛行機からたった一人で見知らぬ国に降ろされてしまった、としよう。そこは日本人が一人もいない国だ。言葉と習俗習慣がわからない国でその人が生き抜くためにはまずは周囲の人々の様子を懸命に観察し見様見真似に真似するしかないだろう。
機能不全家族で育った子供はこれと似ている。
親がアルコール依存だったり、極度の貧困だったり、機能不全家族にはいくつかのバリエーションがある。しかしそういう環境で育つしかない子供は子供なりに周囲の大人たちを観察し真似して育つ。やがて若者になったとき、かれらは滅茶苦茶な性格破綻者(ジェームズ・ディーン、マリリン・モンロー、尾崎豊のような)になるか、過度にしっかりし過ぎている青年(小さな大人として親のケアをせざるをえなかった子)になる。どちらかの両極端になる。非常にしっかりしているように見えてもその内面は脆い。
そのどちらのタイプも心の奥に深い傷と激しい怒りを抱いてアウトローとして生涯をいきてゆく。
かれらは結婚したがらない。こどもを欲しがらない。結果的に妊娠してしまうことは非常に多いけれど、それを「おめでた」ととらえることはない。明るいこと楽しいことがなにもなかった子供時代を経験してしまったからだ。家庭は嫌悪すべきところでしかないからだ。
かなしみをひとひら
噛じるごとに子供は
かなしいと言えない
大人に育つ
「誘惑」(中島みゆき)より