カクテル光線が、瞼の裏をまだ乱舞している。床の上のアンプとスピーカーにつまづかずにステップを踏みながら唱うことにも慣れてしまった。ステージからは、オーディエンスの顔がよく見える……何しろ定員が200名くらいのライブハウスだから。
そして、その半分くらいは常連の顔。あたし、ロックシンガー宇佐美(うさみ)きあらのコアなファンだ。あ、いやだ、半分よりも多そう。このあたりに、まだあたしがメジャーでない現実を、いやと言うほど感じさせられる。ああ、どんなプロモーションをやれば、日本中に世界中に、あたしの音楽を渇仰する人を増加させられるのか? 今だって、必死にMyspace でフレンド増やしているんだよ……
「ふやしているんだよ!」と自分の口が叫んだために、きあらの意識は、すっきりと外界に戻った。見慣れた、ワンルームマンションの空間。自分時間の朝は、もしかしたら「昼」に近いのかも、ときあらはやや後ろめたくなったが、ベッドサイドのケイタイを開いてみると、9時15分AM だったので、まだ後少し寝ていられる、とほくそ笑んだ。何しろ昨晩は池袋でライブがあり、打ち上げを3時過ぎまでやっていて、この浅草橋のマンションまでどのように帰ってきたのか、あまり覚えがない。
この夏に発表したサード・アルバム「Stranger in town」に伴うライブを、東京で4回、横浜で1回、名古屋で2回行い、20代の女性を中心に反響はかなりのものだった。しかし、きあらの望む物はまだまだ得られていない。
インディーズレーベルからデビューと言うハンデは、かなり大きい。資本のあるバックがないと、ショップで販売網を構築出来ず、アーティストの名前を訴求出来ない。ファーストアルバムは、事務所ががんばってタワレコや山野楽器やアマゾンで買えるようにしてくれたが売れ行きはいまいちだった。だからセカンドからは、MP3 でのダウンロード販売やケイタイの着メロ販売を主力にして、CD はライブやイベントで売る方針に換えたのだ。
それは功を奏したと言えるかどうかは、きあらには、判断が難しい…宇佐美きあらホームページの訪問者は増加の一途だが、ライブを聴きにくるオーディエンスの半分は同じ顔、というのは本意ではない。
だが、明敏なきあらは、事務所に不平不満を言う事の愚かさを見通していた。メジャーなプロダクションが自分を拾い上げなかったときに、目を輝かせて自分の曲を褒めてくれた人々に、何が言えようか。大手に音源を送ったのは10回ではきかないのだが、ろくな返事が来なかった。きあらは、不愉快な記憶をふりはらうべく目をこすってから、ベッドに横たわったまま、はあああっ、とあくびをした。
きあらの住まう部屋は3階である。朝の都会にはつきものの自動車が走り抜ける音や、かすかな歩行者のざわめきが窓の向こうから伝わってきて、繭のなかの蚕のようにじーっとしている彼女を、目覚めよとうながす。
その時。
ずわっ、と、きあらの横たわるシングルベッドのそばで、衣服の動く音がした。最初、きあらは、自分の毛布の衣擦れかと思ったが、さらにその気配は続いている。
この部屋に誰かがいる!あたしのベッドの、すぐそば(というか、すぐ下)だ。
…嘘でしょ? ここはあたしの部屋であたししか入れないってば。これってやばくない?
だがきあらには、少しだが事態が分かりかけてきた。昨夜だ…打ち上げ、そう、あの打ち上げで自分は、興奮と開放感とで、かぱかぱワインを飲んで、事務所の社長と、ギタリストの将(しょう)くんと馬鹿話に興じていた。で、将くんは五反田の友だちの所に泊めてもらう、とか言っていたのだ。
…きあらは大きく息を吸い込んで目を凝らした。昨夜、自分とともに帰ってきた人物は、マネージメントしてくれている吉開(よしかい)社長ではないし、ギターの将くんでもない。とすれば、アノヒトしかいない。
きあらは、パジャマの前のボタンがかけてあることを確認してベッドから降り、うつぶせになって丸まっている、結構大柄な侵入者に向かって、声を尖らせて呼びかけた。
「はい、分かりました分かりました。あなたがゲイだってことは疑いませんからね!!ええ、ゲイでなかったら、大スターであるあたしにとっては、最悪のスキャンダルですからね。さあ!起きて!」
ごめんなさい、と蚊の鳴くような声とともに、丸まって寝ていた男は、分厚いコートを滑り落としながら、起きて正座した。その間、風邪をひいたか鼻をすすって目をしばしばとさせている。
その人物は、この春から、きあらのコスチュームデザイナーとなった大河原静(おおがわらしずか)であった。
あたしって、いつから、寝間着姿で男の人と向かい合って、恥ずかしいとか思わなくなったのかな、と、きあらは幾分憮然とした思いに浸った。大河原静は、劇団や歌手の衣装を手がけるカンパニーの売れっ子デザイナーで、年齢はきあらは知らない。35歳の吉開社長より若くはなさそうである。吉開から、彼が新たな衣装デザイナーであると紹介されたとき、この人がデザイナー!?と、きあらは目を剥いたものだ。
ありふれた、スタンダードな普通のシャツに、ネイビーブルーのジャケットを着て、コットンパンツを履いたその男性には、横文字商売の人間の持つカラフルな空気感と言うのが、まるで感じられなかったからだ。どう見ても、研究系の会社員か、大学の講師に見えた。話しだすと、その印象はますます強まった。
「(小さい声で恥ずかしそうに)はじめまして…大河原静と申します…わたくしもロックは好きでして、ええ…やはりあれですね…クリムゾン・キングですね。そしてピンク・フロイドですよ…でも、そうですね…あのぉ、わたくしオペラが最も好きでして(なぜか手で口を押さえる)。やはり『仮面舞踏会』ですね、ヴェルディの。おほほほ。あれはいつ見ても楽しゅうございます」
「あ、オペラはあたしも好きですよ」
「あなた様のアルバムを聴かせていただき、多分そうではないか、と思っておりました」おお、ちゃんと聴いてくれたのか、とそれは嬉しく思った。
かなり背が高く細身で猫背で、クセのある頭髪は短くしてあり、シャツにもズボンにも、きちんとプレスがかかっているところをみると、彼なりにお洒落なのだろうと頷ける点もある。ただ、世の中の思う「デザイナー」的な洒落っ気がないだけで。
今年の春に発表したセカンドミニアルバム「Open your eyes」より、きあらのステージ衣装は全て彼のデザインである。ファーストアルバムの頃の衣装は、いかにもロック歌手といった、黒のレザージャケットだったが、大河原は全く別路線を打ち出した。黒のタキシードスタイル、フリルで盛大に飾られた純白のシャツ、そして髪はルーズなアップにしてふんわりと巻き毛を垂らす。このステージ衣装は実のところ暑くて苦しかったが、オーディエンスからは大好評だった。ホームページでもMyspace でも絶賛の書き込みが続き、写真で見ても、なまめかしさと、清潔さとが香り立つような「男装の麗人」ぶりで、きあらは大河原の才能に舌を巻いたのだった。
この時期から20代女性に「宇佐美きあら」人気が高くなりGree で「きあらコミュ」ができるまでになった。そして、「Stranger in town」スタイルは、ドレープをふんだんに使った白のドレスに、まっすぐな髪をおろすだけという、シンプルを極めた姿だが、アクセサリーをふんだんにつけたために、「ローマの休日」のヘップバーンめいた王女様の表情を醸し出している。
大河原は、きあらに対して「この新作は、ロックというよりは、ブルースだけれど、21世紀風に研ぎすまされたブルースだと思いました」と語っていた。
「きあら様は、永遠の少女でもあるけれど、男を惑わす妖婦でもある。その境界を行き来する魅惑を引き出すには、あんまり肌の露出とかは、合いませんね…ま、きあら様の場合、お顔がお美しいから何でも似合って、わたくし創作意欲がわいちゃって、ほほほほ」
その言葉を聴くまでは、きあらは、大河原のことをただ優秀なデザイナーとだけ思っていたのだが、この「永遠の少女でもあるけれど男を惑わす妖婦でもある」発言に、ぴかり、と何かがひらめいた。その何か、とは「ああ、この人ってば、Queen のFreddie Mercury と同類だ」という思い。
そこで、わざとずけずけと言った。「ねえ、大河原さんってさぁ…もしかしたら…ゲイ? 」
きあらが顔を覗き込むと大河原の瞳に、一瞬ちらりと動揺が走り、軽く首を振りながら、ええ、お察しの通りです、と明瞭に言って、薄く笑った。「もともと、隠してませんしね…でも、気がついてくれる人の方が少ないのです」
「え? それって、女の人に言いよられるってこと? 」
「ち、違いますよ」好きな人に気がついてもらえない、ということです、と、長身を心持ち小さくして語る姿に、きあらは、なぜか胸がわくわくとしたのを覚えている。